三口で書ける、終わりの文学

かいだんにゃん

三口で書ける、終わりの文学

遥香は布団の上でスマホを見ていた。夜のスクロールは、心臓の鼓動と同じ速さになる。

 ストゼロ文学。昔のミーム。短い文が、同じ夜を着て並んでいる。

 ──味を知らないのに、分かった気になるのは卑怯だ。

 そのまま上着を掴んでコンビニへ行った。

 棚の前で、一瞬だけ立ち止まる。グレフルの黄色は大きいのに、「ストロングゼロ」は缶の隅に小さく押し込まれていた。

 小さい文字は、言い訳の置き場所みたいだ、と遥香は思う。

 (これを買ってるところ、ゼミの誰かに見られたら最悪)

 “ちゃんとしてる人”の顔を、普段から勝手に貼られている。自分でも、その顔を守ってしまう。だから余計に、こういうのに手を出すのがみっともなくて——同時に、確かめたい。

 レジ袋がカサ、と鳴った。ロング缶は、冷たくて重い。

 帰宅すると、影から墨が出てきた。黒い身体、白い腹、二股のしっぽ。袋に鼻先を寄せた瞬間、耳がすっと横に倒れる。

 墨は鳴かずに、半歩引いた。

 「……柑橘は嫌いだよね。匂い」

 返事はない。けれど、動きが返事だった。


 プシュッ。


 缶が開いた。甘い柑橘のふりをした匂いが、部屋の空気に薄く広がる。

 墨はもう一歩、距離を取った。




 遥香は一口目を口に入れて、いきなりむせた。喉が焼ける。舌が、甘さにべたっと捕まる。果汁じゃない、何かが貼り付く。

 二口目で胃の底がひやっとした。冷たいのに、熱い。身体が混乱している。


 「……うそでしょ」


 笑いが出かけて、出ない。目の端がにじんだ。涙なのか、刺激なのか、判断がつかない。

 それでも三口目に行く。ここでやめたら、最初から逃げたみたいで。

 口に含んだ瞬間、遥香の喉がきゅっと縮んだ。小さく咳が漏れる。息を吐くと、匂いが鼻の奥に残って離れない。

 そのとき、スマホが手の中に戻っていた。いつ開いたのか分からない。メモ帳が白く光って、カーソルが点滅している。

 遥香は書くつもりがないのに、親指だけが軽い。軽すぎる。

 「グレフルの味がする。人生も同じ味がした。」

 「笑えるくらい不味い。だから泣ける。」

 二行が、するりと画面に立った。自分の声じゃない。けれど、自分の指が書いている。

 背中がぞわっとした。恥ずかしい、より先に怖いが来た。

 親指が、下へ滑る。“投稿”の位置へ。送信。公開。夜に投げる。


 そこで、爪の音がした。


 カリ、カリ、と乾いた音。墨が部屋の端、影の濃い場所で爪を研いでいる。淡々と、冷たく、こちらを見もしない。

 その音だけが、「それは嘘だ」と言っているみたいだった。

 遥香の親指が止まった。止まった途端、手のひらに汗が滲んでいるのに気づく。心臓が一拍遅れて跳ねた。

 墨は段階的に遠ざかっていた。

 耳が倒れた。

 一歩引いた。

 膝に乗りかけた身体を引っ込めた。

 そして今、影で爪を研いでいる。


 遥香は画面の二行を見て、唇を噛んだ。喉が、さっきの刺激でまだひりつく。

 言葉だけが軽い。自分だけが重い。

 選択して、消した。


 白い空白が戻る。空白は、指先に重みを取り戻させた。

 缶を持つ手が少し震えている。捨てるのはもったいない、という声が頭のどこかで鳴る。けれど、身体が先に首を振る。

 遥香はシンクへ行った。


 水を細く出す。

 缶を傾けると、泡が膨らんで、しゅっと萎んだ。匂いが薄まる。鼻の奥に残っていた刺が、少しずつ抜けていく。

 空の缶をすすいで、ゴミ箱に立てた。倒れないように、妙に丁寧に。

 缶は濡れたまま、台所の灯りを小さく反射していた。やけに元気な黄色が、まだそこにいる。


 もう一度メモ帳を開く。今度は親指が軽くならない。

 遥香は短く打った。削りながら打つ。


 ・喉が焼けた

 ・舌が甘さに捕まった

 ・親指が“投稿”へ行った

 ・止められた(墨の爪の音)


 書き終えて、スマホを伏せた。画面の熱が掌に残っている。まだ、少しだけ指先が落ち着かない。


 遥香はケトルに水を入れて火をつけた。湯が沸く音は、さっきの爪の音と違って、こちらを責めない。

 紅茶の茶葉を落とすと、香りがふわっと立った。鼻の奥の刺が、やっとほどける。

 小皿に、柔らかいチキンを盛る。

 影の端にいた墨が、少し動いた。鼻がひくひくして、ためらうように一歩、また一歩。まだ耳は完全に立っていない。匂いが消えたかどうか、慎重に確かめている。

 墨は皿の前で座り、遥香を見上げた。


 「いい?」と訊く目

 「いいよ。……ごめん」


 墨は一声だけ鳴いて、チキンを食べ始めた。さっきまでの拒絶が嘘みたいに、正直な顔で。

 遥香は紅茶を一口飲む。喉が焼けない。胃が冷えない。言葉が勝手に走らない。

 ゴミ箱の中の黄色い缶が、まだ微かに光っている。

 遥香は目を逸らさずに、それを見たまま、最後の一文だけメモに残した。

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