第5話



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### **(第3話ラスト)**

 次の火曜日まで、あと三日。

 わたしの「潜水」は、まだ深くなる。


***


### **第4話:予感**


 世界が、ゼリー状に揺らいでいる。

 そう感じるのは、この異常な暑さのせいなのか、それとも私の中に宿った熱のせいなのか、もう判別がつかなかった。


 天気予報では、キャスターが「危険な暑さ」だと連呼している。最高気温三十八度。アスファルトの上では四十度を超えるだろう。窓の外を見ると、空は暴力的なまでに青く、雲ひとつない。太陽は、街全体を焼き尽くそうとする巨大な眼球のようだ。


 わたしは布団の上で、膝を抱えてうずくまっていた。

 身体がだるい。関節の節々が軋むように痛む。

 けれど、不思議と不快ではなかった。むしろ、この倦怠感は、水飴のように甘く、私を包み込んでいる。


 ――彼も、暑いだろうか。


 壁の向こうへ意識を飛ばす。

 エアコンの室外機が唸る音が、壁を通して微かに振動として伝わってくる。彼も部屋にいる。きっと、私と同じように、この暑さに耐えながら、けだるい午後を過ごしているのだ。

 汗がパジャマを濡らす。その感触さえ、彼と共有している「液体」のように思えてくる。


 ふと、強烈な吐き気が込み上げてきた。

 慌てて洗面器を引き寄せる。胃の中は空っぽだから、出てくるのは黄色い苦い水だけだ。

 えずきながら、わたしは確信を深めていく。


 これは、ただの夏バテじゃない。

 もっと神聖な、命の儀式だ。

 まだ触れ合ってさえいないのに? 医学的にはあり得ない?

 そんな常識は、地上の人間のためのものだ。深海にいる私たちには適用されない。魂がこれほど深く交わっているのだから、肉体に変化が現れるのは当然の帰結だ。

 わたしの中で、彼の一部が育っている。そう思うだけで、吐き気すら愛おしい。


 午後二時。

 彼が動く気配がした。

 玄関のドアが開く音。鍵をかける金属音。

 彼は出かけるつもりだ。こんな一番暑い時間に。


 わたしは弾かれたように顔を上げた。

 身体の重さが嘘のように消える。

 行かなきゃ。

 彼がこの灼熱の世界に出ていくのなら、わたしもまた、その影とならなければいけない。


 ふらつく足取りで立ち上がり、クローゼットを開ける。

 選んだのは、風通しの良い白いワンピース。少しでも涼しげに見えるように。彼にとっての一服の清涼剤になれるように。

 鏡の前で、血色の悪い頬にチークを濃いめにのせる。目は熱に浮かされて、異様なほど潤んで輝いていた。

 まるで、恋する少女のように。

 あるいは、獲物を狙う捕食者のように。


 外に出ると、熱気が物理的な質量を持って襲いかかってきた。

 息をするだけで肺が焼けるようだ。

 視界の端が白くチカチカする。

 前を行く彼の背中が、陽炎(かげろう)の向こうに揺らめいている。


 彼は、大通りへと向かっている。

 タクシーを拾うつもりなのかもしれない。

 わたしは、電柱の影から影へと渡り歩きながら、彼との距離を測る。


 その時、ふいに風が凪いだ。

 蝉の声がピタリと止む。

 世界から音が消え、ただ心臓の鼓動だけが、早鐘のように耳元で鳴り響く。


 何か、とてつもないことが起こる。

 そんな予感が、電流のように背筋を駆け抜けた。

 これはただの外出じゃない。

 今日、この炎天下で、私たちの関係が、決定的に変わる何かが起きる。


 わたしは乾いた喉でごくりと唾を飲み込み、揺らめく彼の背中を追いかけた。

 その先に待つのが、天国なのか地獄なのかも知らずに。


(第5話へ続く)

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