夏の終わりの模倣者
田中
第1話
変わらない日常、窮屈な家、呪いのような日々。
家と正反対の電車に乗って、見た事のない生き物に出会った。
『呪いなんじゃないかな、いてほしいっていうのも』
その夏の終わり、僕たちは三日間の非日常を、経験した。
夏の音が嫌いだった。
うるさくて、生きてることを思い出すから。
セミの声が窓の外から滲みこんでくる。
どこかから聞こえてくる掃除機の音と混ざって、母の声と重なった。
「頑張りなさい」
「お母さんのために」
どの言葉も、耳の奥で白く溶けていく。
テストの点数が上がれば母が笑い、下がれば泣いた。
父は黙って煙草を吸っていた。
弟の模試の結果だけが、この家の空気を動かす。
鏡の中の自分は、誰かの真似をしているように見えた。
髪型も、服も、声の出し方も、どこかの“理想の子ども”をなぞってできている。
それでも、誰も間違いだとは言わなかった。
だからハヌルは、間違えることをやめた。
息をするみたいに正しい選択をして、息を止めるみたいに静かに過ごした。
その夏、彼は“死にに行く”ことを決めた。
海の見える田舎へ、行き先のわからない列車に乗って。
────
朝六時、母が部屋のドアを叩く音で目が覚めた。
アラームよりも正確で、いつも同じ回数。
返事をしないと、二回目が来る。
「起きてるよ」と答えると、音が止んだ。
台所ではソルロンタンの匂いがしていた。
牛骨の湯気がゆっくりと立ち上り、その白さが、眠気の残る視界に溶けていった。
食卓には、白いごはんとキムチ、海苔が並んでいる。
母は箸を置きながら「早く冷めるよ」と言った。
ハヌルは黙って椅子に座り、スプーンを取ってソルロンタンを一口だけ啜った。
温度はちょうどよかった。
味は、よくわからなかった。
「それだけで足りるの?」
「……うん」
「もっと食べなさい。痩せちゃうでしょ」
母の声は、湯気みたいに柔らかくて、逃げ場がなかった。
しかし、ごはんにも、キムチにも手をつけず、そのままスープを少しずつ飲み干した。
何かを食べるほどの気力はなかったけれど、胃の奥が空っぽなのも、少し怖かった。
「ほら、チュモッパッ入れとくからね!」
母は弁当箱の蓋を閉めながら笑った。
小さな丸いおにぎりが、ランチバッグの中に収まっていく。
その手の形が、食べ物に残っている気がした。
ハヌルは何も言わずに頷いた。
それが、いつもの朝だった。
玄関に立つと、外の光が少しまぶしかった。
エレベーターの階数表示が下がる音がして、ハヌルは靴ひもを結ぶふりをして時間をずらした。
台所から母の足音が聞こえてくる。
「ハヌル、これ忘れないで」
手提げ袋の中には、弁当とチュモッパッ。
まだ、湯気が少し残っていた。
「今日も頑張っておいで」
母親の柔らかい、いつも通りの声。
それなのにハヌルはどうしてか泣きそうになった。
「試験だろう?」
「……うん」
「終わったら電話してね。キムチチゲでも作るから」
その言葉のひとつひとつが、ソルロンタンの湯気みたいに柔らかくて、けれどどこか、重たかった。
母は笑っていた。
ハヌルも笑い返す。
ハヌルの笑顔はすっかり固まって、まるで能面のようだった。
アパートの外は、セミの声が溶けるように鳴っていた。
コンクリートの匂い、アスファルトの照り返し。
どれも、毎日の続きにしか思えなかった。
ハヌルは、手提げ袋の中のチュモッパッの重みを確かめて、一度も振り返らずに歩き出した。
通学電車の中は、まだ眠そうな顔で埋まっていた。
ハヌルは窓際に立ち、吊り革を握った。誰もが誰かの友人や親や子供としての役割を果たすために、この電車に乗っているのだと思うと、ハヌルはまた吐きそうな気分になった。
ガラス越しに見える朝の釜山は、同じ建物が並んで、同じ速度で後ろへ流れていく。
ヘッドフォンの中では、いつもの授業動画が流れていた。
音はほとんど入ってこない。
言葉も公式も、もう頭のどこにも届かない。
学校に着けば、チャイムが鳴り、授業が始まり、ノートに文字が増えていく。
黒板の前では教師が笑い、隣の席では誰かがため息をついた。
それらすべてが、遠くの世界の出来事みたいだった。
昼休み、窓際の席で弁当を開けた。
中にはチュモッパッが三つと、卵焼き。
チュモッパッのうちひとつを口に入れる。海苔とふりかけとごま油が混ざった小さな丸いチュモッパッが、まるで喉に詰まるようだった。
味は、母の手の匂いがした。
もう一口が、飲み込めなかった。
放課後、教室の明かりがひとつずつ消える。ほとんど強制的な自習のために自習室へ生徒たちが吸い込まれていく。
クラブ活動の声が遠くに聞こえた。
ハヌルは机に顔を伏せ、何も考えないようにしていた。
頭の中は、空っぽというよりも、音でいっぱいだった。
「もっと頑張って」
「期待してる」
誰の声でもないのに、消えてくれなかった。
兄であるドンウは延世大学へ進学した、その兄よりも良い大学ならば、ソウル大学しか無い。
ハヌルは決まりきって足元に引かれたレールを唾棄することもできず、まるで呼吸困難になった鯉のように浅い呼吸しかできないでいた。
外に出ると、空はもう紺色になっていた。
夏にも関わらず、風が冷たい。
それでも歩き出した。
いつも通る帰り道を、何度も繰り返しながら。
途中でふと、立ち止まる。
気がつくと、涙が出ていた。
静かで、止まらない涙だった。
声も出なかった。
足が自然に動いていた。
家と反対方向のホームへ。
向かいの電車のライトが、夜の中で白く滲んでいた。
ハヌルは改札を抜け、無意識のまま、反対行きの電車に乗り込んだ。
窓の外で街が流れていく。
家がどっちにあるのか、もう考えなかった。
車内は、ほとんど空席だった。
吊り革が、カタン、と微かに揺れた。
どの駅にも、降りる人はいなかった。
ハヌルは座席の端に腰を下ろして、窓の外を見た。
トンネルの闇が続いて、ときどき反射した光が、自分の顔を照らした。
その顔が、もう自分のものじゃない気がした。
ポケットの中で、スマホが震えた。
画面には「엄마(お母さん)」の文字。
その下に、通知が並んでいる。
『どこにいるの?』
『帰ってこないの?』
『夜食あるよ』
『せめて連絡しなさい』
『試験はどうだったの?』
ハヌルはそれを開かず、画面を伏せた。
初めて母からの連絡を無視したという事実に、指先に汗が滲んで、光がシートの布に吸い込まれて消えた。
電車が揺れる。
頭が重い。
視界の端で、街の灯が遠ざかっていく。
次の更新予定
夏の終わりの模倣者 田中 @monamona_m
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