ホシノハナシ

@natsupi

第一話 隠し味①

 1

 春の空の青が、押しつけがましいほどの爽やかさで広がっていた。

 誰が死んでも空の色は変わらず青い。自然はなんて無情なのだろう――。

 狩野かのう湖玉こだまは、視界に映る清々しさとは正反対に、心が暗く重くなっていくのを感じた。

 勝手なことを言っているのは分かっている。湖玉が生まれてから今まで、いや、そのずっと遠い昔から、毎日世界のどこかで誰かが死に、誰かが生まれ、そうして世界はまわっている。空が、人の生き死にと関係ない顔で我が道を行くことも、連綿と繰り返されていることだ。それでも、時にその不変さは残酷な無表情を感じさせる。

 恨みがましい目で空を見上げていた湖玉の頭の中に、笛で奏でる音楽のような母の声が蘇った。


 ――ねえ、湖玉。この美しい空を見て。人間は三千年もかけて、手の届かないこの天の動きと大地を見つめながら、人間の運命との関係を研究し続けたのよ――

 確かに、その時の空はきれいだと感じた。今と同じ抜けるような青は、見上げるだけで何かいいことが待っていそうな気がして、子供心に明日に続く空だと思ったことを覚えている。

 そして、天に手を伸ばす母は、空に帰る天女のように瑞々しい美しさがあった。このまま地上から浮いてしまうのでは、と慌てて母の足にしがみついたが、その足は春の雑草が生い茂る大地をしっかりと踏みしめ、もちろん飛んでいくことはなかった。


 その母、玉子が死んだ――。

 天と地の間にいる、人間の運命を読み解く星秘占術(せいひせんじゅつ)の鑑定士だった母が、なぜ自分の運命を読めなかったのか。百パーセントの鑑定などないと分かっていても、違和感を覚えてしまう。湖玉自身も母から星秘占術を学び、習得しているからだ。

 母は死ぬ運命ではなかった。何度考えても、その答えに辿り着いてしまう。突然の死から一カ月を経ても、湖玉は解を導き出せずにいた。分からないから、死を受け止められない。

 それでも日々は、変わらぬ空のうっとうしい明るさと共に流れていく――。

 空から手元へと視線を戻した湖玉は溜息をついた。手に持った地図があまりに分かりにくく、立ち止まったところだったのだ。

 湖玉は、目にかかる長い前髪をかき上げながら眉を寄せた。地図には、これから湖玉が住むビルの場所が、手描きのイラストで描かれている。大家おおや恵藤えとう陽臣はるおみからファックスで送られてきたものだ。イラスト自身は可愛らしいのだが、なにせ見にくい。目を細めるようにして、今いると思われる場所を確認するが、その場所にはなぜかおじいさんの似顔絵があった。

「本当にふざけた地図だわ。どうして似顔絵があるのよ」

 この地図を片手に、すでに駅から十分は歩いてきたのだ。あと五分ほどで目的地にたどり着くはずだった。湖玉はスーツケースを持ち直すと、おじいさんの似顔絵が描いてある角を曲がった。

 すると、似顔絵通りの禿頭の老人が、道を掃除しているではないか。思わず立ち止まって地図を見直すと、その老人の細い目や頬の大きなほくろなどの特徴が、見事にとらえられていた。

 老人は春の日差しで汗をかき、動くたびに頭の上で光の粒が輝いている。

 どうりで老人の周りにきらきらとした飾りが描かれているはずだった。絵がうまいことはよく分かったが、それでも不要な情報だろう。湖玉は眉をしかめたまま、もう一度、地図を確認した。

「おじいさんがここだから……。あの角の公園を左に曲がれば、新しい部屋が見えるはずね」

 再びスーツケースを持ち直して歩き始めようとすると、足に柔らかいぬくもりが触れた。見ると、茶色い毛足の長い猫が、湖玉に寄り添うように体を擦り付けている。

 この老人の飼い猫かもしれない。洋猫の毛はなめらかに整い、とても野良とは思えなかった。抱き上げたい衝動にかられながら、湖玉は「またね」と猫に声をかけた。今は引越先に辿り着く方が先だ。

 湖玉が歩き出すと、スーツケースを転がす音に驚いたのか、猫が素早く前に飛び出した。タヌキのように量感のある尻尾を得意気に揺らしている。そのまま湖玉の少し前を進み、公園の柵に沿うように左に曲がった。

 まるで後を付けているみたいだと苦笑しながら湖玉も角を曲がると、十メートル程先に古くて白いビルが見えた。新しい部屋は、そのビルの三階にあるはずだった。

 あそこが今日から私の部屋になる――。

 湖玉は公園の角からビルを見つめた。築三十年だという古さが周りの住宅となじみ、時代が戻ったような趣のある一画になっている。昔のテレビドラマに出てくるような街並みは、都会の雑然とした光景を見慣れた湖玉にとって、どこかノスタルジックな落ち着きを感じさせた。

 気付けば、先を歩いていた猫がそのビルの前で立ち止まっている。まるで付いてきているのを確認するかのように目を合わせると、道路に面した黒いドアに吸い込まれていった。ペットドアが付いているようだ。

「……案内してくれたってこと?」

 呟いた湖玉は、猫に遅れてビルに到着した。


 2

 猫が入っていったドアの前に立った湖玉は、そこに掛けられたプレートを見つめた。一階の店に来てくれと言われていたが、何の店かまでは聞いていなかった。

「〝BARバー ETOWAエトワ〟……エトワ? 干支えと……」

 湖玉はその語感から、母から学んだ星秘占術用語を連想していった。

 干支えとは、いぬとりなどと年を表す十二支として日本人になじみがあるが、星秘占術では干支かんしと読み、十二支の上に十干じっかん・じゅっかんと呼ぶ記号と合わせる。十干十二支だから、干支なのだ。

 陰陽五行説を元に紀元前の中国で発明された、時や方角を表す記号だ。干支自体は、中国から様々な文化を輸入していた日本にも古くから伝わっている。

 例えば『甲子園球場』は『甲子』の年にできたものだから名付けられたし、『壬申の乱』は『壬申』の年の内乱だ。西暦がなかった時代には、それがいつ起こったことか分かりやすいように、干支を用いて名付けられることが多かった。

 星秘占術は中国発の占星術のようなものを、現代的にアレンジしたものだ。西洋の星占いに生年月日が必要なように、星秘占術でも生年月日を必要とする。つまり時を表す記号である干支が必要になるのだった。

 湖玉は、星秘占術を連想させる響きになにか運命的なものを感じ、おかしな地図にイラ立っていた気持ちが少し落ち着く。星秘占術は、自分の中にある揺るぎない思想でもあるのだ。

 黒いドアに手をかけると思った以上に重く、ビルの古さに似合うきしむ音をさせながらゆっくりと開いた。

 店の中は昼間だというのに薄暗く、改装作業の途中と思われるペンキや木材があちらこちらに散らばって雑然としている。そんな中で、店のほぼ中央にあるカウンターが存在感を放っていた。大きな一枚板でできた重厚感のあるカウンターだ。その奥で男が背中を向けて、なにかの作業をしているようだった。

 恵藤陽臣――。一度だけ会ったことがある、このビルのオーナーであり、湖玉の大家になる男だ。後ろ姿でも分かる雑な鳥の巣のような天然パーマにはうっすら記憶があった。

「あの……」

 湖玉が声を掛けると、男は素早く振り返った。作業を止めた男が電気を点けると、店内が柔らかい光で包まれる。カウンターの上にぶら下がる間接照明に照らされた男は、ライトに負けない明るい笑顔を浮かべていた。

「わあ! 湖玉ちゃん、待っていましたよ~」

 いかにもあの地図を描きそうな、とぼけた顔をしていると思った。以前に会った時とは違うテンションに戸惑うが、あの時は葬式だったのだから今の方が地なのだろう。

「ちゃん付けは、嫌いです」

 湖玉は、即効で拒絶した。急に距離感を縮められるのは苦手なのだ。

「えー、そうなの? じゃ、こだまっち!」

「もっと嫌です」

「それなら、コダーマーになっちゃいますけど?」

「なっちゃわないです。普通に『さん』付けでお願いします」

「湖玉……さん?」

 不満そうな呟きに、違う案が出てくることを恐れて、湖玉はすぐに挨拶をした。

「大家さんの恵藤陽臣さんですよね。改めまして、よろしくお願いします」

「こちらこそ。僕のことは、ハルたんと呼んでくだ――」

「嫌です」

 陽臣に最後まで言わせず、却下した。

 口をぱくぱくさせた陽臣は、気を取り直すかのように立ち上がると、握手の手を差し出してきた。

 握手くらいはと握り返すと、陽臣の手は作りたてのパンのように暖かく、大きく、柔らかかった。湖玉は、母が亡くなってから、‘ぬくもり’というものを忘れていたことに気付く。強張っていた心がほんの少しほぐれ、なぜか急に目の奥が熱くなった。

「湖玉さんは、ここの三階を使ってください。父が亡くなる少し前まで、住み込みのアルバイトさんが住んでいましたので、多少の家具が残っていますが、使えるものがあればどうぞ。湖玉さんの荷物はもう入れてあります」

 大きな家具はもとの家に残したまま、洋服や身近に置いておきたい小物だけを事前に宅配便で送っていた。

「何か飲みますか? 少しお話しましょう」

 陽臣はカウンターの中に向かいながら、湖玉に人懐っこい笑みを向けた。

「では、冷たいものをお願いできますか」

 スーツケースを壁に立てかけながら、「できれば甘くないものを」とリクエストする。

 陽臣は大きな目を和らげて「そこに座っていてください」とカウンターを指差した。湖玉は少し考え、一番奥の席に座る。

 一枚板のカウンターは年季が入っており、ところどころに小さな傷やシミがあった。そっと撫でると、使い込まれた暖かみが手にしっとりと馴染む。今までこのカウンターに座っていた人たちの思いが詰まっているような気がして、湖玉は座るだけで不思議に落ち着くのが分かった。

「湖玉さん、どうぞ」

 静かに目の前に置かれたグラスには、今日の空のような淡いブルーの液体が入っていた。見たことのない色の飲み物に手を伸ばしにくい。まさか怪しいドラッグなど入っていやしないかと陽臣をそっと窺うと、変わらず邪心の欠片もない瞳で湖玉を見ていた。この人を信じなくて、どうしてこのビルに住めるのかと、湖玉は思い切って口をつける。

 すると、ほんのり広がる薔薇の香りが口の中から食道を通り、体の中まで花びらで埋め尽くされたような気持ちになった。それは至福とも甘美とも違う、みずみずしい幸福感だった。自然に顔がほぐれて笑みが浮かぶ。

「とても……おいしいです。なんだか天使になったみたい。うまく言えないけれど」

「今、即興で作った『ブルーローズ』というノンアルコールカクテルですよ」

 陽臣は同じグラスを手にして、湖玉の隣に座った。

「ブルーローズ。青いバラ……」

「そう、青いバラは、まだこの世にないので『ありえないこと』『奇跡』という意味があるんです」

「なぜ、そのような意味のカクテルを私に?」

「僕達がこんな形で出会うなんて、ありえないことだったから、でしょうか」

「本来であれば、私達は今頃、兄妹になっていたんですものね」

 湖玉は、晴臣の言いたいことを察して答えた。

「そう。僕の父と、湖玉さんのお母さんは再婚するはずだった。僕は海外にいたから、父と電話で話しただけだけど、本当に嬉しそうだったんだ。それが、まさか……」

「まさかハネムーンで二人とも事故死するとは、誰も思いませんでしたよね」

 湖玉の頭の中に、生きている母の最期の姿が浮かんできた。

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