第3話

千春ちはるは名残惜しそうに母の抱擁を逃れると、

緋色の帯を整え、まだ腕の中にいる弟、春政はるまさに視線を向けた。


「……春政。そろそろ行きましょうか。」


春政は同じく母の腕にいる末の妹、春花はるかをもう一度撫でてやってから立ち上がる。


「あねうえ、あにうえ……いってらっしゃいませ……!」


春花がきゅっと両手を握りしめ、

兄姉は自然と緩んだ笑みを返す。


「春花、母上の言う事をきちんと聞くのよ。」


千春が穏やかな声で言うと、


「はいっ!」


春花は胸を張って応じた。


桔梗は二人の袖をそっと整え、優しく目を細める。


「さあ……座敷で殿が待っています。行ってあげて。」


「うん、母上。行ってまいります。」


春政は軽く頭を下げ、

千春も深く一礼して母と妹の前を離れた。


二人が並んで歩き出す。

廊下には桃の香が漂い、春を告げるような淡い霞が揺れていた。


「父上の顔、よく晴れていらっしゃいましたよ。」


「ええ。牟岐むき殿は、父上と仲がよろしいから。」


春政の言葉に、千春は頷く。


牟岐は数多ある同盟国の中でも、領地が隣合っている事から、為春が特に配慮を欠かさぬ相手国の一つだ。


そのため急な知らせにも関わらず、準備には並々ならぬ手が入った。


裏御殿を出て座敷に続く回廊へ入ると、

遠くから笑い声と器の触れ合う音が聞こえてきた。


「さ、行きましょう。兄上も向こうで待っています。」


春政がそう促すと、二人は肩を並べて回廊を抜け、まっすぐ座敷へと向かう。


千春と春政が静かに襖を開くと、

賑やかな笑い声と香のかすかな煙がふわりと流れ込む。


中央には当主である志木原しきはら為春ためはるが座し、

その隣には、凛とした立ち姿の志木原家嫡男、春道はるみちが控えていた。


「千春、春政。よく来たな。」


春道は柔らかく微笑み、二人に席を促した。


「失礼いたします。」


「遅参いたしました。」


二人が膝をついたとき、

上座に並ぶ客の中から声がかかった。


「おお、これは春政殿に千春姫まで、

 久しぶりであるな。」


声の主は、牟岐家の当主である、牟岐むき宗清むねきよ


大柄な体だが、身なりは整い、

人の良さそうな笑みを浮かべている。


だがその眼だけは、時おり鋭い光を宿していた。


「牟岐殿、お久しゅうございます。

 御目文字にかかり、かたじけなく存じます。」


春政がしっかりとした声で挨拶する。


宗清は満足気に頷くと、座敷に集う人々へと視線を巡らせた。


笑う家臣、盃を交わす若者、仲の良い兄弟、

忙しく立ち働く侍女たち――

そこには、他国の宴でよく見る緊張や探り合いがない。


戦の時代にありながら、

まるで明日の憂いなど存在しないかのような空気。


宗清は、ふっと息をつくように笑った。


「いや、まこと賑やかな宴ですな。

 志木原はいつ訪れても気が満ちている……

 まるで、本当に“福の神”でもおられるのかと思うほどです。」


その言葉に、千春が首を傾げる。


「福の神……で、ございますか?」


春政もどこか意外そうに眉を上げた。


「実は道中で、そんな噂を耳にしましてな。」


宗清がそう前置きしてから、目を細める。


「志木原は、昔から特別な土地だと。」


しかし為春は声を和らげて応じる。


「ありがとうございます、宗清殿。

 しかしそれは、“桃の木の神”の古い話のことでございましょう?」


宗清はわずかに、あいまいな笑みを浮かべた。


「昔から、この国には言い伝えがありましてな。──春道。」


為春が促し、春道が続ける。


「はい。ここ志木原、昔は一本の大きな桃の木以外、何も無かった――

と、言われております。」


香を吸い込むように、静かに息を整える。


「ですが、その桃の大樹にいらっしゃった桃の木の神と、

志木原の初代当主が結ばれ、今のように志木原全体に、季節を問わず桃が香るようになったとか。」


宗清は盃をゆっくり回しながら言う。


「……なるほど。

 では、私が耳にした“福の神が志木原にいる”という噂は、

 その伝説が形を変えて語られているのでしょうな。」


「ええ。

 志木原の者は皆、あの桃の大樹を大切にしております。

 それが、いつしか“福の神”などと呼ばれるようになったのでしょう。」


為春は穏やかにそう答え、盃を静かに手に取った。


その横で、春政がわずかに肩をすくめる。


「ありがたい話ではありますが、

 あくまで昔語りにございます。」


「だが実際、福の神――いや、桃の木の神か。

 そのおかげでこの志木原は、いつでも豊かに栄えている。

 それは素晴らしいことではないか。なぁ、為春殿。」


宗清は上機嫌に笑い、盃をあおると、

勢いのまま為春の背を軽く叩いた。


「……お褒めにあずかり、恐れ入ります。」


為春は身を強張らせることもなく、

ただ一拍おいて、穏やかに微笑んだ。


「そうした伝説が語られるほど、

 この国が平穏である――

 それは、皆が日々を大切に生きてきた結果にございましょう。」


桃の香りが、外からふわりと流れ込む。


宗清は、笑っているはずの目の奥に、

どこか測りかねる色をひそませた。


「いや実に……羨ましい限りですな。土地も肥え、人も穏やか。

 桃が香り、福が満ちる。まさに……恵まれた地。」


柔らかい声でそう言うと、

もう一度、座敷全体をひと巡りするように視線を流す。


そのしぐさは誰の目にも“感心して眺めている”ように映る。

――ただ、わずかに長い。その視線の滞りは、

まるで何かを確かめるようでもあった。


為春は笑い、盃を掲げる。


「誉めていただけるほどのものではありませんよ。

 確かに桃の香りは志木原の自慢ですが……所詮、伝説の話。」


春道も穏やかな声で続けた。


「けれど、こうして遠方より客人を迎え、

 皆で盃を交わせる――それこそが一番のにございます。」


その言葉に、席のあちこちで笑いが生まれる。


宗清も口元だけは綻ばせたまま、盃を静かに持ち上げた。


「……左様ですな。福は形を持たぬもの。

 だが、人の手に収まるなら……これほど価値のあるものはない。」


為春が聞き返す前に、宗清はすっと笑みを深めた。


「いや、つまらぬ独り言です。

 さあ、為春殿、皆々様――盃を!」


「よし、皆の者、盃を取れ!」


為春が声を上げると、部屋中一斉に乾杯の音が広がった。


千春も春政も、春道も、

宴の賑わいに包まれ、笑い合う。


桃の香はますます濃く、

温かな宴気に混ざり合い――


――だがその香の奥、

宗清だけは別の風の匂いを嗅いでいた。


「福の神……。」


盃越しの瞳は灯火の揺れを受け、刃のように細く光った。

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