プロポーズは海辺のレストランで

@yuke66

第1話

海の見えるレストランで食事することなどめったにない。

たまに仲のいい女友だちと女子会をする程度だ。

付き合って3年になる彼に誘われてやって来たイタリアンのお店。

ふかふかのソファ席に座れば目の前に海と大都市の夜景がひろがる。



「みさきと付き合ってもう3年になるね」

彼は赤ワインをひと口、乾いた唇を湿らす程度に飲んだあと言った。



私は今年で29歳。

いろんな恋愛をしてきたけど、もう彼と結婚して子どもを産みたいというのがある。

彼も子どもが好きなようでおおかたの価値観は一致している。

ゼクシィを彼の見えるところに置いたりなどはしなかったが、彼も彼で結婚を考えているだろうし、私の気持ちも察しているだろう。



「みさきといると楽しいし、もっと一緒にいたいなって思う」




そう言いながら彼に見つめられてドキッとした。

やはり今日はプロポーズするつもりなのだろう。

無意識に姿勢が正される。



「みさき、結婚しよう」


やっぱり、だ。

この瞬間、嬉しさのあまり意識を失いそうになった。

昔、貧血持ちで倒れたことはあったが、嬉しさで倒れそうになる感覚はこの時が初めてだった。

頬はきっと真っ赤に染まっているだろう。



「はい、よろしくお願いします」

私は一呼吸置いた後でゆっくり言った。




店内の照明がいっそうキラキラと輝いて見えた。

私はまるでハリウッド映画の最後のハッピーエンドのシーンのヒロインになったようだった。

彼は優しい眼差しで私を見ている。

周りのお客さんにもこれが人生で1番のイベントであるプロポーズであることはお見通しだろう。

声なき祝福がどこからともなく聞こえてくるような気がした。






「それでね、ひとつ、協力してほしいことがあるんだ」

彼は突然、そう言ってかばんの中から書類のようなものを1枚、取り出し、テーブルの上に置いた。


「婚前契約書。欧米では主流になっているんだけど、日本ではまだまだマイナーなようだ。でも、お互いに仲良くやっていくためには必要だと思う」



この時、人間だと思って接していたものが人工的に作られたアンドロイドであると分かった時のような衝撃を受けた。

あるいは、女だと思っていたものが実は男だった、とか、そのような類いの衝撃を受けた。

そしてこの衝撃が自分にとってショックなことなのか、ある意味、新鮮なことなのかということすら分からなかった。

まるで車にひかれて死んだのにもかかわらず、まだそれを受け入れられない亡霊のように。


涙腺は何個もあるのだろうか。

さっきは感動のあまり涙が出そうだったのだが…

感動とは違う種類の変な涙が出そうになるのを堪えながら一通り、婚前契約書の内容を読んでみる。



一、1日3食必ず手料理する

ニ、水回りは常にきれいにする

三、育児と家事は分担する




意外とまともな内容だ。

それが多少の救いになった。

それに考えてみればどれも当たり前のこと。


そう言えば彼のこうしたちょっぴり変わった部分は昔からあったな。

受け入れる寛容さも大切だ。



そう言い聞かせて、サインをしようとしたところ、彼は大きな手でそれを塞いだ。


「裏面もあるからちゃんと確認して」



婚前契約書(裏面)


一、配偶者以外の者との身体的接触については追求しない。ただし、夫はこれを追求することができる




この1文を何度読み返しただろうか。

何度読んでも頭に入ってこない。

読めば読むほど訳が分からなくなる。



「これはどういう意味なの?」

私は彼に尋ねた。


「そのまんまだよ」

彼が答える。

そして、少しの沈黙の後でしびれを切らしたように彼は続けた。

「つまり、僕は浮気してもいいけど、みさきが浮気した場合はしっかり責任をとってもらうからねっていう意味」

彼は悪びれもせず言った。



浮気…?

文面をよく見ると身体的接触とある。

しばらく考えた。

そして反射的に声が出てしまった。

「身体的接触ってセックスのこと?」


「そんな大きな声で言うなよ」

彼は赤面しながらまるで不法侵入者を阻止する警備員のように手を振り上げた。

周りから咳払いする音であふれている。


「浮気なんて嫌よ。そもそも私、浮気なんてしないわ」

私は泣きそうな声で言った。

しかし、彼は言った。



「みさき、男は浮気する生き物なんだ。でもトラブルになるのは嫌だろ?だからこうして前もって同意してもらおうと思ってるんだよ」



同意?

こんな理不尽な同意を?

私は、また涙が出そうになるのを堪えて言った。

「私、浮気は許せないの。あなたが浮気をすることに同意はできないわ」



しかし、言葉ではそう言いながらも頭の中では冷静な算段がつきはじめていた。彼は年収5000万の弁護士。

私はもうすぐアラサー。いや、夫の浮気を許容したアラサー人妻。

まるで裁判官のように両者を天秤にかけてみる。


彼は結婚後の浮気を許してほしいと言っているようだ。

しかし、それは5000万で埋め合わせできるものなのだろうか。

5000万円で夫の浮気を我慢できるだろうか。

浮気を認めてくれといったような信じがたいことをさらっと婚前契約書に忍ばせる彼に驚いたが、年収5000万円が手に入ると思うと何とも判断に迷う自分がいた。




すると彼は新しい書類を取り出した。



一、妻には月々7万円を支給する




「家賃とか光熱費別でね。もちろん、子どもが産まれたら子どもの学費も」

また、彼は悪びれもせずさらっとまるで飼い慣らされたインコのように言った。

私はそんな彼に腹立たしさを覚えた。

すると、それを察知したかのように彼はもう一度念を押した。

「家賃とか光熱費は別だよ?」



「そうだとしても月々7万?…生活保護受給者でももっと多いわ。しかもあなた、結婚後の浮気を許せと言ってるんでしょ?それなのに7万?…」

私は呆れてため息が出ていた。

ため息の白い煙が見えそうなほどに。



すると彼は言った。

「言葉に育ちが出るね。君みたいな感情の起伏が激しい女性とはやっていけないな。さようなら」

あっさり彼は言ってすぐさま席を立ち、会計を済ませた後、その場を後にした。

残された私はほとんどお客さんのいなくなった空間で涙を流すことさえできずにいた。

29歳の夏の出来事である。

























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