第7章:通知表と、夏の境界線


「明日から夏休みかぁ……」

 ホームルーム終了後。気怠げな蝉時雨が降り注ぐ教室で、隣の席の瑠奈が机に突っ伏して呟いた。

 その手には、無惨な評価が並んだ通知表が握りしめられている。

「……ねえ聖次。夏休みってさ、青春だよね」

「そうだな」

「恋とか、海とか、花火とか……補習とかないよね?」

「現実を見ろ。お前、数学と英語で呼び出し食らってるだろ」

 俺が冷たく指摘すると、瑠奈は「うぎゃー!」と頭を抱えてのたうち回った。

 そう、俺たちの夏は、甘いロマンスの前に「赤点回避」という現実的な壁から始まるのだ。


「……ねえ。補習終わったらさ」

 ふと、瑠奈が上目遣いで俺を見た。

 そして、周囲に誰もいないことを確認してから、小声で付け加える。

「どっか連れてってよ。……パパとしての、家族サービス?」

「……声がでかい。補習をサボらなかったらな」

「チッ、ケチ」

 瑠奈は頬を膨らませたが、その顔はどこか楽しそうだった。

 ***

 帰宅後。

 リビングでは、冷房の効いた部屋で、詩織さんがローテーブルに夏休みの計画表を広げていた。

 彼女の前には、分厚い参考書の山と、生徒会の資料の束が積み上げられている。

「おかえりなさい。……瑠奈、通知表を出しなさい」

「げっ」

 詩織さんが眼鏡を光らせて手を差し出す。瑠奈は渋々と、まるで爆弾を渡すように通知表を差し出した。

 中身を見た詩織さんの眉間が、ピクリと動く。

「……予想通りね。いい? 瑠奈は午前中に学校の補習。午後は家で、聖次さんの監視下で宿題。遊びに行くのはそれが終わってからです」

「鬼! 悪魔! 生徒会長!」

「なんとでも言いなさい。……聖次さん、申し訳ありませんが、瑠奈の監視と指導をお願いできますか?」

 詩織さんが、疲れの滲む顔で俺を見る。

 彼女の手帳は『夏期講習』と『生徒会・体育祭準備』の文字で真っ黒に埋め尽くされていた。

「任せてください。……詩織さんこそ、詰め込みすぎじゃないですか? 受験生なのは分かりますけど」

「……3年ですから。それに、体育祭の準備も大詰めなので、私が抜けるわけにはいきません」

 彼女は気丈に振る舞っているが、その目の下にはうっすらとクマができている。

 完璧主義の彼女のことだ。家でも学校でも気を張り続けて、限界が近いのだろう。

 俺は冷蔵庫から冷えた麦茶のポットを取り出し、グラスに注ぐと、その冷たいグラスを詩織さんの頬にピタリと当てた。

「ひゃっ!?」

「根詰めすぎて倒れないでくださいよ? 家では『会長』も『長女』もオフにしていいんですから」

 俺が言うと、詩織さんは一瞬だけ呆けたような顔をして、それから耳を赤くして俯いた。

「……子供扱い、しないでください」

「子供ですよ。僕の娘になるんですから」

「ッ……!」

 彼女はグラスを受け取り、視線を逸らした。

「……善処、します。……お父さん」

 その声は、蚊の鳴くように小さかった。

 最近、彼女は防御力が著しく下がっている気がする。

 窓の外では入道雲が湧き上がっていた。

 この暑さが、彼女の鉄壁の理性を少しずつ溶かしているのかもしれない。

 こうして、俺たち家族の「初めての夏休み」が幕を開けた。


(続く)

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