去り行く徒に導きのララバイを
あらひねこ
第1話 ヒラナの戸
最果ての景色はただ只管に碧色で、そこに存在する全てに色彩のオーバーレイをかけているようだった。
最果てという言葉とは対照的に樹々は生い茂り、花は美しさを競い合うように極彩色に染め上げ、鳥達が二人の頭上で愛を囀りあう。空は万華鏡のように機械的なパターンを作り、2人の存在を肯定していた。
男が微笑む。女は笑わなかった。距離は30センチもないのに、二人の間には越えようのない境界があった。
もっと話したいことがあったはずだ。
もっと知りたいことがあったはずだ。
もっと一緒にいたかったはずだ。
そんな女の願いは叶わず、2人の間の扉は閉じ、その関係を隔絶した。
◇ ◇ ◇ ◇
卒業式から帰ろうとしたアズサの前にヒラナの戸が現れて、彼女は自分の父が死んだのだと悟った。深呼吸ともつかないようなため息を、校舎裏で小さく吐いた。
父が死ぬのはもっと先、自分が大人になってからだと思っていた。そういう可能性があることは頭では理解していたし、なんとなく覚悟もしていたのだけど、まさか自分が二十歳になる前に来るとは思ってもいなかった。
葬式はどうするのだろう。あっちの世界で死んだのなら向こうで行うべきなのだろうか。
ヒラナの戸の向こうには異なる世界が広がっていると、父はことあるごとにそう口にしていた。しかしそれは決して楽しいものではなく、此岸と彼岸の間の世界のようだという。
遠くから友人の呼ぶ声が聞こえてくる。ごめんとだけ呟いて、アズサはドアノブを握った。
ヒラナの戸をくぐった途端、アズサは立ち止まった。――アスファルトの匂いが消えた。息を吸うと湿った空気が肺の奥までしみ込んで、草や花・土の匂いが鼻孔くすぐった。空を見上げると木々が太陽光を競いあい、薄い光がその間からまばらに差していた。
「久しぶり、アズサ」
正面から声が聞こえた。その低く通りの良い声にアズサには聞き覚えがり、アズサは視線を戻した。目の前に1人の男が立っている。綺麗に剃られたスキンヘッドに色黒な肌。威圧的な丸いサングラス――なのに付けているのは可愛らしい熊のエプロンだ。
アズサは小さくため息をつく。エプロンから視線を外して、アズサはバロンに返答した。
「まだそのエプロンつけてたの。捨てればいいのに」
「酒場の店主が
バロンが白い歯を見せて笑う。
「まぁ、色々と言いたいことはあると思うが、とりあえず入れよ」
「うん」
店の中はオレンジ色の照明がポツポツと光り、酒瓶がそれを好き好きに乱反射していた。アズサはこの店に来た記憶はないはずなのに、なぜか懐かしく感じていた。
バロンが案内したカウンターに座ろうとすると、隣に座る青年が手を振って微笑んだ。見た事もない男だったので、アズサはそれをいったん見なかったことにして席に座った。
「なんか飲むか?グレープフルーツジュースとか好きだったろ」
「そんな歳じゃないし、水でいいよ」
「そうか」
アズサはサングラスの下に、実の娘を見るかのような優しい視線があることを知っていた。しかし今日は違う目をしていたことが引っかかる。
焦点がもっと奥にあり、自分ではない人を見ているような……。
「もう高校生だっけか」
「うん。今日卒業式だったよ」
「そんなに経ってたのか。子供の成長は早いな、全く」
「18なんで、もう子供じゃないから」
「そりゃガキの言い草だな」
そういえば父とはこういう会話をしてこなかった。父が家に帰ってくるのはいつも夜遅くだったし、朝起きたら既に仕事に出ていた。……父をなんと呼んでいたかすらうまく思い出せない。
「その言い方、受け入れても反論しても子供になるじゃん」
「お、それに気づくのは大人に近づいている証拠だな」
「もう選挙権だってあるんだよ」
「あれ、20歳じゃなかったか?」
少女の前にゾンビグラスが置かれ、烏龍茶が注がれる。わざとペットボトルを見せるように出したのは、酒じゃないぞとアズサを安心させるためだろう。彼もカウンターの奥から同じようにグラスを取り出すと、ウィスキーを注ぎ軽く乾杯の動作をした。
アズサの隣に座る男はすかさず「僕には葡萄酒を」といい、バロンも軽くうなずいて赤ワインを注ぐ。男も同じように掲げる仕草をしたが、アズサは無視して烏龍茶を飲んだ。バロンもそれを見て諦めたように笑い、グラスに口をつけた。
「それ、お酒でしょ。仕事中なのに」
「こういう仕事にゃ酔い潰れない程度の量は必要なんだぜ」
「詭弁だ」
「大人になればわかるさ」
「またそれ」
隣の男がアズサとバロンを交互に見ながら葡萄酒を飲み、くつくつと笑った。
「2人の話は面白いね」
「というか、この人だれ!?」
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