勇者がいなくなった世界で、鍵を預かる男

nco

鍵を預かる者

第1話 魔王討伐後の異世界

 戦争は終わっていた。終わっているという事実は、街の空気の薄さに近い形で感じられた。誰も声を張り上げないし、誰も剣を抜かない。広場には花が植えられ、露店が出て、子どもが走っている。こういう光景は、どの世界にもあるのだと思った。


 僕は戦っていない。戦争の最中も、魔王討伐の行軍の最中も、僕は別の場所にいた。何をしていたのかは説明しにくい。説明しても、たぶん誰の役にも立たない。結果として僕は生き残り、街は平和になった。平和は、うまく定義できない種類の現象だった。


 城の門は開いていた。以前はもっと厳重だったと聞いたが、僕は見たことがない。門番はいるが、目つきは穏やかで、立ち方も少しだらけている。仕事が減ったのだろうと思った。減った仕事の代わりに、何が増えたのかは知らない。


 僕は城の中庭を横切り、奥の建物に向かった。そこへ行く用事がある人は少ない。用事がある人は少ないが、用事がない人が行ってはいけないとも言われていない。そういう場所があると、人は逆に近づかなくなる。


 そこには扉がひとつあった。扉の前には何も置かれていない。衛兵もいない。扉は古く、表面の木は乾いている。取っ手は金属で、触ると冷たい。鍵穴はあるが、鍵が差し込まれた形跡はない。扉の向こうがどうなっているのかは、想像しないことにしていた。


 僕のポケットには鍵が入っていた。小さくはないが、重すぎることもない。鍵の形は奇妙で、見たことのない刻みが入っていた。誰が作ったのか、どこから来たのかは知らない。僕が知っているのは、それが「最後の扉の鍵」と呼ばれているということだけだった。


 なぜ僕がそれを預かっているのかは、よくわからない。王から命じられたわけでもない。神託があったわけでもない。勇者に手渡されたわけでもない。気づいたら、僕が持っていた。そういう始まり方のものは、だいたい説明がつかない。


 街の人々は、魔王が倒れたことを喜んでいる。喜び方はそれぞれだが、喜びそのものは確かに存在していた。酒場は賑やかで、音楽が鳴り、歌が聞こえる。だが、そこに混ざっていくと、時々、少しだけ空気が変わるのを感じた。笑い声の裏側に、薄い膜のようなものがある。膜は見えないが、触れればわかる。


 その膜の正体が何なのか、誰も言わない。言わないことが正しいのかどうかはわからないが、言わないことによって平和が維持されているのなら、それもひとつの方法だと思った。僕はそれについて結論を出さないことにした。


 城の回廊を歩くと、壁に古い旗が掛かっていた。魔王軍の旗ではなく、王国の旗でもない。色が褪せていて、紋章が判別しにくい。誰がそれを掛けたのかは知らない。僕は旗を見上げ、すぐに視線を外した。視線を外した理由はなかった。


 扉の前に立ち、鍵を握った。鍵は少しだけ温かくなっていた。僕の体温が移ったのだろう。扉は動かなかった。僕が鍵を差し込んでいないのだから当然だが、扉が動かないことに安心している自分がいた。安心がどこから来るのかは、追わなかった。


 背後から足音がした。振り返ると、兵士が一人立っていた。年齢は若く、鎧は新しい。顔つきには疲れが残っているが、それを隠そうとしているようにも見えた。


「ここに何があるんですか」

 兵士はそう聞いた。

「扉がある」

 僕は言った。

「それは見ればわかります」

「じゃあ、見ていればいい」


 兵士は少し黙った。質問の仕方を間違えたと感じたのかもしれない。あるいは、そもそも質問してはいけない場所だと気づいたのかもしれない。彼は僕の手元を見た。


「それ、鍵ですか」

「そう」

「開けないんですか」

「開けろと言われていない」


 それは事実だった。誰も開けろと言わない。誰も開けるなとも言わない。扉はそこにあり、鍵は僕のポケットにあり、世界は平和になった。こういう並び方は、どこか歪んでいる気がした。歪みは空気の膜みたいに薄く、しかし確かに存在していた。


 兵士は何か言いかけて、やめた。やめた理由はわからない。彼は敬礼をして、去っていった。僕は扉の前に残った。


 鍵をポケットに戻し、扉に手を置いた。木は乾いていて、冷たかった。向こう側の気配はなかった。気配がないことが、向こう側が空であることを意味するのかどうかはわからない。


 帰り道、城の外では人々が笑っていた。平和は続いていた。続いていること自体が、何かを隠しているようにも見えたが、隠しているものを見つけるつもりはなかった。僕は鍵の重さを確かめ、歩き続けた。


 戦争は終わっていた。終わっているのに、僕はまだ何かを預かっていた。預かっているという事実だけが、僕の中で小さく鳴っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る