第9話 道具と気配と、暮らしのはじまり
ep.9『道具と気配と、暮らしのはじまり』
朝。 火を起こし、器に湯を注ぐ。 その隣に、昨日もらった小さな実と葉が並んでいる。
「……これ、置きっぱなしでいいのか?」
孝平は、器を見つめた。 ただの木の皿。 雨が降れば濡れるし、風が吹けば転がる。
「返してくれたのに、こっちは雑なままってのもな……」
そうつぶやいて、 拠点の隅に積んであった木の端材を手に取る。
ノコギリで切って、 小さな台座を作る。 その上に、器をそっと置いてみる。
「……うん。こっちのほうが、ちゃんと“渡す”って感じがする」
風がふわりと吹いて、 葉が一枚、器のそばに落ちた。
「……見てたのか?」
返事はない。 けれど、器の中の水面が、 かすかに揺れていた。
午前のうちに、作業場の整備に取りかかる。 拠点の裏手、木陰の広がる場所。 地面はまだデコボコしていて、足元も不安定だった。
「ここ、ちゃんと均しておかないと……」
スコップで土を掘り返し、 石をどけ、根を避けながら、少しずつ平らにしていく。
ふと、足元に転がってきた小石があった。 拾おうとしたが、手を伸ばす前に、 その石が、ころん、と転がって別の場所へ移動した。
「……おいおい、手伝ってくれるのか?」
返事はない。 けれど、次の瞬間、 土がふわりと沈み、自然と平らになっていく。
「……ありがとな」
昼前、陽が高くなる。 木陰に腰を下ろすと、 枝がひとつ、ゆっくりと広がった。
日差しが、ちょうど顔にかからないように遮られる。
「……気が利くな、樹の精霊さん」
かごの修理を始める。 昨日、風にさらわれた実のことを思い出しながら、 編み目を少し細かくしてみる。
すると、風がふわりと吹いて、 近くの草むらから、長めの葉が一枚、飛んできた。
「……これを使えってか?」
葉を編み込んでみると、 かごの形が、少しだけ整った気がした。
「……なるほど。お前、案外うるさいな」
風がくすくすと笑ったように、 草の穂が揺れた。
作業場の地面は、朝よりもずっと歩きやすくなっていた。 かごも、風の助言(らしきもの)で少し丈夫になった。 木陰の居場所も、枝の角度がちょうどよくなっている。
「……なんか、拠点が広くなった気がするな」
実際の広さは変わっていない。 けれど、道具の置き場を整え、 返礼の器に台座をつけ、 作業場に棚をひとつ据えただけで、 空気が変わったように感じた。
「……いや、違うな」
孝平は、火のそばに腰を下ろしながらつぶやく。
「これ、もう“ひとりの拠点”じゃないんだな」
誰かがいるわけじゃない。 けれど、風が吹き、枝が揺れ、石が並ぶたびに、 この場所が“見られている”ことを思い出す。
だからこそ、 道具の置き方ひとつにも、 どこか“誰かと使う”前提が生まれてくる。
「……暮らしって、そういうもんかもな」
夕方。 火のそばに器があり、 その隣に、今日もらった葉と実が並んでいる。
木陰には、腰を下ろせる場所ができた。 作業場には、道具を並べる棚がある。 かごは、昨日よりも形が整っている。
どれも、孝平ひとりで作ったものではない。 風が、地が、樹が―― それぞれのやり方で、少しずつ手を貸してくれた。
「……暮らしって、こうやってできてくんだな」
火が、ぱちりと音を立てる。 その音に、風が応えるように吹き抜けた。
孝平は、かごをそばに置き、 火の前で静かに目を閉じた。
明日も、何かが返ってくるかもしれない。 あるいは、誰かが来るかもしれない。
けれど今は、 この静かな拠点が、 “誰かと分けあう暮らし”のはじまりであることだけが、確かだった。
【後書き】
精霊たちとのやりとりが、少しずつ“暮らし”に溶け込んできました。
返礼の器を整えたり、作業場をならしたり、かごを編み直したり。 どれも小さなことだけれど、 「誰かと分けあう前提」で手を加えると、 拠点の空気が少しずつ変わっていきます。
ひとりで始めたはずの生活が、 いつの間にか“誰かと一緒にある”ものになっていく。
そんな変化を、静かに描いてみました。
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