みちこさん

西しまこ

相思相愛の人

「〇〇みちこさん」


 病院の待合室で、その名が呼ばれた。

 ありふれた名だ。〇〇も、よくある名字だった。「みちこ」だって、ありふれている。

 だけど、その名前はあまりにも懐かしく、私の心をどきっとさせた。


「〇〇みちこさん、いらっしゃいますか?」


 再度呼ばれ、よろりと白髪の女性が立ち上がり、おぼつかない足取りで看護師の方へ行く。何事か説明され、診察室へと向かったようだ。

 

 違う。

 別人だ。

 私が知っているみちこさんは、あんなみっともなくない。きりりとして、背筋がぴんと伸びて、いつも自信たっぷりな笑顔を見せていた。

 長い真っ直ぐな黒髪は背中まで垂れて、いつも触りたくなるような艶やかな髪をしていた。あんなふうに白くて短くて、ぼさぼさの髪じゃない。


 みちこさん。

 

 私はみちこさんのことをいつも見ていた。

 言葉を交わしたことは一度もない。

 ただ、見ていただけ。

 

 みちこさんが友だちと笑い合うのを、みちこさんが体育で走るのを、みちこさんが先生に当てられて堂々と答えるのを。

 少し高い声、しなやかな手足。細い腰、小ぶりな乳房にきれいな丸みの尻。白い手は自由に友だちに触る。

 私もあの中に行けばよかった。でも、勇気は出なかった。

 だけど、いいの。

 ただ見ているだけで幸せだから。


 みちこさんがトイレに行くのが見えると、私もトイレに行った。

 みちこさんが落とした消しゴムをそっと拾ってポケットに忍ばせた。

 みちこさんがお弁当を忘れたと知ると、自分が持って来たサンドイッチを机の上に置いてあげた。


 みちこさん。


 私が、私だけがみちこさんをいつも見ている。

 言葉は交わしたことはないけれど、いつも気持ちを通わせている。

 見ていれば分かる。

 

 みちこさんが髪ゴムを落とした。

 私には分かる。

 これは、みちこさんがわたしにくれたのだ。みちこさんのプレゼント。

 分かっている。

 わたしたちは直接コンタクトは取れない。

 誰にも知られないように、こうして心を交わすのだ。


 あるとき、みちこさんのリコーダーが机の上にあった。

 これは、私へのプレゼントだとすぐに分かった。

 私はみちこさんのリコーダーを手に取った。

 後ろには「未知子」というシールが貼ってあった。


 みちこさんは「未知子」さんだったのだ。

 全然知らなかった。

「未知子」なんて、まるで別人みたいだ。「美知子」とか「路子」だと思っていたのに。


 わたしは未知なる「未知子」さんのリコーダーを袋から取り出して、そっと音を出してみた。細い微かな音色が教室に響く。

 それから、今習っている曲ではなくて、小学校のときに習った「きらきら星」を吹く。


 どーどーそーそーらぁーらぁーそおー

 ふぁーふぁーみぃーみぃーれーれーどおー

 そーそーふぁーふぁーみぃーみぃーれえー

 そーそーふぁーふぁーみぃーみぃーれえー


 そのとき、がらっと教室の扉が開いた。


「あ!」

 みちこさんだった。

 私はみちこさんの机に座り、みちこさんのリコーダーを吹いていた。


「それ……。もしかして、わたしの?」


 みちこさんは青ざめた顔で言う。

 どうしたの、みちこさん。

 みちこさんが吹いてって言ったんじゃない。

 私は目でそう伝えた。

「そうだね、わたし、わたしのリコーダー吹いていって言ったよね。分かってくれてありがとう」

 そう言ってくれるはずだった。


「ねえ、気持ち悪いんだけど。……返して? すぐに洗いたいし」


 え?

 どうしたの、みちこさん。

 心を交わしたじゃない。


 私はみちこさんのリコーダーを持ったまま、ベランダに逃げた。

「ちょっと! 返して。わたしのリコーダー。今から音楽で使うのよ」

 

 私はみちこさんにリコーダーを奪われまいと、必死だった。

 ここでリコーダーを渡してしまったら、今までのことが全部嘘になってしまう。

 私とみちこさんとの、密やかで愛しい関係が。


「ほんと、気持ち悪い! あんたのこと、みんながキモいって言ってるのよ。ねえ、返してよ。あんたみたいに、別室登校している子と、わたしとは違うんだから!」


 みちこさんは手を伸ばして、リコーダーを取ろうとする。

 わたしは取られまいと、ベランダの柵の向こうに手を伸ばす。

 みちこさんはわたしの肩に手をかけて、もう一方の手を高く伸ばして、リコーダーを取ろうとした。


 みちこさんが!

 みちこさんの手が、私の肩に触れた! それどころか、身体が密着して、私の胸とみちこさんの胸がくっついてる!


 私の、リコーダーを持つ手が緩んだ。

 するとすかさず、みちこさんはリコーダーに手をかけようとする。

「ほんと、キモい! 早く返して!!」


 私はリコーダーを奪われまいとして――落っことしてしまった。


「あっ!」

 みちこさんはベランダの柵を乗り越えて、手を伸ばした。

「わたしの……!」

 そのとき、みちこさんのかわいらしい足がつま先立ちになっているのが見えた。

 

 宙を歩けるような気持ちになった。

 だって、それくらい、かわいい足だもの。


 私はしゃがんで、その足を力いっぱい持ち上げた。

 そして向こう側に押しやった。

 簡単だった。



「きゃっ」



 小さな悲鳴が聞こえた。

 それから、どすんという音も。

 しかし、私はその先を見なかった。


 だって見なくていい。

 みちこさんは宙を歩いたのだから。

 あの、黄色いつま先の上履きで。


 みちこさんは宙でリコーダーを吹いたかしら。

 私が吹いた、みちこさんのリコーダーを。




 白髪の「〇〇みちこ」さんは診察室へ吸い込まれて行く。

 まだ、セーラー服を着ていたころ、「未知子」さんがベランダの向こうに吸い込まれて行ったように。




 今度は私が名前を呼ばれた。

「お会計です」

 私はよっこらしょと立ち上がる。

 

 立ち上がった途端、先ほどまで考えていたことは、皆、頭から飛び出して床に転がって消えていく。

 私は私の中に埋没していく。


 私の中には黒い砂時計の砂がうず高く山を作り、いくつもの私が暗い闇となって、その中に紛れていく。どれがどれとも区別はつかない。

 音もなく降り積もる砂丘の暗闇の中で私は息をしている。




           了


 




 

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みちこさん 西しまこ @nishi-shima

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