四季彩の灯
稀季
第1話 はじまりの膳
「はぁ…」
もう何度目かわからないため息をつきながら、夕暮れの薄もやの中を背を丸めて歩く。やっと迎えた週末に気が緩んだのか、降りる予定のバス停から十も離れたところで目を覚ましたのだ。しかも戻りのバスが来るまで一時間もあるという絶望…せっかく今日は残業なかったのに。
ほんの一週間前までは俺だって希望に満ちていた。初めての一人暮らしと夢だった教師という仕事。新生活に夢と希望を膨らませていたのに、わりとすぐにそれは急速にしぼんでしまった。原因はわかっている。子供の頃に憧れたドラマの熱血教師を真似して自己紹介したら、盛大に滑り散らかしたのだ。それからはもう空回りの連続…理想を詰め込んだはずのワンルームも、今じゃ足の踏み場もない。食事だってコンビニ弁当かカップ麺ばかりだ。
「かあちゃんの煮物食いてえなぁ…」
無意識に口から願望が漏れる。実家にいた頃はたいして好きでもなかったくせに、思い出すのはあの優しい味付けの煮物ばかり。こんなことなら強がりなんて言わずに、作り置きおかず送ってもらえばよかったとトボトボ歩いていると、ふと出汁のいい香りがした。呼応するように腹が鳴る。足は無意識に香りの発生源に向かっていた。
「いらっしゃい」
聞こえた低音ボイスで我に返り、自分が今店内にいることに気付いた。やたらきれいな顔をした店員に促されるまま席に着く。
「あの…すみません。無意識に入っちゃって…ここは」
何の店ですかと聞こうとしたが、一際でっかい腹の音に遮られた。
「ここは和カフェ四季彩。季節の食材を使った和食メインのカフェよ。アタシはここのマスター。ギンって呼んでね」
ウインクしながらメニューをくれたマスター…ギンさんに、恥ずかしさで赤かった顔がさらに赤くなったのを感じ、受け取ったメニューで顔を隠した。
一旦気持ちを落ち着かせようとメニューをみる。
手書きの、とてもシンプルなメニュー表だ。ところどころに描いてあるイラストがかわいい。メニューは多くなく、飲み物以外はほとんどが日替わりのようだ。なになに…
[今日のプレート]
たけのこご飯
アサリの味噌汁
サワラの西京焼
だし巻き玉子
そら豆と桜えびのかき揚げ
菜の花のからし和え
鶏とひじきの煮物
春満載って感じのラインナップに、思わず生唾を飲み込む。
「あの…じゃあ、この今日のプレートってやつで...」
メニューを返す際にギンさんと目が合った。待っててねと優しく微笑まれて、せっかく落ち着いた顔がまた赤くなる。
気をそらすために店内を見渡した。六席のカウンターと、四人掛けと二人掛けのテーブルが二つずつのこぢんまりした作りで、テーブル席の方からはきれいな庭が見える。和モダンというのだろうか。間接照明の色も相まって、なんだかノスタルジックな雰囲気だ。
「おまちどおさま。それにしてもアンタ、ひっどい顔してるわねぇ。しっかり食べて栄養つけなさい」
そう言ってギンさんが持ってきてくれたのは、お盆にたくさんの小鉢が乗ったものだった。丁寧にお品書きもついている。あと、これはどうでもいいんだが、ちょっとかあちゃんに叱られたみたいな気分になって何だかこそばゆい。そんな実家の食卓を思い出しながら、手を合わせていただきますと呟いた。
うまっ。優しい味付けなのに旨味が強い。初めて食べるものもあったが、興味が勝って箸が止まらなかった…途中までは。
「ひじきか…俺これ苦手なんだよな」
「あら、ひじきは栄養の宝庫よ。無理強いはしないけど、ひとくち食べてくれたら嬉しいわ」
思わず口から出てしまった声を聞かれて焦る。久しぶりの手料理とギンさんの軽口に、つい実家にいる気分になってしまっていた。
誤魔化すような苦笑いをしてひとくち食べる。
「え、おいしい」
鶏肉のコクが出ていて食べやすいし、少し濃いめの味付けでご飯が進む。苦手だったひじき独特の風味も全然気にならない。
無我夢中で食べ終えてしまった。こんなに美味くて温かいご飯はいつぶりだろう…余韻に浸っていると、ギンさんがお盆を下げるのと同時に、温かいお茶と小さいケーキを出してくれた。注文していないと戸惑っていると、
「疲れた心と体には甘いものよ♪」
それからひじき煮完食したご褒美よと、いたずらっぽい顔でウインクした。心遣いが身に沁みて、なんだか泣きたくなる。一口サイズの淡いピンク色のケーキは食べると桜がふわっと香り、生クリームがそれをやさしく包んだ。ほうじ茶との相性も抜群だ。
「熱血教師みたいなのって、今時流行らないんですかね…」
甘さと温かさにほっとしたからか、ひとつこぼした言葉は、ポツリポツリと止まらなくなっていく。ギンさんが静かに聞いてくれるのをいいことに、気付けばこの一週間のことをダラダラとしゃべっていた。
「俺、憧れだったんです。熱くてちょっとウザいんだけど、生徒から慕われてるみたいな教師。でも実際は空回りしてばっかりで…ウケを狙った授業ではクスリともされないし、指導係の先生からも怒られてばっかりで…向いてないのかなぁ、俺」
ひとしきり話し終えると、ギンさんはお茶のおかわりを出してくれた。
「やだ、まだ一週間じゃないの。そんな短い期間でお互いのことわかろうとするほうがどうかしてるわよ…アンタらしいやり方が見つかるように、じっくりゆっくり進みなさいな。あと!どんなに忙しくても食事はちゃんとすること!おいしいは最高の癒しよ!またいつでもき来なさい。待ってるわ」
ギンさんの言葉に、ささくれてた心がじんわりと温かくなる。俺も、こんなふうに寄り添える教師になれるだろうか…いや、なるって決めたんだ。焦らず、ゆっくりでいいんだ。
また来ますと言って店を出る。気がつけば、あたりはすっかり暗くなっていた。春の夜風が心地よい。
スマホを取り出して電話をかける。
「あ、もしもしかあちゃん?元気だよ、当たり前だろ!でもさ、忙しくて飯作る時間なくて…作り置き送ってくんない?うん…かあちゃん得意なやつなんでもいいんだけどさ、その…たとえば、ひじきの煮物とか…うん。好きじゃなかったんだけどさ、今日うまいの食べたんだよ。鶏肉とか入ってて、出汁とか効いてて…んで、なんか久しぶりにかあちゃんのが食べたくなって…いや違くて!かあちゃんのがまずいとかじゃなくて!」
他愛もない会話で盛り上がる。久しぶりにかあちゃんの声も聞けたし、うまい料理で見も心も満たされた。次はいい話が出来るように、明日からまた頑張ろう。
次の更新予定
四季彩の灯 稀季 @kiki-shikisai
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