知ラザルヲ知ルト為セ、是恋ナリ

へのぽん

知ラザルヲ知ルト為セ、是恋ナリ

 この前、ハロウィンだった気がするのに、もうすでに商店街にはクリスマスのイルミネーションと正月のお琴の音が混ざっていた。

 二人、並んで歩いている途中、高木が不意に口にした。


「知らざるを知ると為せ」

「は?」

「これ知るなり」

「はい?」


 真琴は問い返した。前髪が眉の上で音を奏でるように揺れた。


(また……)


 高木は急に思っていることを言うことがある。幼馴染だからこそ口悪く言わせてもらうと、おそらくこんなヒョロガリは異性に、もてない。


 小学生は運動神経でもてる。

 中学生は顔でもてる。

 高校生は顔と格好と頭でもてる。

 大人はお金でもてる。


(違う違う。大人は包容力と行動力でもてる。経済力があればなおよし。違う違う、わたし)


 高木は頭は悪くはないが、自分と同じくらいなので賢くもない。運動神経は断然真琴がいい。経済力はどちらも親が離婚していて、どんぐりの背比べみたいなものだ。塾の月謝もバカにならないので、冬期講習はパスして、淡々と週二回で通わせていただいている。こうなれば話は逸れるが、塾が息抜きかも。


(わたしは高木が好きなのか?いつから?どうして?もしかして同情?)


 嫌なところもあるけれど、それも含めて好きなのかもしれない。背は高くもないし、筋肉もない。友だちなんてものは、小中高で、おそらくほとんどいない。ただ折れない心はある。下校途中、高校生専門の予備校へ行く前、一緒にたこ焼を食べるようになっていた。

 きっかけは忘れた。

 ただいつも水曜日と金曜日は正門の前で待ち合わせて、近くの小学校のスクールゾーンを抜けた。

 たいてい妙な話をしていた。

 前回は、


「君子危うきに近寄らずておかしくないか?どういう意味やねん」


 と尋ねてきた。

 漢文に凝っていたらしい。


「ああ、君子は危うきに、近寄らずだなあという意味じゃないの?」


 我ながらうまく答えられた。


「なるほど」

「孔子に聞けば?」

「君子て孔子やない」

「えっ!?」

「教養のある人のことや」

「わたし、理系やからわからん」

「糧……腹減ったな」

「うん」


 いつものたこ焼屋に入った。錆の上から塗り替えしたテーブル席の脚がでこぼこしていて、床は寒さがこみ上げてくるコンクリート仕立てだ。


「あのさ、ギィくんに話あるねん」

「君子危うきに近寄らずの?」

「違う」


 今はダメだ。これはまともな話はできないなと、いったん諦めることにした。真琴が水をピッチャーから勝手に入れて、勝手にたこ焼きを二人前頼んだところで、高木は老婆に話した。


「おばちゃん、たこ焼のたこ抜いてるやろ?」

「値段そのまんまや」

「こんにゃくくらい入れてくれてもええんやないか」

「偉そうに。こんにゃく甘辛う煮込むとガス代いるからな。そのまんま入れてもええんなら入れたる」

「ええんやないの?」

「生臭くなるねん」


 真琴が間で答えた。


「そうなん?」

「家でするとき湯通しして入れるやろ?それでも生臭い」

「したことないぞ」

「たこパーとかないの?」

「ない」

「寂しいなあ。誰にも誘ってもらえん帰宅部の頭でっかちなんや」

「真琴ちゃん、ギィなんかと話してたらアホ伝染るで」


 腰の曲がったおばあちゃんの後ろ姿が言い返した。高度成長期からたこ焼一筋、お好み焼きもあるが、息子を大学まで育てた人だ。商店街でも彼女に文句を言う人はいない。界隈で仲人した人数知れず。別れた人も数知れず。


「みんなそんなことしてたんか」


 つまようじで持ち上げたたこ焼きに焦点を合わせて呟いた。


「知らなんだ。何かコリとするもん入ってないと食べた気せんのや」

「軟骨でもええん?」

「たこ焼きから外れるやん」

「こんにゃくもやん」


 高木のことを見ていると、心を折らないなと思う。小学生の頃は運動ができなくて、ドッジボールやバレーボールの的にされていた。何ともしてやれなかった真琴がいた。授業は別だからしようがないのだが。

 一緒の帰り道なのに、いつしか遠ざけていた。二人きりになったとしても、道の前後で歩幅を合わせて歩き続けるか、急に高木が走り出して団地の別棟に消えてしまった。

 互いに中学、高校と進学すると高木へのイジメらしきものは消えていた。イジメていた子どもたちも私立に通うか、親の都合で引っ越すかしてしまった。自分の人生について悩みはじめて学校へ来なくなった者もいる。他人のことに構っていられる余裕などないのだろう。そこに残っていたのは、気のいい、よく話すヒョロガリのメガネだ。


「中坊が生意気言うな」

「俺ら、もう高校二年生やん。去年お礼に来たやろ?」

「中坊も高校生も同じや。制服着てるのは変わらん。たこパーしたことないくせに口だけは一人前やんか」


 真琴は細い目をさらに細くしてテーブルに頬杖をついていた。ここに来て、二人の話を聞いていると、世の中のことがどうでもよくなる。どうにかなるような気になる。だから放課後、部活は休んでできるだけ一緒に来ている。高木の熱いうちに食べている様子とおばちゃんの会話に癒やされるのだ。ピッチャーから高木のコップに水を入れてやった。


「ありがとう」

「お孫さん、どうなん?」


 真琴が孫が生まれたということを夏くらいに聞いた。おばちゃんが二週間ほど店を休んでいた。高木がすべて任されていたのだが、おばちゃんほどには売れなくて落ち込んでいたのを今でも覚えている。真琴は夏の近畿大会のせいで、訪れることができなかったのが悔やまれる。


「かわいいで。おまえにはやらんからな。ほい。セルフや。うるさいからおまけしといたるわ」

「マジ?」

「マコに。おまえはマコちゃんにええ言われるまで食べなはんな」

「犬やあるまいし」


 おばちゃんはスマホの待受画面を見せてきた。保育園の前で嫁と並んだ写真が載せられていた。


「さすがに俺もパスする。こんなもん犯罪やないか」

「かわいいやん」


 保育園児でも緊張するんだと思いながら見ていると、真琴の嫁にどうだと笑いながら勧めてきた。


「さすがに若すぎるわ。見たらわかるやろうが。そんなこともわからんからモテへんねん。男のくせにオシャレなんかしくさって」


 今日の服、選んであげたのは真琴なんだが。高木にはパーカーにデニムくらいしか持ってないし。


「差別やん」

「何を言うねん。せんどあんたら男はうちら女を差別してきたんや。百年や二百年では許されんで」

「え?わたし?」

「そや。あんたはコイツを尻に敷かなあかんねんで」

「え、ええ……?」

「付き合うてないで。俺には他に好きな人おるねん。今は友だちや」

「今日は浮気かいな」

「商店街の渾身のイルミネーション見るのに誘うた」


 真琴はざわついた。高木に差別されたことはなく、むしろやさしすぎて他に持っていかれるのではないかともヤキモキしている。しかも友だち宣言されたのだから、たこ焼を突き刺すつまようじが震えた。


「そもそも五百円のたこ焼に対してプラス五十円のマヨネーズておかしくないか?」

「嫌なら食べなはんな。それにあんたはマヨネーズ塗らんやろ」

「真琴が塗る派や」

「んなもん、あんたが払てあげればええやん。中学時代からマコちゃんのもバカバカ食べてたくせに」

「そ、そうですね」


 店主は丸椅子に腰を掛けると、煙草に火をつけて、競馬新聞を読みはじめた。真琴は一気に食欲をなくした。たこ焼がケタケタと笑っている。ぐずぐすしてるから他の女に盗られるんだよと言うのだ。


「お好み焼き食べたいな」


 高木が顔を突き出してきた。


「いらない」

「半分こせん?」

「い・ら・な・い。これ以上太りたくないからね。食欲ないし」

「何で?」


 まさかコイツは本気で気づいていないのかと思うと、つまようじで目玉を突き刺してやろうかと思った。


「で、はじめの言葉、知らざるを知る何とかの言葉がどうかした?」

「はふはふ。あれさ、後にも言葉あるの知ってる?熱いうちに食べ」

「猫舌なの知ってるやんか」

「そうやな」


 どんどん自己嫌悪が頭をもたげてくる。イルミネーションに誘われたときはワクワクしていたのに。写真映えするほどのことでもない地元の商店街の、たいして大きなイルミネーションではないが。


「知らないことをさも知ってるように教えなくてよかったみたいな話があるねん。知ってることしか教えられんみたいな話や」

「ほ……」


 真琴は水を飲んだ。熱い塊が喉の奥から胃の入口へ入る感じを我慢して肩でホッとした。まだ自分には熱すぎた。皿の上で冷ましながら頬の裏を舌で触れた。ヤケドしてるような気がした。もうすでにリップもソースの味で落ちていた。


「真琴、まだあるねん。それがどうしてんと聞いてくれよ」

「どうしてん」

「知らんこと教えられんていうのは正しいのか?それなら東大のセンセは東大以上の生徒教えられんぞ」

「……あのね」


 真琴には丁度いい具合に冷めかけたたこ焼を口に入れた。こんなぐだぐだな討論をするために冬休みの前に誘ったのではない。これくらいのことをわかってくれないのか。


「ギィ……」

「ん?」

「考え違いしてる。知らないことを知るというのは、あんたももっと学びなさいということや」

「理系ではそうなんか」

「文理関係ないわ」


 真琴が言うと、高木はつまようじをくわえたまま、目玉だけを天井に向けた。そして一言「そういうことなんか」と呟いた。真琴が言うのもおかしいが、こういう素直なところが高木のいいところでもある。


 運痴でヒョロガリのくせに、好きな人がいるだと?真琴に内緒で好きな人がいる。内緒で内緒で、高校にいるのは誰だと頭の中でスライドしてみた。下手くそなバスケット大会、下手くそなバレーボール大会、下手くそな……体育祭、やたらうまいたこ焼を焼く文化祭。一緒にいた女の子は誰だ?あ、自分だ。高木が焼いて、真琴が包んでは、十個二百円で売った。あのときはこんにゃくを入れたことを思い出した。


「不機嫌やな」

「そう?たこ焼、六つあるやろ」

「真琴、八つやん」

「ま、それはいいとして。一つ一つが既知数やと思い」

「何の話?」

「知らざるを……の話や。黙って聞いてたらええねん」

「そうですね」

「でもさ、ここ……」


 真琴はつまようじでたこ焼とたこやきの隙間を突き刺して示した。


「どんなに既に知っていると思っていても、こういうところにまだ知られてないところがあるわけよ。高木にはわかるはずや。わからんとは言わさん。知ったようなこと言う人を戒めてるわけなんや」

「なるほどな」

「相手を思えいうことやっ!」


 真琴は席を立つと、椅子を蹴るようにして店を出た。商店街の商店街を駆け抜けて、途中の信号を越えたところで、予備校の教材の詰まった、重いカバンを忘れてしまったことに気付いた。あれがなくては勉強もできない。今、高木に持ってきてくれと電話するのも腹立たしい。たぶん何も言わなくても持ってきてはくれるのだろうが。

 真琴は告白は自分からしなければ意味がないと思っている。イジメられても、小・中学と通い続けて耐えてきた彼の自己肯定がマイナスまで落ちているのがわかるから。


 だからこそ、そんなあなたでも好きだと思っている人がいるとわかってほしい。真琴はたこ焼き屋のおばちゃんに相談していた。


「そりゃばあちゃんもずっと見てきたで。雨の日も風の日もや。変わろうとしてたわ。わたしも泣きながら見送った日もあるけどな」

「高木んち、親も学校のことはほったらかしみたいやし」

「我慢して生きてきたわな。よう耐えてきたと思うで。でもあんたのは同情やないのか?好きなんか?」


 考えすぎかもしれない。ずっと高木の近くにいて、ずっと見てきて知ったような気でいたのは、もしかして自分の方かも。雨が落ちてくる冷たい曇天の下、真琴は踵を返してたこ焼き屋へ戻ることにした。

 突然、信号機が歪んだ。タイヤの軋む音、焦げたゴムの臭い、冷たいボンネット、すべてが一度に襲ってきて、剥げかけた横断歩道に頬をつけて、駆け込んでくる高木の姿を見つめていた。音が聞こえない。高木のダッフルコートの匂いがする。たこ焼きのソースの匂いだ。


「真琴!」


 真琴は抱かれている。高木の匂いと鼓動が聞こえた。鼓動は自分のものか高木のものかわからない。ヒョロガリの彼でも、こうして抱き締められると、意外にゴツゴツしているんだなと思いながら瞼を開けた。

 高木の顔が間近くにある。

 触れてみたい。

 手が彼の頬に触れた。

 熱い。

 視野が狭くなるのをこらえようとしていた。高木がすぐに救急車が来るからと叫んだ。


「俺、イルミネーションのとき告白しようとしててんや」


 高木は、真琴の苦しさを吸い取ろうとしているように、鷲が翼を広げるかのように覆いかぶさった。


(告白……このままいて……)


 高木が離れ、真琴はコートとブレザー、シャツと下着と、上半身裸にされ、右胸と左の脇腹に何か貼られた。女の人の声が聞こえる。どこかで聞いたことのある、懐かしい声だった。


『心電図を調べています。体に触らないでください』


(どこで聞いたのかな)


『電気ショックが必要です。充電しています。体から離れてください』


(公民館で大人たちにまぎれて聞いていた音だ。AEDだ)


『点滅ボタンをしっかりと押してください。電気ショックを行いました。体に触っても大丈夫です。ただちに胸骨圧迫と人工呼吸を行ってください』


 高木が手の平を胸骨の上に乗せて必死で真琴の骨が折れるほどの勢いで胸骨圧迫を数えていた。


(たしか何回か話してたなあ。消防士さん、何回言うてたんやろ)


『残り五回です。心電図を調べています。体から離れてください』


(いつも一緒に遊んでいたのに、いつから遊ばなくなったんだろう)


『電気ショックは必要ありません。体に触っても問題ありません。ただちに胸骨圧迫と人工呼吸を行ってください』


 顎を少し上に上げられた。高木の口が真琴の口をふさいだ。


(ソースの味がする……)


『心電図が変化したので電気ショックを中止します。続けて胸骨圧迫と人工呼吸を行ってください』


 団地の公民館、夜の八時くらいに行われた講習会は、真琴と高木が壁際に並んで大人たちを見ていた。他にも子どもがいたが、誰かは覚えてもいない。


『なぁ、もしわたしが倒れたらあんなんしてくれんの?』

『すると思う』

『変なとこ触らんといてな』


(あのとき誰か聞いてたんや。いつからか学校で囃し立てたんや)


『高木、真琴の服脱がすんやて。変態や変態。高木は変態や』


 高木は、まさかあのときからAEDの使い方も蘇生の方法も覚えてくれていたんだろうか。あんなに嫌な思いをするキッカケになったのに。

 サイレンが聞こえた。

 ストレッチャーにゴツゴツした筋肉の塊で素早く移された。


(まだ生きてるんや……)


 真琴の手が高木の手を探した。ずっと握ってくれている。高木も救急車に乗っているのか。救急車がやわらかに走るところは記憶にある。


(あんなこと言わんだら、高木もあんなこと答えんで済んだのに。ごめんな。わたしのせいで)

 

「聞こえるか!」


 真琴の耳に知らない男の声が聞こえた。聞こえてはいる。だから右手を握り返した。


「真琴?」


 息がくすぐったく、高木だと思って瞼を開こうとした。


(重い……)


 ライトが眩しい。

 目玉が高木を捉えた。救急車の狭い空間で高木が隣にいた。自分が握っている手は高木の手だとはっきりとわかってうれしかった。


「救急車、意外に遅いな」

「え?」

「何でもない」

「え?」


 酸素マスク越しに言うと、高木は必死で耳を近づけてきた。


(そんな必死にならんでも、つまらんことやからええねんて)


 高木がいる。

 これは既知である。

 わたしもいる。


 真琴はたこ焼きとたこ焼きの間の空間には何があるのだろうかと考えた。皿がある。つまようじが皿を突いた。自分と高木の間にあるのはお互いに未だに知らない気持ちだ。


(わたしのこと好き?)


 がくんと揺れて、ストレッチャーごと病院へと運ばれ、また別のストレッチャーに移された。今度は少し化粧の匂いがする。看護師だろうなと思うと、手が離れていることに気付いた。何度か動かしても空を散らかすだけで手ごたえがない。


「暴れないでね。今、病院にいるから。もう大丈夫だから」


 何人かで抑えられた。たぶん動かしているのは手だけではなさそうだった。必死で身を起こそうとしているようだ。やがて巨大なトンネルにいることに気付いた。


(これは夢かな)


 真琴の隣に骸骨がいた。黒い甲冑の音が聞こえる。タロットカードの死神に似ていた。ドクロの黒い窪みに吸い込まれそうだ。


(バレーボールやめよ……)


 伸びてきた甲冑の手は、真琴の口を塞いだ。苦しい。まだ生きているのに。もう息ができないというところで、死神の手が離れた。

 ドクロの隣に煙草をくわえたヨレヨレの背広姿が立っていた。今、真琴がいるのは病院なのに、煙草なんて吸わないでよと叫んだ。片方のズボンのポケットに手を入れ、もう片方の手には、くすぶった銀の拳銃が握られていた。銃口にこめかみを捉えられた死神は、中腰のような姿勢のままで、なぜか真琴は唾を飲み込んだような音を聞いた気がした。


『俺の仕事の邪魔をするのか』

『まだ生きてる』

『もう死ぬ』

『なら死んでから奪え。天使が人を殺していいわけじゃない』

『貴様、どこのギルドのもんだ』

『今すぐに立ち去るか、頭をぶち抜かれるか選べ。おまえは人の生死に介入しようとしたんだ。ここで殺されても文句は言えん』

『拳銃ごときで俺を殺せると?』


(死神じゃないんだ……)


『ただの拳銃じゃない。こいつは天使でも殺せる』

『天使を敵にするのか』

『もともと味方でもない』

 

 引金を引いた。

 轟音で真琴は目を剥いた。

 骸骨の頭が弾け飛んだ。粉々に散らばった骨の上に甲冑が落ちた。

 イケオジタイプの彼は拳銃を脇になおすと、床に首から外した鍵を差した。すべてが穴に消え、吸い殻も適当に放り込んでしまった。


『あなたは?』

『この世とあの世の間の未知なる世界に棲んでいる』

『なぜ助けてくれたんですか』

『生きるのにも理由がいるのか?』


 背を向けると、姿が消えた。


(夢……?)


 真琴は虫がいっぱいついた天井を見つめていた。違った。天井に付いている模様だ。わずかに首を横に動かすと、ガラス越しに看護師の背中が見えた。まだ若い彼女は何か察したらしく肩越しに振り向いた。

 真琴の傍に来ると、ここがどこかわかるかと尋ねたので、病院だと思うと言おうとしたが、乾燥した唇がくっついてうまく言えなかった。看護師がガーゼで濡らしてくれた。

 ぼやけた視界の中、名前と生年月日を聞かれて答えた。バカにしているのかと思いながら、予備校に行く途中、事故に遭ったことや救急車で運ばれたことも話した。

 看護師は聞きながら頭もとのナースコールを押した。医者が来て、ライトの動きを追いかけた。からかっているのかと腹が立ってきた。指を順番に動かした。左小指は固定されていて動かなかった。

 足の指に何か添えられて、感触があるか聞かれた。膝を立てるように言われて、右足は合格をもらった。左足は足首がギブスで固定されていた。


「看護師さん、ギィ……は?」

「ギィ?」

「高木」

「これの彼氏さんね」

「え?」

 

 看護師が指差したベッドの脇、心電図の台に、紫と白のマーブル模様のトンボ玉が掛けられていた。


「御守に置いて」

「彼氏……え……あ、はい……まだ告白はしてませんけど」

「そうなの?」


 看護師は笑みを浮かべながら点滴を確かめた。もう少し速くしてもいいかなとツマミを調整した。


 CT検査の結果、真琴は後遺症の心配もないだろうと診断された。死にかけたわけではないようだ。


「わたし、たいした怪我でもなかったんですね」

「まさか応急処置が完ぺきだったからよ。肺に肋も折れてるし、左足首骨折、左小指骨折してたかな。外傷性脳挫傷で意識不明が続くようなら死んでたんやから」

「どれくらい経ちました?」

「運ばれて五日くらい」

「ずっと眠ってたんですね」

「意識はどうかわからない。ずっとギィギィ言うてて、みんなで心配してたのよ。高木くんのことね」

 

 他の看護師が覗きに来た。ぱっと花が咲いたような表情が、次々と現れて照れくさくなってきた。


「あなたたち、早く自分の持ち場に行くように。おうちの人、すぐ来るから待っててね。高木くんは土曜日の午後たがら、少し待たないと」


 母ほどの年格好の看護師が、ケアをしながら笑い、真琴は少しがっかりした。どうせなら回復をアピールしたい気もする。


(何で世間体考える。髪の毛くらいはキレイにしときたいな。いや。怪我人だし)


「OK!尿の量も問題ないし。後で管をずして、個室へ移れるわよ」


 端末で尿の量を入力して、付け替えた点滴のバーコードを読み込んだ。看護師は順調順調と呟いた。


「個室にもカメラ付いてるから心配いらない。チェックしてる」

「トイレは?」

「このマット踏んだらナースステーションに音で知らせるし、はじめはコール押して。手伝うからね」


 土曜日、朝十時、ようやく高木が訪ねてきた。間の悪い。トイレへ行くために、看護師と歩行器で歩いているところにノックがした。

 トイレから出た真琴は、恥ずかしい思いでベッドに戻ると、体を軋ませながらベッドに腰掛けた。


「調子は?」

「平気平気。今んところ頭の障害もないやろうと言われた。でも足首と左腕のリハビリはいるみたい。筋肉とかも。徐々に出るかも」

「そうか」

「助けてくれたのよね。看護師さんから聞いた」

「約束したから」


(遠い約束……)


「公民館の講習会で」

「うん。それとこれ……」


 真琴はトンボ玉のある革紐のネックレスを指でなぞった。


「イルミネーションのときに言おうと思うてた。そしたら緊張して訳わからん話しか出てこなくて」


 高木は頭を掻いた。


「告白はマジなん?」

「え?」

「倒れたとき聞こえてた」

「うん」

「でもわたしでええん?体、動かんようになるかもしれんで」

「怖いんか」

「ちょっと……」


 真琴は、ドクロの兵士に命を奪われる寸前、他の死神が来て拳銃を撃ったとき目を覚ましたと話した。妙に生々しい夢で、この世とあの世の間にいたのかもしれない。


「不思議な夢や」

「ソースの味した」

 

 二人、どちらともなくつつくようなキスをして照れ隠しでうつむいた。真琴は天井のカメラに気付いてやってしまったと口を開いた。


「あ……」


 おわり


参照

公益法人日本心臓財団

https://www.jhf.or.jp/check/aed/display/

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