ひげ女子、クラス全員巻き込み中 ―タブレット学園騒動記―

真木一転

第1話

 その朝、洗面所の鏡の前で、私は五回目のため息をついた。


 右手には、昨日まで机の引き出しの奥で眠っていた、例の「付けひげ」セット。

 ブラウン寄りの、ちょっと細めのひげ。パッケージには「知的クール系」とかいう、信用していいのか分からないキャッチコピーが書いてある。


「……知的クールって、誰のこと?」


 自分の顔と、ビニールの中のひげを交互に見比べて、ひとりツッコミを入れる。

 そして、覚悟を決めるみたいに、一気に貼り付けた。


 ぺたり。


 鏡の中で、私の鼻の下に、細い影が生えた。

 昨日の夜、部屋でこっそり試したときと同じ感覚だけど、朝の光の下で見ると、破壊力が違う。


「……誰、この人」


 思わず、声が漏れた。

 完全に別人、というほどではない。ちゃんと私の顔なのに、口元だけが「大人の世界知ってます」みたいな顔をしている。


 ちょっと顎を引いてみる。

 少し上目づかいになってみる。

 唇の端を上げて、ニヤッとしてみる。


「……あ、なんかムカつく」


 鏡の中の私は、見慣れない「自意識」をくっつけられたみたいで、かなり腹が立つ。

 でも、同時に、胸の奥がちょっとだけ高鳴っている。

 ――これで外に出たらどうなるんだろう、って。


「よし、一回外そう」


 私は自分で自分に言い聞かせて、ひげの端をつまんでぺりっと剥がした。

 その瞬間、なんだか、一気に普通の女子高生に戻った気がして、肩の力が抜ける。


 そこから、同じことをあと二回繰り返した。


 付ける。

「誰この人」

 外す。

「やっぱ無理」


 付ける。

「でも、今日だし」

 外す。

「いやいやいやいや」


 三往復目の「いやいやいやいや」のところで、廊下から母の足音が聞こえた。

 私は慌ててひげを握りしめ、洗面所の電気を消す。


「真希ー? そろそろ出ないと、電車間に合わないわよー」


「いま行くー!」


 声だけは、いつもの調子を装う。

 心臓は、普段の二倍速で鳴っているけど。


 もう時間がない。

 私は鏡の前に戻って、自分の素顔と向き合う。


 鼻の下には、産毛の気配。

 昨夜、むやみに抜いてしまったせいで、ちょっと赤くなっている。


「……どうせ、バレるなら」


 私は、小さく息を吸って、ひげをもう一度、ぺたりと貼り付けた。

 今度は、剥がす前提の「お試し」じゃなくて、本番用の角度で。


 少し下がり気味にすると、なんだか海賊みたいになる。

 真ん中寄りにすると、さっきの「知的クール系」に寄っていく。

 悩んだ末、私は「海賊八割・クール二割」くらいの、中途半端な位置に落ち着かせた。


「……よし。知らん。今日はこれで行く」


 宣言してしまったら、あとは勢いだ。

 洗面所のドアを開ける前に、私は上からマスクをかけた。

 どう見ても、マスクの下に“何か”がいるけれど、細かいことは考えないことにする。


 階段を降りると、母がキッチンから顔を出した。


「ご飯ちゃんと食べて――あら、今日はマスク早いじゃない」


「うん、なんか、喉がちょっと」


 完全に嘘だけど、今日は許してほしい。

 母は特に疑うこともなく、「あんまり無理しないでね」とだけ言って、トーストを差し出してきた。


 トーストをかじりながら、私は横目でテレビのニュースを見る。

 世界は、何事もなく平和そうだ。

 うちの学校で、これから「ひげデー」が決行されることなんて、誰も知らない。


 トーストを半分まで食べたところで、スマホが震えた。

 クラスの広場からの通知だ。


《明日って言ってたけど、やっぱ今日決行でいい? ひげデー by 誰か》


 昨日の夜の、あのノリの延長のカードが、まだタイムラインの上のほうで光っている。

 既読の数は、もうクラス全員分をとうに超えていた。


《やるしかないでしょw》

《もう買っちゃったし》

《担任の顔見たい》


 コメント欄だけで、すでにカオスだ。

 私は画面を伏せた。これ以上見たら、気が変わる。


「じゃ、行ってきます」


 マスクの下から漏れそうなひげを意識しないようにして、玄関に向かう。

 靴を履いて、ドアノブに手をかけたところで、ふと振り返った。


 もし今ひげを取っても、誰も責めない。

 何も起こらない、普通の水曜日が来る。それはそれで安全だ。


 でも。


 私は、右手の指先に残っている、ひげの粘着の感触を思い出した。

 最初の匿名カードを投稿した夜。

 あのときの「どうせなら、ここまでバカやってやれ」という気分も、一緒に。


「……うん。行く」


 小さくつぶやいて、玄関のドアを開けた。



 外の空気は、思ったより普通だった。

 そりゃそうだ。ひげをつけているのは今のところ私だけだし、それだってマスクで隠している。


 家の前の坂道を下りながら、私は何度もマスクの位置を直した。

 歩くたびに、ひげとマスクの布がこすれて、妙なざらざら感がする。


「おはよー」


 角を曲がると、同じクラスの山本が自転車で追い抜いていった。

 いつも通りの声。いつも通りの制服。

 マスクの上から、こちらに手を振ってくれる。


 私は、心の中で全力でツッコむ。


(お前、ひげどうした。付けてるのか、付けてないのか、どっちなんだ)


 今日に限って、誰の口元も気になって仕方ない。

 すれ違うサラリーマンのおじさんのひげ、向かいから歩いてくるおばあちゃんの“ない”ひげ、犬の口の周りの白い毛まで、全部がやたら印象に残る。


 駅に着き、改札を抜け、電車に乗る。

 車内の窓ガラスに映る自分を見て、私はそっと目を細める。


 マスク越しだから、外からは多分バレない。

 でも、自分には分かっている。

 今、私は「ひげを隠している」んじゃない。「ひげを温めている」のだ、と。


 電車が揺れるたびに、鼻の下で小さな違和感が揺れた。

 緊張と、笑い出したい気持ちと、ちょっとした高揚感がごちゃまぜになって、胸のあたりがふわふわする。



 学校の校門が見えてきたとき、私は一度立ち止まった。

 門の向こうには、いつもの朝の風景。

 自転車を押して走る生徒、売店の前でたむろっている生徒。

 ぱっと見た限り、ひげは……見えない。


「……え、まさかの、裏切り?」


 心の中で、クラスメイトたちを一斉に問い詰める。

 昨日のあの盛り上がりは、全部夢だったのか。


 いや、違う。

 マスクの下とか、教室の中とか、まだ“本番”はこれからだ。

 私は自分に言い聞かせて、校門をくぐった。


 昇降口で上履きに履き替えながら、廊下を歩いていく生徒たちの顔をちらちらと観察する。

 ……ない。やっぱり、ひげは見当たらない。

 むしろ、いつもよりみんな顔まわりがすっきりしている気がする。気のせいだろうか。


 教室の前に着いたとき、心臓の鼓動が、さっきまでの電車より激しく揺れていた。

 ドアの小窓から中をのぞく――勇気は、さすがになかった。


「入るしかないか」


```

私はドアノブを握りしめて、深呼吸を一回。

```


 マスクの中で、ひげがふるっと震えた気がした。


 ガラッ。


 勢いよくドアを開けて、一歩踏み込む。


 そこに広がっていた光景を見て、私は思わず、マスクの中で声を上げそうになった。


「……お前ら」


 ひげ、ひげ、ひげ。


 前の席の佐伯は、黒マジックで描いた、丸くて太いちょびひげ。

 窓際の双子みたいな二人組は、画用紙を切り抜いて作った、やたら立派なカイゼルひげ。

 後ろのほうでは、スマホのフィルターで画面上にだけひげを生やして、見せ合っている女子たちまでいる。


 そして、教室の真ん中。

 クラスのムードメーカーの大地が、両手を広げて叫んだ。


「ようこそ! 本日の特別企画、ひげデー会場へ!」


 教室に、笑いと拍手が起こる。

 ひげを付けていない数少ない生徒たちも、ノートの切れ端で慌てて紙ひげをこしらえ始めていた。


「ちょ、真希、それガチのやつじゃん!」


 誰かが、私の顔――というか、マスクの下を指さした。

 どうやら、付けひげの立体感は、布越しにも隠しきれていないらしい。


「な、何も見えないはずだが」


「いや見えるって。マスク、もっこりしてるもん」


 ひげが「もっこり」という単語とセットで使われたのは、生まれて初めて聞いた。


 私は観念して、マスクのゴムに指をかけた。


「じゃ、じゃあ……いきます」


 教室中の視線が、一斉に集まる。

 心臓が、さっきの五倍くらいの速さで跳ねる。


 ぺり。


 マスクを外した。

 同時に、教室の空気が0.5秒ほど止まる。


 次の瞬間。


「おおおおおおおおお!」


 歓声とも悲鳴ともつかない声が、教室を揺らした。


「すげー! クオリティ違う!」

「それ本物じゃないよね!?」

「似合ってんの腹立つ!」


 口々に好き放題言いながら、みんなが机から身を乗り出してくる。

 私は顔を真っ赤にしながら、でも、なぜか笑いが込み上げてきて、うつむいたまま肩を震わせた。


 そのとき、チャイムが鳴った。

 ホームルームの時間だ。


 ガラリ。


 教室の後ろのドアが開いて、担任の中村先生が入ってきた。

 四十代手前、いつもネクタイが少し曲がっている理科教師。


「おはよう……」


 中村先生の言葉が、途中で止まった。

 目の前にいるのは、三十人分の、何らかのひげを装備した生徒たち。


 紙ひげ。マジックひげ。アプリひげ。

 そして、ひとりだけ、やけにリアルな付けひげ。


 先生は、黒板の前で無言のまま三秒固まり、それから、大きく息を吐いた。


「……出席とる。ひげは後でまとめて指導する」


 教室中から、「はーい!」とも「えー!」ともつかない返事と笑い声が上がる。

 私は、自分のひげをそっと指先でなぞった。


 まさか、こんな光景が現実になるなんて。

 ちょっと前の自分に言ったら、絶対に信じないだろう。


 ――どうして、こんなことになったのか。


 出席番号が呼ばれる声を聞きながら、私は、数週間前の夜のことを思い出していた。

 あのとき、タブレットの広場に、たった一枚のカードを送信した、自分の指の感触を。


 ひげが生え始めた日の、あのカードから。


---


 数週間前の夜――私は、その頃も、洗面所の鏡の前でため息をついていた。


 杉浦真希、高校一年生。

 そのときのいちばんの敵は、テストでも人間関係でもなく、鼻の下だった。


 鼻の下に、うっすらと黒い点々。

 指で触ると、ざらっとした感触。


「……え、これ、産毛じゃないよね?」


 照明の角度を変えたり、顔を近づけたり、スマホのライトを当てたりしているうちに、現実から目をそらすのがだんだん難しくなっていく。


 中学のころから、なんとなく気になってはいた。

 でも、「気のせい」「光の加減」「あとはファンデでどうにか」と、ひたすら誤魔化してきた。


 高校に入って、タブレットがノート代わりになり、カメラを使うことも増えた。

 オンラインでの“自撮り提出”だとか、「発表の練習動画を撮ろう」とか、そういうやつ。

 そのたびに、映像の中の自分の鼻の下が、ちょっとずつ気になっていった。


 そして、その夜。

 私はとうとう、認めざるをえなかった。


「……これは、もう、“ひげ”って言っていいやつでは?」


 そう気づいてしまったときの、あの、妙な静けさ。

 ショックというより、「あー、やっぱりな」という敗北感に近かった。



 部屋に戻って、ベッドの上にひっくり返る。

 タブレットの電源を入れると、いつものホーム画面。教科書アプリ、ノートアプリ、そして――クラスの「広場」アプリ。


 広場は、うちのクラス専用のタイムラインみたいなもので、

 学級日誌も、係の連絡も、どうでもいい雑談も、全部そこに流れてくる。


 私は、なんとなくそのアイコンをタップした。


 画面の上には、数時間前の学級日誌。

《今日は体育でバスケ。○○くんのシュートが三回連続で外れて、ちょっと面白かったです》

 その下に、「ドンマイw」「次は入るよきっと」みたいなコメントが並んでいる。


 さらに下へスクロールすると、

《うちの猫がやたら偉そうな座り方してたので共有します》

 というカードに、猫の写真が貼られていた。みんなが「かわいい」「うちの猫も似てる」と騒いでいる。


 ――平和だ。

 世界はこんなに平和なのに、私の鼻の下だけが戦場だ。


 私は、タブレットを胸の上に置いて、しばらく天井を見つめた。


(……これ、誰かに言ったほうがいいのかな)


 友だちにメッセージで相談すればいい話かもしれない。

 でも、わざわざ「ひげが生え始めました」と打ち込む自分を想像すると、羞恥心で指が動かなくなる。


 保健室の先生に聞いてみる?

 ――それもハードルが高すぎる。

 「どの程度からが“ひげ”と言えますか」なんて、アンケートでもなければ聞けない。


 そこで、ふと目に入ったのが、広場アプリの右下のボタンだった。

 +マークがついた、「新しいカードを作成」のアイコン。


 タップすると、「タイトル」「本文」「送信先」の欄が出てくる。

 そして、送り主名のところには、小さなチェックボックス。


《匿名(教師のみ閲覧可)》


 先生にはバレる。でも、クラスメイトの画面には「匿名」として表示される。

 うちの学校は、「本音を言いやすくするため」とか言って、この匿名機能をわりと推奨していた。


(……いやいやいや。さすがに、これはない)


 一度は画面を閉じかけた。

 けれど、私は“さっきまで洗面所で現実と向き合っていた自分”を思い出す。


 逃げ続けるのは、もうしんどい。

 どうせしんどいなら、一周回ってネタにしてしまったほうがマシなんじゃないか。


 私は、半分やけくそになって、キーボードを叩き始めた。


 タイトル欄に、こう打ち込む。


《ひげが生え始めた》


 そして、本文。


《タイトルの通りです。

 女子なのに、鼻の下に、どう見ても“それ”っぽい影ができてきました。

 笑ってもいいので、同じような人がいたら、心の中でだけでいいので手を挙げてください。》


 送信先は、「クラス広場(全員閲覧可)」。

 匿名チェックは、オン。


(……やっぱやめよ)


 送信ボタンに指を乗せて、五秒くらい固まる。

 その間にキャンセルすれば、何事もなかったことにできる。

 でも、何事もなかったことにした結果、私の鼻の下はこの先ずっと、誰にも知られない戦場のままだ。


 私は、深呼吸を一回して、目をつぶった。


 そして、タップした。



 五分後。

 後悔は、思ったより遅れてやってきた。


「わあああ、なんで送っちゃったんだろう……」


 ベッドの上で枕を抱えながら、私は足だけジタジタさせる。

 もう、どうにでもなれ。

 明日の朝、誰かが見つけて笑うだろうし、しばらくはネタにされて、そのうち忘れられる。

 そう自分に言い聞かせて、タブレットの電源を落とした。


 その夜は、わりとちゃんと眠れた。

 問題は、翌日だった。



 朝。

 通学途中の電車の中で、私はスマホ(※学校禁止だけど、通学中だけこっそりチェックしている)で広場の様子を確認した。


 すでに、私のカードには数件のコメントがついていた。


《勇気あるw》

《わかる。わたしも、鼻の下青くなる》

《女子だけじゃないよ。俺も頬のあたりだけ急に毛深くなった》


「……マジで?」


 思わず、声が漏れそうになるのをこらえて、画面をスクロールする。


《わたしも。中三くらいから気になってる》

《コンシーラー塗ってる》

《友だちに言えなかったけど、匿名なら言えるわ…》


 予想外だった。

てっきり「変なカード」「ネタ投稿」として流されると思っていたのに、コメント欄は意外と真面目だ。


(え、こんなにいるの?)


 私の中の「孤独なひげ戦士」は、一気に仲間を得た気分になった。


 さらにスクロールする。

 すると、今度は男子からのコメントも出てきた。


《ひげ剃り始めたの高一から》

《すね毛嫌いで剃ってる。冬はいいけど夏はめんどい》

《脱毛行ったことあるやつ、ここにいます(小声)》


「お前らもか」


 思わず、電車の窓に映る自分にツッコミを入れる。

 彼らは彼らで、“毛”と戦っているらしい。


 学校に着くころには、コメント数は二桁を超えていた。


《眉毛サロンで整えたら、逆に変になった》

《カラーリングでごまかしたら、余計目立った》

 などなど、みんなの「毛の失敗談」が、止めどなくあふれている。


 クラスの広場が、一晩で「体毛フォーラム」になっていた。



 教室に入ると、みんなの目線が一瞬だけこちらを向いた。

 気のせいかもしれない。

 ――いや、気のせいだと思いたい。


「おはよー、真希」


 いつも通り声をかけてくる友だちの表情は、そんなに変わらない。

 ただ、誰かがこそこそっとひそひそ話す声の中に、「匿名カード」とか「ひげ」という単語が混ざって聞こえた。


(バレてる? さすがにバレてない?)


 心の中で、何度も自問自答する。

 でも、表向きは何事もない顔をして、席についた。


 ホームルームの後、休み時間。

 また広場を覗いてみると、新しいカードが上がっていた。


《体毛の多い男子、わりと好き説》


《無毛より、ちょっと生えてるほうが安心感ある》

《ひげ似合う人とか、普通にかっこいい》


「おいおいおい」


 今度は、私は画面に向かって真顔になった。


(さっきまで悩み相談だったのに、突然“毛ポジ派”が出現した…)


 その下には、また男子のカード。


《ひげ=ダンディズムって信じてる》

《青ひげも青春の一部です》(※うまいこと言ったつもり)


 誰かが、「毛と文明の歴史について調べてみた」とかいう謎のまとめカードまで作っている。


《古代では、ひげは権力の象徴だったらしい》

《体毛は本来、身体を守るために進化したとかなんとか》

《つまり、毛があることは本能的にカッコいいってことでは?》


 …そんな結論でいいのか、人類。


 コメント欄はもはや、真面目なのかふざけているのか分からない。


《でも現代は脱毛サロン通いが標準装備よ》

《進化に逆らっていくスタイル》


 読みながら、私は半分あきれ、半分安心していた。


(なんかもう、私のひげのこと、どうでもよくなってきた)


 少なくとも、「ひげ=終わり」みたいな世界ではなかったらしい。

 このクラスでは。



 そんなタイミングで、バレー部の練習日がきた。


 放課後、体育館。

 うちの学校のバレー部は、地区の市民クラブの人たちと合同で練習することが多い。

 その市民クラブにいる若い男性コーチ――二十代半ばくらいだろうか――が、ここ最近、ちょっとした噂の的だった。


「あのコーチ、イケメン」「あのコーチ、教え方うまい」「あのコーチ、ひげが似合う」


 そう、ひげが似合う、のである。


 この日も、体育館に入ると、ネットの向こう側でそのコーチがボールを拾っていた。

 ただ、何かが違う。


(あれ、ひげ、いつもと形ちがくない?)


 前はもっとワイルドに生やしていたような気がする。

 今日は、顎のラインがすっきりしていて、口の周りだけに細く残っている。


 アップが終わったあと、サーブ練習の列に並んでいるとき、私は思い切って声をかけてみた。


「コーチ、ひげ、なんか変わりました?」


「お、気づいた?」


 コーチは顎をさすりながら、ちょっと照れくさそうに笑った。


「ちょっと仕事でさ、きっちり目にしなきゃいけない時期だったんだよ。でも全部剃るのもなーって思って、形だけ変えてみた」


「へえ……」


「ひげってさ、けっこう気分変わるんだよ。

 濃く残してるときは“攻めるぞ!”って感じだし、今日みたいに細くすると、なんか“ちゃんとしよう”って気持ちになるし」


 コーチは、ボールを回しながら続けた。


「女の子で言うと……眉メイクとか、前髪のセットに近いのかな。

 自分で“今日の顔”を選ぶ感じ」


 眉メイク。前髪。

 その単語は、私にとって馴染み深いものだ。


(……ひげって、そういうカテゴリに入れていいの?)


 私の中で、「ひげ=あってはいけないもの」から、「ひげ=調整可能なパーツ」へと、ゆっくりラベルが貼り換えられていくのを感じた。


「似合ってると思いますけど」と言うと、コーチは「マジ?ありがと」と笑った。

 その笑顔で、さらにひげがかっこよく見えてしまうのがずるい。


 その日の練習は、いつもよりサーブがよく入った。

 たぶん、ひげパワーだ。



 家に帰ると、私は真っ先にタブレットを開いた。

 広場では、まだ体毛談義が続いている。


《腕毛を剃ったらチクチクして後悔した》

《ひげ脱毛、何回で終わるのか問題》

 などなど、「毛と人類の戦い」の報告が途切れない。


 コメントを追いながら、私は別のアプリを立ち上げた。

 ネットショップ。


 検索欄に、こう打ち込む。


《付けひげ おしゃれ》


 結果一覧に並ぶ、バリエーション豊かなひげたち。


 ダンディなおじさま風の口ひげ。

 映画の悪役みたいなとがったひげ。

 もじゃもじゃのコント用ひげ。

 パーティーグッズっぽい、カラフルなひげ。


(世の中には、こんなにひげがあるのか……)


 スクロールするうちに、だんだん楽しくなってくる。


 そして、画面の真ん中あたりで、私の指が止まった。


《知的クール系 付けひげセット》


 あの、のちに洗面所で私を悩ませることになるやつである。


 モデル写真の男の人は、本当に知的クールに見えた。

 でも、それがひげの効果なのか、顔面偏差値なのかは判別不能だ。


(でも、これくらいの細さなら、わりと馴染みそうな気が……)


 私は、その商品ページを開いて、詳細画像をじっと眺めた。

 装着方法。粘着シートの枚数。再利用可。

 レビュー欄には、「文化祭で盛り上がりました」「使いやすいです」とか書いてある。


(文化祭とかじゃなくて、通学に使いたいんだけどな)


 そう心の中でツッコみながら、カートに入れるボタンに指を伸ばす。


「……いやいやいや」


 一度引っ込める。

 そしてまた伸ばす。


 カチ。


 決済画面に進み、配送先を確認し、「購入確定」をタップした瞬間、画面が切り替わった。


《ご注文ありがとうございました》


「やっちゃった……」


 ベッドの上で、私はタブレットを抱えてごろごろ転がった。

 後悔と、期待と、ちょっとした高揚感が、胸の中で混ざり合う。


(これ、届いてどうすんの?)


 未来の自分に丸投げしながら、その夜も遅くまで、私はネット上のいろんなひげ画像を巡回していた。



 数日後。

 例の付けひげがポストに届き、洗面所での「誰この人」事件を経て――

 私は、ある問題にぶつかっていた。


(どうやって、これで学校に行くんだ)


 マスクで隠す? → 外した瞬間アウト。

 マフラーで隠す? → 校則でNG。

 文化祭の仮装という設定にする? → 文化祭は二学期。


 ノートアプリの落書き機能で、自撮りにひげを描き足して、仮想ひげ登校をシミュレーションしてみたりもした。

 現実逃避の極みだ。


 そんなふうにぐるぐる考えていたとき、ふと、広場のアイコンが目に入った。


 そうだ。

 最初の「ひげが生え始めた」カードも、あそこから始まった。


(……どうせ、ここまで来たなら)


 私は、再び「新しいカードを作成」を開いた。


 タイトルに打ち込む。


《ひげデーやりたい人》


 本文。


《毛の悩み、みんなでちょっと笑い飛ばしたくありませんか。

 付けひげでも、本物でも、マジックでもアプリでも、なんでもいいので、

 1日だけ“ひげを生やして登校する日”をやったら楽しそうだな、と妄想しました。

 やるかどうかは別として、賛同してくれる人、います?》


 匿名チェックを、またオンにする。

 送信先は、当然クラス広場。


 送るか、やめるか。

 私は、また五秒くらい悩んだ。


 でも、さっき洗面所で見た「海賊八割・クール二割」の自分の顔を思い出したら、

 なんかもう、「ここまで来て引き返したら、逆にダサい」気がしてきた。


 私は、送信ボタンをタップした。



 反響は、想像以上に早く、そして騒がしかった。


《やるしかないでしょw》

《そういうバカ企画、嫌いじゃない》

《前髪失敗したとき以来の、祭りの予感》

《本物生えてる人も参加OKですか(震え)》


 コメント欄は一気に盛り上がり、

 誰かが「じゃあ○日をひげデーにしよう」と適当に日付を指定すると、

 《了解》《予定空けときます》《ひげ準備しとく》と、次々と返事がついていく。


(いや、そんな公式感出さなくていいから)


 私は画面の前でパニックになりかけた。

 ちょっとしたネタのつもりが、企画会議みたいになっている。


 結局、日付は「来週の水曜日」に決まった。

 理由は、「週の真ん中でテンション上げたいから」という、よく分からないものだった。


 その数日間、広場は準備報告で溢れた。


《100均で紙ひげ買った》

《家にあったフェルトでひげ作った》

《兄のコスプレ用ひげ借りた》

《アプリでひげフィルター探し中》


《担任の反応予想》

《①笑う ②怒る ③無視する ④ひげで対抗してくる》


 投票カードまで作られていた。

 一番多かったのは「③無視する」で、次が「①笑う」。


(④だったら、伝説だな……)


 私は、笑いながらも、胃のあたりがきゅっと縮むのを感じていた。


 だって、私だけは、本気の付けひげなのだ。

 ガチなのだ。

 お遊びではない、――いや、お遊びなんだけど、お遊びだけではない。



 ひげデー前夜。

 布団の中で、私はタブレットを顔の前に掲げていた。


 広場には、「明日楽しみ」「もうひげ付けて寝るわ」「ドキドキしてきた」なんてカードが並んでいる。


《やっぱりやめようかな》

 そんな弱気なカードも、一つだけ混ざっていた。


 それを見て、私は思う。


(正直、わたしもそう思ってる)


 枕元の机には、例の付けひげ。

 小さなビニール袋の中で、静かに出番を待っている。


 明日、あれを付けて学校に行くかどうか。

 選ぶのは、明日の朝の自分だ。


 私はタブレットの電源を落とし、天井を見上げた。

 目を閉じても、鼻の下あたりがやけに意識にのぼってくる。


(……もし、全部うまくいったら)


 私は、ぼんやりと想像した。

 教室中がひげだらけになって、みんなで爆笑して、

 毛の悩みだなんだと言っていたのが、ちょっとだけどうでもよくなる未来。


(もし、全部スベったら)


 それは、そのとき考えればいい。

 どうせ、一生のネタにはなる。


 そう思うことにして、私はようやく目を閉じた。


 こうして――


 ひげが生え始めた夜から始まった私の小さな反乱は、

 あの「ひげデーの朝」へと、静かに続いていったのだった。


 ――出席番号二十七番、「杉浦」。


「はい」


 反射的に返事をして、私は現在に引き戻された。


 黒板の前では、中村先生が、淡々と出席を取り続けている。

 目の前には、相変わらずひげまみれのクラスメイトたち。

 自分の鼻の下にも、しっかり付けひげ。


(そうだ。今、まさに本番中なんだった)


 数週間分の回想を、たった数秒で見てきたみたいな気分だった。



 ホームルームが終わると、クラス中が一気に騒がしくなった。


「ねえ見て、このひげ、さっきより太くなってない?」


「それ、目尻まで伸びてるじゃん。もはやひげじゃなくてアイライン」


「写真撮ろ、写真!」


 数人が同時にスマホを取り出して、ひげ集合写真を撮ろうとし始める。

 そこへ、クラス委員の美優が慌てて割って入った。


「ちょっと待った! 校則的にスマホはダメだから! タブレットで撮って!」


「ルールに忠実なのか、ひげには甘いのか、どっちかにして」


 ツッコミを入れながらも、みんな素直にタブレットを立ち上げる。

 ノートアプリのカメラ機能で、自撮りしたり、友だちを撮ったり。


「広場に上げよー」「今日だけアルバム作ろうぜ」


 彼らの手によって、「ひげデー特設アルバム」というカードが作成されていく。

 まだ一時間目も始まっていないのに、すでに写真が十枚以上アップされていた。


 その中に、私も半ば強制的に引きずり込まれた。


「真希もー! 本物ひげ代表として!」


「代表って何」


 文句を言いながら、私は教室の後ろの掲示板の前に立たされる。

 なぜか「本日の主役」と書かれたプリントが貼られ、その前でポーズを取らされた。


「はい、海賊顔してー!」


 シャッター音とともに、タブレットのどこかに保存されていく、ひげ海賊バージョンの私。


(今日だけは、消してって言っても消してくれないんだろうなあ)


 半分あきらめて、半分笑いながら、私は席に戻った。



 一時間目、現代文。


 担当の国語教師・山下先生が教室に入ってきて、やっぱり三秒固まった。


「……なんか、今日は読解以前に解読が必要そうだな」


 そう言いながらも、授業は普通に始まった。

 教科書の文章は「自己表現」についてだったので、先生はなぜかノリノリである。


「ちょうどいい機会なので、きみに聞いてみよう」


 指さされたのは、よりによって私だった。


「杉浦。えーと、そのひげ。自分では似合っていると思うか?」


「……思うことにしました」


「よろしい。“思うことにする”というのも、立派な自己表現です」


 なにそのまとめ方。


 クラス中から笑いが起きる。

 山下先生は満足げに頷き、「では、この状況を踏まえて、自己表現について四百字で書いてみましょう」と無茶ぶりをした。


(絶対、あとで職員室でネタにする気だ)


 二時間目、数学。

 こちらの先生は、教室に入ってきた瞬間、ひげ軍団を見ても眉一つ動かさなかった。


「……では、昨日の続きから」


 チョークの音だけが、いつも通り淡々と黒板に響く。

 途中で後ろの席の大地が、「先生、ひげはスルーなんですか」と聞いてみると、


「正弦定理以外のものは、だいたいスルーだ」


 とだけ答えて、また黙々と問題を解き始めた。

 そのブレなさが逆に面白くて、クラスの評価が少し上がった。


 三時間目、英語。


「Oh… my… gosh…」


 ネイティブ教師のケリー先生が、教室のドアで固まった。

 教室の中を見回し、私のひげで二度見し、そして突然、目を輝かせた。


「Perfect! Today’s topic is… moustaches!」


 そんなトピック、教科書には載っていない。


「Repeat after me: I have a moustache.」


「I have a moustache.」


 三十人分のひげ付き英語が、教室に響き渡る。

 なんだこの授業。


 そのあとも、「Do you like moustaches?」「What kind of moustache do you want?」など、

 教科書そっちのけでひげに関する会話練習が延々と続いた。


(今日の復習プリント、絶対“ひげ”って単語だけ満点だな)


 そんなことを思いながら、私は自分の鼻の下をそっと押さえた。



 休み時間。

 水を飲もうと廊下に出た私は、そこでさらに衝撃の光景を目にした。


 向かいのクラスのドアが開いた瞬間、そこからも、わらわらとひげの群れが出てきたのだ。


「お前らもか!」


 思わず声に出してしまう。


「なんかさ、お前んとこのひげデー、広場の学年チャンネルにまで流れてきたんだけど」


「面白そうだったから、参戦」


 彼らのひげも、うちのクラスに負けず劣らず、バリエーション豊かだ。

 中には、どう見てもマジックペンで適当に描きなぐっただけのやつもいるし、

 明らかにコスプレ用品丸出しの、金色のカールひげまであった。


 さらに、三年生と思しき先輩が、すれ違いざまにひげをピンと立てながら言う。


「下級生は、ちゃんとひげの礼儀守れよな」


「ひげの礼儀って何ですか」


 わけの分からない上下関係まで発生していた。



 昼休みが近づくころ、タブレットが一斉に震えた。


《全校共通:生徒用端末 顔認証エラーについて》


 システムからのお知らせカードだ。


《現在、一部の生徒において、タブレットの顔認証システムが機能しづらい状態になっています。

 原因は調査中ですが、

 ・カメラに何かがかかっていないか

 ・顔の一部が通常と大きく異なっていないか

 などをご確認の上、再度お試しください。》


 教室中から、「それ絶対ひげのせいじゃん!」というツッコミが同時に上がる。


「うち、さっきロック解除しようとしたら、『本人と判別できません』って言われた」


「じゃあ今のきみ、誰なんだよ」


「私、『通常より毛量が多い可能性があります』って出たんだけど。そんな項目あった?」


「AIにまで毛量査定される時代やめてほしいんだが」


 そんな項目、聞いたことがない。

 どうやらAIくんは、ひげを「本人とは異なる何か」と認識し始めたらしい。


 誰かが、広場にスクショ付きで投稿する。


《AIにひげ否定された》


 その下に、「文明vs体毛・第二ラウンド」というタイトルのコメントがついていた。



 昼休みの購買は、さらにカオスだった。


「本日限定、ひげ割引しまーす」


 パンを売っている職員が、エプロンの上に紙ひげを貼り付けながら叫んだのだ。


「ひげ付けてる人は十円引き。自前でも付けひげでも、マジックでもOK」


「公式が乗っかってきた!」


 生徒たちが一斉に列に並ぶ。

 中には、「今だけひげ」を作るために、その場でボールペンを借りて鼻の下に線を引いている子もいる。


「先生、それ、校則的にどうなんですか」


 誰かが聞くと、職員は肩をすくめた。


「校則には、“頭髪”と“服装”のことは書いてあるけど、“一時的なひげ装備”については特に……」


「抜け道!」


 ひげの隙間を縫うようにして、校則の穴が見つかった瞬間だった。


 パンを受け取りながら、私は内心で思う。


(こんなくだらないことで、学校全体がちょっと楽しくなるなら、

 ひげも悪くないな)



 午後の授業も、ひげを前提に進んでいった。


 理科では、「光の反射」の実験で、ひげが影の出来方に影響するかどうかを調べ始める男子がいたし、

 社会では、「歴史上のひげ偉人」クイズが突発的に行われた。


「信長も家康も、ひげ、あるよな」


「じゃあ今日のオレたち、全員戦国武将ってことで」


「武将、多すぎ問題」


 ある意味、日本史上もっともひげ密度の高い教室だったかもしれない。



 放課後。


 教室に残っている生徒は、いつもより多かった。

 みんな、すぐに帰るのがもったいないらしい。


「ひげ片付ける前に、感想戦しない?」


 大地がノートアプリを開きながら言う。

 即座に、「ひげデー反省会」というタイトルのカードが立ち上がった。


《楽しかった》《しんどかった》《AIに怒られた》《先生が一番面白かった》

 コメント欄は、あっという間に埋まっていく。


《体毛の悩み、どうでもよくなった》

《むしろ、ひげ生やしたくなってきた》

《明日から普通の顔に戻れる気がしない》


「それは戻ろう」


 私は笑いながら、自分のひげをつまんだ。

 粘着シートが、そろそろ限界を訴えている。


「真希はどうだった? ガチひげ代表として」


 美優が、タブレットを構えたまま、ニヤニヤしながら聞いてきた。


「そうだなあ……」


 私は少し考えてから言った。


「“生えてきちゃったもの”じゃなくて、“自分で選んで付けたもの”になった感じ」


「おお、それっぽい」


 そう言って、美優はそのまま私のセリフをカードに書き込んだ。


《“生えてきちゃったもの”じゃなくて、“自分で選んで付けたもの”になった感じ》

《by ガチひげ代表》


「やめろ、晒すな」


 抗議の声は、あっさり無視された。



 ひとしきり盛り上がったあと、少しずつみんなひげを外し始めた。


 紙ひげはゴミ箱へ。

 マジックひげは、トイレに行って洗面台でごしごし。

 アプリひげは、アプリを閉じたらあっさり消えた。


「なんか、もったいないなー」


 大地が、はがした紙ひげを名残惜しそうに眺める。


「明日やったら、もうただのしつこい人になるからね」


「それもそうか」


 笑いながら、みんなが帰り支度を始める。


 私は、まだひげを付けたままだった。

 外そう、と思えば、いつでも外せる。

 でも、まだいいか、とも思う。


(どうせ、トイレ行けばいくらでも……)


 そう考えて、私は教室を出た。



 女子トイレの鏡の前。

 ひげを付けた自分と、向き合う。


 朝、家の洗面所で見たのと同じ顔。

 でも、どこか雰囲気が違う気がした。


 頬が少し赤いのは、一日中笑っていたせいかもしれない。

 目の下のクマは、昨夜の睡眠不足のせいだろう。

 それでも、鏡の中の私は、思っていたよりずっと楽しそうだった。


「……そろそろ、外す?」


 自分に問いかけてみる。

 ひげに指を伸ばす。

 粘着シートの端をつまむ。


 その瞬間、今日は終わる。

 ひげデーも、馬鹿みたいな一日も、全部「過去」になる。


 指先に、ちいさな迷いが残った。


(……家までは、このままでいこうかな)


 どうせ、マスクをすれば分からない。

 さっき、クラスのみんなの前でマスクを外して笑ったのだから、

 今さら外の人にどう思われようと、大した問題じゃない気もする。


「よし。帰ってから外そう」


 私はひげから手を離し、蛇口の水で少しだけ顔を冷やした。

 タオルで拭いて、マスクを付け直す。


 鏡の中で、白い布の下が、ほんの少しだけふくらんでいる。

 それが何だか、ちょっと誇らしく思えた。



 昇降口を出ると、夕方の光が校庭を斜めに照らしていた。

 朝よりも長い影が、地面に伸びている。


 校門のあたりで、ひげを外したクラスメイトたちが、まだ少し騒いでいた。


「いやー、先生の顔、マジで忘れられん」

「ケリー先生、“I love moustaches!”しか言ってなかったよね」

「AIくんのエラー文、保存したからあとで送るわ」


 そんな声を背中で聞きながら、私は校門をくぐった。


 通学路の道端にある、コンビニのガラスに、自分の姿が映る。

 制服、カバン、マスク。

 一見、普通の女子高生。


 でも、そのマスクの中には、今日一日を一緒に過ごしたひげが、まだちゃんとくっついている。


(……なんか、変な一日だったな)


 笑いながら歩いていると、スマホが震いた。


 クラスの広場から、新しいカードの通知。


《ひげデー写真アルバム(非公式)》


 大地が作ったらしい。

 タップすると、今日一日分のひげ写真がずらっと並んでいた。

 紙ひげ。マジックひげ。アプリひげ。

 そして、私の「本日の主役」ショットも、しっかり入っている。


《この中に、本物が何人か混ざっているとかいないとか》


 コメント欄に、誰かがそう書いていた。


 私は、歩きながら、そっと返事を書き込む。


《本物だったとしても、今日は一緒に笑ってくれたから、それで十分です》


 送信ボタンを押すと同時に、夕方の風が、マスクの端をふわりと揺らした。



 家の前に着いて、玄関のドアノブに手をかける。

 その前に、もう一度だけ、スマホのフロントカメラを起動してみた。


 画面の中には、マスクを半分ずらして、ひげを見せている自分。

 目は、少しだけ疲れていて、でも、確かに笑っていた。


「……よくやった、今日のわたし」


 小さく呟いて、今度こそ、付けひげをそっと剥がす。

 粘着シートが、ぺりっと音を立てた。


 ひげがなくなった鼻の下は、少し軽くなったような気がした。

 でも、胸のあたりは、なぜか前よりも、少しだけ重くて温かい。


 それはたぶん、「恥ずかしさ」を隠すための重さじゃなくて、

 くだらないことを全力でやりきった日の、「手応え」みたいなものだった。


 私はひげをティッシュに包んで、そっとポケットにしまった。

 ゴミ箱に捨ててもよかったけれど、なんとなく、それは違う気がした。


 玄関のドアを開けると、母の声が聞こえた。


「おかえりー。今日、なんか学校どうだった?」


「……うん。ちょっと、ひげが生えるくらいには楽しかった」


「なにそれ」


 母は、意味が分からないという顔で笑った。

 私は「なんでもない」とごまかして、靴を脱いだ。



 夜。

 タブレットを開いて、クラスの広場をスクロールする。


 ひげデーの写真。

 感想カード。

 「AIくんのエラーメッセージまとめ」。

 「今日のひげ川柳」(※誰かが勝手に始めた)。


《ひげ生やし 笑いしクラスに 毛の恩返し》


《青ひげも ネタに変えてく 現代文》


 質はともかく、楽しそうなのは伝わってくる。


 新しいカードが一番上に上がってきた。


《学級日誌 担当:週番》


《今日は、ひげの日でした。

 朝、教室に入ったらみんなひげで、先生もびっくりしていました。

 授業もまあまあちゃんとやりました。

 毛の悩みは、完全にはなくならないと思うけれど、

 それを理由にして笑えるクラスでよかったと思います。》


 その下に、クラスメイトたちのコメントがぽつぽつとついていく。


《ひげの日、またやりたい》

《次は何デーにする?》

《眉デーはやめてください》


 私は、画面を見つめながら、ふっと笑った。


(教室中のひげは、たった一日で消えたけど)


 でも、あの日、わたしたちの中に生えたものは、

 もう簡単には剃れない気がしていた。


 強がりとか、

 くだらないことを本気でやる勇気とか、

 自分のコンプレックスを、ちょっとだけネタに変えられる図太さとか。


 そういう、目に見えない「ひげ」が、

 クラスのみんなの心のどこかに、一本ずつ生えたんだと思う。


 私の鼻の下には、もう付けひげはない。

 でも、あの夜、洗面所の鏡の前でため息をついていた自分に、今ならこう言ってあげられる。


(生え始めたのは、ひげだけじゃなかったよ)


 私はノートアプリを開いて、「今日の感想」というタイトルのページに、一行だけ書き込んだ。


《教室中のひげは、たった一日で消えた。

 でも、あの日わたしたちの中に生えた“見えないひげ”は、

 たぶん、もう二度と剃れない。》


 少しだけ迷ってから、その下にもう一行、付け足す。


《見えるひげでも、見えないひげでも、どっちでもいいくらいには。》


 保存ボタンを押して、タブレットを閉じる。


 明日になれば、みんなまた、ひげのない顔で学校に来る。

 だけど、今日のこの馬鹿みたいな一日のことを思い出すたびに、

 きっとどこかで、目に見えないひげが、ふるふると震えるだろう。


 そう思うと、少しだけ、また、ひげを伸ばしたくなった。


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ひげ女子、クラス全員巻き込み中 ―タブレット学園騒動記― 真木一転 @makiitten

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