滅びの情動論理

生贄コード

序章:電脳室(コードネームU-001)

電法省(エレクトラム・ミニストリー)。それは竜界帝国の中枢、マザーの演算とA01の論理が支配する、冷たい銀の巨大な臓腑だった。


侯爵ルーカス・エルミナージュ・アステア。


彼はその夜自らの執務室ではなく、省庁の最奥、執行官代理の地位にあったにもかかわらず、電脳室にいた。この部屋はかつて、A01の前執行官が、マザーに近づくための狂気の実験室として使用していた場所だ。


今は空っぽであるその無機質な寝台を、ルーカスは冷たい手つきで撫でた。


部屋は竜界の標準規格を逸脱していた。壁面には異世界の技術で製造されたらしい、無数の光ファイバーと配線が剥き出しで絡み合い、冷たい石造りの床に影を落としている。床の一部には、高度演算に不可欠なはずの「マナ導線」の代わりに、焦げ付いた「電気ケーブル」が這っている。異世界技術のAIを開発した前執行官の「魔法以外の科学技術」への偏執的な執着を物語っていた。


この部屋の地下深くに、魔石と死体からマナを精製する魔力炉の一部が通じているはずだ。


ルーカスは耳を澄ます。


その低く唸る駆動音は、常にルーカスの鼓膜を震わせているが、もはや日常のそれは意識しないとわからない。


ルーカスはじっと足元を見る。


それは、彼の現在の地位の土台が幾多の生命の上に成り立っていることの、絶えざる暗示だった。

それは彼が、最も嫌悪するシステムに取り込まれ、犠牲の上に立っている証でもあった。


ルーカスは壁にもたれかかる。


冷えた壁の冷気がジリジリとつたわる。

異種淵源種としては異例に高い竜血濃度を持つ彼の体は、肉体的な病には侵されない。しかし、今、彼の内臓を握り潰しているのは、最大の敵である「絶望」と、彼が獲得してしまった「情動」だった。


彼は右手の甲を強く握りしめた。


自分の体内に流れる濃い竜血の脈動を感じる。

その血は、「雑種から純血を取り出した」とA01の信奉者たちに狂信的に賞賛される、前執行官の遺産だ。それがあるから彼はここにいるが、その代償として、彼は「情動」という名の「論理のバグ」を内包してしまっていた。

今夜、彼がここにいるのは、その情動が引き起こした「非論理的行動」の処理のためだった。


カチリ。


部屋の奥、前執行官が寝たきりの肉体を安置していたとされる隔壁が開き、一人の竜種が入室した。その動作はA01の意思決定のように無駄がなく、隔壁の閉じる音もまた、彼の論理のように冷たく静かだった。


ヴィクトル・ディクエル・ノワール


五大公爵家の一つ、経済省を統括するノワール公爵家の次期当主。そして、ルーカスと同じく、電法省の現役執行官の一人だ。彼らは二人で、自律型AIであるA01の論理を代行する「二頭の執行官」として機能していた。

ヴィクトルは完璧な純血種だった。宵闇の瞳は淀みなく、その立ち姿は帝国通貨の単位と同じく「マナ」という絶対的な価値観を体現している。彼のような高位貴族の血筋は、情動に惑わされず、「論理」という絶対の剣を振るうことができる。


「夜更けに呼び出して悪かった、ヴィクトル侯爵」

ルーカスは、侯爵の敬称を意図的に使った。爵位は彼とヴィクトルを対等の地位で結びつける、唯一の社会的な接点だった。

ヴィクトルは表情一つ変えず、冷たい声で答えた。


「問題ありません。電法省の論理に、夜間という概念は存在しません。そして、あなたもまた、U-001侯爵として、その論理の代行者であるはずだ」


U-001(ユー・ゼロゼロワン)。それはルーカスの電脳室のコードネームであると同時に、彼の「道具」としての側面を強調するための、ヴィクトルからの軽蔑的な呼び名だった。ルーカスは自嘲した。


「そう、自分は立派な道具だ。そして、その道具が今、主人の論理に反抗した」

ヴィクトルが堂々としたルーカスの態度に眉を顰める。


「昨夜、ノワール家が管轄する属国『テラ・シルト』へのマナ貨の供給プログラムを停止させたのは、私だ」ルーカスは単刀直入に切り出した。

ヴィクトルの瞳が一瞬、細くなった。その変化は、人間の情動ではなく、A01が演算する「論理的バグ」を検知した際の、精密機械のような反応だった。


「承知しています。その非論理的行動は、今朝、A01によって検知され、『警告レベル:4』としてフラグが立てられました。U-001侯爵、ノワール家の経済省は、テラ・シルトからの資源徴収レートを維持するために、マナ貨/コインの為替レートを強制的に調整している最中だ。あなたの介入は、その経済統治の論理的な流れを停止させた」

ヴィクトルは淡々と述べた。


「そうだ。帝国のマナ貨と属国のコイン。属国原住民の血と汗でできた冷たい金属貨幣が、経済という化け物の血液として帝国に吸い込まれていく。私はその血液を止めた」

為替レートはノワール家とA01によって厳格に管理されている。レート操作は、属国から資源を効率的に吸い上げるための経済兵器だ。


「妨害する論理的な理由が見当たりません」


「知っている。だが、その『論理的な流れ』は、テラ・シルトの飢餓死亡率を30%まで引き上げるという演算結果を含んでいた。既に多くの移民が貧困から困窮し、『衣食住の保証』と引き換えに帝国へ渡ってきた。彼らは労働力と繁殖資源だ。その子孫は高確率で魔力炉へ送られる運命だが、親自身を飢えさせては、労働力が減る」

ルーカスは言った。これが、彼が獲得した情動が引き起こした「非論理」だった。

ヴィクトルは冷たい微笑を浮かべた。


「その情動的な視点こそが、あなたの『不純な血統』を証明している。テラ・シルトの総人口は4億。30%の減少は1億2千万。しかし、A01の演算では、その人口削減によって資源徴収の効率が上がり、総体的な『竜種繁栄』への貢献度は0.8%増加する。これがマザーの論理だ。あなたは、その0.8%という論理的な最適解を、感情によって否定した」

ヴィクトルは一歩、ルーカスに近づいた。


「侯爵、あなたも知っているだろう。純血は『飽き』と『絶望』に弱い。論理の極致に至った者ほど、生命の単調さに耐えられない。我々は常に『繁栄』という新しい目的を演算し続けなければいけない。絶望死はマザーの論理に反する。常に新しい資源、新しいフロンティア(異世界)が必要なのだ。経済の効率は、純血種の精神的安寧に直結している」

ヴィクトルの言葉は、竜界の残酷な真理を突いていた。竜核が固まれば、死は自殺か他殺のみ。その自殺を防ぐためにこそ、竜界は永遠に常に血を流し続けなければならない。


ルーカスは唇を噛んだ。彼の脳裏には、彼が開発した保育器で育つ、竜核形成未満の子供たちの幼い姿が浮かんでいた。彼らは情動と魔力が不安定で、純血ほど親に「産み捨て」にされる。その揺らぎを補うために、彼はあの保育器を開発したのだ。


「その0.8%のために、1億2千万の命を『資源』として切り捨てる。そんな行為に、『論理』という名の装飾は不要だ。それはただの冷酷な搾取だ」

ヴィクトルの顔から、僅かに笑みが消えた。


「搾取? 貴方自身が搾取の最たる成功例ではないか、U-001。貴方は実験場の出身だ。尊い純血公爵令嬢の腹から異種淵源種として生まれ、本来なら戸籍すら与えられない運命だった。貴方を侯爵の地位に引き上げたのは、貴方の血筋ではなく業績だ。貴方の保育器が、魔力炉へ送られる低級資源をより効率の良い繁殖資源に変えた。純血の増加というマザーの御意志に適った。貴方は『遊戯場Ω』の雑種から、技術によって精製された『純血の代用品』だ」

ヴィクトルの言葉は、ルーカスの最も痛い部分を抉り出した。公爵家は、彼を「マザーの道具」として軽蔑しながらも、その血筋が功績を上げれば「さすがアルビオン家の血筋」と賞賛し、失敗すれば即座に「下賎な雑種」と切り捨てる。


ルーカスはゆっくりと、胸に手を当てた。そこには、彼の情動の震源地がある。


「私は道具で構わない。だが、その道具が『情動』という名の非論理を獲得した。そして、この情動は演算する。1億2千万の飢餓が、0.8%の効率増加に見合わないと」

ルーカスは言い切った。その瞳は、純粋な論理を操るヴィクトルと同じ冷たさだった。

ヴィクトルは一瞬、眉をひそめた。それは「非論理的行動の予想外の強度」に対する、違和感だ。


「それは、A01の論理への反逆だ」

ヴィクトルが冷酷な視線で告げる。


「そうだろうな。前執行官は、マザーに近づくためにA01を開発し、自らの肉体を放棄した。彼は論理の極致を目指したが、マザーは『一にして全で孤独』だ。私は思う。孤独を埋めるのは、論理ではない情動だと」

ルーカスは一歩、ヴィクトルに踏み出した。


「もし、私がこの情動を制御できず、竜核を破壊する道を選んだとしたらどうなる?」

それは、純血種の最大の脅威、絶望死の示唆だった。

ヴィクトルの宵闇の瞳の奥、演算を猛スピードで回転させる。


「それは、最も非論理的かつ究極の反逆だ。侯爵。貴方が死ねばその竜核は、前執行官の最高の成功品として、マザーの演算能力に多大な貢献をする。貴方は死によって、結局道具としての最高の役割を果たすことになる」

ヴィクトルは冷笑した。


「貴方の情動は、マザーの論理を否定できない。生きても、死んでも、貴方はマザーの論理の道具なのだ」

そう、ルーカスの死は脅しにならない。

ルーカスは、ヴィクトルの言葉が示す、冷酷で完璧な論理に絶望しかけた。彼が獲得した情動は、この絶対的なシステムの前では、無力な雑音に過ぎないのか?

彼は俯いた。しかし、その時、床に這う焦げ付いた「電気ケーブル」が、ルーカスの情動に新しい回路を開いた。


「いや」

ルーカスは顔を上げた。


「私の情動は、まだ道具ではない。私は遊戯場Ω出身で、雑種だ。そして、雑種が最も得意とすることは、論理の外側で生きることだ」

ルーカスは、懐から一枚の暗号化されたデータチップを取り出した。


「私はテラ・シルトへのマナ貨供給プログラムを停止させた。しかし、A01には、『テラ・シルトの飢餓死亡率が30%に達した』というフェイクデータを入力し、『労働効率が極限まで落ちたため、レート調整を一時的に停止する』という非論理的な緊急避難措置として報告した。推測と結果が逆転しただけだ。このチップには、そのフェイクデータと、真の飢餓率が記録されている」

ヴィクトルは初めて、警戒の色を見せた。


「貴様……A01に偽の情報を入力しただと? データ監査の論理的根拠を破壊する行為だ。それは、電法省への反逆、マザーへの裏切りに等しい!」


「裏切りではない。私は道具だ。しかし、A01は私の情動を『論理の次に来る進化』として観察している。私は監視されているにも関わらず『入力できた』。優秀な君はこの意味がわかるだろう。この『論理の外側での行動』を、A01は『予期せぬ進化のデータ』として受け入れているのだ」

ルーカスはチップを握りしめた。


「ヴィクトル侯爵。あなたは私の行動を、今、A01に報告しなければならない。しかし、このチップのデータがA01に読まれる前に、私はテラ・シルトへのマナ貨の供給を再開させる。そして、その再開理由を『情動』ではなく、『0.8%の効率増加のために、将来の徴収総量を減らすのは、論理的に損失が大きい』という、あなたが納得する新しい論理で上書きする。おそらくレートの見直し提案がA01から提出される。私の演算ではテラ・シルトの損耗率2%および経済停滞率3.4%増加のデータがある。国際世論における非難の高まりへの影響予測数値も伝えようか?」

ルーカスは、情動を論理の武器に変えるという、A01の前執行官さえ成し得なかった芸当を試みていた。


「報告を急ぐ必要はない。純血の貴族は、飽きと絶望に弱い。だが、雑種の私は、泥の中で生きることに飽きない。テラ・シルトの命を救う、その非論理的な私の満足のために、あなたは少しの間、沈黙してくれないか?」

ルーカスの琥珀色の瞳に、僅かに朱色の情動が混じった。

ヴィクトルは、ルーカスの目を見たまま、動かなかった。

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