血環 ー大阪ブラッズー

京田 学

西成第一中学校編

第1話 西成の洗礼

――今でもよく思い出す、

あの時、あの風、あの街の匂いだけは忘れたくないと思う。

平成二十四年。大阪、西成。

時計の針が止まったみたいなこの街に、“伝説の息子”が、ひとり放り込まれた。

 まだ〝昭和〟が生きていた。色褪せたトタン屋根の長屋が肩を寄せ合い、商店街のスピーカーからは五木ひろしが流れ続けていた。昼間から開いた立ち飲み屋の赤ちょうちんは、人生を擦り減らした大人たちの顔を照らしていた。この街の人たちは、“虚勢”じゃなくて、“覚悟”を背負っていた。睨んだら引けん。何をするにも、“筋”が要る街。よそ者の“正しさ”なんか、一発で吹き飛ぶ。

 そんな街に、加賀谷京志がやってきた。伝説のムエタイファイター・加賀谷慎吾の息子。三十戦無敗、“無敵”と恐れられた男の背中を、京志は五歳から、血と骨を削りながら追い続けてきた。


「殴られた回数だけ、ミットを叩け」 

「泣くヒマがあるなら、蹴りを磨け」


 父の教えに、温もりなんてなかった。あったのは“強さ”って名の檻と、絶対の孤独。そんな男に育てられた京志もまた、嬉しさも、哀しさも、痛みも――拳の奥に沈めてきた。

 そんな京志が、西成第一中学校に転校してきた。最初に見たとき、何やコイツって思った。拳のキレ、目の鋭さ、全部が“喧嘩”の範疇を超えとった。でも、それより異質やったんは――あいつの孤独や。何かを壊すために拳を握る奴は多い。けど、あいつは違った。守るために、誰も寄せつけへん壁を築いとった――ムカついた。でも、だんだんわかってきた。あいつが、誰にも気づかれへん場所で、誰よりデカいもんと戦っていたことに。

 俺の人生は、あいつと出会って変わった。あいつの“痛み”が、俺らを一つにした。

 ――あれから何年も経った。せやけど今でも思う。あの風がまだ吹いているなら。あいつと見た夕焼けが、この空に残ってるなら。俺は、何度でもその日々を思い出す。

 大阪ブラッズ――Bloods「血」「兄弟」「仲間」


 血よりも濃い絆は、あの街に置いてきた。


 春。埃っぽく濁った空気が、団地の廊下に滞留していた。けれど、冬の刺すような冷たさは、もうどこにも残っていない。加賀谷京志は、西成の古びた団地の一角から、無言で歩き出した。新品の制服は、まるで借り物のようだった。

 それもそのはず――今日が転校初日。行き先は「西成第一中学校」。地元じゃ、悪い意味で有名な学校。途中、転がってきた空き缶を無意識に避ける。電柱には色褪せた「暴走族撲滅」「薬物禁止」のポスター。足元には吸い殻、犬の糞、錆びた自転車。壊れた街灯の下では埃が舞い、フェンスの落書きは塗り重ねられすぎて文字かどうかも分からない。

 そんな中を、黒塗りの高級車が、滑るように通り過ぎる。中の顔は一切見えないほどの黒いスモークで覆われた窓。場違いなはずのその車が、不自然なくらい自然に街に溶け込んでいる。それは、この街のもう一つの風景――見えない何かが、この町の秩序を保っている。京志は、車が通り過ぎる一瞬、見られているよ感覚を覚え、背筋に冷たいものが走った。


「……空気、悪すぎやろ」


 小さく呟く。この街に来たのは、病で死んだ父・加賀谷慎吾の遺言のせいだ。あの無敵を誇った男が、病には勝てなかった。最後まで感情を見せず、やせ細っていく姿は、現実感がなかった。そして、死ぬ間際に、掠れた声でこう言った。


「西成へ行け。そこで、生きろ」


 寡黙な男が残したたった一つの遺言。なぜ、西成なのか。理由の説明も、息子への情も、何もない。最後まで、命令するだけの父親だった。親父の故郷が、この西成だと聞かされたのは、死んだ後になってからだ。褒められた記憶も、笑いかけられたこともない。遺されたのは、強制と、苛立ちだけ。聞いてやる義理なんてない。だが、あの男が最後に俺に伝えたかったこと、それだけは、知りたい。学校近くのコンビニ前でたむろしていた数人の生徒が、京志に目を向ける。

「なんやアイツ……見ん顔やな」 

「新入りか?」

 悪意とも興味ともつかない視線。京志は気にも留めない。こういうのは、もう慣れた。

校門に着く。フェンスは破れ、体育館の壁には“一中参上”とスプレーの跡。誰も消さない。校門脇では、制服姿のままタバコを吸っている生徒たち。近くの教師が、目を逸らして通り過ぎた。

 教頭に案内され、職員室を出る。無言のまま、教室へと向かう途中。

 ――廊下の角。急に、視界が暗くなった。――ぶつかった。


「っ……!」


 びくともしない。相手はそのまま、ゆっくり振り返った。――大きい。180は優にある。がっしりした体格。鍛えたのが一目で分かる太い首と肩。時代錯誤の長ラン。――とても中学生には見えなかった。


「悪い……」

 

 静かな声の主は間柴健だった。


「……お前、見ぃへん顔やな。転校生か?」


 京志は、ゆっくりうなずいた。


「……加賀谷や」


 名前を聞いた間柴の目がわずかに鋭くなるが、すぐに笑みを浮かべる。


「へえ……噂は聞いとるで。伝説の息子、やろ?」


「……」


「俺は間柴や。そんな顔すんなや。うちの親は、この街で不動産の仲介やっててな。ちょっと耳に入っただけや」

 

 京志の反応を確認しながら声をなげる。


「まぁ、うちの学校はちょっとクセあるけど、頑張っていけや転校生――死なん程度にな」


 間柴はそう言って、軽く肩を叩いて去っていく。京志はその背中を見つめながら、心の奥で何かがざわつくのを感じていた。


 そして、教室のドアが目の前に迫る。一つ、深呼吸。ドアを開ける。ガラガラと古びた引き戸が、いやに大きな音を立てた。


「みなさん、お静かに。お静かにお願いします」


 普段なら教師の言うことなど気にしない生徒が、見慣れない眼光の鋭い男をみて、ざわめきを一瞬止めた。目線が一斉に京志へ向けられる。冷やかしと興味、そして警戒が混じった視線。

「今日からこのクラスに入る加賀谷京志くんです。色々と事情があって、引っ越してきたそうや。みんな仲良くしてやって――」 


――カシュッ。 


鋭い音とともに、コンパスの針が京志の真横の掲示物に突き刺さる。教師の顔がこわばる。教室の空気がぴりつく。京志はゆっくりとコンパスが飛んできた方向に見をやる。


――後方窓際。座っていたのは金髪の少年。襟を立て、腕を組んだまま足を机に引っ掛けている。


「お前、なんやねんその目つき」

 

 その男――橋春也は、まっすぐ京志を睨んでいた。鋭い目つき、けどどこか涼しげで、何より“自分の位置”を完全に把握している目。


「転校生が、俺らを値踏みするような目しやがって」


「橋くん、落ち着いて」

 教師が慌てて割って入る。だが、春也は目線を逸らさない。教師が前に立っていようが関係ない。しばらく睨み合いが続く。教室はそのままざわつきだけが続いた。やがて騒ぎを聞きつけて男の先生が数人やってくる。担任はホッとしたように京志に目をやった。

「席はあそこです。とりあえず座ってください」

 京志は何も言わず、席へと向かう。春也とすれ違うとき、互いに一瞬だけ目を合わせた。


――昼休み。何も言わずに弁当を食う京志に、誰も話しかけようとはしない。ただ、数人の生徒が、京志に鋭い視線を投げながらヒソヒソと春也に耳打ちしていた。チャイムが鳴ると同時に、京志は一人で帰路についた。学校の門を出て少し歩いたところで――


「おーい、転校生さんよぉ!」


 背後から、ぞろぞろと足音。振り向かなくても分かる。五人。前に立つのは春也。その背後に、仲間たち。眉毛のない川上がガムをくちゃくちゃと噛みながら言う。


「ちょっと待てや。オレら、一応この学校の“流れ”ってやつを大事にしてんのよ。分からんか? 転校生が、朝からあんな態度とっとったら――」


「何が言いたい」


 京志の声は低い。だが、春也はまったく怯えない。むしろ楽しそうに口元を歪める。


「予防接種みたいなもんや。卒業まで震えて過ごしたないやろ?」


 笑いながら京志を囲む。次の瞬間――背後に立っていたマスクをした坊主が、京志に飛びかかる。だが――その手が届くより早く、京志の膝が顔面を打ち抜いた。


「……っ、げほっ、ぐぅ……!」


 一撃。――男の口から白いものが飛んだ。一瞬の出来事。――沈黙。再び周囲がざわめいた瞬間、京志が静かに春也に目を向けた。


「俺、風邪ひいたことないねん」


 春也が眉を上げる。その目にかすかな笑い。他の少年が狼狽する中、春也だけは違った。


「へぇ――おもろいやん」


 場の空気が変わった。これはただの新入りイジメじゃない。何かが、始まる予感。 

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