第15話

魔獣の群れを退けて数日が経った。

村はひとまず平穏を取り戻していたが、俺の胸の奥には奇妙な違和感が残っていた。

心臓の奥で、契約の紋が脈を打つたびに、何かが呼びかけてくる。

それは痛みではない。だが、息をするたびに胸を焼くような熱が走った。


「アレン様、貴方、大丈夫ですか?顔色が……」


リーナが心配そうに覗き込む。

彼女の手には、朝摘みの薬草が握られていた。

俺は微笑みを返して首を振る。


「大丈夫だ。少し疲れただけだ。……それより、怪我人たちの様子は?」


「皆さん元気です。ヴァルドさんも、もう鍛冶場に戻りました!」


「そうか……良かった。」


笑ってはみたものの、内心では落ち着かない。

あの戦いの後からだ。竜との契約の力が、まるで暴れ出そうとしている。

このままでは、体がもたない。

俺は夜明けと共に、森の奥――アルディネアが眠る洞窟へ向かった。


***


森の中は冷たく静まり返っていた。

鳥の声すら消え、ただ自分の足音だけが響く。

洞窟の前にたどり着いた瞬間、背筋を震わすほどの圧が降りかかった。

まるで見えない竜がその場に立っているかのようだった。


「来たか、アレン。」


頭の中に響く声。

アルディネアの低い響きが、大地そのものを震わせる。


「……お前、気づいてたのか? この胸の痛みのこと。」


『当然だ。汝の魂に宿した我が力は、今まさに“変化”の時を迎えている。』


「変化?」


『力の循環が、人の器を超えようとしている。

汝の意思が定まらなければ、我の力に呑まれ、竜となるだろう。

それが“神竜契者”の宿命よ。』


「……じゃあ、放っておいたら俺は――」


『人ではなくなる。』


吐息のような風が洞窟の奥から吹き出した。

黒い霧がうねり、やがて金の光がその中に燃え上がる。

そこに顕れたのは、神竜アルディネアの真なる姿。

翼を広げた瞬間、洞窟の壁が鳴動した。


『汝の力を制御するには、試練を乗り越えねばならぬ。』


「試練……?」


『我の中に眠る“源”へ至れ。

己という考え、怒り、哀しみ、望み――それらを克服せねば、真の覚醒はない。』


「……まるで、魂の試験みたいだな。」


『ふふ、人間は何でも名をつけたがる。ならば、それでも良い。

問う。お前は“何のために生きる”?』


その声に、俺は息を飲んだ。

心臓が悲鳴を上げる。

景色が歪み、地面が消え、次の瞬間、俺は真っ白な空間に立っていた。


***


そこは何もない世界だった。

天も地も混ざり合い、音も風も消えている。

ただ、俺の前にもう一人の「俺」が立っていた。

表情のない、冷たい瞳をした、自分自身。


「おまえが……俺?」


『そうだ。お前の心の奥に潜む“竜の影”。

お前は正義を語り、守ると言うが、どこまで本気だ?

力を振るえば、人は傷つく。

それでも、すべてを救うと口にできるのか?』


「……救うなんて簡単じゃない。

だけど、誰かがやらなきゃ、誰も生きられない。」


『綺麗事だ。

お前は優しい顔をして、人の罪を受け入れてきただけだ。

追放され、裏切られ、罵られても笑っていた。

だが結局、憎んでいるのではないのか?

王都を。

貴族を。

あの女を――』


その言葉に反射的に拳を振り上げた。

しかし、相手――もう一人の俺は、まったく同じ動きで迎え撃った。

拳と拳がぶつかり、衝撃で風が弾ける。


「そうだよ、憎んでる! あんな腐った世界を、認めたくもない!

だが、それでも……俺は壊すために生きてるんじゃない!」


『なら何のために?』


「作るためだ! 誰かが笑って生きていける場所を――

力で守り、知恵で築く、それが俺の生きる意味だ!」


静寂。

その叫びが響いたあと、白い世界が少しずつ崩れ始めた。

もう一人の俺が、微笑む。

その瞳が初めて、温かい光で満たされた。


『ならば、進め。

お前は人だ。

そして……竜だ。』


光が全身を包んだ。


***


目を開けると、そこは再び洞窟の中。

膝をついた俺の前で、アルディネアが巨大な瞳を光らせていた。


『……見事だ、人の子。』


「試練は……終わったのか。」


『ああ。汝は己に打ち勝った。

これで初めて、我の力を完全に扱えるだろう。』


体に流れる感覚が変わっている。

熱いでも冷たいでもない、穏やかな魔力の循環。

それが血管を通り、命そのものに溶けていく。


「不思議だ……心が静かだ。」


『怒りを抑えることは力を弱めることではない。

静めてなお燃やせる者こそ、真の竜契者だ。』


アルディネアの顔がやや近づく。

その瞳に、わずかな誇りが宿っていた。


『お前の光はまだ弱いが、確かに“神竜”の一部となった。

これでようやく一人前だ。』


「竜と人の境を越えた、か……。」


『そういうことだ。

だが忘れるな、人の子。お前が人である限り、手のひらの温もりを失ってはならぬ。

それを手放した時、汝は我らとは異なる“虚無”の存在となる。』


「わかってるよ。俺は人として、この土地を守る。」


アルディネアが静かに微笑む。

その瞬間、洞窟の天井から光が降り注いだ。

それはまるで祝福のように柔らかく、心を満たす。


外に出ると、朝日が森を照らしていた。

鳥たちの声が戻り、遠くで人々の笑い声が聞こえる。


リーナが駆け寄ってきて、涙目で叫ぶ。

「アレン様! 心配したんですよ、三日も戻らなかったんですから!」


「悪い、少しばかり寝過ぎたみたいだ。」


そう冗談を言いながら、俺は彼女の頭を軽く撫でた。

以前よりも、手のひらが温かい気がする。

そして、一つの確信が胸に芽生えていた。


――もう、何者にも揺るがない。

この力は誰かを支配するためのものじゃない。

誰かを救うために握る剣だ。


アルディネアの声が優しく響く。

『行け、人の子。お前の国を、今度こそ築け。』


俺は頷いた。

夜の試練を越えて、ようやく“竜と人の真なる共存”が始まる。

ここからが本当の戦いだ。

誰にも奪わせない、この平和を守るために。

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