異世界で死者の夢を記録する仕事
nco
第1話 職業を与えられる
目が覚めたとき、空は低かった。雲が低いという意味ではなく、空というものが天井のようにすぐそこにある感じだった。手を伸ばせば触れそうで、触れたら少し冷たいだろうと思った。実際に触れようとはしなかった。
周りには建物がなかった。木はあった。木は大きく、葉が密で、風が吹くとまとまって揺れた。草は短く、地面は乾いていた。遠くに水の音がしていた。川があるのだろうと考えたが、確かめる前に背後から声がした。
「起きた?」
女性の声だった。振り返ると、白い服を着た女性が立っていた。白い服は汚れていなかった。彼女がどこから来たのかはわからなかった。さっきまでいなかったはずだが、そういう確信はすぐに薄れた。
「ここはどこですか」
僕が聞くと、彼女は少しだけ首を傾げた。
「どこでもない。けど、ここにいる」
それは答えになっているようで、答えになっていなかった。僕は自分が混乱しているのかどうかを確かめようとしたが、混乱というより、説明が足りない状態だった。
女性は僕の手元を見た。僕の手には何も持っていなかったはずなのに、いつの間にか小さなノートがあった。黒い表紙で、紙は厚かった。ペンも一緒に握っていた。握っているという感覚が、先に存在していた。
「それを使う」
女性は言った。
「何に?」
「仕事に」
仕事という言葉は現実的だった。現実的な言葉が出ると、状況が少しだけ落ち着く。僕はノートを開いた。最初のページには何も書かれていなかった。白紙は白紙として存在していた。
「僕は、何をすればいいんですか」
「夢を聞いて、書く」
「誰の夢?」
「死者の」
死者という言葉は重いが、彼女の口調は軽かった。軽い口調は重い言葉を薄める。薄められた言葉は、飲み込みやすい。
「死者は成仏する前に、一度だけ夢を見る」
女性は続けた。
「それをあなたが聞いて、記録する」
「理由は?」
「理由はない」
理由がない、という言い方ははっきりしていた。はっきりしていることは、疑問を打ち切る。僕は疑問を持ったが、その疑問の行き先がなかった。
「選べない?」
「選べない」
「拒否は?」
「できない」
彼女はそう言い、少しだけ笑った。笑いには感情が少なかった。感情が少ない笑いは、こちらの感情を刺激しない。
僕はノートを閉じて、また開いた。開くたびに白紙は白紙だった。仕事というものは、普通は手順がある。手順がない仕事は、仕事というより状況に近い。
「どこで聞くんですか」
「ここ」
「ここって」
「ここは、そういう場所」
彼女は遠くの水音のほうを見た。川があるのだろう。僕は川という単語を頭の中に置いた。置いたまま、意味づけはしなかった。
しばらくすると、彼女は僕の横を通り過ぎ、歩き出した。僕もついていった。ついていく以外にすることがなかった。道は道として整備されていなかったが、歩ける範囲が自然にわかった。そういう場所は、現実にもある。
川の近くにベンチがあった。木でできた簡素なベンチで、背もたれはなかった。誰が置いたのかはわからない。ベンチの横には、もう一人誰かが座っていた。
座っていたのは男だった。年齢は中年に見えた。服装は地味で、泥も血もついていない。ただ、目が空を見ているようで見ていなかった。彼は僕に気づくと、ゆっくりと顔を向けた。
「……もう時間?」
男は言った。
「何の時間ですか」
僕が聞くと、男は首を振った。
「わからない。わからないけど、ここに来た」
女性は僕に目配せをした。目配せは「始めろ」という意味に見えた。僕はノートを開き、ペンを持った。
「あなたの夢を聞かせてください」
僕が言うと、男は少し考えた。考えたというより、どこかを探しているようだった。
「夢か」
男は言った。
「夢って、こういうのか?」
「たぶん」
男は川を見て、夕方の光を見た。夕方かどうかはわからないが、光は柔らかかった。
「俺は……パンを買ってた」
男は言った。
「戦争じゃなくて?」
「戦争は、夢に出てこない」
それは奇妙だったが、奇妙さを説明する気にはならなかった。僕はペンを動かし、男の言葉を書いた。パン。袋。温かさ。店員の声。そういうものが並んでいった。重要な情報はなかった。けれど、男はそれを話し続けた。
僕は書きながら思った。ここでの仕事は、世界を救うためではない。死者を救うためでもない。夢を記録する。それだけだ。理由はない。選択肢もない。僕はその状況に、少しだけ慣れ始めていた。
川の音は一定だった。ベンチは硬かった。夕方の光は、ずっと夕方のままだった。僕はノートに文字を書き続けた。最初のページは、白紙ではなくなった。
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