後編 不可解な沈黙と🐾別れへのカウントダウン
サトシは、この数週間の小さな違和感を思い返していた。
トラがソファから窓枠へのジャンプを「一瞬ためらった」こと。水を飲む回数が「少し増えた」こと。
些細な変化を「高齢のせいだろう」「大したことではない」と、都合よく解釈していた。
あの朝、トラが床に落ちるまでは……
動物病院で獣医から告げられた言葉は、重い鉛のように彼の胸に突き刺さった。
「トラちゃんは重度の腎臓病です。
慢性期に入っていて、かなり進行している。」
まるで熱い鉄を押し付けられたような衝撃だった。
「完治はありません」
「いつ急変してもおかしくない」
サトシの人生における「愛する者との永遠の別れ」という、最も恐ろしい未知の未来が、具体的なカウントダウンとなって目の前に現れた。
サトシにとって、トラの体内で何が起きているのかは、獣医の説明を聞いても完璧には理解できない未知の領域だった。
目に見えない敵が、サトシの愛する家族を蝕んでいる。サトシはその抗い難い運命に対し、ただただ無力感に苛まれていた。
◇
帰宅してから始まったのは、サトシにとって魂を削られるような「投薬の儀式」だった。
療法食と薬は、トラの嫌がる匂いがする。
毎日、サトシは心臓を締め付けられながら、トラを抱え込み、
トラは激しく抵抗し、「シャーッ!」と鳴いてサトシの手を引っ掻いた。
その眼差しは、「なぜ俺にこんな苦痛を与えるのか」「おまえは俺の敵になったのか」と訴えるようで、サトシの胸を深く抉った。
トラにとって、自分が今や「痛みを押し付ける未知の存在」になっているのではないか?
「ごめんな、トラ。これがお前を生かすんだ……」
サトシは謝罪の言葉を繰り返しながら、痛みを我慢した。
愛しているからこそ、苦痛を与えなければならないという矛盾と罪悪感。
サトシの心は、トラの病という「未知の恐怖」と、トラの視線という「既知の苦痛」の間で、毎日引き裂かれていた。
◇
数週間が経ち、トラの抵抗は弱まっていった。
トラは、痛みに耐えることに慣れたわけではない。
サトシは、それがトラなりの「受け入れ」であることを願い続けた。
夜、サトシがソファに座っていると、トラは以前のように大声で鳴くこともなく、ただ静かに彼の隣に座っている。
その沈黙は諦めなのか、それとも、この苦痛な儀式が「自分を生かすための行為だ」と理解した上での信頼なのか。
サトシには、トラの心の内は全くの未知だったが、彼はその沈黙を否定しなかった。
ある夜、サトシは恐怖に耐えきれず、トラを抱きしめた。
「頼むから、側にいてくれよ。俺を置いていかないでくれ。」
サトシはトラの沈黙を、孤独な恐怖との戦いの中で唯一の慰めとした。
トラの病という目に見えない敵に対し、自分だけが戦っているような孤独から、この静かな時間がサトシを解放してくれた。
トラの静かな喉のゴロゴロ音だけが、サトシに「俺はここにいる」という、確かなメッセージを送っていた。
◇
さらに時が流れた。
サトシは、トラが薬を飲まされた後、少し時間をおいてから必ず彼の足元に来て、体を擦りつけると云う新しい愛情表現のパターンを確立したことに気づいた。
投薬は、トラにとって「不快なこと」ではなく「愛の表現の一部」として受け入れられたかのようだった。
トラは、以前ほど高い場所には跳ばないが、床の上でゆっくりと歩き回り、窓の外を眺める。
王としての活発な姿は失われた。
それはサトシにとって、少し寂しいほろ苦い現実だった。
しかし、トラが生きて傍にいてくれる新しい穏やかな日常を手に入れた。
夕暮れ時、サトシはソファでトラを抱きかかえていた。
トラは少し毛艶を失い、若い頃の力の象徴であった筋肉は落ちた。
サトシは、トラの生命の期限がいつなのかは未知のままだが、それを恐れるのをやめた。
サトシはそっとトラの耳元で囁く。
「トラ、今日も生きててくれてありがとう。
ゆっくりでいいからな」
トラはサトシの顔を見上げ、優しい眼差しを返す。
トラには、サトシの「未知の言葉」の細かい意味は分からない。
だが、その声に含まれた深い愛情と、隣にいる温かさは理解できる。
トラは、自分の体と、サトシの愛情という、二つの「未知の運命」を受け入れた。
静かに目を閉じ、サトシの胸に顔を埋める。
二人は失われた時間ではなく、残されたかけがえのない現在を互いに想いやり、静かな愛を確かめ合いながら生きていくのだろう……
── 終 ──
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