俺を殺しに来たメリーさんを餌付けしたら、最強の同居人になりました。~家賃代わりに怪異を駆除してもらいます~

速水静香

第一章:メリーさん

第一話:非通知の来訪者と壁の攻防

 都内のアパート、二階の角部屋。築年数は俺の年齢よりも少しばかり上を行っている。

 六畳一間のフローリングには、脱ぎ捨てられた服や、大学の講義プリントが地層のように堆積していた。

 深夜特有の静けさが、部屋の隅々にまで浸透している。冷蔵庫が低く唸る音だけが、かろうじてここが生活空間であることを主張していた。

 俺は煎餅布団の上に腹ばいになり、スマートフォンの画面を指先で弾いていた。

 ブルーライトが網膜を刺激し、慢性的な寝不足を訴える脳みそを無理やり覚醒させ続けている。

 動画サイトの自動再生機能は優秀だ。俺が興味を持ちそうなオカルト特集や、洒落にならないほど怖い話を次々とレコメンドしてくる。

 画面の中で、胡散臭い語り部が声を潜めて言った。


『……あなたの後ろにも、いるかもしれませんよ。それを信じるか信じないかは、あなた次第……』


 俺は鼻を鳴らした。

 今、ここにいるわけがない。

 ここには俺と、散乱したゴミと、明日提出しなければならない未着手のレポートという名の絶望しかない。

 それに関しての絶対的な確信が俺にはあった。


 なぜなら――俺は見える方だからだ。

 そう、何を隠そう俺は幼い頃から、妙なものが見えてしまう体質だった。

 電柱の陰に立つ白い影や、誰もいないはずの路地から手招きする老婆。そういった非科学的な現象を、俺は徹底的な『無視』によってやり過ごしてきた。

 見えても反応しない。気づいても気づかないふりをする。

 それが、俺、恋ヶ窪カズキが二十年近く生きてきて身につけた、唯一にして最強の処世術だった。

 動画を閉じ、SNSのタイムラインを無為に眺め始めたその時だ。


 ブブブ、ブブブ。


 手の中のスマートフォンが、突如として震え出した。

 着信画面が視界を覆う。

 登録してある友人からの連絡ではない。そもそも、こんな真夜中に電話をかけてくるような友人は、俺の貧弱な人間関係の中には存在しない。

 画面に表示されていたのは、無機質な四文字だった。


『非通知設定』


 本来なら、無視するのが現代人の、いや、危機管理能力を持つ人間の定石だ。

 だが、今の俺の寝ぼけた頭は、正常な判断力を放棄していた。

 俺は反射的に、通話ボタンをスライドさせてしまった。

 端末を耳に当てる。


「……もしもし」


 自分の声が、予想以上にしわがれていることに気づく。

 受話器の向こう側には、単純な沈黙が横たわっていた。

 いや、完全な無音ではない。

 ザザ、ザザザ、という、風がマイクに吹き付けるような音が聞こえる。

 間違い電話か。あるいは、新手のワン切り詐欺か。

 切断ボタンを押そうとした、その瞬間。

 ノイズの奥から、くぐもった少女の声が届いた。


『私……メリーさん。今、ゴミ捨て場にいるの』


 プツン。

 一方的に通話が切れた。

 ツー、ツー、という電子音が、深夜の部屋に虚しく響く。


 俺は呆然と画面を見つめた。


 メリーさん。

 ゴミ捨て場。

 あまりにもベタな展開だ。昭和の時代から語り継がれる、古典的な都市伝説。

 今どき、小学生でももう少し凝ったイタズラをするだろう。


「……暇人が」


 俺は溜息をつき、スマートフォンを枕元に放り投げた。

 こんな下らない悪戯に付き合っている暇はない。いや、暇はあるが、気力がない。

 再び布団に顔を埋めようとした時、再び震動が走った。


 ブブブ、ブブブ。


 また非通知だ。

 俺は舌打ちを一つして、再び通話ボタンを押した。


「はい」


 不機嫌さを隠そうともせず、短く応答する。


『私……メリーさん。今、駅にいるの』


 またしても、即座に切断された。


 駅。

 さっきはゴミ捨て場だった。


 俺のアパートから最寄りの駅までは、徒歩で十五分ほどの距離だ。

 そもそも、その最寄り駅かどうかすら分からない、『駅』という地名。

 先ほどのゴミ捨て場という場所も結局、どこにでも通じるような名称だ。

 イタズラ電話の主は、適当な地名を告げているだけなのだろうか。

 

 いや――何かがおかしい。


 あの声。

 機械的で、抑揚がなく、それでいて妙に湿度を含んだ声。

 人間の声帯から発せられたものというよりは、古いカセットテープを再生したような、不自然な響きがあった。

 それに、あのフレーズ。

 おそらく、これはメリーさん。捨てられた人形の怪異。電話をかけるごとに居場所を告げ、徐々にターゲットに近づいてくる。そして最後には――。


 ブブブ、ブブブ。


 三度目の着信。

 間隔が短くなっている。

 俺は恐る恐る、画面をタップした。


『私……メリーさん。今、曲がり角にいるの』


 曲がり角。

 相変わらず抽象的でどこにでも当てはまりそうな、そんな地点名。


 けれども、俺には分かった。 

 彼女が言っているのは、このアパートのすぐそばにある、コンビニの手前の交差点のことだろう。


 だとしたら、接近速度が異常だ。

 駅にいたはずが、数秒で一キロメートル近くを移動している。

 自動車でも使わない限り不可能な速度だ。いや、自動車だって信号待ちがある。


 もしこれが本当ならば、物理法則を無視した移動。

 すなわち、怪異特有の空間跳躍だ。


 それに気が付いたとき、俺の眠気など、とうに吹き飛んでいた。

 俺はガバと起き上がり、部屋の中を見回した。


 その時――。


 ブブブ、ブブブ。


 四度目の震動は、まるで俺の心臓を直接揺さぶるようだった。

 出たくない。

 出なければいい。

 だが、都市伝説にはルールがある。

 ルールを無視した者には、理不尽なペナルティが課されることが多い。

 電話に出なければ、今すぐこの部屋の中へ侵入してくるかもしれない。

 俺は震える指で、通話に出た。


『私……メリーさん。今、アパートの下にいるの』


 来た。

 とうとう、射程圏内に入った。

 俺はスマートフォンを握りしめたまま、立ち上がった。

 どうする。どう対処する。


 逃げるべきか?


 いや、相手は空間を無視して移動してくる存在だ。外に出たところで、追いつかれるのは目に見えている。

 それに、この部屋は俺のテリトリーだ。地の利はここにある。


 ネットで学んだ知識を総動員する。


 メリーさんの攻撃パターンは一つ。

 背後を取ることだ。

 『あなたの後ろにいるの』と告げ、振り返った相手を殺害する。あるいは、異界へと連れ去る。

 つまり、背後を取らせなければいい。

 単純だが、これしかない。


 ――だが、それだけで十分だろうか。

 怪異というものは、理不尽の塊だ。物理的な障壁すらも、超えてくるかもしれない。


 何か、もう一手。

 相手の機嫌を取る、あるいは注意を逸らすための何かが必要だ。

 視線が、テーブルの上に置かれたコンビニの袋に吸い寄せられた。

 昨日の夜、小腹が空いた時のために買っておいたシュークリーム。

 「たっぷり濃厚カスタード」というシールが貼られた、百五十円の代物。

 俺は袋からシュークリームを取り出し、テーブルの真ん中に恭しく鎮座させた。

 捧げ物だ。

 ――相手が少女の姿をしている人形の怪異だからこそ、こういったものが利くかもしれない。

 女の子が相手をするような人形から連想した安直なものだが、ほかに注意を引きそうなものはない。

 俺は囮を「たっぷり濃厚カスタード」といういささか、心細いものに決める。


 そして、部屋の中で最も強固そうな壁を選ぶ。隣室との境界ではなく、建物の外壁に面したコンクリート造りの壁だ。

 俺はその壁に、背中を叩きつけた。

 背骨が痛むほど強く、隙間なく密着させる。

 これなら、物理的に俺の背後に回るスペースは存在しない。

 壁の中に潜り込まれない限り、俺の背中は安全だ。

 壁にへばりつく男と、テーブルの上のシュークリーム。

 客観的に見れば狂気の沙汰だが、今の俺にはこれが精一杯の防衛策だった。


 ブブブ、ブブブ。


 五度目の着信。

 これが最後だ。わかっている。

 次の一言で、怪談はクライマックスを迎える。

 俺は深呼吸をし、覚悟を決めてボタンを押した。


『私……メリーさん。今、あなたの部屋の前にいるの』


 プツン、と通話が切れた。

 

 静寂。


 心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。

 俺は壁に背中を押し付けたまま、息を殺した。

 玄関の方を凝視する。だが、いつもの変わらぬ様子の玄関ドアが見えるだけ。


 一秒。

 二秒。

 三秒。


 何も起きない。

 来たのか? それとも、本当に単なる悪戯だったのか?

 かすかな期待が胸をよぎった、その瞬間だった。


 ブブブ。


 手の中のスマートフォンが、震えた。

 だが今度は着信ではない。

 画面を見ると、勝手に通話アプリが起動していた。

 俺が何も操作していないのに、発信中の表示。

 いや――違う。

 着信を、俺の端末が勝手に受け入れたのだ。

 

 通話状態。


 画面には『非通知設定』の文字と、通話時間を示すタイマーが、ゼロから秒を刻み始めていた。


 ザザ……ザザザ……。


 スピーカーから、砂嵐のようなノイズが漏れ出す。

 俺は端末を耳に近づけることすらできず、ただ画面を見つめていた。


 その時。


 ガチャリ。


 玄関のドアノブが回る音。

 鍵はかけていたはずだ。チェーンだって掛けてある。

 だが、金属が擦れる冷たい音と共に、施錠されたはずのデッドボルトがひとりでに解除される。


 ガチャン。


 チェーンが外れる音。

 あり得ない。物理的にあり得ない。

 内側からしか操作できないはずのチェーンロックが、勝手に外れたのだ。


 キィ……。


 蝶番の軋む音。

 ドアが、ゆっくりと開いていく。

 廊下の冷気が、床を這うように流れ込んできた。


 足音はない。


 だが、確実に何かが入ってきた気配がある。

 空気の流れが変わった。部屋の温度が、わずかに下がった気がした。

 玄関からこの部屋までは、一直線の短い廊下のみ。

 遮るものは何もない。


 ヒタ。


 一歩。


 ヒタ、ヒタ。


 軽い足音。

 フローリングを踏む、小さな足の音が近づいてくる。


 廊下には何も見えない、しかし、そこに何かがいる。


 手の中のスマートフォンから、ノイズに混じって声が聞こえた。

 くぐもった、少女の声。


『私……メリーさん。今……』


 足音が止まった。

 廊下と部屋の境目、襖一枚分の距離。

 そこに、何かがいる。

 

 俺は見えない。

 見えないが、わかる。

 廊下の闇が濃くなっている。人の形をした、影のような濃淡が。


 息ができない。

 動けない。

 全身の毛穴という毛穴が開き、冷や汗が噴き出していた。


 スマートフォンから、声が続く。


『今、あなたの――』


 その瞬間。

 俺の視界の端で、黒い残像が弾けた。


 ――速い。


 何かが、猛烈な速度で動いた。

 見えなかった。

 ただ、空気を裂く音と、布がはためくような衣擦れの音だけが、鼓膜を掠めた。

 そして。


 ドンッ!


 鈍い音が部屋に響いた。

 俺のすぐ右側、壁と俺の身体のわずかな隙間に入り込もうとした物体が、勢い余って壁に激突した音だった。


「……ったぁ」


 少女のような声。その小さな呻き声が聞こえる。

 俺は恐る恐る、右側に視線を向けた。

 

 そこにいたのは、場違いなほど豪奢な姿だった。

 フリルとレースをふんだんにあしらった、黒を基調としたゴシックロリータドレス。

 足元は艶やかなエナメルのストラップシューズ。

 そして、その顔。

 陶器のように白く滑らかな肌。硝子細工のように大きな瞳。

 長い金髪が、衝撃でバサリと乱れている。

 美しい。

 だが、額を押さえてうずくまる姿は、どこか間抜けだった。

 彼女の手には、不釣り合いなほど古めかしい黒電話の受話器が握られていた。

 コードはどこにも繋がっていないはずなのに、だらりと垂れ下がった黒い線は、まるで力なく床の上に投げ出されている。


 彼女は額を押さえながら、よろよろと立ち上がった。

 そして、信じられないものを見るような目で、俺と壁の接合部を睨みつけた。


「ちょっと!何よこれ!」


 スマートフォンを通した機械音声ではなく、生身の声が響く。

 先ほどまでの無機質な響きとは打って変わり、そこには明確な苛立ちと、年相応の少女のような感情が感じられた。


「後ろ!後ろがないじゃない!」


 彼女は地団駄を踏んだ。エナメルの靴がカツカツと床を鳴らす。


「あなたね!普通、部屋の真ん中とかで怯えてるものでしょ? なんで壁を背にして、一体化してるのよ。おかげで頭ぶつけたじゃないの」


 俺は壁に張り付いたまま、引きつった笑みを浮かべた。


「……危機管理だよ」

「はあ? 危機管理?」


 メリーさんと名乗る怪異は、呆れたようにため息をついた。


「あのねえ、今の時代、知らない番号からの電話に出る時点で、危機管理も何もないじゃない。情報リテラシーがなってないんじゃないのかしら?」


 正論だった。

 返す言葉もない。

 彼女はドレスの埃を払う仕草をしながら、ジロジロと俺を品定めした。


「だいたいね、貴方、私の電話に出るの早すぎよ。もう少しこう、恐怖に葛藤するとか、着信音に怯えて布団を被るとか、そういう情緒はないの?」

「……面倒くさかったんだ」

「面倒くさいで都市伝説の電話に出るな!」


 怒られた。

 怪異に説教されている。

 この状況は一体何なんだ。

 恐怖よりも、困惑と、ほんの少しの脱力感が勝り始めていた。

 彼女はふん、と鼻を鳴らし、部屋の中を見回した。

 そして、テーブルの上に鎮座するシュークリームに視線を止めた。

 彼女の瞳が、一瞬だけ輝いたように見えた。


「……あら」


 彼女はツカツカとテーブルに歩み寄る。


「これ、用意してたの?」


 俺は無言で頷いた。

 壁から背中を離す勇気はまだない。


「ふうん。気が利くじゃない」


 彼女は遠慮なくシュークリームを手に取った。

 その仕草は優雅だったが、袋を破る手つきは野生動物のように素早かった。

 ぱくり。

 小さな口が、大きなシュークリームにかぶりつく。

 口の端からカスタードクリームがはみ出すのも構わず、彼女は至福の表情で咀嚼した。


「んむ……悪くないわね。コンビニスイーツにしては、上出来よ」


 毒見もせずに完食するつもりらしい。

 怪異が甘味を好むという話は聞いたことがないが、目の前の少女は明らかに糖分を欲していたようだ。

 彼女が二口目を頬張ろうとした時だった。


 ズズ……ズズズ……。


 部屋の空気が、急激に重苦しくなった。

 湿度が上がり、カビ臭いような、鉄錆のような、不快な臭いが漂い始める。

 俺の視える目に、それは映っていた。

 開け放たれたままの玄関から、どす黒い靄のようなものが侵入してきている。


 一つや二つではない。


 無数の小さな影が、床を這い、壁を伝い、天井を埋め尽くそうとしていた。

 浮遊霊、地縛霊、動物霊。

 いわゆる、低級霊と呼ばれる有象無象たちだ。

 メリーさんという強力な怪異が出現したことで、その強大な霊力に引き寄せられたのだろう。

 光に集まる羽虫のように、彼らは飢えた気配を撒き散らしながら、この部屋に雪崩れ込んできた。


「うわっ……」


 俺は思わず声を上げた。

 これだけの数を相手にするのは、さすがに骨が折れる。というか、無理だ。

 俺ができるのは無視することだけだが、これほど密集されると物理的な害――ポルターガイスト現象や体調不良――が発生するのは避けられない。

 影たちは、シュークリームを頬張るメリーさんには目もくれず、生気のある俺の方へと滲み寄ってくる。


「……おい、なんとかしてくれよ」


 俺は思わず、怪異である彼女に助けを求めていた。

 元凶は彼女なのだから、という理屈もある。

 メリーさんは、口元のクリームを指で拭いながら、不機嫌そうに眉を寄せた。

 その瞳が、冷徹な光を帯びる。


「……やかましいわね」


 彼女が呟くと同時、手に持っていた古めかしいダイヤル式の黒電話の受話器が、チン!と鳴った気がした。

 彼女は振り返りもせず、だらりと垂れていた電話線を、鞭のようにしならせた。


 ヒュンッ!


 風切り音が鋭く響く。

 黒い線は生き物のように伸び、部屋中に展開していた影たちを一薙ぎにした。


 バヂヂヂヂッ!


 電気ショートのような激しい音が炸裂する。

 電話線に触れた影たちは、断末魔を上げる暇もなく、霧散していった。


 一撃。

 たった一振りで、部屋を埋め尽くしていた数十の低級霊が消滅したのだ。

 残ったのは、静寂と、わずかに焦げ臭い匂いだけ。


「雑魚が」


 彼女は吐き捨てるように言った。


「せっかくのお食事タイムを邪魔するなんて、万死に値するわ。私の怪談のクライマックスに水を差す気?」


 いや、クライマックスは貴方が壁に激突した時点で終わっていた気がするが、それは口に出さない方が賢明だろう。

 彼女の戦闘力は桁外れだ。

 物理的な質量を持つ黒電話の鈍器としての威力と、霊的な干渉力が合わさっている。

 彼女は残りのシュークリームを一口で平らげると、満足げに指を舐めた。

 そして、くるりと俺の方へ向き直る。

 その瞳は、獲物を捕らえた捕食者のそれだった。


「さて」


 彼女は一歩、また一歩と俺に近づいてくる。

 今度は壁際まで追い詰められているので、逃げ場はない。


「貴方、名前は?」

「……恋ヶ窪カズキ」

「ふうん。カズキね」


 彼女は俺の顔を至近距離で覗き込んだ。

 長いまつ毛の一本一本まで数えられそうな距離だ。


「貴方、なかなかいい度胸してるじゃない。私の電話に出て、あまつさえ罠を張って待ち構えるなんて」

「罠じゃない、自衛だ」

「結果的に、貴方は私の物語を『完了』させてしまったのよ」


 彼女は人差し指を俺の胸元に突きつけた。


「本来なら、背後に回って『キャー』で終わりだったのに。貴方が変な小細工をするから、変な終わり方になっちゃったじゃない」

「それは……悪かったよ」

「謝って済む問題じゃないわ」


 彼女はにやりと笑った。

 その笑顔は、可憐でありながら、どこか底知れない強制力を孕んでいた。


「中途半端に終わらせた責任、取ってもらうわよ」

「責任?」

「そう。私、満足するまでここに居てあげる」


 思考が停止した。

 ここに居る?

 誰が?

 このゴスロリ人形怪異が?


「……は?いや、困るんだが。ここは単身者用だし、狭いんだよ?」

「失礼ね。私は概念なの。貴方が私を認識している限り、私はどこにでも存在できるの」


 彼女は当然の権利のように、俺の布団の上に腰を下ろした。

 スプリングのへたった煎餅布団が、彼女の重みで小さく沈む。


「それに、外は野暮な連中ばかりで退屈なのよ。貴方みたいな、ちょっと変わった人間の方が、暇つぶしにはなりそうだし」


 彼女は俺の枕を抱きしめ、ふかふかと感触を確かめるように顔を埋めた。


「あ、ちなみに家賃とか光熱費は払わないから。私、お金とか持ってないし。それよりも、私へのお供え物は欠かさないようにね。さっきのシュークリーム、合格点だったわよ」


 勝手に同居が決定していた。

 拒否権はないらしい。

 壁に張り付いたままの俺は、そのまま、ヘナヘナと崩れるように座り込んで、深いため息をついた。


 ああ、そういえば明日の一限、必修だったな。

 そんな現実的な心配が、頭の片隅をよぎっていった。



 翌朝、俺が目を覚ますと、視界いっぱいにフリルの塊があった。

 重い。

 金縛りかと思ったが、単純に物理的な重量だった。

 メリーさんが、俺の腹の上で丸まって眠っている。

 人形だから呼吸はしていないはずだが、規則的に上下する肩は、まるで熟睡している人間の子供そのものだった。


「……おい、起きろ」


 俺は彼女の肩を揺すった。

 反応がない。

 諦めて、彼女を抱き上げようと手を回す。

 重さはその見た目どおりだった。まあ、中身が綿ではなく、怨念や都市伝説の概念が詰まっているからかもしれないが。

 なんとか彼女を横にどけ、身支度を整える。


 大学へ行かなければならない。

 洗面所に向かい、鏡に映った自分は、相変わらず死んだ魚のような目をしていた。

 歯を磨き、顔を洗う。

 日常の動作を行いながら、ふと頭に過る。


 ――昨夜の出来事は夢だったのではないか。


 そう思いたい自分と、腹部に残る確かな重みの感触を覚えている自分がいた。

 部屋に戻ると、メリーさんがむくりと起き上がっていた。

 長い髪は寝癖で爆発し、優雅なゴシックロリータの面影が少し崩れている。


「……おはよ。カズキ」


 彼女は目をこすりながら、不機嫌そうに呟いた。


「朝ごはん、まだ?」


 夢ではなかった。

 俺は冷蔵庫から食パンと牛乳を取り出しながら、覚悟を決めた。

 これからは、この理不尽な同居人――いや、同居怪異との生活が日常になるのだ。


「トーストでいいか?」

「ジャムは? イチゴジャムじゃなきゃ嫌よ」

「……善処する」


 トースターにパンを放り込み、タイマーを回す。

 ジジジジ、という音が、新しい一日の始まりを告げていた。

 平凡だった俺の日常は、一本の電話によって書き換えられた。

 だが不思議と、恐怖は薄れていた。

 むしろ、これから何が起こるのかという、諦めにも似た予感が、俺の胸の中に居座っていた。

 チン、と軽快な音がして、パンが焼き上がる。

 香ばしい匂いに釣られて、メリーさんがテーブルに寄ってくる。

 その手には、いつの間にかスマートフォンが握られていた。俺のスマートフォンだ。


「ねえカズキ。この『映える』って何?」

「……勝手に人のスマホを見るな」


 前途多難。

 それが、俺とメリーさんの生活の幕開けだった。



 大学の講義中、俺は強烈な睡魔と戦っていた。

 教授の声は子守唄のように心地よく、意識を夢の世界へと誘おうとする。

 だが、ポケットの中で震え続けるスマートフォンが、それを許してくれない。


 ブブッ。ブブッ。


 着信ではない。メッセージアプリの通知だ。

 誰が送ってきているのかは、確認するまでもない。

 机の下でこっそりと画面を確認する。


『暇』

『この教授、カツラじゃない?』

『ねえ、今の話、全然面白くないわよ。もっと怖い話して』

『お腹空いた』

『充電減ってきたんだけど』


 メリーさんからの連投だった。

 彼女は姿を消して俺についてきているわけではない。

 現在、彼女は俺のアパートで留守番をしているはずだ。

 しかし、彼女の説明によれば、彼女は俺のスマートフォンを『依り代』あるいは『回線』として認識しているらしく、スマートフォンを通して、遠隔地からでも周囲の状況を観察することができるようだった。

 しかも、俺のアカウントを使って勝手にメッセージを送ってきている。

 つまり、霊的な能力を悪用して彼女が、俺のスマホにメッセージを送りつけているのだ。


『授業中だ。静かにしてくれ』


 俺は手短に返信を打った。

 即座に既読がつく。


『つれないわね。家主への敬意が足りないわよ』

『家主は俺だ』

『あら、部屋の主導権を握っている方が実質的な家主よ』


 屁理屈だ。

 俺はスマートフォンの電源を切ろうとした。

 だが、画面上の電源ボタンをタップしても反応しない。


『無駄よ。電源は切らせないわ』


 画面に文字が浮かび上がる。アプリのチャット欄ではなく、壁紙の上に直接文字が表示されている。


 ああ、怖い怖い。


 もう完全に端末を乗っ取られている。

 俺は諦めて、スマートフォンをポケットに突っ込んだ。


 授業が終わると、俺は逃げるように教室を出た。

 学食の喧騒を抜け、比較的人の少ない中庭のベンチに座る。

 ここなら、多少独り言を言っても怪しまれないだろう。


「……いい加減にしてくれよ」


 俺は画面に向かって小声で話しかけた。

 すると、画面が切り替わり、インカメラの映像になった。

 そこには俺の顔ではなく、アパートの部屋でくつろぐメリーさんの姿が映し出されていた。

 おいおい、俺はこんなアプリを入れたつもりはないぞ。


『カズキ、帰りにプリン買ってきて』


 画面の中のメリーさんが、ふんぞり返って言った。


「……金がない」

『働けばいいじゃない』

「学生だ」

『じゃあ、何か売れば? 貴方の部屋にある、あのフィギュアとか』

「あれは魂だ。売れない」

『ふーん。じゃあ、貴方の魂を売ればいいのね?』


 物騒な提案をサラリと言う。


 彼女は画面越しに、俺の背後――中庭の植え込みの方を指差した。


『あそこ』

「え?」

『あそこの植え込みの陰。なんか陰気なのがうずくまってるわよ』


 言われて目を凝らす。

 確かに、ツツジの植え込みの奥に、体育座りをしている男子学生のような影が見えた。

 だが、その輪郭は曖昧で、陽の光の下だというのに、そこだけ色が抜け落ちたように暗い。

 霊だ。

 それも、あまり質の良くない。


「……見なかったことにする」

『あ、こっち見た』


 メリーさんが楽しそうに告げる。

 影がゆっくりと顔を上げた。目鼻立ちはなく、のっぺりとした顔面に、巨大な口だけが裂けていた。

 ニィィィ、と笑った気がした。

 次の瞬間、影が立ち上がり、猛然とこちらへダッシュしてきた。


「うわっ!」


 俺はベンチから飛び退いた。

 周囲の学生たちが驚いてこちらを見るが、彼らには影の姿は見えていない。

 影は俺が座っていた場所に飛びかかり、空振りに終わると、すぐに体勢を立て直して俺に向き直った。


『きゃはは!モテモテね、カズキ!』


 画面の中でメリーさんが手を叩いて笑っている。


「笑ってる場合か! なんとかしてくれ!」

『えー? 私、今家にいるし』

「電話線を通ってこれるんだろ!?」

『呼び出すなら、それなりの対価が必要よ』

「プリン! プリン買うから!」

『高級なやつね!』

「わかった! デパ地下のいいやつを買う!」

『交渉成立ね』


 その言葉と同時だった。

 スマートフォンの画面から、まるで物体が召喚されたかのように、黒い電話線がシュルシュルと飛び出した。

 それは蛇のように鎌首をもたげ、迫りくる影に向かって一直線に伸びた。


 バシィッ!


 乾いた音が響き、電話線の先端が影の眉間らしき場所を貫いた。

 影は苦悶の声を上げることもなく、霧のように四散した。

 周囲の学生たちは、何が起きたのかわからず、ポカンとしている。

 彼らの目には、俺がスマホを落としそうになって慌てたようにしか見えていないだろう。あの電話線は、霊的な存在にしか見えないのだ。

 電話線は素早くスマートフォンの中へと戻っていった。


『ごちそうさま。期待してるわよ、カズキ』


 画面の中のメリーさんが、ウインクをして通話を切った。

 黒い画面に、疲れ切った自分の顔が映る。

 俺は深いため息をついた。

 日常を守るために、非日常を受け入れる。

 その矛盾した生活は、思った以上にコストがかかりそうだった。

 まずは、財布の中身と相談しながら、デパートへの道順を検索することから始めなければならない。

 俺は重い足取りで歩き出した。

 ポケットの中で、スマートフォンが微かに熱を帯びているのがわかった。

 それは、まるで彼女の体温のようでもあった。

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