図書室の黒魔女 マール・セレニテの嘘

田中冥土

図書室の黒魔女

 図書室には黒魔女がいる。


 王立グロリア学園の生徒の間で、そういう噂が流れていた。

 何年生かもわからないその女子生徒は黒く長い髪をカーテンのように垂らし、その下でぶつぶつと何かを唱えながら図書室の隅で本を読み漁っている。その本は図書室で誰も見たこともないような古い本ばかりで、どこから取り寄せたかもわからない曰く付きの本まで持ち込んでいる。その本のなかには、古代より伝わる禁忌の魔術に触れたものまであるらしい。

 誰が言ったか、図書室の黒魔女。

 彼女には誰も寄り付こうとなどしないし、目が合えば黒魔術で呪われるとすら言われている。反面、こんな話もあった。


 ——黒魔女に願えば対価の替わりに願いを叶えてもらえる——


 そんな都合のいい噂に幾人かの生徒は図書室の黒魔女に接触しようとして、そして噂通りの長い髪を垂らした姿の得体のしれない恐ろしさに、近づくまでもなく玉砕した。

 魂を取られてしまいそうだと、誰かは言った。


「……魔術回路を開くには魔力との強い調和が必要……物質への魔力付与は新月の夜の瘴気はやっぱり有用なのでは……」


 マール・セレニテは、まさしくその黒魔女の正体だった。

 何年生かもわからないなどと言われているが、六歳のころに幼稚舎から入学して、今年で十一年目、高等部の二年生だ。子供のころからみっちりと貴族学校に通う由緒の正しい伯爵家の次女がこのマールである。

 彼女の関心興味は、年頃の令嬢とは少しズレていた。その興味の先こそが、魔法である。

 マールの生きる世界には、日常生活に魔法が存在する。火を点ける魔法、冷気を起こす魔法。魔法を発明し、使うことで人々は古来より暮らしを豊かにしてきた。けれど、多くの人々にとってそれは当たり前のことだ。魔法は魔道具によって発動し、それは魔法の素養は関係なく人々が使えるようになっている。

 当たり前に使えるものに、人々の関心興味は湧きにくい。便利に使うものを“どう便利に使うか”を熟知していたとしても、その開発や研究に携わる人間はそこからたったの一握り。例えるならば、薬を飲めば楽になると知っていても、だからといって薬の研究をする人間がほとんどいないのと同じことだ。

 マールは幼いころから魔道具とその効果をもたらす魔法に興味があった。幼稚舎に入学して図書館の存在を知ると、それから毎日のように入り浸りになった。外で買った本や外国から取り寄せた本も持ち込んで、魔法の勉強に没頭した。

 黒魔女と呼ばれているときも、そうでないときも人から避けられていたのは知っている。事実として人とコミュニケーションをとることが苦手だとマールは自負しているし、話しかけられてもぼそぼそとした声で答えるのが精いっぱいだった。だからそれでいいと思っているし、家に帰れば兄弟姉妹が優しく迎えてくれるので黒魔女・マールの生活はそれで十分だった。


「俺の願いを叶えてはくれないか」

「……へ、え?」


 マールは黒い髪の向こうからした声が、そのまま自分に向かって頭を下げていたことに気が付いた。


「対価は何でもいい、俺に用意できるものなら何でも差し出そう。だから頼む」


 男は声を震わせながら、マールへと懇願した。

 制服の上からでも分かるほどがっしりと筋肉のついた身体に、まばゆく光る金髪が夕陽に照らされている。面食らって、言葉を紡げずにいるマールに男はおずおずと顔を上げた。夕陽に負けないほどの、澄んだブルーの瞳がこちらをうかがうように見た。


「突然すまない……マール・セレニテ嬢。俺はレオポルド・グランツ……きみと同じ、高等部二年生だ」

「え」


 マールは二つの事に驚いた。

 一つは、マールが自分は“魔女”と呼ばれていることも知っている。噂が独り歩きし自分の正体など正しく知らない人間が多い中で、自分の事を正しく認識している人間がいたことに驚き、声が漏れだした。

 二つ目は、レオポルド・グランツといえば、魔法以外の事に興味が薄いマールですら名前を知っている(学園生活が長いくせに名前しか知らなかったが)人物だったからだ。高い爵位を持つ家の出であることはもちろん、今をときめく聖王の近衛騎士団候補生たちの首席だからだ。近衛騎士団はあらゆる才覚に加え、見目も麗しいことが条件とされていることから老若男女からの憧れの的である。国が抱える騎士団のいくつかのうち、聖王により近い近衛騎士団に入れるのは上澄みのほんの一握りの人材しかいない。


「君に願いをかなえてほしいんだ。頼めるか」

「そ、その、なにを、どう、ですか?」


 マールは戸惑いながらレオポルドへと尋ねた。レオポルドは家格も才覚も体格も、あらゆる面で他の誰にも見劣りしない。誰が見たって立派でいるレオポルドは、初対面のマールですらそう思えた。

 しかし目の前のレオポルドは、眉を子犬のように垂らし自分よりも小さな体格のマールが座っている目線に合うように膝をついて話しているのだった。その事実に気付いたマールは慌てて、自分の対面に座るように促す。こくりと頷いてレオポルドが椅子に腰を落ち着けると、マールの話してほしいという視線を汲み取ったのか、レオポルドはぽつぽつと話し始めた。


「俺は、近衛騎士団候補生の一人だ。なんとしても近衛騎士団に入りたいし、そのための努力を怠っているつもりもない。……だが、俺にはどうしても得たい力があるんだ」

「そ、それは……!?」


 ごくりと息を呑んで、マールは次の言葉を待った。レオポルドが重々しく口を開く。


「き……緊張しいなんだ……俺は……」

「へっ?」


 きょとん、という言葉が正しいほどにマールは面を食らってしまい、目の前で身体を小さくさせている大男を見た。どこかからか鳥の呑気な鳴き声が聞こえる。


「緊張?」

「ああそうだ、俺は緊張してしまうんだ」


 レオポルドは至って真面目な顔で、深刻なトーンでマールに告げた。


「どうにも大一番の勝負に弱い。緊張で思っているパフォーマンスが出せないんだ。通常の俺のパフォーマンスを100とするならば、緊張で70に……いや、55くらいには落ちている」


 なんか絶妙にリアルな数値だなぁ……と言葉にはせず胸の中でひとりごちながら、マールはなるほど、と相槌を打った。

 しかし疑問なのは、それでもこのレオポルド・グランツという男子生徒は候補生の中でも主席であったはずだった。緊張でパフォーマンスを落としながらも、その成績に翳りが出たという話は長い学園生活でも聞いたことがない。


「でも、あなたは候補生の主席ですよね。すごい」

「すごいものか。自分が大一番でパフォーマンスを落とすことを自覚してからは、常の力を100から120に引き上げてなんとか対処しているだけだ」

「じゅうぶんな離れ業ですよ……」


 言い方としては随分と筋肉的な解決法ではあるが、理にはかなっている。余剰に出せる力があればあるほど、目減りした力を補填することができる。マールはただただ真面目に続けるレオポルドに感心した。


「というわけで、あなたに緊張しない魔法をかけてほしい」

「え……えっと……」


 ——困ったなぁ……——

 内心で呟いて、真面目にこちらを見つめ、まるで神にでも縋るように諾という返事を待っている男を見た。

 マールが困ってるのには理由があった。

 たしかにマールは魔法の勉強に没頭している。だがそれは、“魔法の開発・効率化”という観点からの勉強が主で、更にその根源に至る伝統的な魔女たちが使ってきたような“魔法”とは毛色が異なるのであった。

 黒魔女、というあだ名も主にその古の魔女たちの使う黒魔法と呼ばれる分野を操る魔女、という意味でとられたものだが、実際のマールはそれと対極にある研究をしている。呪術的な側面が強く、理論だてられた一般流通している魔法とは違い超自然的な結果を生むことが多い。むしろ伝統的な魔女たちは、古来より伝わる魔法のイロハも知らずに魔道具で魔法を平然と使う一般市民を快く思っていないほどだ。

 要するに、マールたちの生きる日常を豊かにしてきた魔法はあくまで超自然的な結果を生み出す魔法を使いやすいように進化させ、魔道具や魔法の出力方法で力を制御し、超自然的な結果が起きないよう抑制しているに過ぎない。

 超自然的な結果をもたらす魔法を制御するには、魔法そのものに詳しくなければならない。ゆえにマールはその結果をもたらす古の魔法の勉強もしているが、結局は能率化のためであって黒魔女たちの使う心身を操るような呪術的な側面にはてんでうとい。


「冬学期に入る前に、騎士団候補生の選抜試験がある。そこで最終的に近衛兵になれるかどうかが決まる。俺は、なんとしてでもそこで合格したい。——だが、聖王様も女王様も聖女様もいらっしゃる、俺の人生においては本当に本当の大一番なのだ。想像するだけで今から緊張して食事も喉を通らない。だが俺には、騎士団に入りたいという決意は決まっているのだ……」


 マールはまた、長くのばされた髪のこちら側からレオポルドを見た。

 目の前の大男が恥を忍んでここに来たことはひしひし伝わってくる。努力と研鑽を重ね、己の弱さを認め、それでもカバーできない部分をさらに努力で埋めてきたレオポルドのことを思うと、マールは応援したい気分になった。

 だが、使えない魔法は使えない。

 その手の魔法に本当に精通している魔女ならともかく、研究しているだけのマールが小手先で調べただけの魔法を見様見真似で使えばそれこそどんな結果をもたらすかなど分からない。

 けれど、レオポルドのことを「できない」の一言で見捨てたくはない。

 苦肉の策だが、なんとか救ってあげたいと思ったマールは、ごくりと唾を飲んで口を開いた。

 本をたくさん読んでいてよかったと思えたのは、レオポルドを救えそうな知識がマールの頭の中に残っていたからだった。


「わかり、ました。あなたに使えるおまじないを教えます。緊張にきくおまじないです」

「本当か!?」

「ええ……これをすれば、あなたはきっと緊張が楽になる」

「ありがとう!ありがとう!」


 机の上に置かれていたマールの小さな手を、レオポルドは取ってぶんぶんと振った。緊張で冷えていたのであろう指先がだんだんと体温を取り戻し、あたたかくなっていくのが分かる。初めて自分の手を取った家族以外の異性の手に動揺しながらマールは、ただ嬉しそうに表情を輝かせたレオポルドを見た。

 手指は節くれだっていて固いし、手のひらは固い剣だこだらけだ。

 人がいいのだろう。自分の力量を知っていて、謙虚というには卑屈なほどに自分の実力を見定めている。一度も話したことのないマールの名も学年も知っていたのは、誰かに調べさせたわけではないのだろうとその口ぶりから伝わってきた。

 この数分間のやりとりだけでも分かるのほどに人のいいレオポルドは、はじめて笑顔を見せた。よほどうれしかったのだろうし、よほど騎士団の試験に落ちるのが怖かったのだろう。話を聞けば、きっとこの人は魔法になど縋らなくても合格できるとマールは直感的に思ったが、緊張してしまうという自認そのものがレオポルドの勇気をなくさせてしまっている。

 このレオポルドという人は、あまりにまっすぐで誠実で、誠実ゆえに自分に自信がない。


「あ……」


 握り込んだ手の存在にようやく気付いたのかすまない、と言ったレオポルドは静かにマールの手を机に置いて、顔を赤らめた。

 マールも顔から火が出そうなほどだったが、こほんとひとつ咳払いをして、レオポルドへと向きなおった。


「このおまじないを使うときの、大事なことを一つ教えます」

「大事なこと?」

「はい」


 頷いて、マールは言った。


「大事なのは、自信を持つこと。自分はできる、自分は大丈夫、自分のした努力を信じる……そう思いながら、おまじないをかけてください」


 そうして、マールは左の手のひらをレオポルドの方へと差し出し、右手の指先で手のひらに二重丸を描いた。


「デイジー、デイジー、デイジー、と言いながら三回手のひらに二重丸を描いてください。そして、胸の上でぎゅっと握り込む。そうしたら、緊張はましになりますよ」

「デイジー、デイジー、デイジー……」


 レオポルドは素直に復唱して、マールの仕草を真似ている。そして、言われた通りに胸の上でぎゅっと握り込んだ。


「……不思議だ。不思議と、勇気がわいてくる気がする」

「……それは、よかった……です」


 ぎこちなく笑ってマールは、記号化されたデイジーの花を描いた左の手を握ったり閉じたりしているレオポルドを見た。マールの目の前に現れたときの子犬のような弱弱しい眉はすっかりなりをひそめ、美しいかんばせを彩るパーツに戻っている。


「ありがとう。対価には、何を支払ったらいい」

「お……お代、……は、いりません。騎士団に受かったという報告を風のうわさで聞けたら、満足です」

「……ありがとう。きっと一番に君に教えよう」


 まっすぐなブルーの瞳でマールを見てレオポルドは、静かに頷いた。



 *



 レオポルドは時折、忙しい騎士団候補生の訓練の合間にマールに顔を見せに来た。レオポルドはマールに会いに来ては騎士団の選抜試験に向けての心境や、候補生の中であった話を聞かせに来た。

 マールはうんうんと頷くだけの時もあるし、ぎこちなく言葉を返すだけの時もある。レオポルドはそれに嬉しそうにしたり、真剣にその言葉に耳を傾けている。研究の手はその間も止まってしまうけれど、マールは不思議と嫌な気分にはならなかった。貴族の社交の世界に連れられて人と話すときは不慣れでぎこちなくなってしまうし、終わった後はどっと疲れてしまうけれどレオポルドと話しているときはそれがない。

 レオポルドが努力しているのを見て、マールの研究にも更に熱が入った。


「……新月の瘴気を使って魔力を付与して……手紙の文面を読み取るのは光魔法……」


 そういう日々を重ねて、色付いた木の葉が秋の風にふかれてその葉を落とし、冬の足音が聞こえ始めていた。

 秋学期の終わりが近い。


「明日だ。もう明日が試験だ」


 試験の前日、レオポルドはいつになく緊張した面持ちでマールの元へとやってきた。

 また指先が冷えているのだろう、色を失っている。

 美しい顔に擦り傷を作っている日も、指先を痛々しくテーピングしている姿も、この短期間でマールはレオポルドの確かな努力を見た。


「レオポルドさんなら、大丈夫……ですよ」


 直感は確信に変わっていた。密かに図書室を抜け出して、いつも見学する人だかりのできている候補生の修練場をこっそり見に行ったこともある。若い獅子のような真剣な横顔を見て、マールは確かにそう思っていた。


「……ありがとう。君に言ってもらえると、力がわいてくる」

「……」


 にこりとレオポルドは笑ってみせた。緊張がほどけたのか、指先が徐々に色を取り戻す。

 自分の言葉に、力が沸いてくるなどと。顔が熱くなって、言葉を返すこともできなかった。


「……試験、がんばってくださいね」


 マールは精一杯、それだけを告げた。



 *



 秋学期の暮れのその日、マールのクラスに生徒が減って見えたのは、教室にいないのは皆騎士団の候補生で、今日は試験に赴くために皆欠席しているからだった。こんなに騎士団の候補生がいたなど、マールは今まで知りもしなかった。

 確かに候補生の修練場には常に人が山ほどいたが、クラスにも候補生をこれほど抱えていたとは知らなかったし、たった一クラスでこれだけいなくなるのだから学年中を合わせたらどれだけの人数になるのだろうと思った。

 レオポルドはその中の首席であるというのはどれだけ大変なことか改めてマールは思い知ったし、そのプレッシャーもどれだけのものかなどマールには計り知れなかった。

 ——報われてほしい。

 祈るような気持ちでいたマールの耳に、人が少ない教室の女子生徒の声が耳に入った。


「レオポルド様、近衛騎士団に入るよね?入ったら誰と結婚するのかな」

「グランツ侯爵家でしょう、いくら三男でもお家が良すぎるわ」

「引く手あまたどころかきっと聖女様を射止められるに決まってるわよ」


 聖女。この国においては、聖王の擁する強い光魔法の使い手を指す。聖なる魔法を使い祈りを捧げ、この国に平和と安寧をもたらすのがこの聖女の役割だ。聖女になることは誉であり、次代の聖女を産むためにこの国に貢献し献身的である男を迎えるのがよりよいとされる。

 その聖女の婿候補こそが、近衛騎士団の一員であることなのだ。


「(あ……そっか……)」


 今代の聖女は、ちょうどマールやレオポルドたちと同じ年ごろだ。先代聖女がかねてからの病により早逝したこともあり、同じく強い光魔法の素養を持つ娘への代替わりが早かった。

 ——聖王様も女王様も聖女様もいらっしゃる——

 そうレオポルドが漏らしたことを憶えていた。


「(私、ちょっと浮かれていたんだ……)」


 レオポルドは効きそうなまじないを教えてくれたマールに心を開いただけで、きっと親しいという認識もない。子供をあやすようなおまじないを教えた自分を信じ、緊張を和らげるルーティンの一環で会いに来ていただけだったのだと、マールは初めて思った。レオポルドの人のよさのせいで、近衛騎士団などというマールには程遠い世界を目指す人間だということを、すっかり忘れてしまっていたのだ。


「(……胸が、苦しい。きっと、私は、レオポルドさんを好きだった……)」


 机の上に小さな水たまりができる。ぬぐってもぬぐってもぼたぼたと頬から零れ落ちる涙の雫が、机の上に落ちていく。人付き合いも苦手で、けれど自分には魔法の研究があるからそれでいいと思っていたマールの、はじめての恋だった。

 黒い髪を垂らして教室の隅で小さく肩を震わせるマールに誰も気づかないまま、近衛騎士団の選抜試験日という重大な一日は終わりを迎えた。



 *


 激しくドアを開ける音に司書がじろりと一人の息を切らせた男子生徒を睨んだ。若い獅子のようなその男子生徒は、大きな体を縮こませ一礼すると、図書室の隅に一目散に駆け込んだ。


「マール!」


 マール——図書室の黒魔女を呼ぶ声が響くが、いつもの定位置に彼女はいなかった。

 その代わりに、いつもマールが読んでいた本が一冊だけ、若い獅子——レオポルドがいつも座っていたマールの向かいの席に置かれていた。


「マール……?」


 名を呟きながら書架の間を見て回るが、そこにマールはいない。いつ何時レオポルドが訪れても、マールはそこで研究に没頭していたというのに。

 静かに座っていた彼女が不在の図書室の埃っぽい匂いだけが、ざわりとレオポルドの心を乱していく。

 マールの置いたであろう本にレオポルドが手を触れると、本がやにわに光を放ち始めた。


「!?」


 そして本の表紙の文字の上に、更に文字が現れた。少しだけ丸みを帯びているが美しい、控えめな大きさの文字でレオポルドはすぐにマールの文字だと理解した。


 ——拝啓、レオポルド・グランツ侯爵子息様。

 近衛騎士団兵への合格、おめでとうございます。

 あなたの努力を重ね、ひたむきに前を向く姿に私は心を打たれました。

 この魔法は、あなたの姿に感化されて完成させた魔法です。

 かねてより研究していた、遠いところにも文字を送る魔法です。理論はいろいろあるのですが、割愛しますね。

 ともかく、合格おめでとうございます。

 あなたならきっとなんだってできてしまいます。

 自信をもって。あなた自身を信じて。

 あなたの成功を、心より祈っています。

 マール・セレニテより——


「……どうしてだ、マール……」

 ぽつりとレオポルドは消えるように呟いた。


 *


 ——俺はできる。俺は大丈夫、俺の努力を信じる……——

 そう心の中で強く念じながら、二重の丸を二回、

「デイジー、デイジー、」

 と唱え、ふとその動きを止めた。

 脳裏に浮かんでくるのは、控えめに微笑む黒い髪の彼女の姿だった。


「レオポルドさんなら大丈夫……ですよ」


 不思議と勇気が湧いてくる。緊張が幾分もマシになって、力が出る気がする。

 ——……彼女の信じてくれた、俺を信じる……——


「デイジー」


 最後にもう一度だけ二重丸を描いて、胸の前で握り込んだ。


「次!レオポルド・グランツ!前へ!」

「はっ!」


 名を呼ばれ、レオポルドはまっすぐ前を見て歩き始めた、身体のぎこちなさも、緊張による手の汗もない。芯から湧き出る力のようなものが、レオポルドを支えている。

 そしてレオポルドは、誰よりも優秀な成績で試験を終えた。


 *


 合格の通知が来るのは早かった。結果が張り出されるよりもはやく、その日のうちに実家に使者が来て、首席合格であることを告げられた。主席であるため聖王からの授章式もあり、その関係で誰よりも早く使者が来たのだった。今後は授業を近衛騎士団のカリキュラムに切り替えるので王城に来てほしいとも告げられた。両親は手放しで喜んだし、レオポルドも震えるほどに嬉しかった。そして、この気持ちを誰よりも先に伝えたい人物の顔が思い浮かんだ。誰よりも早く彼女に告げにいこう。そう思った。

 秋学期の終わりを境に近衛騎士団に合格した生徒はみな登城し城の訓練所に通うことになる。その手続きと聖王や女王、聖女への事前の謁見などが重なり、結局レオポルドが次に登校できたのは秋学期の最終日だった。

 秋学期の最終日と同日に、学園に近衛騎士団の合格発表者が張り出された。レオポルドはそれを見るまでもなく、図書室へと授業が終わると同時に駆け込んだのだ。


「——マール」


 光を放っていた本が、徐々にその光を弱める。

 きっとマールは、合格の発表を見ていない。レオポルドの合格を信じ、彼女の完成させた魔法で手紙を残してレオポルドの前から姿を消したのだった。

 理由まではレオポルドには分からない。

 ただ、マールに会いたかった。自分を信じたマールに礼を言い、自分の中に芽生えていた想いを告げたいと思っていた。

 冬学期が始まった頃、風の噂で図書室の黒魔女が姿を現さなくなったと聞いた。


 *


 四年後。

 マールは父親が隣で大きなため息を吐くのを聞きながら、手ずから改造を施した馬車に揺られていた。黒く長い髪は使用人たちによって綺麗にまとめ上げられ、紫色の瞳が良く見える。控えめながらも美しい礼服に身を包んだマールは、本から顔を上げ、父をちらりと見た。


「まったくお前という奴は、こんな時まで本か」

「……それを容認してきたのはお父様じゃん……」


 ぶつぶつとマールは答えて、また手元の本に目を落とした。

 マールは以前完成させた魔法「手紙を遠くへ届ける魔法」を応用させ、相手の持っていたものや想いのこもったものなどに魔道具を翳せば届けたい相手へと書いた手紙を届ける「世界中に手紙を届ける魔法」を完成させた。とくに地方との折衝に苦心していた政府関係者に喜ばれたその実用化魔法は、王城へも評判が届いた。そして、マールはその功績から授賞式を執り行われることとなったのだ。


「この歳まで嫁に行かんし、お前という奴は」

「……だって、興味ないし……」


 事実として、マールは興味がなかった。何度か見合いもしたし、社交界で声もかけられたが結婚には至らなかった。

 ——あの時のような、胸を打つ想いは一度だってできなかった。

 青春のひと時のきらめきに縋っていることは、マールしか知らない。父は、自分が色恋も結婚も興味がなく、人付き合いが極端に苦手なだけだと思っている。


「だがな、今日は断れんと思った方がいい。父さんのところに、授章式で王城の関係者に会ってもらうという話が来ているからな。お前も良い歳だ、見合いも悪くなかろう」

「……」


 そろそろ潮時だとは思っている。弟である長男が家督を継ぐことが決定し、上の姉も下の妹たちも嫁ぎ先が決まって家をとっくに出ていた。両親は出て行けと急き立てることこそないものの、事実として肩身が狭くなってきたし、娘には結婚してほしいと思うのが貴族のサガである。世の中で政略結婚で望まない結婚をする貴族の子息子女が多い中で、マールがこの歳まで伯爵家令嬢の身分を持ちながら自由にさせてもらっていた方が奇特と言えた。

 今日、恐らく自分は結婚相手を決められるだろう。

 ——そういえば、近衛騎士になった彼は無事に聖女との結婚を決めたのだろうか——

 ふと、そう思った。



 *


「よく来てくれた、マール・セレニテ伯爵令嬢。それにウォレス・セレニテ伯爵」

「せ……聖王様の、お、お目通りにかない、恐悦至極、万感の思いにて、ご挨拶、させていただきます……」


 謁見の間で跪いてマールは、なんとか言葉を紡いだ。聖王、王女、聖女に始まりずらりと並んだ近衛騎士たちに、何人かの王族関係者や政府関係者の見守る中で、粗相のないように跪くので最早精一杯だった。父は仕事柄登城することもあり堂々としたものだったが、マールはこういった厳かな世界からはなるべく離れて暮らしていたので、思わず緊張していつもよりももごもごと話してしまう。

 良い歳した伯爵令嬢が情けないと自分でも思いつつも、聖王の言葉を跪きながら聞いた。


「マール・セレニテ。そなたの発明・実用化させた魔法は実に多くの人間に利をもたらした。手紙を世界どこでも届けられるようになったことで、世界は昔以上に開けたものになった。その魔法は古来よりの根源から連なる魔法を応用したものでもあり、魔法の伝統を忘れぬよう使いつつ、人々の思いを世界中に届ける革新的なものであった」


 女王から渡された勲章を手に持ち、首を垂れるマールに静かにそれが掛けられる。


「よって、聖王の名においてそなたに勲章を授けよう」


 ズシリと重たいそれがかけられ、マールはまた深々と礼をした。

 わっと謁見の間にいた人々から拍手と歓声が上がる。

 そして歓声がひとしきり止むと、聖王がさて、と切り出した。


「セレニテ伯爵。そなた、王城の関係者に会ってもらおうという話は聞いておるか」

「はっ……!?き、聞き及んで、おります!」

「(え、聖王様から……?)」


 父の声が裏返っていたのはマールの認識と同じく、この謁見の間ではなくまた授章式の終わりにでも話があるものと思っていたからだった。


「そうかそうか。では、前に出よ」


 聖王の声に、ひとりの騎士が前に出る気配がした。顔を上げよと言われ、マールは重たい勲章をかけた首を持ち上げた。


「マール」

「……え……」


 若い獅子のような精悍な顔立ち、輝く金の髪に澄んだブルーの瞳。

 青春の一時のきらめきをマールにもたらした、実直すぎる大男。


「れ、おぽるど、様……」

「マール。会いたかった。君を忘れた日はなかった」

「……ど、どうし、て」


 聖女様と結婚するのではないのか。そんなことは到底言葉にはできないが、ただレオポルドにどうしてと返すことが精いっぱいだった。

 騎士服に身を包んだレオポルドは、誰よりも何よりも立派に見えた。


「決まっている。君と……」

「きみ、と……?」


 ごくりと喉を鳴らすほどに、レオポルドが大きく息を呑んだ音が聞こえた。

 手汗を騎士服で拭ってレオポルドは、手のひらを開いて指を置いた。


「デイジー、デイジー、デイジー……」


 その場にいた全員ははてどうしたことか、と首を傾げた。次の言葉は誰だって分かるというのに、レオポルドは不思議なしぐさを合間に挟んだ。


「なんじゃ?それは」


 聖王が思わず聞くと、レオポルドは柔和に微笑んだ。


「まじないです。大切な人より教わりました。大一番に自分を信じるための」

「ほぉ~う?」


 にやりと笑って聖王はマールを見た。ほほえましく女王と聖女も見守っている。

 そしてレオポルドは、跪いてマールの手を取った。


「俺と結婚してください。マール・セレニテ」

「……っ!……っ!」


 まっすぐに、ブルーの瞳がマールの紫色の瞳を貫いた。

 緊張で体温を失いがちなその手指は、温かなままでいた。マールの教えたおまじないは、嘘でもないが本当でもない。黒魔女に藁にも縋る願いでやってきた彼を救いたいと思った、あくまで緊張を解くおまじない——魔力も呪力も発生しない、民間伝承に近い。だからマールは、己を信じることが大切だと伝えた。自分にしては大胆な作戦だったと思ったが、マールは何よりも、努力を欠かさなかったレオポルド自身を信じてほしかったのだ。

 レオポルドもその言葉を信じたし、レオポルドを信じてくれていたマールを信じ、近衛騎士団の一員となり、今日までを歩んできた。


「で、でいじーっ、……でいじー、でいじーっ……」


 ぼろぼろと涙を零しながら、マールもレオポルドを見つめ返した。普段は開かない喉を精一杯に開かせて、マールは聞こえるように答えた。


「はい、結婚します、あなたと、レオポルド様と結婚します!」


 あたたかな祝福の拍手が二人を包み込む。

 そうして二人は、四年の時を超えて結ばれた。



 *


 近衛騎士団の時代の団長筆頭候補のレオポルドと魔法開発にしか興味のない変わり者のマールの結婚は、貴族界に大きな衝撃をもたらした。

 セレニテ伯爵家の変わり者の次女が聖王様に勲章をもらったうえに、結婚までした。その事実は、世の魔法研究に憧れる人々にも広く伝わり、マールが王城の力を借りつつ王城直下の研究機関としてその門戸を開いたことで魔法の研究をあきらめていた女性や騎士になることを望まれていた貴族の男性たちも“それだけの実績と展望があるならば”と受け入れられるまでに至った。

 魔法の実用・開発は飛躍的な進化を遂げ、マールの密かに研究していた馬車のスピードを上げる魔法も実用化に近づきつつある。

 マールの元には門下生もいて、弟子が魔法のお披露目を王城でしてみよと呼び出されることも少なくない。


「う〰〰……緊張します……」


 顔を真っ青にしながら震える若き研究者の彼女に、マールはなだめるように肩をポンポンと叩いた。


「大丈夫、大丈夫。自分のしてきたことを信じてみてください」

「で、でもぉ……」

「じゃあ、近衛騎士様も使ったおまじないを教えてあげますね」

「おまじない?」


 呪術的な側面を持つ言葉が、論理派のマールから出てきたことに驚いて弟子は言葉を鸚鵡返しした。にこりと静かに微笑んで、マールは手のひらを差し出した。


「デイジー、デイジー、デイジー……」



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