母を殺した日、僕は英雄になった 〜最後に海へ入る権利〜

ソコニ

第1話 最後に海へ入る権利

第一章:制度の発表

 2031年11月17日、午後三時。


 気象庁の緊急記者会見が始まった。


 私、水城透は、職場のモニターでその映像を見ていた。内閣府海洋政策室。私の部署は、この瞬間のために三ヶ月前から準備を続けてきた。


 気象庁長官が、淡々と告げる。


「東京湾沿岸地域において、今月20日午前六時より、急速な海面上昇が発生します。上昇速度は予測を大幅に超えており、72時間以内に海抜50メートル地点まで到達する見込みです」


 記者たちがざわめく。


 私は、窓の外を見た。


 東京湾が、穏やかに広がっている。あと三日で、この景色は消える。


 会見は続く。


「政府は、沿岸地域住民約150万人の避難を決定しました。ただし——」


 長官が、一瞬言葉を詰まらせた。


「全員を内陸部に避難させることは、物理的に不可能です」


 会見場が、静まり返った。


「このため、政府は本日、『海洋適応死支援制度』を施行します」


 一時間後、私は総理官邸の地下会議室にいた。


 テーブルを囲むのは、十五人。内閣府の官僚、厚生労働省の官僚、AI開発企業の技術者。


 そして、私。


 海洋適応死支援局、承認官。


 総理が入室し、全員が立ち上がった。


「座ってください」


 総理は疲れた顔をしていた。五十八歳。この三ヶ月で、十歳は老けて見える。


「水城君」


 総理が、私の名前を呼んだ。


「はい」


「君に、最も重い仕事を任せる」


 総理は、私の目を見た。


「AIシステム『ノア』が判定を出す。だが、最終的にそれを承認するのは、人間でなければならない」


「理解しています」


「君は——72時間で、60万人の生死を決めることになる」


 私は、何も答えなかった。


 総理は続けた。


「もし、判定に迷ったら——」


「迷いません」


 私は即座に答えた。


「ノアの判定は、完璧です。私は、それを承認するだけです」


 総理は、私を見つめた。


 そして、小さく頷いた。


第二章:最初の判定

 11月18日、午前零時。


 制度が正式に始動した。


 私のオフィスには、三台の巨大モニターが設置されている。


 左のモニターには、東京湾の海面上昇をリアルタイムで示すグラフ。


 中央のモニターには、避難者のリスト。


 右のモニターには、AIシステム『ノア』の判定結果。


 私の仕事は、シンプルだ。


 ノアが「適格」と判定した人間のリストを確認し、承認ボタンを押す。


 それだけだ。


 承認された人間は、指定された時刻に海岸に誘導され——海に入る。


 溺死する。


 ただし、苦痛は最小限に抑えられる。政府が開発した鎮静剤を投与され、意識が薄れた状態で海に入る。


 穏やかな死。


 それが、政府の説明だった。


 最初の判定結果が表示される。


海入権適格者リスト(第一次判定) 該当者数:102,847人


 私は、リストをスクロールした。


 名前、年齢、住所、家族構成、健康状態、社会的役割——すべてがデータ化されている。


判定基準:


余命が5年未満

扶養家族が存在しない、または扶養義務が完了している

継続的医療が必要

 私は、一人一人の顔写真を見た。


 老人が多い。


 だが、若い人間もいる。


 末期癌の三十代男性。


 重度障害を持つ二十代女性。


 家族のいない五十代男性。


 彼らは、72時間後——海に沈む。


 私は、承認ボタンに手を置いた。


 指が、震えた。


 だが——押さなければならない。


 私は、ボタンを押した。


第一次判定:承認完了


第三章:同僚の崩壊

 11月18日、午後二時。


 隣のオフィスから、怒鳴り声が聞こえた。


「ふざけるな! こんなの、殺人じゃないか!」


 私は立ち上がり、隣の部屋に向かった。


 同僚の佐々木が、モニターに向かって叫んでいた。


「佐々木」


 私が声をかけると、佐々木は振り返った。


 目が充血している。


「水城……見てくれよ、これ……」


 佐々木のモニターには、一人の女性の情報が表示されていた。


佐々木 優子(38歳) 判定:不適格


 佐々木の妻だ。


「妻が……不適格だって……」


 佐々木は、震える声で言った。


「理由は何だ?」


 私は、画面を見た。


不適格理由:


健康状態良好(余命推定45年)

未成年の子供二人を扶養中

社会的役割:小学校教師(代替困難)

 理由は、完璧だった。


 佐々木の妻は、生き延びなければならない。子供のために。社会のために。


 だが、それは——最後まで、水が迫る高層ビルに残されることを意味する。


「水城」


 佐々木が、私の腕を掴んだ。


「頼む。妻を、海に入れてくれ」


「できない」


「俺の権利を譲渡する! 俺が代わりに残るから!」


「譲渡は、制度上認められていない」


「制度なんてクソくらえだ!」


 佐々木が、私の胸ぐらを掴んだ。


「お前に、家族はいないのか! もし自分の家族が——」


 私は、佐々木の手を振り払った。


「私情を挟むな。我々は、職務を遂行しているだけだ」


「職務……? 人を殺す職務か?」


「人を救う職務だ」


 私は、佐々木の目を見た。


「君の妻が不適格ということは、別の誰かが適格になったということだ。その誰かは、君の妻より苦痛が少ない死を迎えられる」


「それが……救済だと?」


「そうだ」


 佐々木は、私を見つめた。


 そして——泣き崩れた。


「俺には……無理だ……」


 佐々木は、その日のうちに辞職した。


 代わりの職員が、翌日着任した。


第四章:母の判定

 11月19日、午前十時。


 私の端末に、通知が来た。


個人関連通知:あなたの近親者が判定対象に含まれています


 私は、画面を開いた。


水城 律子(66歳) 判定結果:不適格


 母だ。


 私は、画面を凝視した。


不適格理由:


健康状態良好(余命推定15年)

扶養義務対象なし(息子は独立済み)

社会的役割:元看護師(退職済み、代替可能)

 理由は、正しい。


 完璧に、論理的だ。


 母は、海に入れない。


 母は、最後まで高層ビルに残され、水が迫る中、窒息死する。


 私は、椅子にもたれた。


 天井を見上げる。


 蛍光灯が、眩しい。


 私は、携帯電話を取り出した。


 母の番号を、見つめる。


 そして——電話をかけた。


「もしもし、透?」


 母の声が、明るく響いた。


「母さん」


「どうしたの? 仕事中でしょ」


「……判定が、出た」


 電話の向こうが、静かになった。


「そう……私、ダメだったのね」


「……ああ」


「理由は?」


 私は、画面を見た。


「健康すぎる。扶養義務がない。社会的に代替可能」


「なるほど」


 母は、笑った。


「正しいわね」


「母さん……」


「透、あなたは正しいことをしてるのよ」


「でも——」


「でも、何?」


 私は、言葉を探した。


「怖い、だろ」


 母は、しばらく沈黙した。


「怖いわ」


 母の声が、震えた。


「溺れるのは怖い。でも、もっと怖いのは——息ができなくなっていくこと」


「最後まで意識があるのよね。水が迫ってくるのを見ながら」


 私は、何も言えなかった。


「透」


「何?」


「もし——もし、あなたに権限があるなら——」


 母は、声を絞り出すように言った。


「私を、海に入れて」


 私は、上司の部屋に向かった。


「入ります」


 ノックもせずにドアを開けると、上司の清水が書類を整理していた。


「水城か。どうした」


「確認したいことが」


「何だ」


「承認官は、判定を覆す権限を持っているか」


 清水は、ペンを置いた。


「技術的には、可能だ」


「ただし?」


「ただし——」


 清水は、私を見た。


「一人を適格に変更すれば、システムは自動的に別の誰かを不適格に変更する。総数は変わらない」


「つまり」


「お前が誰かを救えば、代わりに別の誰かが地獄を見る」


 私は、黙った。


 清水が続ける。


「水城、お前の母親が不適格だったんだろう」


「なぜ——」


「システムは、職員の家族も判定する。お前の反応で分かった」


 清水は立ち上がり、窓の外を見た。


「水城、俺の父親も不適格だった。85歳、末期の心不全。本来なら適格のはずだ」


「なぜ不適格に?」


「息子である俺が、この仕事をしているからだ。システムは、利益相反を避けるために、職員の家族を不適格にする傾向がある」


「それは——」


「不公平か? その通りだ」


 清水は、振り返った。


「だが、水城。お前が判定を覆せば、どうなる? 国民は、こう思うだろう。『結局、権力者は自分の家族を救うのか』と」


「……」


「この制度は、完璧に公平でなければ成立しない。一つでも例外を作れば、全てが崩壊する」


 私は、何も答えなかった。


第五章:代替候補

 私は、オフィスに戻った。


 そして、システムにアクセスした。


 管理者権限。


 私には、判定を変更する権限がある。


 私は、母の情報を開いた。


 そして——判定を「適格」に変更しようと、マウスを動かした。


 その瞬間、画面に警告が表示された。


警告:判定変更により、以下の対象者が自動的に不適格に変更されます


佐伯 春子(67歳)


 私は、佐伯春子の情報を開いた。


夫:死亡(5年前)

子供:娘一人(海外在住、連絡不通)

健康状態:良好

社会的役割:元小学校教師(退職済み)

余命推定:12年

 私は、佐伯春子の写真を見た。


 優しそうな顔をしている。


 笑顔の写真だ。


 おそらく、娘が撮ったのだろう。


 私は、想像した。


 佐伯春子が、高層ビルの最上階で、水が迫ってくるのを見ている光景。


 息ができなくなっていく。


 必死に空気を求めて、天井に顔を押し付ける。


 でも、水は容赦なく迫ってくる。


 最後の一呼吸。


 そして——。


 私は、マウスを離した。


 私は、再び母に電話した。


「母さん」


「透……決めたの?」


「判定は、変えない」


 電話の向こうが、静かになった。


 長い、沈黙。


「そう……」


「すまない」


「謝らないでって、言ったでしょ」


 母は、また笑った。


「透、あなたは正しいわ。誇りに思う」


「母さん……」


「最期に、一つだけ聞いてもいい?」


「何?」


「あなたは——海に入るの?」


 私は、自分の判定を確認した。


水城 透(42歳):不適格


 私も、海には入れない。


 私も、最後まで——。


「入らない」


「そう……なら、良かった」


「良かった……?」


「あなたまで死んだら、私は本当に報われないもの」


 母の声が、震えた。


「だから、透——生きて」


第六章:72時間後

 11月20日、午前六時。


 海面上昇が始まった。


 私は、モニターでリアルタイムの映像を見ていた。


 東京湾の海岸線が、目に見える速度で後退していく。


 いや、後退ではない。前進だ。


 海が、街を飲み込んでいく。


 午前九時、第一次避難完了。


 適格者10万2847人が、指定された海岸に集められた。


 彼らには、鎮静剤が投与されている。


 意識は朦朧としているが、歩くことはできる。


 職員が、彼らを海へ誘導する。


 一人、また一人——。


 海に入っていく。


 波が、彼らを包む。


 そして、沈む。


 私は、モニターを見つめた。


 感情を、殺した。


 午後三時。


 海面は、海抜30メートルに到達した。


 不適格者たちは、高層ビルに避難している。


 だが、建物の数が足りない。


 廊下に溢れた人々が、必死に上の階を目指している。


 押し合い、罵り合い、泣き叫ぶ。


 私は、映像を見た。


 そして、画面を消した。


 11月21日、午前零時。


 私の携帯に、母から最後のメッセージが届いた。


 音声メッセージ。


 私は、イヤホンをつけて、再生した。


『透——最後まで、ありがとう』


 母の声が、穏やかに響く。


『水が、もうすぐ来る。九階まで来たの』


『怖いけど——あなたが正しいことをしたって、信じてる』


『だから——後悔しないで』


 母の声が、震える。


『あなたは、誰よりも強い子だから』


『だから——生きて。生きて、幸せになって』


 水の音が、大きくなる。


 母の呼吸が、荒くなる。


『愛してるわ、透』


 そして——。


 メッセージが、途切れた。


 私は、イヤホンを外した。


 そして——泣かなかった。


第七章:予測の狂い

 11月22日、午前六時。


 海面上昇が、臨界点に達する予定だった。


 私は、内閣府ビルの最上階、海抜53メートルの高さにいた。


 窓の外には、海が広がっている。


 かつて東京だった場所は、すべて水没していた。


 ビルの屋上には、ヘリコプターが待機している。


 要人たちは、既に避難を開始していた。


 清水が、私のオフィスに入ってきた。


「水城、お前も避難しろ」


「まだ、確認することがあります」


「何を確認する? もう終わったんだ」


 私は、モニターを見た。


最終報告 海入権適格者:102,847人(全員執行完了) 不適格者:487,293人(高層施設に残留)


「終わりました」


 私は、モニターを消した。


 清水が、私の肩に手を置いた。


「よくやった。お前がいなければ、もっと混乱していた」


「私は、ボタンを押しただけです」


「それでも——」


 清水は、窓の外を見た。


「お前も、避難しろ。ヘリは、まだ何便か残ってる」


「私は、残ります」


 清水が、振り返った。


「何?」


「母を見捨てました。だから——」


 私は、窓を見た。


「私も、ここで終わります」


 清水は、何も言わなかった。


 ただ、私の肩を強く叩いた。


 そして、部屋を出ていった。


 午前七時。


 水が、私の足元に迫ってきた。


 私は、椅子に座ったまま、目を閉じた。


 母の顔が浮かぶ。


 佐伯春子の顔が浮かぶ。


 10万人の顔が浮かぶ。


 48万人の顔が浮かぶ。


 私は、彼らを殺した。


 いや——救った。


 どちらだ?


 分からない。


 ただ——。


 水が、私の腰まで来た。


 冷たい。


 呼吸が、苦しくなる。


 私は、最後に呟いた。


「これで、いい」


 水が、胸まで来る。


 顎まで来る。


 そして——。


 水位が、止まった。


 私は、目を開けた。


 水は、私の首のあたりで停止している。


 私は、端末を確認した。


緊急速報:海面上昇が予測より早期に安定化 最終水位:海抜52メートル


 内閣府ビルの高さは——55メートル。


 私がいる階は、水没しなかった。


第八章:生存

 午後三時。


 救助ヘリが、私を発見した。


「生存者発見! 水城透、無事を確認!」


 パイロットが、手を差し伸べた。


 私は、ぼんやりとその手を取った。


 ヘリに乗り込む。


 パイロットが言う。


「よく耐えましたね。あなたは最後まで職務を全うした。英雄ですよ」


 私は、何も答えなかった。


 ただ、窓の外を見た。


 海が、静かに広がっている。


 母がいた場所。


 佐伯春子がいた場所。


 48万人がいた場所。


 すべて、海の下。


第九章:称賛

 一週間後。


 私は、総理官邸にいた。


 表彰式だ。


 総理が、私の前に立った。


「水城透。あなたは、海洋適応死支援制度の適正な運用により、最大限の人命を救済しました。その功績を讃え、ここに内閣総理大臣表彰を授与します」


 拍手が起きた。


 フラッシュが焚かれた。


 私は、表彰状を受け取った。


 総理が、私の手を握った。


「よくやった」


 私は、頷いた。


 表彰式の後、記者会見が開かれた。


 私は、壇上に立った。


 記者が質問する。


「水城さん、あなたはお母様を含む多くの方々の判定を承認されました。そのご心境は?」


 私は、マイクに向かって答えた。


「私は——正しいことをしただけです」


「お母様のことは、後悔していませんか?」


「後悔はしていません。母の判定は、正しかった」


 記者たちが、また拍手した。


 私は、無表情だった。


 会見が終わり、私が会場を出ようとすると——一人の女性が近づいてきた。


「あの、水城さん」


 三十代の女性。疲れた顔をしている。


「はい」


「私、佐伯春子の娘です」


 私の身体が、硬直した。


「海外から、急いで帰ってきたんです。でも、間に合わなくて……」


 女性は、涙を流した。


「母が——最期、あなたの制度で……」


「……申し訳ありません」


 私は、頭を下げた。


「いえ」


 女性は、首を横に振った。


「母は、最期に『誰かの役に立てて嬉しい』って言ってたそうです」


 私は、顔を上げた。


「施設の職員の方から聞きました。母は、海に入る直前まで、笑顔だったって」


 女性は、私の手を握った。


「ありがとうございました。母を、救ってくれて」


 女性は、そう言って去っていった。


 私は、その場に立ち尽くした。


 嘘だ。


 佐伯春子は、海には入っていない。


 彼女は「不適格」だった。


 彼女は、高層ビルで——。


 私は、理解した。


 施設の職員は、娘に嘘をついたのだ。


 優しい嘘を。


第十章:新しい日常

 三ヶ月後。


 私は、職場に復帰していた。


 海洋適応死支援局は解体され、私は「復興計画推進室」に異動した。


 生き残った人々のための、新しい街を作る仕事。


 私のデスクには、毎日、山のような書類が積まれる。


 予算の承認。土地の配分。住居の割り当て。


 誰に、どの土地を与えるか。


 誰に、どの住居を与えるか。


 また——数字で、人を分ける仕事だ。


 私は、淡々と書類を処理した。


 ある夜、私は自宅で一人、母の遺品を整理していた。


 段ボール箱の中から、母の日記が出てきた。


 私は、最後のページを開いた。


透へ


もし私が死んだ後、これを読んでいるなら——


お願いだから、自分を責めないで。


あなたは、正しいことをした。


それが、私の誇りです。


でも——


お願いだから、生きて。


あなたまで死んだら、私は本当に報われない。


だから——生きて。


生きて、幸せになって。


私は、いつもあなたの側にいます。


 私は、日記を閉じた。


 そして——泣かなかった。


 涙も、出なかった。


 私は、ただ窓の外を見た。


 夜の海が、静かに広がっている。


 かつて、母がいた場所。


 私は、呟いた。


「俺は、生き残った」


「それが——最も正しい結果だった」


エピローグ:半年後

 2032年5月。


 私は、復興した街を歩いていた。


 新しいビルが建ち、商店が並び、人々が行き交う。


 誰も、あの72時間のことを話さない。


 忘れたわけではない。


 ただ——話せないのだ。


 話せば、思い出してしまうから。


 私は、海沿いの慰霊碑の前で立ち止まった。


「海洋適応死支援制度 犠牲者追悼之碑」


 そこには、60万人の名前が刻まれている。


 私は、母の名前を探した。


水城 律子


 そこにあった。


 私は、その名前を指でなぞる。


 冷たい。


 隣に——佐伯 春子の名前もあった。


 私は、彼女の名前も、なぞった。


 その時、隣に一人の少年が立った。


 十歳くらいだろうか。


「おじさん、これ見た?」


 少年が、スマートフォンを見せてきた。


 画面には、ニュース記事が表示されている。


「海洋適応死支援制度の承認官、水城透氏に新たな賞」


「この人、すごいんだって。60万人の命を救ったって」


 私は、記事を見た。


 そこには、私の写真が載っていた。


 表彰式の写真。


 笑っていない顔。


「でもさ」


 少年が続ける。


「ネットでは批判されてるんだよ。人殺しだって」


「……そうか」


「おじさんは、どう思う?」


 私は、しばらく沈黙した。


 そして、答えた。


「正しかったと思う」


 少年は、不思議そうな顔をして、走り去っていった。


 私は、再び慰霊碑を見た。


 60万の名前。


 60万の人生。


 60万の最期。


 すべてが、私のボタン一つで決まった。


 私は、正しかった。


 ノアの判定は、完璧だった。


 論理的に、倫理的に、社会的に——正しかった。


 でも——。


 私は、母の名前をもう一度なぞった。


 そして——私は、歩き出した。


 仕事に戻らなければならない。


 今日も、誰かの生活を決める書類が、山積みになっている。


 私は、それを処理する。


 正しく。


 公平に。


 論理的に。


 それが、私の仕事だ。


 それが、私の人生だ。


 そして——それは、これから何十年も続く。


 私は、生き残った。


 最も正しい判断をした人間として。


 最も多くの人間を救った人間として。


 そして——最も多くの人間を見殺しにした人間として。


 私は、称賛される。


 私は、憎まれる。


 私は、忘れられない。


 私は——生き続ける。


【完】


 海は、今日も静かに広がっている。


 60万人を飲み込んだ海は、何も語らない。


 ただ、波が寄せては返すだけだ。


 そして、私は——


 明日も、書類にサインをする。


 誰かの人生を決める。


 正しく。


 それが、私に残された唯一のことだから。

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