〇〇との遭遇

lager

未知

 その祠は、仄暗い竹藪の中にあった。

 その藪の中に、路というほどの路はない。ただ、あえて人が歩くならここかという程度に下草が踏み分けられ、かろうじてその跡が線として繋がっている。その途中、やはりかろうじて他の場所と区別ができる程度に拓かれた空間に、その小さな祠はひっそりと立てられているのである。

 高さは大人の腰ほどで、切妻は苔むし、片側が外れかけた観音開きの戸の中には、地蔵菩薩の面影を思わせる石が祀られている。

 昼間でも日の光が届ききらない竹藪のくすんだ色彩の中に、そのまま溶けてしまいそうな祠だった。


 地元の人たちの間でも、その祠の存在を知っているものはほとんどいないだろう。

 一応は私有地であるからそもそも人の通りは滅多にない。ただ、土地の所有権を持っている人間も、ただ人から人へ譲り受けただけの場所であって特に愛着もなく、私有地であることを知ってか知らずか早春に筍を採りにくるような人間をあえて追い払おうというほどの執心もない。

 そういった人間たちの中には、この祠を目にしたことのあるものも、幾人かはいることだろう。

 もしくは、古くからこの土地に住まい、その祠の由縁を語り伝えてきた家のものたちであれば、あるいは――。


 ……。

 …………。


 みどり様、と、それは呼ばれていた。

 元がなにかと遡れば、それは一人の孤児だった。

 暦応元年。陸奥国より進軍し鎌倉を占拠した北畠顕家がさらに西へと軍を進め、京の足利尊氏へと迫るその最中、長く続く戦道中にて軍は兵糧を失い、統率を失った兵たちによって略奪が行われた。

 小さな村だった。

 人の世の不幸など数えてはきりがないが、その夥しく積み重なる不幸の中の一つが、異形のものを生んだのだ。


 山の主への生贄にされた、身寄りのない子供だった。

 美しい女童めのわらわだった。輿に入れられ、山に置き去りにされた。

 村人にとってはそれでおしまいの話だった。口減らしでもあり、どうすることもできない現実を前に、せめてなにか手を打ったのだと、自分たちを納得させるための手段でもあった。仕方がないんだ、俺たちだってこんなことはしたくないんだ、と、言えば言うほどそれは効果があるように思えたのだ。


 問題は、その女童が生き延びたことだった。

 自力で戒めを解き、山を棲家とし、獣を同胞とし、人にあだなすようになった。

 山の闇に紛れるよう、草を擦り潰した汁で髪を染め、葉と枝で身を覆い、石くれと獣の骨を手に人を襲うようになった。

 やがて捕らえられ、殺されると、今度は村に災いが起こった。

 山の恵みが枯れ、水は干上がり、疫病が流行った。

 たまさか通りかかった行者がそれを知り、なにやらの術法をもってその荒魂を鎮め、封じ、祠に祀った。

 みどり様、と。山の化身のごとき異形へと変じたかつての女童を畏れ、人々はそう名付けた。

 災いは収まり、それでようやく、この話は終わった。



『オナカ、スイタナ』


 封じてくれるのならば、それでもいいと思っていたのだ。

 殺さなくてすむならそのほうがいい。祟らなくてすむならそのほうがいい。恨まなくてすむなら、そのほうがいいに決まってる。

 だからそれは、大人しく封じられていた。

 長い、長い時が過ぎたのだ。

 今となっては、あの時自分の身に起きたことが、どうしようもないことだったのだと、なんとなく分かる。他にやりようはあったかもしれないが、それを言ってもどうにもなるまい。

 彼女が封じられている間、似たようなことは何度かあった。

 時折思い出したかのように村に不幸は訪れ、彼女を祀る祠に捧げものなどが供えられることもあった。それに対して、なにかしら思うこともあったが、やがてなんとも思わなくなった。どのみち、どうにもならない。


 だから、封じられているのならばそれでもよかったのだ。

 ただ、どんな法力だろうと、どれだけが協力的であろうと、永遠に続く術法などありはしなかった。

 ある時、気づいてしまった。

 ああ、出ようと思えば出れるのだな、と。

 それでも、だからといって自分から封を解いて出て行こうとは思えなかった。今更外に出て何かすることもない。したいこともない。彼女の中の想いはもう、とうに笹の葉を揺らす風の中に溶けて消えてしまった。恨みもない。怒りもない。悲しみもない。ただ、ここ最近、すっかり供え物が置かれなくなってしまった。それだけが、少し寂しい――。


『オナカ、スイタナ』


 ぴしり、と。

 気づいた時には、厨子の中の石に罅が入っていた。


 笹の匂いが。

 風の音と共に、彼女の中を通り抜けた。

 幾百の歳月を越えて、山の気が、彼女の中に流れ込んできた。

 土、枯葉、水、石、木漏れ日、虫、そして――。


「あ」


 そして、彼女は見た――。


 ……。

 …………。


 

「MIDORISAMA?」

「ああ。そのような韻律だったはずだ」

「それが目印なんだな?」

「うん」


 ライムライトに光る触角の先端が、不安げに揺れた。

 つるりとした額を撫で上げ、彼は同胞に問いを重ねた。


「本当に、その地にはが沢山あるんだな?」

「それは間違いない。だが、地表の七割が毒の液体で覆われた惑星だ。大気中にも気化した毒素が多量に含まれていると聞く」

「恐ろしい話だ。現地の生物はみなその環境に適応しているのだろう?」

「ああ。逆に彼らが我らの血潮に触れると体組織が焼け爛れるのだとか」

「宇宙は広いな……」

「うん」


 彼らを乗せる方舟は、一見するとただの岩石の塊にしか見えなかった。

 星の海を渡るその方舟は、永久機関も旧式で内部に酷く振動を齎す。それでも、星間戦争の小競り合いを逃れて旅を続けるのには都合がよかった。


「第5198星系。随分と遠くに来たものだな」

「以前より、開拓の話が出ては頓挫し、出ては揉み消され、と、そんなことの繰り返しだったのだそうだ。かろうじて知的生命と言えるような存在が生息しているのは、今から向かう惑星一つであるという」

「なんとも寂しい話だ。この広い宇宙に自分たちだけで生きているとは。一体どのように資源のやりくりを?」

「謎だ。例の毒素のせいで詳しい調査は進んでいないのだ。ただ、学者が推測するところでは、自分たちだけで上手く資源を循環させる仕組みがあるのではないか、ということだ」

「ふうん」


 彼らの母星は連合議会の末端に名を列ねる小国で、資源だけは豊かだが、永く平和な治世が続いたせいで、荒事には向かない弱小国家だった。

 連合国の御旗にあやかって辛うじて存続を許されてはいるものの、情勢によってはいつ切り捨てられてもおかしくない。あるいは、味方によって食い尽くされてしまう惧れすらあった。

 なにか一つ。敵味方両陣営に対して存在感を示す一手が欲しかった。


 そんな折、母星の僻地に偶然に開いたワームホールから、所属不明の異星人が発見されたとの知らせが齎された。

 調べてみた所、大した資源もないと見向きもされていなかった遥か彼方の星系の住人で、その筋の識者にとってはその稀有な生態から有名な生命体であった。


 彼らは触手や触角というものを持たない。

 強いて言うならば胴体から離れた四本の腕がそれにあたるのだろうが、内部骨格の構造が単純すぎて複雑な動きができない。体に対して随分と小さな脳を守るように、宇宙空間のような色彩の毛が生えているが、それも動かせない。感覚器といえば光を屈折させて取り込む器官と、空気の振動を電気信号に変換する原始的な構造の器官くらいのもので、念波に対しては全くの無反応であった。


「光を取り込んで周囲の状況を把握するというのは分かるが、なぜその器官が体の一部にしか備わっていないんだ? 死角が多すぎて不便だろうに」

「加えて言うなら、彼らは思念を直接他者に届ける術を持たず、大気を振動させる音波を生み出し、その複雑なシグナルを用いて意思疎通を図るのだそうだ」

「ああ。非効率……と言ってしまうのは種族差別になるのだろうが、理解しがたいな」

「それを我らの言語と双方向に翻訳するシステムを作り上げた技術部の連中には頭が下がるよ」


『わ・れ・わ・れ・は・う・ちゅう・じん・だ』


「これで本当に伝わるのか?」

「信じるしかあるまい。UCHUJINという単語は、かの異星人が発したものだそうだからな」

「なるほどな。だが、肝心の異星人は、その……」

「うん。死んでしまったそうだよ」

「可哀そうにな」

「仕方ないさ。言いたくはないが、気体酸素はともかく一酸化二水素なんて、そう大量に用意できるものじゃない。ましてや、彼が摂取していた有機物は、とても我々には再現できなかった」

「せめてワームホールが開くまで持ってくれたら、無事に返してあげられたろうに」

「そうだな。だが――」


 彼の触手がグラデーションに明滅した。

 ベージュローゼ、メロンイエロー、ホリゾンブルー。ペールトーンに光る触手は彼の興奮と緊張を表していた。

 49層の保護機構が順に解除され、粘性の不凍液に満たされたキューブを取り出す。

 は、万が一にも彼らの体内を廻る塩化水素酸に触れぬよう、厳重に保管されていた。


「彼の所持品からこれが出てきたと聞いたときは、震えたよ」

「おお」

「見ろ。美しい」

「純度100パーセントのアルミニウム……。まさか、実在していたなんてな」

「彼の故郷では、これは交換価値情報としての意味を持つそうだ。そうであるならば、もし我々の持つ資源の何か一つとでも交換ができれば、と、彼と意思疎通を試みたんだが、うまくいかなかった」


 彼の触手が、足元から無造作に透明な鉱物を摘まみ上げ、数本の触手の中で転がした。


「彼が最も興味を示したのが、だったというのは、本当なのか?」

「うん。だが、どうなんだろうな」

「ただの炭素原子の塊だろう? 屈折率が高すぎて透光体としては使いづらいし、無駄にピカピカと光るおかげで邪魔で仕方ないんだが」

「こんなものを引き換えに、この至宝がどれほど得られるものか……。だが、手掛かりがそれしかない以上はな」


 彼らの背後には、総計5tに及ぶ天然ダイヤモンドが堆く積み上げられていた。

 キューブの中に厳重に保管された、『1』と彫刻された1.0gのアルミニウムの円盤を、飽きもせずにしげしげと眺める彼らの触角が、不意にシグナルレッドに光りはじめた。


「わあ。しまった。もう着くぞ」

「急いで支度しよう」


 彼らは至宝を大事にしまい直し、その産地である辺境惑星の現地生命体を模した外骨格にするりと滑り込むと、内部端子に丁寧に触手を接続していった。


「よし。確認するぞ。現地の生命体は基本的に念波に対し受容体を持たないが、稀に膨大な念波を発し、生命活動の停止後も思念を残留し続ける個体が存在する。我々はその残留思念の一つ――現地呼称名『MIDORISAMA』のシグナルを頼りに空間座標を特定、ワームホールを開いてアクセスを試みる」

「よし。現地は一酸化二水素が蔓延しており、絶対に外骨格を外してはならない。逆に、現地の生命体に対し、我々の体液を付着させてはならない」

「よし。これは正式な星交ではない。可能な限り接触人数は減らし、秘密裏かつ平和裏に交渉を行う」


 そして、極彩色のワームホールは開かれた。

 彼らの感覚器が、モスグリーンに透かされた光を捉え、気体窒素と酸素でできた大気に包まれる。随分と軽い重力が、柔らかく彼らの外骨格を捉えた。


「あ」

「あ」


 そして、彼らは見た――。



 ……。

 …………。


「よいか。これは決して歴史に残してはならない。全てを秘密裏、かつ平和裏に行わなければならない」


 その日、神聖ジルベスタ王国の王宮にて、国の行末を左右しかねない重要な儀式が密かに執り行われようとしていた。

 

 限られたものしか入ることを許されない地下聖堂には、王族と宰相を含め、数人の人間が集まっていた。その全員の背に、重苦しい緊張感がのしかかっていた。 

 金糸の刺繍が複雑にあしらわれた白いローブを着た三人の男たち――この国の上級魔導士たちはみな、そのフードの奥に疲労の色が滲み出た青白い顔を覗かせている。

 紫紺の炎を灯す燭台が8つ。

 聖堂の中央に赤錆色の線で描かれた魔法陣は、今にもぬらりと動き出そうなほど妖しげな曲線をなし、その内に最先端の魔導学の結晶を稼働させようとしていた。


 ――異世界転移陣。


 十数年前、隣国アッシュバルト共和国に現れたという異世界人の噂はこの国にも流れ来ていた。彼は既存の技術体系に拠らない全く新しい発想で数々の発明品を編み出し、アッシュバルドの国民の生活水準を急速に引き上げた。

 ドライヤー、扇風機、冷蔵庫、炬燵、氷菓、などなど。

 また、医学会にも革命的な知識を授け、国民死亡率の大幅な低下を齎した。


 結果、国が滅びた。


 人口は数年間で爆増し、失業者が急増。にもかかわらず異世界の発明品の恩恵を受けたのは一部の富裕層だけで、その歪みは国民感情の分断、資源の枯渇による自然災害、食糧不足による飢饉に連鎖し、各地で暴動が相次いだ。今現在も内乱は続き、異世界人は暴徒と化した市民に吊るし上げられ、死亡。政府は機能不全に陥り、三方の隣国は難民の対応に日夜追われている。


 あまりにも急すぎたのだ。

 既存のシステムに新しい技術を組み込むのには、それ相応に時間をかける必要がある。異世界人の無邪気な革命は、国一つが受け止めるにはあまりに効力が強すぎた。肥料焼けを起こした畑のように、アッシュバルドは萎れ、壊死していった。

 今や周辺諸国の為政者たちにとって、異世界人は滅びを齎す悪魔のごとくに恐れられ、忌み嫌われている。

 そんな異世界との渡航を可能とする魔法の開発に成功しました、と、笑顔満面で告げられたジルベスタ王の恐懼と戦慄ときたら!


 膝から崩れ落ちそうになった体をすんでのところで持ち直し、国一番の才能と持て囃される魔導士に肩パンを食らわせた王は、すぐさま研究に加担した魔導士三人全員を集め、宰相とともに緊急の会合を開いた。


「発明してしまったものは仕方ない。先々代の王であれば、お前たち全員斬首した上で研究室を全焼させていただろうがな」

「い、いやですよぅ、陛下。冗談でもそんな――」

「冗談に聞こえるか?」

「しゅみましぇん。うぅ、肩痛いよぅ……」

「今までの自分の功績と、平和の時代に感謝するんだな。業腹ではあるが、一口に切り捨てるにはお前たちの才能は我が国にとっても惜しい。だが、同時に私はお前たちのことを心の底から全くもって断固として信用しておらん。今ここで開発と実験を禁じたところでどうせ隠れて続けるだけだろう」

「え? い、いやあ……」

「よっ。陛下!」

「俺たちの理解者!」

 

 宰相が無言で三人の魔導士の尻を蹴り上げた。


「そして、同時に考えねばならんことは、異世界の知識は正しく用いれば確かに有用であるということだ。アッシュバルドの失敗は、異世界人が主導して民間からそれを広めてしまったことにある」

「はあ、つまり、陛下は王宮だけでその技術を独占しよう、と」

「私を暴君のように言うな、不敬者。そうではない。あちらから人を招いて教えを広めさせるのではなく、こちらから出向いて教えを請い、必要な分だけを少しずつ持ち帰ればいいのだ」

「なるほど、留学でございますか」

「俺行きたい!」

「馬鹿俺が行くに決まってんだろ」

「あ、私も――」


 宰相は国王に目配せをし、国王の頷きを確認したのち、三人の魔導士に順に腹パンを食らわせた。


 そして、数か月後の現在――。


「転移場所の目標は間違いなく固定できているんだな?」

「はい。どうやらニホンという国が一番我々の世界との波長が合いやすいようです。おそらくアッシュバルドに現れた異世界転移者は、偶発的な事故によってゲートが繋がってしまったようで」

「それは、確率的に起こりうることなのか?」

「ほぼあり得んでしょう。奇跡ですよ。たとえて言うなら、陛下の枕元の抜け毛が偶然陛下の御名の形を作っているような――痛ぁい!!」

「そこまで抜けておらんわ!!」


 蹴られた太ももを撫でさすりながら、魔導士が魔法陣の中に術の触媒となる鉱石の粉末を落としていく。


「今回は、今後同じ転移を繰り返すことも考慮し、なるべく偶然に頼らずに固定化した転移先を設定できるようにしました。あちらの世界にも我々の世界とは少し異なりますが魔力のような力が存在しているようで、まあどちらかというと呪力に近いような力なのですが、それが溜まっているポイントがいくつかあるようなのです」

「ふむ。その中の一つに狙いを定めるということか」

「はい。探知の魔力を妨害する謎の力場が発生している地域も多いのですが、今回定めたポイントはその力場からは遠く、どうやら林のような土地の中にモニュメントが置かれているようで、そこならば次回以降も場所の特定が容易だろうと思われます」


 そこに、すっ、と一人の若者が進み出た。


「では、後のことは私にお任せください、陛下」

「おお、息子よ。済まないな、お前にこのような危険な任務を」

「何を仰います。異世界とはいえ外つ国への使節に王族が向かうのは最大限の礼節。向こうも無下にはできますまい」


 天色に染めたシルク地の上下に、王族の証たる鷲の紋章をあしらったマント。柄に宝石のついた儀礼剣を佩き、白磁色のロングブーツと手袋。どこの外交の場に出ても恥ずかしくない正装である。 

 

「うむ。だが、何度も言う通り、これは正式な国交ではない。現地の住民たちとの摩擦は極力避けるのだぞ」

「承知しています、陛下」

「殿下。きっちり二刻。お迎えのゲートを開きます。ゲートを開いておける時間には限りがありますゆえ、どうかお気をつけください」

「ああ、わかった」

「宜しく頼む。我が息子よ」

「行ってまいります、父上!」


 そうして、煌びやかな王子は転移の魔法陣を跨ぎ、ゲートを通った。

 一瞬で重力が揺らぎ、体と魂が浮遊する。

 酩酊感を覚えるよりも早くゲートは再び開き、王子のブーツは枯草の堆積する地面を踏んだ。

 薄暗い竹林であった。

 嗅ぎ慣れない葉の匂いが、風に乗って王子の鼻に抜ける。


「あ」


 そして、王子は見た――。



 ……。

 …………。



 するり、と。真っ白な尾が色褪せた笹の葉を撫で上げた。

 

 彼は非常に気位の高い猫であった。

 その性は鄙介にして、剛を好んで柔を好まず、人に阿ることをよしとしなかった。

 青い右目と黄色の左目を持つ彼の見目は美しく、彼のことを我が家の飼い猫だと思っている家は三軒あったが、そのどれも彼にとっては仮の寝床に過ぎなかった。

 縄張りの巡回ついでに軒下を借りて風雨を凌ぎ、無警戒に置かれた銀皿の上の柔らかな魚肉を掠め取って糧としていた(それは彼のために用意された餌皿であったが、彼は常に自分がそれを発見して獲ったのだと信じて疑わなかった)。

 人間相手に腹を晒して寝そべり媚びを売る他の猫のことは内心で小馬鹿にしていたし、事実、彼は生まれてこの方へそ天などという軟弱な姿勢をとったことがなかった。


 その日、彼は空き地に放置された車のボンネットの上で昼寝をしていた。

 持ち主を失って久しい鉄の塊は砂埃に塗れていたが、春の日差しを浴びてぬくぬくと暖かった。まだ冷たさの残る風と日差しの熱とのコントラストが心地よく、彼は香箱を組んで若草の匂いに髭をそよがせていた。

 油断していたのだ。

 彼の滑らかな毛並みに人間の子供が恐る恐る手を伸ばし、すんでのところでそれに気づいた彼は飛び跳ねて逃げ去り、彼が寝床の一つとしている民家の軒先に隠れ込んだ。


 自慢の毛並みに妙な匂いがついてやしないかと、彼は丹念に毛皮を舐め清めたが、折しも換毛の季節であったために多量の抜け毛を飲み込んでしまい、人心地ついて縁側に登ったところで、かこかこと喉を鳴らし、立派な毛玉をげえと吐き出した。

 それを見た家人は彼の病気を疑い、病院に連れて行こうと彼の身の捕獲を試みた。

 彼は謂れのない暴虐に屈する心など持ち合わせてはいない。今までは彼自身の度量によって軒下を共にすることを許してはいたが、最早それもこれまで。

 彼は今まで寝床としていた家に別れを告げると、再び春の野へと駆け出していった。

 

 そして、現在――。


 さくさくと、彼の肉球が枯草を踏んで竹藪へと分け入って行く。

 この藪に入るのは久しぶりだったが、気の向くままに肉球を進めたところ、一頭の紋白蝶がひらひらと藪の中に入っていくのが見えたのだ。

 今日はもう人間には遭いたくない。なにか虫でも獲って食べようか、と、彼は青い右目と黄色の左目をきょろきょろと動かしながら藪の中を進んでいった。


 その時、なにか、ざわりと彼の毛皮を撫で上げるような空気の揺らぎを感じ取った。

 びくり、と背中を震わせたが、周囲の笹の葉はそよとも動いておらず、風が吹いたわけでもなさそうである。それなのに、ちりちりと髭を刺激する何かの気配を彼は感じ取っていた。何か危険なものがあるのだろうか。

 だが、気位の高い彼は、日にそうそうなんども他者を畏れて逃げだすことをよしとはしなかった。


 そろり、そろり、と彼は身を低くして怪しい気配の元を探った。

 そして、彼は見た――。


「あ」


 緑色の髪をした、みずぼらしい恰好の少女と。


 黒いスーツに身を包んだ、瓜二つの見た目をした二人の男と。


 春の空の色をした煌びやかな服と真っ赤なマントを纏った青年。


 四人の人間が、互いの顔を見つめ合い、困惑したように立ち尽くしているところを。


「にゃおん」


 なんだ、こんな所にも人間がいたのか、と、彼はやはり肉球を返して藪の中に分け入り、それきり、その四人の観測者はいなくなった。

 彼らがどんな物語を紡ぐのか、誰も知らない。

 誰にも分からない。

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