第5話 

わたしはボタン砂漠の、ただの一個だ。縁は少し欠け、二つ穴の片方に砂が詰まっている。埋もれているから見えないけれど、ここでは「見えない」は「いない」と同じじゃない。踏まれた音が、いることを証明する。ポン。リン。チン。遠くから届くその跳ね返りが、わたしの腹の中で小さく震える。


砂漠の朝は、音から乾く。光が来るより先に、音の水分が抜ける。乾いた音は割れやすい。割れた音は、足跡になる。足跡はすぐ消えるのに、消えたあとに喉だけ残る。だから掟がある。誰もそれを掲げたりしない。掲げた瞬間、掟は風にほどける。ただ、砂の下でみんなが知っている。


一つ目の掟――走るな。走ると音が割れる。割れた音は刃になって、反射の道を切り裂く。

二つ目の掟――泣くな。泣くとボタンが錆びる。錆びたボタンは鳴らない。鳴らないボタンは、砂漠では石ころより危ない。

笑うな、という掟はない。むしろ笑うと蜃気楼が寄る。寄りすぎると困るけれど、寄るだけなら助かる。


今日、わたしの上を誰かが通った。旅人ではない。足音が軽く、踵が躊躇なく落ちる。配達係だ。ボタン飴屋の手伝いの子は、いつも砂漠を渡って屋台通りへ飴を運ぶ。飴は固いけれど、温度に弱い。砂漠の日差しは、甘さを壊す。だから配達係は早い時間に来る。それでも、急ぎすぎると掟に触れる。


今日は風が逆だった。砂が音を吸い、跳ね返りが鈍くなる。ポンがポムに、リンがルンに変わる。音がぼやけると、蜃気楼が増える。増えた蜃気楼は水の形をする。水の形は、喉の記憶を刺激する。刺激されると、人は走りたくなる。走って早く着けば水にありつける、と身体が勘違いする。


配達係の子が、小さく舌打ちした。砂の上では舌打ちも響く。チッという音が、パチ、と裂けた。裂けた音は反射して、あちこちで尖って鳴り、砂漠の空気を薄くする。わたしの縁がかすかに震える。これは危ない合図だ。走る前に、まず音が割れる。


子は一歩、二歩と歩幅を広げた。走りかける寸前の、半走りの歩き方。砂を蹴る音がザッと立ち、ザッがギザ、と歪む。歪んだ音はボタンたちの腹を叩き、反射を乱す。蜃気楼の水面が近づいて見える。目の前にあるように。手を伸ばせば触れそうに。


「だめだよ」


声ではない。わたしの中の、鳴りかけた音が、子の足裏に伝わっただけだ。ポン、と普段より低い音。踏まれたわけじゃない。砂の下で押し返した。ボタンは動けないが、音は押し返せる。子は足を止めた。止まった瞬間、蜃気楼が一歩遠のく。砂漠の幻は、急ぐ者に優しい顔をするくせに、止まる者にはすぐ本性を見せる。水に見えたものが、ただの光の皺に戻る。


子は肩で息をした。息が荒いと、泣きたくなる。泣きたくなると目が熱くなる。熱くなった目は涙をつくる。涙は落ちる。落ちると錆びる。掟の二段目が近い。わたしは穴に詰まった砂を、内側から少しだけ押し出した。リン、と軽い音が鳴る。泣きそうな空気に、丸い音を混ぜる。丸い音は、角を削る。


子が笑った。ほんの少し、鼻で笑う程度。ふ、という息。大声じゃない。砂漠にとって、そのくらいがちょうどいい。笑いは音を丸くして、蜃気楼を寄せる。寄る蜃気楼は水ではない。けれど、その水面のような揺らぎは、喉の渇きを一瞬だけ忘れさせる。忘れると、舌の裏が湿る。湿ると、涙が出にくくなる。砂漠の潤いは、体の中にしかない。


「……おれ、走りそうだった」


子は誰にともなく言った。返事はない。返事があると、会話になって、声が大きくなる。大きな声は砂漠を驚かせる。驚いた砂漠は音を飲み込み、飲み込まれた音は戻らない。子は背負い袋を抱え直し、歩幅を元に戻した。ザッがサッに戻る。サッが、砂の中で穏やかに反射する。


歩きながら、子はときどき笑った。ふ、と小さく。笑うたび、蜃気楼が少しだけ寄る。寄るけれど、触れない距離を保つ。触れられない潤いが、いちばん安全だ。遠くの水に追いつこうとして走らないために、近くの揺らぎで喉をなだめる。


やがて足音が遠ざかり、砂漠は元の静けさに戻った。わたしの上を風が撫で、穴に詰まっていた砂が少しだけ軽くなる。遠くで、配達係の子が見つけた帰路の端が、ポン、と鳴った気がした。音の道は見えない。でも、見えない端を踏めば、ちゃんと帰れる。砂漠はそういうふうにできている。

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