処女作(連続短編小説)

石原伸一

生きる①

 人生には数え切れない程の分岐点がありはするが、未来が分かる人間で無ければ何が最善なのかは見当もつかないだろう。しかし、未来が分からなくても何をすれば分からなくても、何もしないという選択肢は存在しない。

 しかし、かの有名な名言でもある

 『人生は配られたカードで勝負をするしかない』

 とあるように、不利な状況を強いられる者もいる。

 竜也もその内の一人であった。


 平成十三年、竜也がまだ小学生の頃は所謂オタクが差別されていた時代であった。その訳は、ある男が近所の女児を誘拐し、殺害してしまうという痛ましい事件が発生した。その犯人はメディアを通じてアニメが好きだったということが発覚し、その結果、アニメなんぞに熱中する人間は将来犯罪者になるという風潮が幅を利かせてしまったのだ。

 当時の竜也は能天気なところがあり、そのような風潮を無視するような行動、つまり、同級生にオタク趣味がある事を公言してしまった。その結果、一部のクラスメイトから嫌がらせを日常的に受けるようになってしまった。それが、小学三年生から四年生までの話である。

 小学五年生になって、大体の子供というのは少しずつ善悪の区別がついてくる。しかし、それでも成長しない人間は存在するのだ。

 ある漫画のシーンで進化の反対は、というテーマで主人公と別の登場人物が論じるシーンがあり、その主人公は進化の反対を退化と結論づけることはせず、進化の反対は無変化と言い切った。

 つまり、善悪の区別が付くというのは進化にあたるということだ。それが無い人間は、なにかしらの障害が無い限り不具と言えよう。

 

 クラス替え当日、竜也の席は運悪く小坂という男子生徒の前になってしまった。彼は、竜也に嫌がらせをする三人組の一人で、竜也より体は小さいのだが、やり返さない竜也を見て図に乗っている。

 (あぁ、嫌だな)

 竜也はそう慨嘆した。

 このクラス初の授業になり、早速小坂の嫌がらせが炸裂した。

 国語の授業だったのだが、竜也が当てられて立ち上がり朗読し、椅子に座ろうとした。すると何故か椅子が無く、竜也は思いっきり尻もちをついてしまった。

 「磯崎くん、ふざけないで」

 見ていなかったならともかく、竜也は何故か担任の女教師桑田先生に叱られた。

 一部の人間はその光景を見てクスクス笑っている。せめてもの救いは同情してくれたり、非難してくれたりする人がいてくれた。前の学年時はそういうクラスメイトは少数派だったのだ。

 「いや、椅子を引かれて」

 そう言いながら、竜也は引かれた椅子に手をかけながら言い返すと後ろから、

 「僕は、そんなことしてません」

 と何も言われていないが、小坂は反論した。椅子を引いたのは明らかではあるのだが。

 それを見た桑田は、呆れ顔で、

 「いいから、座りなさい」

 と言って何事もなく授業は再開された。


 生徒を叱ってはいけない。このルールはこの頃から決められていたが、一時を境に完全な教師の規則となってしまった。それでもその決まりに抵抗する人間はいたが、次々と潰されてしまう。

 小坂は素行が悪い生徒で善悪の判断がつかない、故に本来なら注意すべきがそれができなくなったのだ。

 以前、学校にモンスターペアレントが襲来したことがあった。自分の子供が居眠りをしてい、それを咎めた教師に対するクーデタをその子供とその取り巻きが起こし、学校は腰を抜かして件の教師を差し出してしまった。その結果、その教師は徹底的に追い詰められ、学校を去ってしまったのだ。

 その光景にたじろいだ学校関係者は、何もしない、つまり攻撃を受けても抵抗しないことを選択した。

 それからの学校内は動物園のようになり、真面目な人間にしてみれば、猿檻の中に放り込まれた思いである。


 校庭は雪で真っ白になり、子供達は雪だるまを作ったり、雪合戦をしたりと冬の風物を楽しんでいた。そんな季節になり、ある日のこと、竜也は教室で本を読んでいた。彼は文学好きでどちらからというと、インドア派である。N小学校はマンガや雑誌以外の本、つまり、活字のみの本であれば一冊だけ持ち込みしても良い、という決まりがあった。

 小説というのは全部読むのはそれなりの時間がかかる。なので、竜也的にはかなり助かっていたのだが、そんな読書好きを見下して憚らないのが小坂率いる三人組だった。


 本に熱中している竜也の背後から、誰かが本を取り上げた。急に奪われた本は、カバーが外れて床に落ちてしまった。よく見ると少し破れている。

 「な、何をする」

 竜也は立ち上がり、そう抗議するが三人組は竜也のことを嫌な笑みを浮かべながら醜く顔を歪ませながら黙って竜也のことを見ていた。その様子はもはや善悪の判断がつかない、猿のように見える。

 「こいつ生意気だな」

 「そうだな、生意気だ」

 三人は顔を合わせて、また醜い笑みを浮かべた。

 次にとった彼らの行動は卑劣極まりなかった。

 竜也よりも一回り体が大きい山内が竜也の背後に回り込んで羽子い締めし、体の自由を奪ってしまった。

 この隙に、小坂と磯野は動けなくなった竜也を何度も殴りつける。

 「生意気だな。喰らえよ」

 と、まるでサンドバッグのように扱った。前から嫌がらせを受けていたが、今回は明らかに一線を超えている。

 竜也にとって、それが暴行を受けた初めての経験だった。とんでもない激痛を想像していたが、意外に大した痛みは無い。何故こんなものに怯えていたのか。竜也はそう思った。故に、今まであった暴力に対する恐怖心は消え去り、反撃に転ずるきっかけとなる。それは、三人にとって予想外の行動だったのだ。

 山内の羽子い締めを振り解き、先ず竜也と同じくらいの体格の磯野に飛びつき、髪を掴んで顔を何度も殴りつけた。そのうちに磯野の鼻からは血が滴り落ち、床に小さな血溜まりができる。

 「わかった、やめ、やめて」

 そう懇願する磯野に構わず、竜也は殴り続ける。

 竜也にとって、他人に暴力を振るうのは初めての体験であった。この時の彼は頭に血が昇っている状態で、まともな状態ではない。竜也は磯野を殴る度に、拳が顔面を捉える度に、形容し難い昂りを感じた。それは、竜也が男であることの証明でもある。

 再び羽子い締めにされたものだから、山内だと思い竜也は思い切り暴れたが、中々振り解くことが出来ず、不思議に思い背後を確認したら、この学校で一番の体格の男性教諭であった。

 「落ちついたか」

 正気に戻った竜也の目に入ったのが、頭を抱えうずくまる磯野の姿だった。彼は竜也に怯えているのかずっと体を震わせている。反撃しない筈のサンドバッグが、目をギラギラさせながら自分を痛めつけたのだ。その恐怖は相当なものであろう。

 もう一人の教師が駆けつけ、彼を回収する。彼は竜也を一瞥もせずに教師と共に教室から出ていった。

 殆どのクラスメイトは外に出ていた為、野次馬はわずかである。残っていた少数の生徒は黙ってそれを見届けていた。そのなかには小坂と山内の姿があり、竜也のことを睨め付けている。竜也にしてみればその行動は、かつて恐ろしいものであったが、今はもうなにも感じないものに成り果てていた。

 

 生徒指導室に連れて行かれ、待機を命じられた。生徒指導室は三階の奥にあり、その向かいには音楽室がある。

 時計の針が昼の一時を指し、チャイムが鳴り響く。いつもなら教室で聞いていた授業開始のチャイムであった。それを聞いて、竜也はなんとはなしに日常から非日常に放り込まれた感覚になった。

 しばらくすると、人の声が聞こえてきた。音楽室で授業を受ける生徒達だろう。とても楽しそうに雑談をしているようだ。

 それを聞いてから暫くすると、担任の桑田が入ってきた。彼女は竜也を椅子に座らせて、自分も向かいの椅子に座わる。これで机を二つ並べて向かい合う形になった。そして、彼女は開口一番、

 「あなた、面倒くさいことをしてくれたわね」

 と吐き捨てた。

 「どういうことですか」

 と熱くなって彼女に質すが帰ってきた言葉に竜也は慨嘆し、心の底から軽蔑した。

 「だって、本を投げられただけで貴方は、怒ったのでしょ。そこで我慢すればいいのに我慢できないなんて女々しい男。それに、先に暴力を振るったのは貴方でしょ。トラブル解決の基本は話し合い。つまり、悪いのは貴方よ。違うかしら」

 彼女の声のトーンや表情は明らかに竜也を馬鹿にしているもの。

 頭に来た竜也は、

 「では、僕も相手の教科書やノートを投げてもいいですね」

 「そんなこと」

 桑田は生徒贔屓する教師として有名だった。故に嫌われている。人によって態度を変えて、気が弱い人間には徹底的に強気に出るような教師であった。

 彼女は竜也は弱い人間だと思っていた。しかし、彼は思ったよりも手強い人間だったのだ。これは彼女にとって予想外であり、屈辱的であった。

 言い返すことが出来ず、彼女の怒りのボルテージは上がっていった。

 「それにね、このあいだ小坂が僕の椅子を引いて怪我させようとしましたよね。あれって暴力にならないのですか」

 「知らない」

 「知らないっておかしいでしょ。あいつのことは贔屓して僕ばかり怒るのはおかしい。もう、帰ります」

 そう言って教室を飛び出した竜也の心はすっとしていた。それと同時に竜也を縛り付けていた鎖が砕かれ心身共に自由になった、ような気がした。

 背後からは桑田の声が聞こえてくる。その声は怒りに満ち溢れ、今にもその悪意が竜也に襲いかかりそうに思える。

 しかし、それは比喩ではなく、直ぐにその通りになった。

 桑田は、竜也を追いかけて背後から首根っこを掴んで左右に激しく揺さぶっり、奇声を上げた。一応、何かを言ってはいるのだが、聞き取れない。

 その弾みで竜也は前のめりに倒れてしまった。咄嗟に立ちあがろうとするが、彼女は、竜也の背中に膝を押しつける。女性とはいえ、その攻撃はかなりの痛みを伴う。さらに、竜也の後頭部を何回も叩きつけた。

 音楽室で授業をしていた男性教師は何事かと廊下に飛び出し、その惨状を見て慌てて桑田を羽子い締めにした。

 「桑田先生、落ち着いて」

 「離せ、離せ」

 抑えられてもなお足をバタつかせ、男性教師の拘束を解こうとしていた。

 「殺す、殺してやる。あのクソガキは殺した方がいいんだ」

 「何を言うんですか」

 興奮が鳴り止まない彼女を必死に抑える。

 三階に鳴り響く桑田の奇声は、学校中に響き渡り最終的には三階にいた教師全員で抑え、それを複数人の生徒が見守っていると言う惨事に成り果てた。

 竜也はその光景をずっと見ていた。

 「暴力は駄目だといいながら、先生が暴力を振るってるじゃないですか」

 と言った竜也に、周りの教師達は何かを察した様子でその内の一人が、

 「ここは危ないから、こっちおいで」

 と言って、竜也はその先生と一緒にその場から離れた。

 


 

 

 

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