xxx6

ナナ氏の

序幕:出発

 ある住宅街の一角に、崩れ落ちる寸前の家屋がある。かつて威容を誇ったであろう邸宅は、庭に雑草が生い茂り、壁の塗料は見る影もなく剥落している。にもかかわらず、今朝、薄暗いリビングルームからは、二つのいびきが響いている。


 窓から差し込む冬の日差しが、埃の舞う板の間に光を投げかけると、乾いたしわぶきが静寂を破る。一人の男が目を覚まし、居間に転がる重たい塊が身じろぎして、しゃがれた呟きを吐き捨てた。


「……ああ、不覚なり。佳節の祝いとはいえ、あまつさえ粗悪な酒ごときに我を忘れるなど、浅ましき限りだ」


 黒いフロックコート姿の男、パスカは、昨夜の酔いに侵され泥と化した体を、関節をぎしぎし軋ませつつ引き起こした。夜会の場に場違いな昼の正装が、鉄の皮膜となって彼の怠惰な肉体に張り付く。


 重い瞼を持ち上げ、ぼんやりと周囲を睨み返せば、ひっそりとした部屋だ。昨宵の記憶は曖昧だが、いつもの屋敷にいるのだろう。


 視界が安定せず、足元の異物に気づいて立ち止まった。すぐそばで、得体の知れない何かが倒れている。憔悴しきった布を纏い、どこか脱力した男が床に寝転んでいた。


 パスカは眉間に陰りを落とし、目つきが鋭くなると、傍らにあったステッキを拾い上げ、細身の石突いしづきで肉の塊をコツコツと突いた。


「何故わしの屋敷にいるのだ! 遅疑なく、名を名乗れ!」口髭がピクリとひきつり、あごを引く。


 家具ひとつない床で、男は目をぎょろりと見開き、体を痙攣させて跳ね上がった。すらりとした手足をもぞもぞ動かし、上体を小刻みに立て直す。


「……チッ。頭痛い……」


 大きく息を吸い、あくびを噛み殺して体を伸ばす。視線を巡らせると、塗り壁のテクスチャがやけに古臭い。


「は? 誰だ、そこにいるのは? ここはオレのユニットだぞ」


 耳に飛び込んだ無礼な響きに、パスカが握るステッキにさらに力をこもり、顔が紅潮する。


「言葉を慎め。そのような放蕩な口の利き方は、文明人たるべき振る舞いにあらず。それに、何という格好だ。襦袢一枚で人前に出るとは、廉恥にもとることだ」


「はぁ? これ、最新式の全天候型スキンだっつーの。それよりアンタさ、なんでそんなクソ重そうな布を体に巻き付けてんだよ。不法侵入までして、趣味の悪いコスプレ気取りか?」


 男――フュチロは、呆れた鼻を鳴らし、パスカを足元から頭頂まで値踏みした。


「おまけに、まだ若そうなのに歩行補助具が要るわけ? オッサンなら、医療ポッドに放り込まれたほうがマシだろ」


 パスカは、糊付けされた襟の剛直さをまとい、怒りの熱で発火せんばかりだ。最新のファッションであり、開化人の象徴たる品への、老人の杖という侮辱。


「嘆かわしいな。ロンドン輸入の流行を、足腰の支えと見誤るとは。無知というものは、かくも堂々と己を晒すものか」


「嘆かわしい? 大げさだ」

 肩をすくめ、口の端を軽く歪める。

「ただの支えだろ。それがないと歩けない人、普通にいる」


「『普通』とのたまうか。ふむ。るいじゃくを常態と見做すことこそ、なんじの社会を律する規範と心得た。文明の進歩と言うべきか、どうやら人の背骨より先に退散するものらしい」


「おう、立派だな。棒みてえにピンとして、一ミリも曲がる気配ねぇ。操り人形か、まったく」


 パスカの絞られた胴は、くびれた腰を軸に優雅な湾曲を描き、背中を反らせている。締め付けられたクラヴァットを飾る真珠のタイピンは、室内の光を受け、砕け散る氷片の冷気を帯びて煌めいた。


「言語道断、曲筆も甚だしい! まさしく立ち居振る舞いの妙技にして、教養の賜物と弁えよ! その不潔でだらしのない一枚布のまといと、弛緩しかんしきった体躯に、人間としての威厳は微塵もあろうはずもない」


 フュチロは、片足に全重心を移し、腰から肩にかけてS字にたわだ。無造作に垂れた片腕は、重力の作用で揺れを刻む。


「病的な硬直だろ、それ。あんな石みてえに突っ立って、血が全身に回るわけがねぇ。もしあれが流行ファッスンだってんなら、奴ら全員、血行障害でポックリ逝くのが粋ってもんだ」


 目と鼻の先に立つ者を真似て、こわばった姿勢を踏まえ、ケホッ、ケホッと芝居がかった咳払いをした後、再び全身を弛めた。


「性根の腐さは、醜悪な立ち姿が語る。今は、もはや――」


 歪んだ形相で、覚束ない手がステッキを振り上げる。啖呵より早く、手足が追いつかない。脳内でウイスキーが暴れ、足元が抜ける。



 反射的にステッキを床へ叩きつけ、ゴンッ、木と金具がぶつかる鈍い音が走る。脚は小刻みに震え、腰は折れ、全身が杖へと流れ込む。骨身は支えに縫い留められ、一本の支柱と化して止まった。


「結局、使い道は自分で証明したじゃん。最初から」喉の奥で短い振動音が鳴る。


 笑いに合わせて腹がギュッと引き締まり、押し出された息が胃の底をえぐる。胸の内側がむかつき、胆汁がせり上がる感覚に襲われる。頭蓋骨の内側で何かががたつき、視界が二重に滲む。


 あわてて壁に手をつき、青ざめた頬で口元を押さえた。

「……うぷっ。……最悪。三半規管まで同調した……」


 パスカは脂汗を拭う手を動かしつつ、

「貴様と相対すれば、酔いがぶり返す。この部屋の空気は腐敗し、気分がどうにも優れぬ」

 忌々しげに室内を見回し、部屋の出口を睨む。


「立ち去れ。一刻も早く、我が邸宅を跨ぐな」


 ステッキに体重を預け、指先が宙を切り、玄関扉へ容赦なく突き出る。


 フュチロは反論する力が残っていない。

 潤んだ目でぎろりと抗うが、体は激しく揺れ、パスカの示す出口へ、転がり、飛び出した。


 ドアを開け、錆ったちょうつがいがギーギーと唸りを上げる。枠が滞り、耐えかねた音を放つ。


 パスカはチッと舌打ちをし、続こうと踏み出したが、ふと革靴のつま先を止めた。


 塵まみれの床に、黒い円筒が横たわっている。光沢を失い、昨夜、無残に投げ出されていたシルクハットに目を留める。


 ステッキを差し向け、先端を器用にブリムへ潜り込ませたのち、手首を返す。帽子は放物線を描いて舞い、主人の手元へ戻ってくる。


 埃を軽く払い、頭に載せた。

 背筋を正し、堂々とした足取りで、開け放たれたドアをくぐる。


 二人が去った部屋には、扉が一気に閉まる音の残響と、窓から降り注ぐ朝光に浮かぶ煌めく粒子のほか、何も残されていなかった。

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