改正戸籍法の施行により、戸籍の記載事項に、新たに《フリガナ》が追加されることになりました。……って、マ?

沢田 マツリ

第1話 柴《 ゆかり 》

 私の両親はアホだった。


 正確に言うなら、人生の難易度設定に無関心なロマンチストで、〝まさか〟という辞書にだけは強気な、どこか抜けた二人の凡人だった。


 そして、彼らが最初に犯した大過失が、私に与えた名前だ。



 両親は私に、〝むらさき〟と書いて〝ゆかり〟という名前を与えるつもりだったらしい。


 古風で、上品で、どこか高貴な響き。

 まるで薄い絹を纏ったような、平安の香りすらする。


 母の実家には、代々受け継がれてきた紫の帯があり、母はそれを見るたびに「いつか娘ができたら、この色のような名前をつけたい」と夢見ていたという。


 紫式部、紫の上——その名が持つ文学的な響きは、母の想像の中で私を雅な世界の住人にしてくれるだった。


 母は「色の名前って素敵じゃない? なんだか特別感があるでしょう? あいちゃんとか、みどりちゃんとかも可愛いけど、やっぱり紫が一番高貴よね〜」と夢見がちに微笑み、父は「読める読める。画数も多くないし、子供も書きやすいだろう」と、根拠のない自信を持って頷いた……らしい。


 その油断、その無責任な楽観主義こそが、

 すべてを狂わせたのだ。



 父は私の出生届を書く際、母が用意したメモを見ながら記入した。しかし、父の字は元々雑で、〝紫〟の〝糸〟の部分が潰れ気味だった。それでも父は「まあ、読めるだろう」と判断し、そのまま役所に提出した。いや、正確には〝提出してしまった〟のだ。


 結果、戸籍に記されたのは——

 〝しば〟と書いて〝ゆかり〟だった。


 役所の職員は何も言わなかった。あまりにも滑稽な間違いに、ただ言葉を失ったのかもしれない。


 いや。もしかしたら、その日が繁忙期で、職員は疲れ切っていて、細部まで確認する余裕がなかったのかもしれない。


 いやいや。あるいは、出生届を確認した職員もアホで、〝柴〟という漢字で〝ゆかり〟と読ませる斬新な当て字だと思い込んだのかもしれない。


 今となってはもう、真相は闇の中だ。



 数日後、母が戸籍謄本を受け取りに行って、初めて事態が発覚した。窓口で書類を受け取り、の名前の欄を見た母の顔は、真っ青になったという。


「あの……これ、間違ってます。〝むらさき〟の字じゃなくて、〝しば〟になってるんですが……」


 窓口の職員は書類を確認し、申し訳なさそうに答えた。


「出生届の記載がこうなっておりますので……訂正には家庭裁判所での手続きが必要になります」


 母は――絶句した。



 家に帰った母は、父を問い詰めた。父は控えとして保管していた出生届のコピーを見て、初めて自分の字が〝紫〟ではなく〝柴〟に見えることに気づいた。


「〝糸〟が〝木〟に見えるって……? ははは、そんな馬鹿な……ホントだ!」


「だから言ってるじゃない!」


「えぇ……でも、ほら、よく見たら〝むらさき〟にも見えるだろ? というか、そもそもおまえのメモの方の漢字も……〝しば〟じゃね!?」


 控えと一緒に、律儀にメモまで保管していた父が叫ぶ。


「えぇ〜! ホントだ! やだ! 完全に〝しば〟じゃん!  どうするのこれ!?」


「どうするって……訂正すればいいんだろ?」


「家庭裁判所よ? 引越しの準備もあるし、今はそれどころじゃないわよ」


 裁判所での手続きに割く時間と、新生児を抱えた生活とを天秤にかける。

 アホな二人は、アホなりに悩んだ。


 そして、父が言った。


「まあ……しばでも悪くないんじゃないか? 親しみやすいし、覚えやすいし」


「親しみやすいって……犬じゃないんだから!」


「でも、柴犬って可愛いだろ? それに、読みは〝ゆかり〟なんだから、ね?」


「そうねぇ……じゃあ、落ち着いたら手続きしましょうか」



 事の顛末を知った親戚は一瞬黙り、顔を見合わせ、次の瞬間、喉の奥から絞り出すように笑ったらしい。それは祝福というより、もはや大惨事に対する乾いた笑いだった。


 祖母は「まあ……元気に育てばそれでいいのよ」と苦笑し、叔父は「インパクトはあるな」と肩をすくめた。


 こうして、私の人生は〝ゆかり〟という檻に入れられ、この世に放り出された。


 アホな両親の妥協と、わずかな手続きの面倒さが、私の運命を決定したのだ。



 〝ゆかり〟になれなかった〝ゆかり〟は、私という存在全体を、ずっと低い位置で引っ張り続けた。


 高貴でもなければ、雅でもない。

 特別感など微塵もない。


 野山に近く、土に近く、人に近く、そしてなぜか近所の散歩中の犬に好かれるという、特異体質付き。


 幼稚園の頃は、まだ良かった。先生は「ゆかりちゃん」として接してくれていたし、友人たちも名前の意味を深く考える年齢ではなかったからだ。


 しかし、小学校に上がり、漢字を習い始めると、状況は一変した。


 この〝ゆかり〟という名のせいで起こった、私の子ども時代の滑稽なエピソードを数え上げればきりがない。


 私の人生のすべては、あのアホの両親が〝簡単な漢字〟と油断したことから始まったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る