ちゃんとしないで。

茅はるの

第1話 出会い


 ひとりで生きて死ねたらよかったのに。

 割り当てられた恋人のやわらかそうな黒髪に、伊波朔弥はこの交際をはじめたことを、はじめてしまったことを、ひどく後悔した。


「朔弥さん」

「…………なに」

「朔弥さんさ、ぜったい、俺のこと好きになるよ」






 会社が所有しているマンションを出て駅に向かう。

 まだ秋の名残があるものの、暦のうえでは冬というだけあって吐いた息がふっと真っ白く浮いた。街路樹についている赤い実が雪化粧をするまでもう何日もない。

 

 人に揉まれながら改札を抜けると、正面に設置された掲示板におおきな広告が貼り出されているのが目に入った。

 煌びやかなイルミネーションを背景に見つめ合う男女。手元にはリングがあって、クリスマスという祝祭を独り身で祝うことが罰だとでも言いたげに、正しい幸せが描かれている。


 ネクタイに手をかけてぐっと締める。きつく、きつく締める。

 器官が締まって苦しい。周囲にバレないように細く息を吸うと、針のような寒気が肺に広がる。


 伊波が自分に子宮があると知ったのは高校生の頃だった。

 特別にめずらしいということもない。男の中には時々、子宮をもって生まれてくる特別な個体がいる。遺伝子のバグだか神様の選別だか知らないが、確率としては三つ子が生まれる確率の半分くらいらしい。多いのか少ないのか、生物学や統計学を専攻していない伊波にはわからない。


 社員証を首から下げてデスクにつく。

 始業前だと言うのに、オフィスは人で溢れていた。目を覚ますためにコーヒーを入れていると、営業部の安藤が「おはようございます」と挨拶をしてきた。

 長いまつ毛と隙のない化粧。香水の匂いが今日も少し鼻につく。


「眠そうですね、伊波さん。めずらしい」

「そうかな。まあ、季節柄眠いのかも」

「冬眠の時期ですもんね」


 適当に話を合わせて給湯室を出る。失敗した、寝不足ではあるが、まさか顔に出てしまうなんて。水が冷たいからと洗顔をコットンで済ませたことを反省し、仕事を頭のなかで振り分けていく。

 日常がどんなに乱れても仕事に影響が出ることは避けたかった。





 定時で仕事を切り上げてタイムカードを切ると、疲れがどっと体に戻って来た。

 昨日の顔合わせからずっと緊張が腹の奥に燻っていて、息を吸ってもうまく吐き出せていた気がしない。今夜は湯船にお湯を張ろう。それから軽く運動して、掃除を済ませて。

 そこまで考えた時、エントランスに立っていた人影がこちらを向いた。黒一色のダボっとした服装は、商業ビルのサラリーマンの中では浮き上がって見えた。


「朔弥さん」

「…………花御?」

「よかった。やっぱりこのくらいの時間なんだね」


 花御は屈託ない顔で笑う。悪意も害も知らないような、無菌室みたいな笑顔。

 やっぱり昨日会ったのが間違いだった。間違いは正さなくてはならない。


「もう会わないって言っただろ。大体なんで会社の場所知ってるんだよ」

「朔弥さんが会いたくないのと、俺が会いたいの。そっちだけ優先されるのっておかしいよね」

「名前で呼ぶな」


 目の前を無視して通過すると、後ろを同じ速度で足音がついてくる。同僚から向けられる奇異の目から逃れるように足を交互に前に出す。

 オフィスの敷地を出ても、花御は離れる様子がなかった。話しかけてくれば黙れとでも言えたのに、ただついてくるだけだと避けずらい。駅に向かって歩いているだけだと言われればそれまでだ。


 ようやく駅の明かりがみえてきた頃には息があがっていた。革靴の硬さが、両足の小指を削っている。振り返らずに改札を通った。一拍の遅れもなく、後ろで改札がピッと音をたてる。


「どこまで着いてくるの、お前」


 電車から駅に降りたところで諦めがついた。

 ああ、うん、と花御がのんびりとしたいらえを寄越す。


「朔弥さんの家に行きたいなって」

「いれないから。帰って」

「職場だとちょっと話し方が違うのは舐められないように?」


 かわいいね、と形容されて鳥肌が立った。自分の高くはない身長も、昔から変わらないと言われた顔立ちも、丸めてにやけるこの男に投げつけたやりたい。

 着いてくるなと言っても花御は当たり前のようにうちの前までやってきて、「部屋片付けたいなら待ってるね」とチャイムの横の壁に背中をもたれさせた。


「警察呼ぶよ」

「呼んでも意味ないの知ってるくせに」


 花御が不思議そうにする。書類上、花御伊織はすでに伊波の交際相手として政府に届出が出されている。刃物でも持っていなければ対応してもらえない。

 何度か失敗して、ようやくシリンダーに鍵がはいる。自分より背丈のある花御に手元を覗きこまれていると、視界の淵が白っぽくなる気がした。


「かえって」


 お願い、と懇願した。

 言うことをきいてほしい。すべては自分が間違ったのだと認めるから、昨日の出来事をなかったことにしてほしい。

 花御の手が鍵を持ったままの伊波の手に重なる。耳元にぬるい息が当たって、きんと冷えた耳介が感覚を取り戻していく。


「朔弥さんっておもしろいこと言うよね」


 子宮を持って生まれた男には必ず適合する番がいる。鍵穴と鍵みたいにぴったりと、お互いしか埋め合うことのできない隙間を持って生まれるのだと言う。


「逃すわけないのに」


 花御は相変わらずゆっくりと、まるで急ぐ必要を感じていないように呟いた。かすかな手応えと一緒に錠が開いた音がする。

 お邪魔します、と花御の体が玄関に滑り込む。すぐに手首を掴まれて、引き摺り込まれるように伊波はドアノブから手を離した。

 




 

 

 

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