むかしむかしの言い伝え
たった一つしかない私の部屋の窓を開け、メレは夜空を見上げた。
「やあ、今宵は月が綺麗だね」
「メレ、寒いわよ」
「夜間飛行に向いた夜だ。アメリィ、君も来るかい?」
メレの思いがけない提案に、私は丸眼鏡の奥で瞳を丸くした。夜間、飛行。メレの魔法は、そんな素敵なことも可能にするの?
ぶるりと肩が震えたのは、きっと夜風のせいじゃない。
私の期待に満ちた表情を返事の代わりに受け取って、メレは小さな杖の水晶を閃かせた。
「春風のストールに……靴に羊雲の魔法をかけてあげる」
上質な毛皮を羽織ったような温かさが肩に纏い、ボロボロの布靴をはいた脚は夢の中でも歩くようにふわふわと浮かび始めた。
「さあ、僕の手を取って」
窓の向こうに誘われ、胸が踊る。
窓枠を踏み越え、煤けた煙突を軽々飛び越えて、メレと私は七番街の夜空に歩み出した。
「誰かに見つかったりしないかしら」
「大丈夫さ。灯りで手元を照らすのに忙しい人たちは、真っ暗な空なんて見やしないから」
明かりのない石畳の街並みは、月の下で白く静かに眠っている。網目状に街に蔓延った水路があんなに下に流れていて、いつも通る四番街の跳ね橋はおもちゃのように小さくなって。
昼間に飛ばしていた鉄蜻蛉とは、比べものにならない高さを歩ける日が来るなんて。
眠れない夜に窓の外を眺めるのとは、心の高鳴りが全然違う。風景に足を踏み出せば、このままどこまでも歩いて行けそうだった。
「王様は、どうして魔法が嫌いなんだろう」
私の手を取るメレは、白い癖毛をふわふわと夜風に揺らした。
私もちょうど同じことを考えていた。自由に魔法が使える世界はこんなに素敵なのに。
「……そういえば、王家の血筋の人だけは魔法が使えるのよ、メレ」
「そうなの?」
「うん。代々、王様だけが使える水の魔法よ。水路だらけのこの国では、昔からよく水が溢れるから」
そう。魔法を目にすること自体は、実は初めてじゃない。ただ私にとって魔法とは「この国では王様にだけできる特別な力」だったのだ。メレのように、息を吸って吐くのと同じように誰でもできるのとは話が違う。
「王様の水魔法はすごいのよ。年に一度の建国祭の時だけ見られるんだけど、これくらいの……人の大きさくらいの水の玉がいっぱい夜空に浮かぶの」
昨年の建国祭の様子を思い出し、私はうっとりとした。お城のバルコニーに現れた王様がひとたび荘厳な杖を振るうと、国中の水路が生命を与えられたように震えだし、巨大な水の塊が街のそこここに浮かんで空へと上っていくのだ。
「自分は魔法を使うのに、皆は使っちゃいけないのは何故だろう」
「うーん……どうしてだろうね」
メレの言うことはもっともだった。
考えあぐねて二人が出会った噴水広場を通り過ぎたころ、金色の瞳を眠たげに細めたメレはぽつりと言った。
「王様に聞きに行ってみようか」
「メレ、何を言ってるの!? 衛兵さんに捕まって冷たい牢屋に入れられちゃうわ」
他国から眠り薬を売りにきた魔法薬商人や、贈り物の星の魔力を溶かした紅茶を飲んだ人、そして国はずれの納屋にこっそり魔女を匿っていた人。皆みんな、衛兵さんに連れて行かれて帰って来なかった。
王様に直接魔法について聞くだなんて、とても正気とは思えない。
一番街の時計塔を横切って、メレはひとつ頷いた。
「アメリィ、この国のことをもう少し知りたいな。いちばん古い図書館を教えてくれる?」
三階の窓から秘密の閉架書庫へ入り、私たちは書棚の森へ降り立った。
日付けを跨いだ国立図書館はしんと静まり返っている。見回りの守衛さんも眠った時間かもしれない。
夢みたいな空中散歩の終点がこんな黴臭いところだなんて風情がないけれど、メレは興味深そうに革の背表紙を眺めて歩いていた。
やがて一冊の古い本を見つけると、メレはその背表紙を杖で軽く小突いた。重たそうな本が音もなく本棚から滑り出し、メレのためにぱらぱらとページを捲る。
横から覗いたけれど、難しい言葉が並んでいて私には何が書いてある本なのか全然分からなかった。
「こんな難しい本も読めるのね」
「まあ、文字が読めたら理解はできるよ」
「なんて書いてあるの?」
メレは鼻の頭を掻き、「うーんとね」と文字に目を滑らせる。
「昔々……ある川のほとりに、小さな村がありました」
「そんなお伽噺みたいなこと、書いてある?」
「君のために分かりやすく話してるの」
それはどうも。
十二歳の女の子に対して読み聞かせるにはあまりに童話じみてるんじゃないの、と思ったけれど、私より幼い子どもに見えるメレは三百歳らしい。メレから見たら私なんて、生まれたての赤ちゃんと変わらないのかもしれない。
「川のおかげでおいしい魚がとれ、畑は潤い……人々は慎ましくも幸せに暮らしていました。けれど時々、遠くの山の火吹き竜が村に来るようになりました……村は荒らされ人々は困って……えぇと、なんかこう……色々あって竜を追い払ったんだって。めでたしめでたし」
要約を続けていたメレは、途端に面倒臭くなったように話を畳んでお終いにした。
「端折らないでよ、良い所だったじゃない」
唇を尖らせる私にお構いなく、メレは杖で本のページを軽く叩く。ふわふわと宙に浮かんでいた本は、元の書棚に静かに収まった。
メレは大きめの欠伸をした。あれだけ寝たのにまだ眠いらしい。
入ってきた窓の外では、空のてっぺんにあった月が傾きかけている。かなり遅い時間だ。
私もつられて欠伸をすると、メレは眠たげな瞳で私を振り向いた。
「なんとなく事情は分かったよ。ねぇアメリィ。手先の器用な君に、頼みたいことがあるんだけど」
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