世界が瞬きする間に

辛口カレー社長

世界が瞬きする間に

 僕はコインランドリーのベンチに座って、回る乾燥機を眺めていた。安っぽいドラムの回転に合わせて、中に入れたシャツとタオルが極彩色に混ざり合う。

 その時、ふと視線を逸らした壁の隅に、奇妙な穴を見つけた。壁紙が剥がれているわけでも、カビが生えているわけでもない。そこだけ、色がなかった。黒でも白でもない。強いて言うなら、パソコンの画像データが読み込めなかった時に表示される、あの無機質なグレーの市松模様の透過背景のような、あるいはブラウン管テレビの砂嵐を静止画にしたような、絶対的な欠落がそこにあった。

 僕は指先でそれに触れた。冷たくも熱くもない。ただ、指先の感覚がそこだけ消失した。

 ――ああ、またか。

 僕はポケットから愛用の万年筆を取り出した。インクなど入っていない。代わりに、僕の認識そのものを先端に集中させるための道具だ。

 その穴の輪郭をなぞるようにペン先を走らせる。頭の中で、そこにあるべき壁の質感、汚れ、古びたコンクリートの匂いを強烈にイメージする。すると、世界は瞬きをするように一度だけ揺らぎ、次の瞬間には穴は消えていた。そこには、ただの薄汚れたクリーム色の壁があるだけだった。

 この現象は、日常の中にしばしば姿を現すバグのようなもので、僕は「未知」と呼んでいる。そして、自分のような人間を「修正者」と呼んでいる。誰かに雇われているわけでも、お金をもらってやっているわけでもない。ただ、放っておくと未知は広がり、世界の整合性を食い荒らしてしまう気がして、見つけるたびに塞いで回っている。誰にも感謝されない、孤独なボランティアのようなものだ。


 その日、僕は都心の大型書店の裏路地にいた。室外機の熱風と、揚げ油の古い匂いが漂う狭い通路。そこに、今まで見たこともないほど巨大な未知が発生していた。

 それは、路地の奥全体を覆い隠していた。向こう側にあるはずの通りが見えない。そこにあるのは、圧倒的な未知だ。

 普段なら、小さな未知はノイズのようにチリチリと音を立てるか、あるいは無音でそこに佇んでいるだけだ。だが、今回のそれは違った。

 ――呼吸をしている。

 色のない空間が、生き物のように収縮と膨張を繰り返している。

「でかいな……」

 僕は万年筆を握りしめ、慎重に近づいた。これほどの規模の未知の修正は初めてだ。脳の血管が焼き切れるかもしれないという恐怖が、背筋を冷たい指でなぞる。だが、放置すればこの路地ごと未知に飲み込まれ、地図から消滅してしまうかもしれない。

 僕は未知の境界線に立ち、集中した。路地の向こう側の風景を思い出す。自動販売機、放置自転車、少し傾いた電柱。

 イメージを固定しようとしたその時、未知の中から手が伸びてきた。悲鳴を上げる間もなかった。

 その手は僕の右手首を掴んだ。骨が軋むほど強い力だったが、痛みはなかった。代わりに、膨大な情報量が脳内に直接流れ込んできた。

 それは言葉ではなかった。

 見たこともない色の花。重力とは逆方向に降る雨。悲しみで発電する街。三つの月が奏でる和音。

 この世界には存在しない概念、物理法則、感情。それらが奔流となって僕の中を駆け巡る。

「確定するな」

 頭の中に、低い声が響いた。男の声のようでもあり、女の声のようでもあり、あるいは子供の声のようでもあった。

「お前たちが『未知』と呼ぶそれを、既知の理屈で塗りつぶすな。世界が窒息しかけているのが分からないのか?」

 僕はハッとして、掴まれた腕を振りほどこうとしたが、その手は離れない。

 未知の表面が揺らぎ、そこから一人の人影が滲み出してきた。輪郭は曖昧で、見ているだけで遠近感が狂うような存在。

 それは僕の目の前で、人の形を模倣しようとしていた。

「君は……誰だ?」

 僕の声は震えていた。

「私は、まだ名前のないもの全てだ」

 影は答えた。

「お前たちは怖がりすぎる。理解できないものをエラーとして処理し、見なかったことにする。だが、その隙間にこそ、この世界が次に進むための『可能性』が詰まっているんだ」

 影が指差した先、路地のコンクリートの割れ目から、青く発光する植物が芽吹いていた。それは僕の知る、どんな植物学の図鑑にも載っていない形をしていた。

「見ろ。私の漏れ出た一部が、新しい生命いのちになろうとしている。お前がこれを『雑草』として修正すれば、この星から一つの可能性が消える」

 僕は万年筆を構えたまま動けなくなった。

 今まで僕がしてきたことは、世界を守ることではなく、世界の成長を止めることだったのか?

 秩序を保つという名目で、僕は新しい色が生まれるキャンバスを、古いペンキで塗りつぶし続けていただけなのかもしれない。

「選べ、修正者よ」

 影は僕の手を離した。

「このまま私を、ただの路地の風景として上書きするか、それとも、この小さな未知を残すか」

 汗がこめかみを伝って落ちた。心臓の音がうるさいほど響いている。

 僕は万年筆のキャップを親指で弾いた。カチリ、という乾いた音が路地に響く。

 目の前には、圧倒的な未知。理解不能な恐怖。でも、その奥に見えた、重力と逆方向に降る雨の美しさが、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。もしあれが、この世界で本当に見られるとしたら?

 僕はゆっくりと万年筆をポケットにしまった。

「上書きは、しない」

 僕は掠れた声で言った。

「ただし、条件がある」

「条件だと?」

 影が大きく揺らぐ。

「ここを通りかかる人が、発狂しない程度に擬態してくれ。いきなり異次元を見せられたら、普通の人間は壊れてしまう。少しずつ、馴染ませてくれ」

「ふむ。妥協案か。人間らしいな」

 影は笑ったような気配を見せると、霧散するように未知の中へと溶けていった。それと同時に、視界を覆っていた巨大な灰色の空間は、急速に収縮を始めた。完全に消えたわけではない。路地の奥、ブロック塀の陰に、小さな陽炎かげろうのような揺らぎだけが残った。

 よく見なければ気づかない。でも、そこを覗き込めば、確かにこの世のものではない色彩が渦巻いているのが分かる。

 コンクリートの割れ目から生えた青い植物は、そのまま残っていた。微かに光を放ちながら、風もないのに小さく揺れている。


 あれから数か月が経った。僕は相変わらず、街を歩いている。でも、もう以前のように片っ端から未知を修正して回ることはやめた。明らかに危険なもの、人が落ちてしまいそうな虚無の穴だけは塞ぐが、それ以外の小さな未知は、あえて見逃すことにしたのだ。


 最近、街が少しずつ騒がしくなった気がする。

 公園のベンチで、誰もいないのに誰かと楽しそうに話す老人を見かけた。

 高架下のトンネルで、聞いたことのない音階の歌を口ずさむ子供とすれ違った。

 深夜のコンビニエンスストアで、新商品として並んでいたドリンクの色が、見る角度によって味が変わるという噂を聞いた。

 世界は少しずつ、ほころび始めているのかもしれない。あるいは、ようやく深呼吸を始めたのかもしれない。


 僕はカフェのテラス席で、冷めたコーヒーを啜りながら手帳を開いた。そこには、僕が見逃した未知の場所を記した地図が描かれている。それは修正記録ではなく、新しい世界のガイドマップだ。

 ふと、視界の端が揺らいだ。

 交差点の向こう側、信号待ちをする人混みの中に、あの日見た「影」が一瞬だけ混じっていたような気がした。それはビジネスマンのスーツ姿を借りていたが、すれ違いざま、僕の方を見てニヤリと笑ったように見えた。

 信号が青に変わる。無数の人々が一斉に歩き出す。その足音のリズムの中に、ほんの少しだけ、聞いたことのない拍子が混ざっている。

 僕は手帳を閉じ、空を見上げた。今日の空の青さは、昨日までの青とは、ほんの数ミリだけ違う成分でできている気がした。


 世界はまだ、完成していない。そのことが、なぜだか無性に嬉しかった。

 僕は席を立ち、まだ誰も名前を知らない風が吹く方へと、歩き出した。


(了)

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世界が瞬きする間に 辛口カレー社長 @karakuchikarei-shachou

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