神楽坂はあやかしの匣 ~便利道具店『灯心堂』物語~

御子柴 流歌

最初の接客は——櫛の音から始まった


 ここは東京、神楽坂。


 だいたいのモノに珍しさを感じてしまう私が、本当に何気なく選んで入り込んだ裏路地の突き当たりに、その店はあった。


 その名は『灯心堂』。


 雑貨店というか、道具屋というか、そんな趣きのある佇まい。とても好みの雰囲気。


 油紙越しのようにほの暗い硝子戸の向こうから、ちろちろと灯りが漏れていた。夕暮れの色と混じり合い、まるで風に揺れる火のようにふんわりと。


 気づけば私は、誘われるように戸を引いていた。


 からり、という音は思っていたよりも軽く、少しだけ湿っている。




 中にいたのは小柄なおばあさんだった。白い麻の割烹着を着て帳簿の前に座っている。


 何だか如何にもという風体なのだが、戸を開けていきなりの邂逅だったのでちょっとだけ肩がビクッと震えてしまった。


 勝手にひとりで恥ずかしがっていたのだけれど、よく見たら店主さんは目を瞑っていた。もしかしたら居眠り中だったのかもしれない。


 あぁ、よかった。見られてはいないようだ――。


「働き口を探しているかい?」


「はいぃ!?」


 そんなことなかった!?


「貴女、返事が良いね。そろそろ今夜の最初の客が来るから、帳簿をつけてもらえるかしら」


 しかも、何かを問われるより先に、採用されたようだった。


 この手招きには応えなければいけない。そんな気にさせられる眼差しだった。







 招かれるままに客でなくなった私に手渡された帳簿は、とても手触りの良い紙を丁寧に束ねたモノだった。表紙には手書きの黒い線が幾重にも重なっている。この空間を彩る要素として相応しい雰囲気だった。


 渡された手前、さすがに無視もできない。


 帳簿を開き、目の前に置かれている万年筆を取——ろうとした。


 そのはずだった、のだが。


 私の手は見事に何も無い空間を掴んだ。


「えっ」という声を出そうとして、これもまた失敗した。


 ――万年筆が、ひとりでに動いている。


 完全に見開いた私の目の、まさにその前で、私の手を躱すように動き始めた万年筆は、紙と擦れ合う小気味よい音を立てながら滑らかに走り出す。


 絡繰りの糸ではさすがにここまで自然には動かないだろう。透明人間の手に握られているか、あるいは——この万年筆に意志があるかのどちらかにしか見えなかった。


 何だろう。ここは。


 すごく。


 すっごく。


 ——ワクワクする。


 万年筆の走りをそのまま見つめる。とても達筆だった。私がさくさくと読めるようなタイプの文字ではないものの、全く読めない部類のモノではなかったので安心だった。


 ――『午後六時三十五分』


 真っさらだった紙の上に現在時刻がその文字が刻まれた瞬間。


 店先の風鈴が、一度だけ鳴った。


 風はない。


 けれど、硝子戸の影がわずかに揺れた。


 誰かが入ってきたのだ、と直感した。


 全く姿形は見えないけれど、きっとそうなのだろう。


 目の前の空気が、ひとつ分増える。ほのかに香が変わる。


 乾いた古道具の匂いの中に、雨上がりのような気配が混じった。


 おばあさんをチラリと覗けば、目を瞑ったままだ。さっき私が入店したときとよく似ている光景だった。


 キシリと小さな音が鳴る。


「……ほら」


「あっ」


 ぼけっとしている場合ではなかった。


 やはりどなたかがいらしたということで間違いないようだ。


 私は小さく息を吸い込む。


「……いらっしゃいませ」


 声を出した瞬間、店の空気が柔らかく波打つように感じた。


 見えない誰かが、こちらを見ている。


 けれど、怖くはなかった。


 ただ、胸の奥が少しきゅっと締めつけられるような、そんな静かな緊張があった。


 おばあさんはゆっくりと立ち上がると、奥の棚から何かを取り出して私に目で合図した。


 どこか安心感を覚える小さな手に乗っていたのは小ぶりな木の櫛だった。漆が剥げて片端の歯が欠けていたようだが、少しだけ修繕された痕跡がある。年季は入っているがとても大事に使われていたということがすぐに解る。


「これを見せておやり」


 言われるままに、私は櫛を盆にのせ、机の上へと差し出した。


 見えない誰かの前に。


 すると、少しの沈黙の後、かすかな音が聞こえた。


 もしも空調が効いていたのならば、確実に掻き消されたと思われるくらい。


 髪を梳くように、さらりさらり――と。


 その音に付き従うように、また空気が微かに動いた。




 しばらくしてまたおばあさんがぽつりと呟いた。


「ふたりめだね」


 見ると帳簿の上を万年筆がまた走っている。


『二客目 櫛(未練)』


 そのように書き終えると満足そうに筆先が止まり、また風鈴が鳴った。


 どういうことだろうか。万年筆の進みを見つめていても、それに相応しいアイディアは浮かんでこなかった。


 私の脳内を支配している疑問を、おばあさんは理解したのだろうか。ゆっくりと口を開く。


「その櫛はね、持ち主を待ち続けているんだよ」


「持ち主……ですか?」


「ええ。たぶん、もうこの世にはいないけれど」


 言葉の途端、背筋をなぞるように、ひと筋の風が通った。


 棚の奥で別の櫛たちがかすかに触れ合う。それは、静かな会話のようでもあった。


 そんなな音に耳を澄ませていると、急に何かの気配を感じた。


 私は無意識に、机の前の椅子を引いた。


 目の前には見えない客が、またおいでくださったのだと思う。


 自信はない。だが、感覚はある。


 今はただ信じるしかない。


「こちらへどうぞ」


 私は、丁寧に手を添えた。


 湯飲みをひとつ、差し出す。


 茶の湯気が、空中でほどけるように消えていく。


 おばあさんは微笑んでいた。


「いい接客だね」


 私は少しだけ安堵して、息をついた。






 またしばらくして、帳簿の万年筆が再び走る。


「お会計だね」


 おばあさんの声が紙に載る。


 その瞬間、小銭がころりと机に落ちた。


 どこからともなく、やわらかな金属音が響く。


 拾い上げると、冷たくもなく、温かくもない、不思議な手触り。


 老女は小さく頷いて、戸の外を見やった。


「閉店は一番星が消えたときだからね」


 私は外を見る。


 空は薄紫から群青へと変わりつつあった。


 硝子戸に映る灯りが、ふたりの影をゆらす。


 あの見えない客も、まだどこかにいる気がした。


 その夜、『灯心堂』での私の最初の仕事は、そうして終わった。


 帳簿の最後のページには、いつの間にか、見知らぬ文字が残されていた。


『また明日』


 それを見た私がここに残す言葉ひとつだけだった。


「また来ます」


「ええ、またおいで」


 風鈴がひとつ鳴った。


 空の一番星が、滲んで消えた。

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神楽坂はあやかしの匣 ~便利道具店『灯心堂』物語~ 御子柴 流歌 @ruka_mikoshiba

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