無名の国手
@yoyoyo_444
第1話 邂逅
東京で軍医になったばかりの自分は結局戦争に行くことはなかった。
つい一週間程前、玉音放送が流れた。
東京はまだ聞きやすかったが、南の方はラジオが雑音まみれで聞こえず、まだ飛行機を飛ばしたり、最期に軍人として死ぬため自ら地面に墜落した者も居たという。私は完全な無駄死だなあと思った。
しかし上官が自分の小隊を引き連れて…と言った事例もあったらしくそれは逆らえないな、と思った。
私は今、広島へ向かっている。軍医になりたてで、S少佐を1番上とした数人で移動中だ。
この中だと中尉、年齢的にも階級的にも自分が1番年下ということになる。
「広島では何があったんですか。」
「街が丸ごと吹き飛んだそうだ。物理屋が言うには放射がうんたら…と」
紙の報告でしかないが、あちらは爆弾の被害だけではなくその後爆心地に居た人も謎の高熱などでうなされ、そのまま亡くなっていっているらしい。
「毒ガスとは違うんですか」
「そうかもなあ、爆弾の中に何か混ざっとたんかもなあ」
これは後に知ったが、北端の樺太や千島列島などがソ連に侵攻されており多数の民間被害が出たり、シベリアに抑留されていた人がこの頃いたらしい。それを思えばこの頃広島に向かっていた自分がなんとのほほんとしていたことか。
「ピカドンと言うらしい。」
「ピカドンですか…」
「ああ、見た人が言うにはね、ピカっと光ったと思ったら次の瞬間ドオオンと爆風が来たらしい」
「それでピカドンですか。」
終戦してから半月も経っていなかったのだ。原子爆弾、と言う名前もわからず皆ピカドンと呼んでいた。
この後「ピカドン」という風邪薬が発売されたが、今見たらなんと不謹慎と言われよう。
さながら蔑称が蔑称とされ、変わっていったような時代の流れだろうか。
しかしそれが蔑称ではなかった時代を生きていた人間にとってはそれを変えると言うのはなかなか難しい話である。
少し先のことを話すと私はこの時、あの爆弾の恐ろしさをわかっていなかった。あの被害を、現状を記録し、恐ろしさに気付いたのは私のような広島や長崎にいた医者達であり、米兵や米軍の研究者であり…原爆の父、オッペンハイマーも核開発そのものを後悔したような代物だったのだ。
「我々は負傷兵と民間人の救護、ならびに死体の検案を命ぜられておる。原因の究明も任務のうちだ」
原因も分からぬまま、治せと仰せか。
原因も分からぬまま、腹を裂けと仰せか。
しかし私は軍医として覚悟を決めるほかないのだ。
広島に入った瞬間から言葉が出なかった。
家という家は骨組みに還り、瓦礫と灰の見分けもつかず、川は鈍い鉄の色を湛え、所々に焼け爛れた遺体が、流木のごとく引っ掛かっていた。
市内へ行けば行くほど骨組みばかりであり、そこらじゅうに真っ黒で手足にギュッと力を込めて固まったような死体が道の脇にあった。
あと酷かったのは蝿。それこそ市内へ向かうに連れ追い払うのも無駄なほどに多かった。
「あんまりここにおると放射にやられるらしい。」
私は喉をごくりと鳴らした。こんな所で軍医が務まるだろうか。
しかし私の考えは杞憂で例の症状を訴える人は市内ではなく郊外にいるらしく、トラックで小さい村へと向かった。
町を離れるにつれ、焼け跡は減っていった。代わりに、田畑と瓦屋根の家が増えていく。だが、人の気配だけが、どこまでも薄かった。
また集まる、ということで人手不足なため1人ずつバラバラに色んな場所を診察しまわることになった。ただでさえ経験がほとんどない私が1人なのは非常に心細かった。
呼ばれた村の外れの家に行くと、老婆が出てきた。
「ようやっと医者が来た」
奥で苦しそうにうめいている人物に嬉しそうに声をかけた。
床の間に敷かれた筵の上に、若い女が横たわっていた。顔色は青白く、呼吸は浅い。体に目立った外傷はない。
しかし触るとものすごい熱なのが分かった。
「2日前には普通に畑に出ちょりました…ああやっぱり街へ行くのを止めるべきやった。友達がって言うて何日も街の瓦礫の間を歩き回っとたんです。」
女は、呻くように咳き込み、黒ずんだ血を吐いた。
「脈が弱い…」
リンゲルを打った。次の患者もいる。私はそれしか出来ることがなかった。
私は知ることはなかったが、この夕刻息を引き取ったらしい。
この後も数件家をまわった。
しかし火傷や疲労からくる風邪ばかりで、私が来た目的をこの日は果たすことができそうもなかった。若かったので軍医として任務を果たしたい一心であり、この後見る地獄を知らずに私は体ばかりが疲れたまま宿舎に戻った。
次の日、S少佐を含む私達は三菱の医療施設に回された。
元は軍需工場付属の診療所だったらしい。建物は焼け残っていたが、内部はすでに即席の死体置き場と解剖室と化していた。
もうほとんど腐りきっており、今しがた運ばれたという2体のご遺体が解剖を期待できる最後のご遺体らしい。解剖してわかったことがある。
・大きな外傷はない
・数日のうちに容態が悪化
そして最も特徴的だったのは
「髪が…ないですね…」
「ああ、皆脱毛しているな。ガンみたいだな」
少佐が、遺体の手を持ち上げる。皮膚に、紫色の斑点が散っていた。
「紫斑…これらの症状はあのピカドンの…放射ってやつのせいでしょうか」
誰も答えなかった。否、誰も答えなど持っていなかった。
「市内各所から遺体を集めては、検案して……毎日、何十通と出しよるとか」
声が聞こえた。施設の事務係の人が大量の紙を抱えていた。
話を聞けば、とある医者がやたらと死亡届を持ってくるんだとか。
紙は何十枚…いや何百枚と有るのではないかというくらい有った。
広島の医師達が集まって死亡届などを書いているのかと思いきや事務係の人の言い分的には全て1人の医者が持ってきた者らしい。
これだ!と思った。その医者さえ見つければもっと詳しい症状や被害について知れるのではないか。そう思い、S少佐に相談をした。
「何処にいるのかは分かっているのかね。」
「いえ…これから…」
「人手が足りない。貴様1人で探してくれ。」
そう言われて診察しつつ、街を歩き回って例の医者を探した。
「Y先生なら、今朝は川っぺりにおった」
「いや、昼過ぎに山向こうの農家へ行った」
「さっきまで、ここで死体を診とったが、もうおらん」
Y先生と呼ばれているのは分かったが、いくら探しても本人には会えない。
夕刻近く、ようやく確かな情報が入った。
「物理屋の先生の家におるらしいです。」
「物理学者…どの辺の家ですか」
私は物理の人間に対して苦手意識があった。S少佐が奴等は話を止めん生き物だ、と散々愚痴を吐いていた。それから私もなんとなく苦手なのだ。
物理学者の家は、川沿いの、かろうじて焼け残った日本家屋だった。
障子越しに声が聞こえた。
「──だからね! あれは単なる爆弾ではありません! 原子の結合がですね、いや、分裂が──」
私は思わず足を止めてしまった。
しかしいつまでも待ってはいれないので意を決して障子を開けた。
座敷の中央に、着物姿の痩せた男──物理学者が、身振り手振りで熱弁を振るっていた。そしてその正面に、胡坐をかいて座っている人物がいた。
煤と血で汚れた白衣。肩に触れるほどの長い髪。女のような端正な顔立ち。しかしひどく疲れた目。
「……誰だい君は!君もあの爆弾について聞きにきたのかね!」
物理学者は興奮したまま此方を見上げる。
「H軍医中尉と言います。」
軍の者だとわかると一瞬物理学者の口が止まった。
「Y先生ですか」
目の前の人物に聞く。
「…先生と言われるような人間でもないんですがね、いや助かった。」
そういうと軍に呼ばれてるので行きます、と物理学者に礼を言って私に向き合った。
「さ、行きましょうか」
川沿いを街へ向かって歩く。
私がどうやって彼に協力を仰ごうか考えあぐねていると
「いやすみません。あの先生に捕まってて2時間程同じ話を聞いとりまして…助かりました」
声は若く、低い。標準語で喋ろうとしているのが垣間見えた。
「こっちは医者なんでね、正直半分も理解できませんでしたけど…普通の兵器じゃないってことくらいしか分かんなくてですね。」
「はあ…そうだったんですね」
「もうええじゃろ…と思いよったとこです」
そこで初めて広島の人間ではないことに気がついた。
「もしかして長州の方の人ですか。」
「……よくわかりましたね。」
「大学にも居ましたし、長州出身の政治家はわんさか居ますから。」
路地に出ると、Y先生は小さく肩を落とした。
「それで…なんの用ですか。あまり軍には関わりたくないんですよ」
「貴方が沢山死亡届を書いてると聞きました。検案もしていると。」
「ピカドンの遺体について聞きたいんですね?」
「はい」
Y先生は次は大きく息をついた。
「言うちょきますけど、正体なんてわかってないですよ。」
「症状や被害、治療法があれば聞きたいのです。」
「ハハ…治療法…癌と一緒で治療法なんてありゃしませんよ。」
「やっぱり癌みたいなものなんですか?」
癌の治療法は確立されていない。それどころか明治以降に名前がついた病気なのだ。本当にあの爆弾が癌のようなものを起こすなら絶望的だ。
「自分が検案して分かったのは、外傷がないこと、しかし髪が抜けて、歯茎から血が出て、内蔵が壊れて…数日で死にます。」
「それをずっと1人で何百人と診てきたんですか…」
「火傷など外傷を受けるほど近くでピカドンを受けた人は終戦前に死にましたよ。遺族と家らしい瓦礫に行って…遺体が有れば届を書いてやるんです。書くのが無意味なほど死んだのは分かってます。でも書いてあげないと可哀想でしょう。それと腕の皮膚がただれ落ちて足に当たって痛いんで皆前に腕をつきだすか、皮膚を抱え込んで歩く行列も見ました。そして皆少しでも水の有るところに突っ込んで死にました。」
絶句した。そんな生き地獄がこの世にあったのか。
「市内に行けばもっと恐ろしい事実を目にしますよ。あの大量の蠅なんかまだ生きている人にまで卵を産みつけちょったんですよ…産みつけられた人も全員死にました。」
宿舎に戻った。宿舎と言っても半壊しかけた小学校である。それを見上げたYは
「立派な宿舎ですね。」
と言い、私には皮肉にも本音とも区別つかなく聞こえた。
少佐に例の医師を見つけたと言うと直ぐに半壊した宿舎の入り口近くまで来た。
「君がY医師か。よろしく。」
「どうも。」
私が吃驚するくらい素っ気ない態度でY先生は返事をした。その一瞬でS少佐はY先生が軍にあまり関わりたくないのを察したようだった。しかしこんな時に医者が協力しないのはどうなのだろうか、とも少し思いはした。
「単刀直入に言おう。君の今までの検案を我々に提供してほしい。」
「…………いいですよ。」
かなりためた後の返答だった。
「しかし、自分は別に協力するからと言って貴方の指示に従う訳でもないし、軍とは関係ない立場でやらせてもらいます。」
少佐の顔が少し険しくなった。
「それは──」
「軍属にはなりません。自分は自分が呼ばれたところに行きます。軍の人間とは言え、貴方の指定した場所での診察や解剖を優先はしません。」
Y先生の声に感情はのっていなかった。
「勿論、あくまで民間医師としての協力という形をとらせてもらう。死亡届などを出す次いでで良い。カルテを三菱の人間や軍の人間に渡して此方の手元にも情報が入るようにしてほしい。情報は多ければ多いほどいいからな。」
「それなら、構いません。」
私は会話を固唾を飲んで見守った。
この人は軍に逆らっているのではない。軍に呑まれまいとしているのだ。
「あと、何百人分の情報を渡すんですから物資も少しはください。リンゲル、ブドウ糖、サルバルサン、モルヒネ…なんでもいいです。なにせ、ピカドンがあって山口から直ぐ此方に来たんですからね。一文無しですよ。」
「アッハハッハ!」
少佐がいきなり大声で笑い始めた。
「物資まで分けろとは…私はこの通り強面で有名だからな。怖がって皆頼み事はしてこないんだがな」
どうやら少佐はY先生を気に入ったらしい。
まあ確かにS少佐は会った時怖そうな人だなあとは思ったが軍医として初任務という緊張でそれどころではなかった。
Y先生は物資を受けとり、少佐は大量のカルテを受けとった。少佐はペラペラめくりながら部屋に行ってしまった。あれを読み終わるのにどれだけかかるだろうか。Y先生も街の方へ戻ろうとしていた。
私が連れてきたので送ろうと思い、声をかけ、街手前まで無理やりついていくことにした。
少佐が気に入ったらしい様に私もY先生が気になっていた。
「少し話が戻るけど、君はあの物理屋が苦手だろう?いや、物理屋皆に苦手意識を持っているのかな」
いきなりの話題が私の心の中を言い当てたので吃驚した。
「そんなに態度に出ていましたか」
「自分は精神科医もどきでもあるからね」
「…正直に言いますとS少佐が散々物理屋の愚痴を仰られていて…」
「それで苦手に?」
「そうかもしれません」
Y先生は少し考えたような間の後
「会ったこともない人を苦手、嫌いになる…これからそういう国際世界になるかもしれませんね。」
「……」
なにも返せなかった。瓦礫ばかりで明かりなんてない道の暗闇の中でうっすら見えるY先生の輪郭を見た。
「この国もそうだったでしょう。国民は戦争をしたくなかったのに暴走した軍部が戦争に突き進んだ。ほとんど洗脳だったでしょう。」
軍医の貴方には失礼な話でした、と止めようとするY先生に
「…これからどうなると思いますか。」
すがるような思いで聞いてしまった。彼の考えが聞きたかった。
「…まあ民間人をこれだけ殺してしまった米国は正当化にはしるでしょうね。この被害を実際見れば絶対悪の兵器、というのは誰もが分かることですが、時間は全てを解決する。後世には伝わらないでしょうね。」
今私が行っているこの救助活動や被害調査なども、伝わらないのだろうかと思ったら少し悲しくなった。しかしこれが敗戦国の国民の運命と言えばそれまでだ。
「これから日本が平和になっても、欧米列強はファシズムが嫌いですからね。この国のファシズムや軍国主義をいつまでも否定するでしょう。」
そして自分も戦争にはしった軍部のファシズムは否定しますよ、と付け加えた。
「でもそれは戦争を知らない世代の…これから生まれる子供達には関係ない。この恨みを次に引き継がせてはならないのです。」
私はハッとした。私の物理屋嫌い、はS少佐に植え付けられたものであったと気づいたからだ。
「自分がなにもされていないのに恨むというのは、それこそ上からの洗脳であり世界が忌み嫌うファシズムの始まりのようなものです。」
これからそんな国が出てくるのであろうか。出てきたとしたら自身が忌み嫌うものを自身が実践してしまっている大いなる矛盾を生むことになる。
「この時代もいつか歴史になるんですかね…想像もつきませんが。」
「私のまわりでは歴史が好きな人間は今では皆哲学者になってしまって…私は話についていけず医者になりました。」
それは苦手意識から人を救う医者になった良い例ですね、とY先生は笑った。
「そうやって良い方向に動く経験、は良いのですよ。歴史を学ぶのは大切ですがそれを掘り起こして悪い方向に問題を持っていく人を自分は馬鹿とハッキリ言います。」
勿論、哲学者が悪い方向なんて言いません、とY先生は付け加えた。
「どうしてこんなことになったと思いますか」
「……それはどうして戦争が起こったかということですか?」
「はい」
Y先生には自身の考えが有ったようだが
「それこそ哲学者や政治家が考えるべきことですよ」
とだけ言った。
いつの間にか街の近くまで来ていた。だから話を終わらせたのも有るだろうし、実際医者が考えるべきものでもないのかもしれない。
「左様なら。」
Y先生はそういって去っていった。
正直、もっと話がしたかった。哲学者の友達の話が全く分からず、医者の道に逃げたが今はなんだか人の哲学を聞きたい気分だった。それがY先生だからという理由もあるだろう。
それと、このどうしようもない瓦礫ばかりの焼け野原を見ると不安になるから人の考えを聞きたいと思った。哲学とはそういった時の生きる道標となる学問かもしれないと今になってようやく理解したのであった。
無名の国手 @yoyoyo_444
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