変容の箱~なりたい顔を作れる化粧箱で、あなたの心を化粧で救います~

弥生紗和

第1章 化粧箱には秘密がある

第1話 不思議な化粧箱を持つ女

 心を変える力を持つ化粧箱が、遠い昔どこかの国にあったという。

 

 その化粧箱は、表面に施された凝った装飾が目を引き、まるで美しい芸術品のようだ。

 西洋の文化と昔ながらの文化が入り混じるこの時代。女たちの化粧にも西洋の技術が取り入れられるようになった。

 そしてある西洋人が帝都に持ち込んだ、世にも美しき化粧箱。その箱は様々な経緯を経て、一人の女の手に渡った。

 

 がらんとして古ぼけた和室に一人座っている女が、化粧箱の持ち主である一條美玲いちじょうみれいだ。毎朝、彼女はこの化粧箱で『顔を作る』と決めている。

 

 化粧箱に入っている道具は、どれも普通のものではない。思いどおりに顔を変えることができる、不思議な化粧箱だ。

 

 美玲は内気な性格で、化粧をしなければろくに人と話すこともできない女だ。だから彼女は不思議な化粧箱を使い、毎朝顔を作り上げている。

 


 箱を開けると中に手鏡が入っている。その手鏡に映る彼女の表情は虚ろだ。伏し目がちな目、薄くて細い眉、小さな鼻、きゅっとへの字に結ばれた薄く血色の悪い唇。顔色は青白く、冴えない。これといった特徴がなく、すれ違えばすぐに顔を忘れられてしまうだろう。

 

 まずは顔全体にクリームを塗る。これは化粧の土台となる。次に大きな筆を取り出し、白粉おしろいを筆に取る。それを顔に撫でるように筆を滑らせると、美玲の顔色がパッと明るくなり、輝きが出てきた。

 次は細い筆を取り出し、眉墨につけて眉を描く。薄く存在感のない眉がくっきりとなり、美玲の目に力が出てきた。

 その次は瞳だ。美玲は別の筆で目を縁取った。目の形がはっきりとして、目じりに伸びるアイラインが怪しい魅力を生み出し、吸い込まれそうな美しい瞳が出来上がった。

 次は口紅を塗る。紅筆で彼女の唇に色を乗せていく。唇に艶が出て、への字に結ばれた口角が上がり、若い女性らしい華やかさと色気が生まれた。

 仕上げに太い筆で、軽く頬紅を頬に乗せた。鏡を見つめる美玲の顔は生き生きとして、さっきとはまるで別人のように自信に満ち溢れた美しい女性へと変わっていた。


「今日も完璧」


 美玲は鏡を見ながら頷いた。化粧道具を丁寧に箱に戻し、すっと立ち上がった。擦り切れた着物の身だしなみを整え、後ろで一つにまとめた黒髪を軽く手で整えた。

 彼女の着物と同じくらい擦り切れた畳の上を歩き、玄関へ向かった。そこには大きな風呂敷包みが一つ。美玲の荷物はこの包みと、美しい化粧箱だけだ。


 軋む引き戸を開け、外に出た。人力車が勢いよく駆け抜け、埃が舞い上がった。多くの人が行き交う通りを、美玲は一人歩いた。


 一條美玲は今日、帝都を出ていく。行き先は亡くなった祖母の生まれ故郷だ。北へ向かう汽車に乗るため、美玲は駅を目指した。


 ♢♢♢


 帝都よりはるか北にある地方都市『仙内市せんないし』は、歴史ある城下町でありながら、ここにも西洋文化が流入している。帝都の賑やかさとは比べ物にならないが、それなりに大きな町で遊郭もある。


 美玲はある屋敷を目指して歩いていた。大きな通りを抜け、やがて静かな住宅街へと入った。その中に、鬱蒼とした木が生い茂り、周囲を塀で囲まれた一軒の屋敷があった。


 正面の門は固く閉じられている。美玲は門を押してもびくともしないことに困った顔をしながら周辺を探った。


「あった!」


 裏に回ると小さな門があった。こちらの門扉は簡単に開いたので、美玲は勝手に中に入ると屋敷を見上げた。


「――古いお屋敷」


 ポツリと呟く。大きな平屋建ての屋敷だが、築年数はかなり経っていそうだ。庭は雑草がずいぶん伸びていた。屋敷の横には小さな小屋があった。


 屋敷に近づき、美玲は勝手口の扉を開けた。


「ごめんください!」


 中はしんと静まり返っている。ここは台所に通じる扉だ。台所には洗っていない鍋や食器が山積みになっていた。上がりかまちの向こうには囲炉裏がある。空気を入れ替えていないのか、ムッと籠もった空気が鼻をつく。


「ごめんください! 女中紹介所から来たものです!」


 美玲はもう一度声を張り上げた。家の中はしんとしていて、人がいる気配がない。すると外から誰かがやってくる足音がして、美玲は反射的に振り返り、頭を深々と下げた。


「急な訪問をお許しください。女中紹介所から、こちらで女中を探していると聞いたもので」

「……紹介所か」


 男の声に、美玲はゆっくりと頭を上げる。男の顔をちゃんと見た美玲は、思わず息を飲んだ。


 長く伸ばした髪を後ろで一つにまとめ、藍色の着物を着ている。切れ長の瞳と通った鼻筋は顔立ちが整っているが、その青白い顔には大きな傷痕があった。顔の正面を斜めから切りつけたような大きな傷だ。


 美玲は一瞬動揺したものの、すぐに気を取り直して笑顔を作った。


「一條美玲と申します。どうか私を女中として雇っていただけませんか?」

「……お前、どこから来た」

「帝都です。数日前に仙内に来たばかりで」

「帝都だと? なぜ帝都からここへ来た」


 男は訝しげに美玲を睨む。男が警戒するのも当然である。帝都からはるばるやってきた若い女が、突然女中として雇ってくれと訪問してきたのだ。


「それには少しばかり事情がありまして……」


 愛想笑いを浮かべる美玲を、男は無言のままじっと睨んでいる。その目の鋭さに、わずかに浮かんだ愛想笑いが消えた。

 

「話だけは聞いてやる。上がれ」


 男は顎をくいと上げると、美玲を押しのけるように家の中にはいった。

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