極彩色、消えた白。
丹㑚仁戻||新菜いに
優しいのは「白」だけ
朝の登校時間、家を出て外を歩く。車のエンジン音、緑。電車の音、黄色。小さな子供の金切り声、紫。
音を聞くたびに私の視界には色が浮かぶ。画用紙に水彩絵具を垂らしたみたいに音の出処がふわりと色づく。色の大きさは音の大きさと比例して、大きすぎると時に視界が全部その色で染まる時がある。けれど音が消えると色もまた消え、別の音の色がそこを上書きする。
綺麗だと思ったことはない。どれもこれもがけばけばしく主張してくるから、綺麗だと思えない。
明るい光を見た後に別のところを見るとしばらく光の残像が残るだろう。私が見ているのはああいう色だ。他との調和を無視した強い色が、四六時中視界を無遠慮になぶってくる。
私の世界は、汚い。
§ § §
普通の人には音が見えないと知ったのは、小学校一年生の時だ。
多くの人が経験したであろう、朝顔の観察日記。夏休み明けの発表の場で、私の描いた日記を見た子達がざわめいた。先生も怪訝な顔をした。見たままを描いただけだったのに、みんなの前で「いたずら描きしちゃ駄目よ」だとか、「お前のアサガオ変な色」だとか言われて、さながら公開処刑のようになった。家に帰ったら、事情を知った母に「変なこと言わないで」と赤い声で言われた。
「みんなと同じようにしなさい。そういうこと言うとお母さんまで変な目で見られるの」
どうやら私は変らしい。そのことにそれまで気付かなかったのは、小学校に上がる前までの絵は描きたいものだけを描いていたからだろう。幼い私は見えたり見えなかったりするこの不安定で汚い色をいつも描かなかった。ともだち、近所の人のペット、何かのキャラクター。安定している色だけで描いたそれらは、他の子が描く絵と同じだった。
「この壁は白くて、椅子は茶色。本当はアイボリーとマホガニーなんだけど、少し難しいからゆっくり覚えようね」
そう優しく私に教える母の声は、やはり赤かった。
§ § §
黒板にチョークで書く音、白。板書の内容を説明する科学教師の声、黄色。
誰かが教科書のページを捲る音、白。誰かの息遣い、赤。
音の色にどんな意味があるかはよく分からない。同じ種類の音でも発生源が変われば音が変わる時があるし、変わらない時もある。人間だってそう。教室の窓の外から聞こえる体育教師の声は紫で、端っこの方で無駄話をするクラスメイトの男子は赤。それを注意した後ろの席の女子の声は緑だったけれど、普段の彼女は青い声をしている。
白、黄、白、赤、紫、赤、青、緑。あちらこちらで色が浮かんでは消えていく。正直なところ鬱陶しい。人間の視野は一八〇度くらいあるらしいけれど、この色は後方の音を前を向いた私の視界に無理矢理捩じ込んでくる。
それが本当に嫌い。視界の端っこでずっと何かが動いているような不快感と、角度によっては何故か頭皮がぞわりと撫でつけられるような感覚もある。まさか音を目だけでなく肌でも感じているのだろうか。私の脳みそは馬鹿なのか。だから私は変なのか。
問いたくても、誰にも聞けない。問うたらみんなと同じではなくなってしまうから。
§ § §
布団の中で、ふと目が覚める。いつものこと。ならばまだきっと起きるには早い。
もう一度寝ようと目を閉じる――途端、真っ暗闇を赤が突き刺した。トストストストス。忙しないけど控えめな、スリッパを履いた足音。母が起き出した音。
廊下から聞こえる音から逃げるように布団に潜る。まだ、赤。心臓が暴れ出す。赤の気配が、私の息を苦しくする。浅い呼吸音は青いけれど、後頭部から捩じ込まれる赤のせいでよく見えない。
赤は大嫌い。
見たくない。後頭部がざわざわと撫でつけられる。
見たくない。目を閉じても意味はない。
見たくない。必死に耳を塞ぐ。耳の穴に指を突っ込めば、赤が少し薄くなる。
心臓が暴れる。拍動に合わせて、視界が白に包まれていく。
白は、私に優しい。
§ § §
午前中の川沿いを歩く。通勤通学の時間帯から外れた今は人通りがほとんどなくて、車も通らない。
見上げた空は青かった。浮かんだ白は全て雲かと思ったけれど、すぐに消えたものもあるから音も混ざっていたのだろう。記憶を少しだけ辿って、小鳥の鳴き声だと分かった。
空が青い。雲が白い。
これが好きだから、時々こうしてわざと遅刻してしまう。他の時間帯や場所では滅多に味わえない青空が、私の呼吸を楽にしてくれる。
けれど不意に、黄色が混ざった。青も緑も、それ以外の色も。周りの音が私の視界を汚して、私が綺麗な世界を見る邪魔をする。
音の色は嫌いだ。こんなものがなければ私の世界は綺麗だったのだろうか。赤を嫌いにならずに済んだのだろうか。
けれど、それがない世界なんて経験したことがないから分からない。
目を閉じても音の色は消えない。消せない。……消したい。
両方の人差し指を立てる。左右の耳に突き刺す。もう聞きたくないと、力を込める。
「っ……!」
ぐちゅり。頭の中に音が響く。視界が白に塗り潰される。
白は好きだ。汚らしい極彩色の世界の中で唯一、私に優しくしてくれる。
アスファルトが白い。雑草が白い。両の耳から滴り落ちる血も、白い。
けれど突然、ブツンッと白が消えた。
空が青い。雲が白い。どれだけ眺めていても、汚い色に邪魔されない。……息がしやすい。
――代わりに何を失ったのか、私はまだ知らない。
極彩色、消えた白。 −了−
極彩色、消えた白。 丹㑚仁戻||新菜いに @nina_arata
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