地図に載らない店で、私は私を買い戻した【お題フェス11】

すぱとーどすぱどぅ

地図に載らない店で、私は私を買い戻した

 地図に載らない店は、たいてい路地の奥にある。そういうものだ、と人は言う。だが本当に厄介なのは、奥にあることじゃない。奥にあるのに、誰でも知っていることだ。


 俺の住む町にも、それはあった。商店街の外れ、駐輪場の裏の、路地とも呼べない隙間。昼は日が差し込まず、夜は街灯が届かない。そこに、古びた木の扉が一枚、まるで昔からそこにあった顔で立っている。


 看板はない。店名もない。営業時間もない。なのに、住民は全員「ある」と言う。話題にする時だけ、声が少し小さくなるのも、全員同じだ。


 入ったやつは、何かを失う。


 それが何かは、本人にも分からない。


 つまり、失ったことにすら気づけない。だから恐れるべきなのは、損失じゃない。損失の痕跡が残らないことだ。財布を落とせば、空っぽのポケットが証拠になる。恋人に振られれば、空席が刺さる。だが、証拠がない喪失は、喪失として取り扱われない。人は喪失の埋め方すら知らずに生きることになる。


 俺は、その店の前に立っていた。


 扉の取っ手に触れないまま、目だけで木目をなぞる。波打つような木の筋が、まるで指紋みたいに複雑で、見ているうちに自分の身元まで吸い取られそうだった。


 きっかけは、友人の言葉だった。


「なあ、最近さ、俺……なんか、変なんだよ」


 高校からの付き合いの柏木が、缶コーヒーを握りしめて言った。駅前のベンチ。夕方の風が、洗剤みたいな匂いを運んでくる。


「どんな?」


「いや、具体的には言えない。言えないっていうか……言おうとすると、言葉が出ない。喉の奥で詰まる。言葉って、こんなに硬かったっけって思う」


 柏木は笑おうとして、失敗したような顔になった。


「それでさ、俺、行ったんだよ。あの店」


 その瞬間、俺は反射的に周囲を見た。誰かが聞いていないか確かめるみたいに。夕方の駅前にいる人間なんて、誰も他人の会話に興味なんてないのに。


「行くなって言われてただろ」


「言われてた。だから行った。……で、帰ってきたら、別に何も変わってない。家族も普通。仕事も普通。俺も普通。なのに、変なんだよ」


 柏木は缶の縁を爪でこすった。金属が鳴る。耳に痛い音だった。


「変って、何が」


「分かんない。分かんないのが変だ。俺さ、こういう時は、何が変かぐらい分かったんだよ。分かった上で、ごまかしてた。なのに今は、ごまかす対象がない。空白があるだけ」


 その空白に、俺は身に覚えがあった。ちょうど一週間前から、俺も同じ感覚を抱えていたからだ。


 俺は出版社の校正部で働いている。紙と文字に囲まれた仕事だ。文章は人の思想を写す鏡で、そこに生じるズレを修正するのが俺の役目だった。誤字脱字、表記揺れ、論理の破綻。人間の言葉はいつもどこか歪む。歪むからこそ直せる。


 だが、一週間前、突然、俺は直せなくなった。


 正確には、直した後に、直したことが分からなくなる。


 原稿に赤を入れる。整った文章になる。なのに、校了後、読み返すと、何が整ったのか覚えていない。直す前と直した後の差分が、俺の脳内から抜け落ちる。ページだけは確かに存在するのに、そこにあったはずの違和感が、存在しなかったことになっている。


 最初は疲れだと思った。残業続きで睡眠も浅い。だが、同僚は言った。


「最近、佐々木さん、ちょいちょい変だよね。前なら絶対拾うところ、スルーしてる」


 スルーしている自覚はない。むしろ、拾った記憶はある。拾って直した。直したはずだ。なのに、結果としてスルーになっている。


 俺は怖くなった。言葉を扱う仕事で、言葉に穴が空くことが、どれだけ致命的か分かっていたからだ。


 そして、その穴の質感が、柏木の言う空白と似ていた。


 俺は柏木に聞いた。


「店で、何をした?」


「扉を開けて入った。中は普通の店だった。古道具屋みたいな。埃っぽい。棚があって、いろいろ置いてある。でも、値札がない。店主がいる。歳が分からない。男か女かも、よく分からない。顔を見たのに、思い出せない。で、店主が言うんだよ。好きなものを一つ、選べって」


「選んだのか」


「選んだ。いや、選ばされたっていう方が近い。何を見ても、手が勝手に伸びる。俺は……小さな鍵を取った。真鍮の、古い鍵。手に持った瞬間、店主が言ったんだよ。お代は頂いた、って。金は払ってないのに」


 柏木はそこで黙り、しばらく缶コーヒーを見つめた。


「……それだけ?」


「それだけ。出ようとしたら、もう外だった。扉も見当たらない。路地が、ただの壁になってた。怖くて戻れなかった」


 話を聞き終えた俺は、笑うべきか迷った。冗談にするには、柏木の声が真剣すぎた。都市伝説にしては、生々しい息遣いがあった。


 そして今、俺はその扉の前にいる。


 取っ手は冷たい。冬じゃないのに。触れた指先だけが、急に別の季節へ置き去りにされたみたいだった。


 俺は深呼吸して、扉を押した。


 驚くほど軽く開いた。きい、と音がした。古い扉なのに、耳にまとわりつく嫌な軋みじゃない。むしろ音が綺麗すぎて、不自然だった。録音みたいに。


 中は狭い。外から見たよりも狭い。四畳半ほどの空間に、棚がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。古いランプ、錆びた時計、欠けた皿、擦り切れた本。どれも「古い」だけで、特別なものには見えない。それなのに、視線がどれにも引っかからない。目が滑る。視界に入った瞬間、頭が勝手に「見なかったこと」にしようとする。


 店の奥、カウンターの向こうに、店主がいた。


 背が高い。だが、存在感が薄い。スポットライトの外側に立っている人間みたいだった。顔を見ると、そこだけピントが合わない。視力が落ちたわけじゃない。焦点を合わせる行為そのものを拒絶されている。


「いらっしゃい」


 声は男にも女にも聞こえた。若くも老いても聞こえた。舌に乗る温度だけが、妙に低い。


「好きなものを一つ、選びなさい」


 俺の喉が勝手に乾いた。まるで空気が粉になって詰まっていく。


「……何の店ですか」


「地図に載らない店です」


 答えになっていない。だが、それで会話が成立してしまう感じがあった。こちらが疑問を深掘りしようとすると、質問が霧散する。言葉の輪郭が薄くなる。


「選んだら、何が起きる」


「あなたは何かを失い、何かを得ます」


「失うものが分からないなら、選べない」


「失うものを知っている人は、この店には来ません」


 店主は淡々と言った。呪い文句みたいに、自然な口調で。


 俺は棚に視線を移した。古道具の列。だが、見ているうちに、あることに気づいた。


 並んでいる物は、どれも「誰かの生活の断片」みたいだった。子どもの落書き帳。名刺入れ。写真立て。鍵。指輪。ペン。どれも、持ち主の顔が浮かばない。けれど、確かに誰かが必要として、触れて、手放した痕跡がある。


 俺の指が、勝手に動いた。


 棚の中段。背表紙の擦れた一冊のノートに触れる。手触りは硬い。表紙は黒。ゴムバンドがついている。開かないように縛ってある。


 触れた瞬間、胸の奥が痛んだ。


 理由のない痛み。いや、理由が分からない痛み。


 俺はノートを引き抜いてしまった。


 店主が言う。


「それですね」


「……これ、なんだ?」


「あなたのものです」


「俺の?」


「あなたが、置いていきました」


 そんなはずはない、と言おうとしたのに、言葉が出ない。否定の文章が喉の奥で崩れていく。まるで「違う」という概念を、口が忘れているようだった。


 俺はノートを抱え、店主を見た。見たのに、顔の輪郭が定まらない。なのに、目だけは確かにこちらを見ている気がした。目の位置も、色も分からないのに、視線だけが突き刺さる。


「お代は」


「頂きました」


「いつ」


「今」


 店主は少しだけ笑った。笑ったのに、表情が見えない。笑いという事実だけが、空気に刻まれる。


 俺は店を出た。


 扉を閉めると、そこはもう路地だった。駐輪場の裏。外の空気が妙に重い。空が遠い。遠いという感覚だけが、胸を叩く。


 俺は足早に帰宅した。途中で何度か振り返ったが、あの扉は見つからなかった。壁とゴミ置き場があるだけ。最初から存在しなかったみたいに。


 部屋に戻り、机の上にノートを置いた。黒い表紙。ゴムバンド。指先に、まだ店の冷たさが残っている。


 俺はゴムを外した。


 ぱちん、と音がした。小さな音なのに、鼓膜の奥で大きく響いた。


 ページを開く。


 そこには、俺の字で文章が書かれていた。


 見覚えのある癖。句読点の打ち方。行間の取り方。間違いなく俺の筆跡だ。だが内容が、俺の記憶を殴った。


 最初のページに、こう書かれていた。


 自分の名前を、忘れないために書く。


 次の行。


 柏木という友人のことを、忘れないために書く。


 さらに。


 仕事のことを、忘れないために書く。


 俺の背中を、冷たい汗が流れた。


 俺は柏木の顔を思い浮かべようとした。駅前のベンチで話した時の顔。笑い損ねた顔。缶コーヒーを握る手。


 だが、思い浮かばない。


 名前だけが残っている。「柏木」という音だけが、口の中で転がる。顔も声も、輪郭がない。俺は今、たった今まで彼と話したのに。


 俺の喉から、変な声が漏れた。


 笑いでも、呻きでもない。空気が抜ける音。


 俺は慌ててスマホを取って連絡先を開いた。柏木。表示はある。だが、アイコンの写真が真っ黒だった。読み込みが失敗したみたいに。写真が消えたのか、最初から設定されていなかったのか、分からない。通話ボタンを押そうとすると、指が止まる。


 押したら、何が起きる。


 そんな理屈はないのに、身体が理解している。押した瞬間、「柏木」という音すら消えるかもしれない。証拠のない喪失が、完成してしまうかもしれない。


 俺はノートに戻った。


 ページをめくる。そこには、日付がある。過去の日付。何日分もある。


 そして、同じことが繰り返し書かれていた。


 今日は、何かを失った。


 失ったことは分からない。


 分からないことが怖い。


 だから書く。


 俺は息を止めた。


 自分は、何度もあの店に来ている。行った記憶はない。だが、ノートが証拠だ。証拠があるのに、証拠の対象が思い出せない。矛盾が、矛盾のまま成立している。


 最後のページに、赤いインクで一行だけ書かれていた。


 次に来た俺へ。絶対に、最後の棚の上段だけは見てはいけない。


 俺の視線が、勝手に部屋の天井へ向いた。


 そこに棚はない。もちろんない。だが、視線は「棚がある場所」を知っているみたいに、空中に固定された。


 俺は、ゆっくり立ち上がった。


 理由は分からない。いや、理由が分からないからこそ動いている。未知のものは、理解より先に身体を動かす。


 次の瞬間、俺は思った。


 今、俺は何かを得たのだろうか。


 そして、何を失ったのだろうか。


 答えが見えないまま、部屋の空気が少しだけ薄くなった気がした。まるで世界が、俺から一枚ずつ紙を剥がしていくみたいに。


 俺はノートを握りしめた。


 まだ書ける。書けるうちは、残せる。残せるうちは、失ったことに気づけるかもしれない。


 だが、もし次に失うものが「書く」という行為そのものだったら。


 その可能性だけが、はっきりとした輪郭を持って、俺の前に立っていた。

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