パンでつながる街と魔法~下町ベーカリーと不器用な恋のスローライフ~
@tamacco
第1話 「ほしのベーカリー」、今日も失敗から始まる
朝の五時半。目覚まし時計の音が鳴る前に目が覚めた。いつものことだ。ベッドから起き上がって、顔を洗い、着替える。鏡に映る自分は、二十五歳の普通の青年。少し寝癖がついた黒髪と、眠たげな目。特別変わったところなんてない。
下町の古いアパート二階、俺の住む部屋の窓から見えるのは、狭い路地と向かいの花屋の看板。「咲良フラワー」。幼なじみの咲良が切り盛りしている店だ。小さい頃から一緒に遊んで、喧嘩して、笑い合ってきた。高校卒業後、俺はパン屋の修業に出て、彼女は実家の花屋を継いだ。今も時々、顔を合わせる仲良しだ。
階段を下りて、一階のベーカリーに入る。「ほしのベーカリー」。父親が残した小さな店だ。父は数年前に病気で亡くなり、俺が引き継いだ。修業先で学んだ技術を活かして、なんとか続けている。客は近所の常連さんが中心で、派手な商売じゃない。でも、それでいい。毎日パンを焼いて、笑顔を売る。それが俺の仕事だ。
オーブンを予熱する。店内の空気がじんわり温かくなる。棚から小麦粉を取り出し、生地をこね始める。今日のメニューは定番の食パン、クロワッサン、メロンパン、それに少し変わったカレーパン。仕込みは昨夜のうちに半分終わらせてある。手慣れた動作で生地を伸ばし、成形する。
「ふう……」
額の汗を拭う。生地がいつもより柔らかい気がする。寝不足か? いや、そんなはずはない。昨日も早めに寝た。気にせず、次の工程へ。クロワッサンの生地を折り重ね、三つ折りにする。バターの香りが広がる。これが好きだ。焼きたてのあの匂い。
外が少し明るくなってきた。六時半、開店準備の最終チェック。ショーケースに並べ、看板を出す。ガラス扉を開けると、朝の冷たい空気が入ってくる。商店街はまだ静かだ。向かいの花屋はまだシャッターが下りたままだ。
七時。開店だ。カウンターに座って、コーヒーを淹れる。ラジオから流れる朝のニュースをぼんやり聞く。今日も平和な一日が始まるはずだった。
最初の客は、いつものおじいさん。佐藤さんだ。毎朝、食パンを二斤買っていく。
「おはよう、遥くん。今日もよろしくな」
「おはようございます、佐藤さん。焼きたてですよ」
袋にパンを詰めて渡す。おじいさんはニコニコしながらお金を出した。千円札をカウンターに置く。俺は釣りを渡そうとレジを叩く。
その時、異変が起きた。
パンの袋から、ふわりと甘い香りが広がった。いつもより強い。まるで花のような、でもどこか懐かしい匂い。おじいさんの目が少し見開く。
「ん? 今日のパンは、特別うまい匂いだな……」
「そうですか? いつも通りですが」
俺は笑って答えた。おじいさんは袋を鼻に近づけ、深く息を吸う。そして、ゆっくり頷いた。
「ふむ。なんだか、体が軽くなった気がするよ。腰の痛みが……楽だ」
「え、腰? 佐藤さん、最近痛めてたんですか?」
「ああ、昨日畑仕事でね。湿布貼ってたんだが……不思議だなあ」
おじいさんは笑って店を出て行った。俺は首を傾げる。気のせいか? パンの匂いで腰痛が治るなんて、ありえない。でも、おじいさんの足取りは確かに軽かった気がする。
次のお客は、小学生の女の子。ランドセルを背負って、メロンパンを一つ。
「おにいちゃん、おはよー!」
「おはよう、みゆちゃん。今日も元気だね」
メロンパンを渡す。女の子は袋を開けて、ぱくりと一口。目を輝かせる。
「わあ、今日のメロンパン、すっごくおいしー! お腹がぽかぽかするよ!」
「そっか、よかった」
女の子は走って学校へ向かった。俺はカウンターを拭きながら思う。今日のパンは、なんか調子いいのかな。
八時頃、ドアベルが鳴った。入ってきたのは、咲良だった。いつものエプロン姿で、髪をポニーテールにまとめている。二十四歳、俺より一年下。幼なじみで、昔から可愛いと思っていたけど、最近はなんか……ドキドキする。いや、気のせいだろ。
「遥、おはよー。いつものクロワッサン、二つ」
「おはよう、咲良。花屋、まだ開いてないの?」
「うん、もうすぐ。朝仕入れが遅れちゃって。お腹すいちゃったよー」
カウンター越しにクロワッサンを渡す。咲良は袋を開けて、かじった。
「んー! 今日のこれ、めっちゃおいしい! バターの風味が濃くて、でもサクサクで……遥、腕上げたね!」
「そう? いつも通りだけど」
咲良は目を細めて笑う。その笑顔が、なんだか眩しい。頰が少し熱くなるのを感じて、慌てて視線を逸らす。
「ふふ、照れてる? 珍しいね、遥が」
「べ、別に。早く食べて、仕事行けよ」
「はーい。お礼に、花一輪あげるね。店の花瓶にでも」
咲良はポケットから小さな赤い花を出して、カウンターに置いた。ヒマワリのミニ版みたいなやつ。触ると、ふんわり温かい気がした。
「ありがと。じゃあ、また後でね」
咲良が出て行くと、店内が少し寂しくなる。俺は花を花瓶に移した。確かに、いい香りがする。
午前中は穏やかに過ぎた。主婦のおばさん、近所のサラリーマン、通りすがりのおじさん。みんな「今日のパン、特別うまいね」と言う。気のせいじゃないみたいだ。午後、仕込みの合間に休憩。店の裏でコーヒーを飲んでいると、変なことが起きた。
空から、何かが落ちてきた。ドサッという音。慌てて裏口から覗くと、路地に少女が倒れていた。十歳くらいか、金色の髪で、白いワンピース。頭に小さなリボンをつけている。まるで人形みたいだ。
「おい、大丈夫か!?」
駆け寄って肩を揺する。少女はゆっくり目を開けた。青い瞳が俺を捉える。
「……ここは、どこ……?」
「俺の店の裏だ。下町のベーカリー。空から落ちてきたのか? 怪我は?」
少女は体を起こし、周りを見回す。痛がる様子はない。
「私は……ルミナ。見習い……天使、です。翼が、疲れて墜落しちゃいました」
「天使?」
信じられない話。でも、少女の背中から、薄い光の膜みたいなものがチラチラ見える。錯覚か? いや、本物っぽい。
「とりあえず、中入れ。お腹すいてるだろ、パンやるよ」
少女――ルミナを店に連れ込む。閉店間近で客もいない。カウンターに座らせ、焼きたての残りのカレーパンを渡す。
「これ、食べてみ。辛くないやつ」
ルミナは目を丸くして、パンを受け取る。かじった瞬間、表情が変わった。
「こ、こんなの……初めて! 温かくて、力が湧いてくる……!」
パンを平らげ、ルミナは立ち上がる。背中の光が強くなり、小さな翼が現れた。羽ばたいて、少し浮かぶ。
「回復しました! ありがとう、お兄さん!」
「いや、待て待て。本当に天使なのか?」
「はい! 地上界の幸せを届けるのが仕事なんです。でも、力尽きて落ちちゃって……このパン、特別ですね。神聖な力が入ってるみたい」
「神聖な力? ただのカレーパンだぞ」
ルミナは首を振る。
「違います。このパン、食べた人の心を癒すんです。さっきのおじいさんも、女の子も、花屋のお姉さんも……みんな、笑顔になりました」
俺はハッとする。今日の客たちの反応。全部繋がった?
「まさか、そんな……俺のパンが、そんな力持ってるなんて」
「持ってますよ! お兄さんの想いが、生地に宿ってるんです。純粋で、温かくて……天使の私でも、感動しちゃいました」
ルミナはにっこり笑う。その笑顔が、無邪気で可愛い。頰がまた熱くなる。
そこへ、ドアベルが鳴った。咲良だった。花屋のエプロンを外して、私服姿。白いブラウスにスカート。綺麗だ。
「遥、忘れ物したー。あ、花瓶の花……って、誰この子? 可愛いね!」
咲良がルミナに駆け寄る。ルミナは少し照れくさそうに。
「ルミナです。天使です!」
「天使? ふふ、面白い子。遥の知り合い?」
「いや、今落ちてきて……」
事情を話すと、咲良は目を輝かせる。
「空から天使!? すごい! うちの花屋にも来てよ。花の力で元気出るかも」
三人でカウンターに座る。ルミナがパンをつまみ食いし、咲良が花の話、俺がコーヒーを淹れる。なんだか、賑やかだ。
夕方、閉店。ルミナは「少し休んでから帰る」と言う。咲良は「夕飯一緒に食べよう」と提案。俺の部屋で、簡単なまかない。パンとサラダと、咲良持参のフルーツ。
食卓で、ルミナが言う。
「このパン、本当にすごいんです。地上界で、こんな力持った人、初めて見ました。お兄さん、無自覚に最強ですよ」
「最強って……大げさだろ。ただのパン屋だよ」
咲良が笑う。
「遥は昔からそう。天然なんだから。でも、今日のパンは確かに特別だった。私も、食べたらなんか元気出たよ。花屋の仕事、がんばれそう」
咲良の視線が優しい。俺は目を逸らす。心臓が少し速い。
ルミナが続ける。
「きっと、これからもっと不思議なことが起きるよ。街の人たちが、集まってくるかも。お兄さんのパンで、みんな幸せに……」
外は夕焼け。店のオーブンが、まだ温かい。明日も、焼こう。いつも通り。でも、なんか少し違う気がした。
ルミナが眠そうに欠伸をする。咲良が毛布をかける。
「泊まっていきなよ。天使さん」
「うん……ありがとう、お姉さん。お兄さん」
三人で並んで座る。静かな夜。パン屋の日常に、ちょっとだけ魔法が混じった一日だった。
この先、何が起きるんだろう。俺はただ、パンを焼き続けたいだけなのに。
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