駅
涼風紫音
駅
私たちは国道一四〇号線で車を走らせていた。秩父から山梨方面へ抜ける山間のそこまで広くない道路。もう少し進むと秩父甲斐多摩国立公園に差し掛かるとあって、緑が豊かだ。
高い陽光も心地よく、窓を開けると少しだけ濃い土と森の独特の生っぽい空気が流れ込んでくる。今日は絶好のドライブ日和。
「貴子~、窓閉める?」
薄いピンクの丸っこい軽自動車は貴子の車。運転しているのも彼女だ。新卒一年目で初めての長期の休み。私と貴子は日頃のストレスを発散するためにドライブへと繰り出したのだ。
「そうだね。そろそろトンネル近いし、閉めよっか」
本来国道一四〇号線は蛇のように曲がりくねって山腹を進む道。急カーブが多く、車酔いしそうなこの道は、最近落石事故があった。そのおかげで今年の夏から来年にかけて大滝トンネルが暫定供用されている。
トンネルでは車も速度を落とさないといけないし、砂利道なので砂埃なんかも入ってくるかもしれない。
「閉めたよ~」
わざわざ言葉にしなくてもわかるとは思ったけれど、一応貴子に伝える。車内に車外、それにドアランプまで兎のモチーフの意匠があちこちに施されたこの車は、いかにも貴子らしい。
彼女いつでも少しだけ乙女チックなものを選ぶ癖があった。今日も山へ行くにしてはふわふわな白のロングスカートに、カラフルなチョコレートのような水玉柄のシャツ。つば広の麦わら帽子は運転中はひざ元に置いていたものの、どちらかといえば近所の公園にでも行くような恰好。
それが彼女にとっての乙女の武装なのだ。いつ何時いい男に出会っても良いように。そんなことないと思うのだけどね。
私はといえば、オレンジ色の無地のウィンドブレーカーに黒のスリムパンツ。色気よりも実用性。山に行くのだし、誰かに会う予定などないのだから、これで十分。それを見て、貴子は胸を張って人差し指で私に向かって一言「茜~、女子力!」とだけ言った。はいはい。どうせ私は女子力低いですよ。
スタイル抜群で背も高く、女子の私から見たって貴子は魅力的だ。私と比べるのもおこがましい。決して卑下しているわけではなく、それが貴子という存在なのだ。
カーステレオからはアップテンポで陽気な音楽が流れている。何かのアニメの歌だっけ? 聴いたことはあるけど、タイトルまでは覚えていない。あんまり見ないんだよね、アニメとか。もっぱら洋画派なのだ。海外のアクション映画が好きで、放っておかれるとインドアで一日引き籠って映画を見ているくらい。映画館にも行くことは行くけれど、最近は動画配信サービスが便利過ぎて、休みの日はほぼそれに入り浸っている。
だからこのドライブを誘ったのも貴子だし、緑いっぱいの山の中でおいしい空気を吸おうと計画したのも彼女だ。「休みの日まで人混みの中にいると、息詰まっちゃう」んだとか。引き籠りがちの私はそもそも人が多い時間に外出なんてしないので、そういうところも貴子らしいなと思った。
「そういえばさ」
ハンドルを握りながら、貴子が話題を変える。
「この前、『きさらぎ駅』って映画観たんだよね。茜、知ってる?」
私は洋画派なのだ。正直日本の映画はよくわからないしあまり興味もない。なので横に首を振って「観たことないよ~」とだけ答える。
「電車に乗ったら、いつの間にか知らない駅について、そこは無人で、よくわからない人に襲われて、そんなやつ」
貴子は楽しそうに映画の内容を話す。とりとめもなく、話の筋もよくわからない。それでも、とにかく貴子がそれを楽しんだのだということは十分伝わってきた。
「ホラー映画かぁ。私アクション映画派だからね~。あんまり観ないジャンルかも」
適当に話を合わせる。別に貴子だってその映画を熱心に私に勧めたいわけではないだろうし、トンネルを抜けた先に大滝温泉という道の駅があり、そこで休憩しようと話をしていた。そこから駅繋がりでその映画を思い出しただけに違いない。
「そっか。じゃぁ一生観ないかもね」
特に機嫌を悪くするでもなく、あっさりその話は終わり。
「トンネル見えてきたよ」
貴子はまた話を変える。
「長いトンネルを抜けると雪国だった……りしてね」
いまは八月。そんなことは無いでしょと内心ツッコミつつ、「だったらすごいね~」とそのネタに乗っかる。そもそも地図に載っている大滝トンネルは短い。速度制限を考えても十分もあれば抜けてしまえるほどの短さなのだ。
「雪国より温泉だよ、温泉。自然を眺めながら檜風呂でぬくぬくだよ~」
私はおどけてみせる。大自然も良いけど、眺めの良い温泉、しかも室内。インドア派の私が今日一番楽しみにしているのが、実はその温泉なのだ。楽しみで仕方ない。
「りょーかい」
ハンドルから一瞬だけ右手を離してわざとらしく敬礼のポーズ。こういう仕草も他の人がやると滑稽だけど、貴子がやると魅力的なのは、正直ズルいと思う。いつものことだけど。
車は速度を落とし、車窓を流れる景色も木の葉一枚一枚まではっきり見えるほどのスピードへ。そしてコンクリートのトンネルへGO。
「ちょっと暗いね」
トンネルの中には点々と明かりがついているものの、少し薄暗い。
「トンネルなんてこんなものでしょ。もしかして、さっきの話で怖くなった?」
貴子が茶化すように笑ってハンドルをトントンと指で叩く。ほぼ徐行と言ってもよい速度。ぐっと加速すればあっという間に抜けられるトンネルも、この速さだとちょっとだけ長く感じる。それは変化のない景色だからかもしれなかった。
ポップソングはスロービートなメローな曲に変わっていた。一曲終わる頃にはもう出口もしっかり見えるはず。たった二キロメートルのトンネルなのだから。
一曲終わり、二曲目も半ば。しかし出口の明かりが近づいているようには見えなかった。
「ちょっと速度落とし過ぎじゃない?」
その言葉に、貴子は「これでも制限速度ギリギリの速さだよ」と返してきた。しかしそんな彼女も、一向に近づいてこない出口を見ながら少し苛立っているような口調だった。
「茜、ちょっと後ろ見てくれない?」
今度は彼女から。バックミラーでも後ろは見えるだろうに、なんの確認だろうか。対向車線を含めて、いまトンネルには私たちの車しかいないはず。ただの直線トンネルで後方注意なんて必要ない。そう思ったものの、言われた通りに振り返る。
「え……、何か……いる?」
車ではない、もっと小さい影が後方を走っていた。そして、トンネルの入口は少しは遥か遠く。このトンネル、そんなに長いっけ?
「やっぱり……、茜にも見えるんだ……」
貴子の少し震えた声。バックミラーを覗き込むと、その影が映っているのが私にもわかった。そして改めて振り返る。
「……、アレ、近づいてきてるんだけど? 何? 犬?」
秩父の三峯神社にお犬様信仰の逸話があることを思い出し、背中にゾクリと寒い感覚を覚える。
影はますます、猛然と近づいてきて、それはすっかり入口の様子が見えないほどトンネルいっぱいの大きさにまでなっていた。赤い目をして、首が二つあり、よだれを垂らした口を大きく開けて、それは吠えた。
「貴子! 速度上げて! 早く!」
思わず叫ぶ。あれは絶対ヤバい奴だ。追い付かれたら大変なことになる。直観がそのまま声になって口を出た。悪寒が全身を覆う。エアコンの冷気とは根本的に違う、そんな冷たさ。
貴子は思い切りアクセルを踏み込んだ。速度メーターはどんどん数字を上げ、制限速度などお構いなしに百キロメートル近くまで加速していく。砂利がタイヤで巻き上げられ、コツンコツンと不規則に車体を叩きつける。
バックミラーにはかなり迫ってきていた二つ頭の犬の赤い目が不気味に映っていた。運転は貴子に任せているし、私には何もできることがない。震える膝を両の手を握ってトントンと叩いて落ち着かせようとするけど、うまくいかない。
「出口! 全然近くならないじゃん!」
「わかってる! これでも全速!」
貴子は思い切りアクセルを踏み込んでいた。私だけじゃなく、貴子もすっかり青ざめ、このトンネルから必死に出ようと、とにかく足に力を入れ、ハンドルを強く握り締めていた。
「やばいやばいやばいやばい!」
すっかり語彙力が吹き飛んだ私はたった一つの言葉を繰り返す。もう振り返ることすらできなかった。迫りくるそれを見たくなかったからでもあったし、バックミラー越しに赤い四つの目に見つめられて、金縛りのようになっていたからでもあった。胸の奥で本能が赤色灯の光をぶんぶん回し、体中の警報がけたたましく逃げろと告げていた。
――追い付かれる。
トンネルを覆いつくして背後から凄まじい勢いで駆け寄ってくる絶望の影。ついに追い付かれると思い、目を閉じて神に祈った。
――助けて!
もう声も出なかった。締め付けられる喉はすっかり渇いていた。その時だった。
抜け出せない暗がりのトンネルにいたはずが、突然明るくなる。思わず目を開けた私は愕然とした。
「なにこれ……」
そこには一面真っ白な銀世界が広がっていた。車は猛烈なスピードを保ったまま、うず高く積もった雪山に突っ込み、そして止まった。そのショックでエアバックが開き、私も貴子も揃ってそれに叩きつけられた。
全身に走る痛みを堪えながら後ろを振り返ると、恐ろしい獣の姿はなく、それどころかトンネルそのものさえ見当たらなかった。ついさっき通ってきたはずの出口さえも。視界に映るのは、雪化粧された山林だけ。
「あは……、あはは……、雪国……だったね……」
呆然と辺りを見回しながら、貴子が呟いた。ハンドルから力なく手を離し、虚ろな目で私を見る。
「外、出よっか……」
そう言ってドアに手をかけ、シートベルトを外す。車のボンネットからは白い煙が上がり、もう動きそうになかった。仕方なく私もそれに従う。
一歩踏み出すと、雪を踏みしめるときに特有のミシリともズシリともつかない足音がした。やっぱり雪だ……。
おしゃかになった車から出た私は、何か見つからないかと必死に目を凝らして四周を見る。八月に雪が降っているのもおかしな話だけど、とにかく助けを呼ばないと。いったいどこにいるのかすらわからないのだから。
やがて私たちの車が突っ込んだ雪山の向こうに、貴子が建物らしき影を見つけた。
「駅……、駅が……、駅がある……」
「大滝温泉?」
まさかと思いつつも口走った私に、貴子は泣きそうな顔で振り返ってこう言った。
「知らない駅……、たぶん……、きっと、きさらぎ駅より……ヤバそう……」
貴子が指さす先に、直線と曲線を奇怪に混ぜたよくわからない駅舎のような建物があり、あちこちに輪切りにされたドラム缶で火が焚かれ、金属が擦れる耳が潰れそうな音が鳴り、どう見ても人ではない何かが踊っていた。斜めになって外れかけた看板ある文字は■■■■■。
(ああ……、あれは……、みちのえき……)
私の中で何かがプツンと切れた。
駅 涼風紫音 @sionsuzukaze
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