第一章 ダークマター
第1話 ダークマター生成実験
FC2088年。日本。かつて世界の経済大国であったこの島国は、世界的な資源の枯渇と技術停滞にあえいでいた。世界中の国が資源と情報の争奪を続ける中で、日本は「知のインフラ」を国家戦略に据え直し、国力の回復を目指していた。
人口は減り、インフラは老朽化し、産業は衰退を続けていたが、研究と高度技術は国家の数少ない輸出力と位置づけ、税金を注ぎ込んだのだ。
東北・岩手の山中に築かれた巨大な研究都市、岩手研究都市(Iwate Laboratory City:ILC)は、その国家戦略で築かれたモデル地区で、その中心となる、長大な加速器リニアコライダー(Linear Collider:LC)は、物理学の最前線を担うだけでなく、新時代エネルギーや新素材の研究、量子通信の実験場として国際的な注目を集めていた。
研究都市の中心にそびえるLC実験棟は、昼夜を問わず光を放っていた。コアの冷却音、演算ノードの低い唸り、そして人々の期待。そこに立つのは、若き研究員たちと、彼らを支える巨大な演算機群アキオンΩ(オメガ)であった。アキオンの内部には、学習型AI「マギ」が搭載されていた。マギは膨大なデータを解析し、実験設計やシミュレーションを提案する。人間の直感を補完し、時に凌駕する存在として、研究者たちにとって不可欠な相棒になっていた。
この年の9月、LC実験棟の心臓部、オペレーション室。この実験の責任者である研究員、
「トモヤ、シミュレーションでは成功確率は99.98%です。成功すれば、人類史を書き換えるブレイクスルーの可能性を示しています」
マギの冷徹ながらも魅力的な合成音声が、神代の野心をくすぐる。新しい素粒子の生成は、物理学の金字塔であり、国家の威信でもある。成功すれば、研究都市は永続的な資金と名声を得るだろう。もちろん、神代自身も。
「わかっているよ、マギ。今回の『ダークマター生成実験』は、我々の持てるすべてを賭けている」
マギの計算ではダークマターから、高次元のエネルギーを抽出することができる。そうなれば、日本は、世界は、資源問題から完全に解放される。その検証を行うためにも、ダークマターの生成は、成功させなければならない、始めの一歩だ。
「予定時間どおり11時に実験を始める。繰り返す。実験を11時に開始する。各自、最終チェックを済ませ、報告せよ」
実験開始五分前になり、神代は別室で作業している同僚たちに向けて一斉放送を流した。
『3番問題なし』
「3番了解」
『7番問題なし』
「7番了解」
……
各所から問題なしの報告が無線に入る。
神代はそれを聞いてリストにチェックをつける。
そして、程なくして、すべてのリストにチェックがついた。
『いよいよですね。バイタルが上がっていますが、問題ありませんか?』
「ああ。問題はない。人類の未来のために、計画どおり実行する」
時間となり、神代が最終承認のキーを叩くと、巨大な加速器リングに青白い光が奔流した。
数秒後、モニターに未知の素粒子が検出されたサインが表示された。ダークマター生成に成功したのだ。
「やったぞ、マギ! 成功だ! これで人類は……」
神代の喜びの叫びは、すぐに恐怖に凍り付いた。検出されたダークマターの量が、指数関数的に増大し始めたのだ。
「異常値です。連鎖反応が止まりません。トモヤ、これは『暗黒相転移』の臨界点を超えました」
モニターが赤く点滅し、高周波の警告音が鳴り響く。加速器コアから漏れ出した漆黒の粒子が、加速器が設置されている坑道を伝って、実験棟まで流れ込んできた。
「高濃度のダークマターが拡散しています。相転移が連鎖的に進行中」
マギの解析は冷静だったが、結果は残酷だ。
マギの声に、神代は頭を抱えた。暗黒相転移。ダークマターを生み出す暗黒空間、それは、通常空間より高位な空間で、その空間への相転移には膨大なエネルギーが必要だ。そのため相転移が起こるのは、LCを使用しても、一瞬のはずであった。
「なぜ、相転移が連鎖的に進む?! 止まれ!!」
神代が叫んだが、それを持って連鎖が止まるわけもない。
装置の安全弁は作動したが、封じきれない何かが、実験棟の内部に広がっていく。
神代はその瞬間、何か冷たい風が肌を撫でるのを感じた。次の瞬間、周囲の空気が歪み、光が失われた。室内の照明や機器の表示が一斉に消えたわけではない。マギは淡々と状況の報告を続けている。
「ダークマターが、室内にも拡散」
「な、なんだこれは? 熱くない、冷たくもない、痛くもない、だが、存在が……削られる?」
神代の皮膚に触れた粒子は、たちまちその肉体に透過した。彼の五感ではない何かが、自分の手が塵となって崩れるのを感じ取った。
「マギ! なんとかしてくれ!」
「解析完了。高濃度のダークマターは、有機体に対して極めて強い溶解・蒸発作用を持ちます。人体には有毒であったようです」
AIはただ冷静に、実験結果を淡々と分析した。
神代は声にならない悲鳴を上げながら、意識を失った。闇の中、白い作業着だけが床に残り、そこにあったはずの体は、蒸発したかのように消えていた。
『神代! 何があった! 応答しろ!』
無線からの声がオペレーション室に響いていたが、それに応える者は、そこには誰もいなかった。そして、無線からの声もやがて聞こえなくなった。
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