第4話:クッキーは食べる?


 魔王に就任してからわずか更に数日。


 リリア・フォン・ダークネスの体内は、就任式の物理的な疲労と、四天王による地獄の特訓の記憶で、常に悲鳴を上げていた。


 彼女の朝は、午前六時、太陽の気配がわずかに差し込む魔王城の薄暗い回廊から始まる。


 「リリア様、朝でございます。本日も、ヴァルハラ様考案の『究極の無の鍛錬』からスタートです」


 セバスチャンの声は、もはやリリアの夢の中にまで侵入してくる、非情な警報音だった。


 リリアは全身を毛布にくるみ、抵抗する。彼女の体内時計は、日の当たらない自室で生きるニート仕様のため、午前六時は文字通り深夜にあたる。


 「あと五分……!私は、まだ夢の中で腹筋百回をこなしている最中なんです!夢の中の努力を否定しないでください!」


 「夢の中の努力は、現実の腹筋ゼロには繋がりません、リリア様」


 セバスチャンは容赦なくリリアをベッドから引きずり出す。


 リリアは、クマ柄のパジャマの上に、ぶかぶかのジャージを羽織り、ヴァルハラが待ち受ける中庭へと連行される。


 中庭には、ヴァルハラが厳かな顔で立ち、その背後には、彼の熱血指導に感化された屈強な獣人族の兵士たちが、魔王の訓練を見守るためだけに整列していた。


 彼らは皆、リリアの究極の無を学ぶため、まるで宗教儀式のように静かに立っている。


 「おお!魔王様!素晴らしい目覚めだ!本日の散歩の目標は『無駄な動きの排除』です!歩幅を最小限に!腕振りはせず、体力の消耗を極限まで抑える究極の省エネウォークです!」


 ヴァルハラは興奮気味にリリアを先導する。リリアは、猫背で、ほとんどすり足のような状態で、よろよろと歩き出す。


 彼女の歩行は、「移動」ではなく「摩擦」に近い。


 「はぁ……はぁ……もう、五分は経ちましたか、ヴァルハラ……」


 「魔王様!まだ三分でございます!しかし、その省エネ具合、見事です!我々が歩くと魔力が漏れ出しますが、魔王様は究極の無!魔力放出ゼロ!さすがは魔王様、肉体のポテンシャルを極限まで封じ込めている!」


 ヴァルハラは、リリアの虚弱さをエネルギーの極限抑制という高度な技術だと勝手に解釈し、そのたびに感動している。


 周囲の兵士たちは、リリアのよろよろとした歩き方を、深遠な哲学を持つかのごとく真剣に見つめている。


 散歩を終えると、次は腹筋1回の儀式だ。


 リリアは、ヴァルハラに足首をガッチリと押さえられ、仰向けになる。


 「さあ、リリア様!腹筋の存在意義を脳に刻み込むのです!この一回に、全てのニート魂を込めて!」


 リリアは全身の力を込める。


 首を少しだけ持ち上げ、数秒間静止した。


 「う、ううぅ……!首筋が、筋肉痛になる……!」


 「魔王様、ストップ!パーフェクト!」


 ヴァルハラはストップウォッチを叩き、叫んだ。



 記録:1回完了。



 兵士たちは一斉に拍手喝采を送る。


 その拍手は、まるで世界を救った勇者に送られるもののようだった。


 リリアは顔を真っ赤にして、この屈辱的な儀式から逃れたいと心底願った。


 「……セバスチャン、これで今日の運動は終わりですよね?私は超回復のため、すぐに昼寝に入りたいのですが……」


 セバスチャンはクリップボードを確認し、微笑む。


 「申し訳ございません、リリア様。本日は午後より、外交を控えた魔力制御訓練と魅力向上特訓が控えております」


 リリアは絶望した。


 特訓は、続くのだ。


 彼女のニート生活は、完全に特訓と昼寝と羞恥心で構成された地獄のルーティンへと変貌していた。



 午後、リリアは魔王城の地下深くに位置する魔力制御室に連れて行かれた。


 そこは、魔力を遮断する特殊な素材で覆われた、薄暗く殺風景な部屋だった。


 訓練の担当は、知性と論理の塊、メフィストだ。彼は白い手袋をはめた指で、魔力測定器のダイヤルをカチカチと調整している。


 「リリア様。貴女は歴代魔王の中でも類を見ないほどの高密度の魔力をお持ちです。しかし、制御は皆無。貴女の感情は、この魔力に直接的な影響を与えます」


 メフィストは、リリアの前に、人間界からの使節団の肖像画を並べた。


 「貴女が彼らと対峙し、極度の緊張と人見知りを発症した場合、魔力は逃げたい!という感情に呼応し、周囲半径五メートルを完全に消滅させる空間歪曲を引き起こす可能性があります」


 リリアは青ざめた。


 「そ、それは……!物理的な破壊より、精神的な緊張が原因で世界が滅びるなんて、ニートとして最悪の死因ですよ!」


 「その通り。貴女の目標は、究極の無感情を体得すること。何も感じず、何も考えない、感情の腹筋ゼロを目指すのです」


 メフィストの訓練は、リリアの感情を意図的に刺激し、その反応を抑制させるという、心理的に苛烈なものだった。


 「さあ、リリア様。貴女の愛読する『パジャマ戦記』の最終巻の内容を、大きな声で私に話してください。ただし、感情を一切込めてはなりません。物語を第三者として、淡々と事実として読み上げるのです」


 リリアの趣味を公衆の面前で語ること。


 それは、ニートにとって最大の羞恥プレイであり、同時に、物語への感情移入という形で感情が揺さぶられる危険な行為だった。


 「……えーっと、主人公のクマさんは、洗濯に失敗し、パジャマの色がくすみました。その結果、彼は三週間、ベッドから出られなくなりました」


 リリアは語っている途中で、主人公への共感と、自分の未来への不安により涙目になってしまった。


 ピピピピ!


 魔力測定器が、感情の揺れを感知し、警告音を出す。


 「だめですよ、リリア様。三週間ベッドから出られなくなったという事実に対して、共感という感情を込めてはいけません。貴女は、ただの事実を、無機質に読み上げればいい。貴女が感情を出すたびに、貴女の周りの者は危険に晒されるのですよ」


 メフィストの冷たい言葉は、リリアの不安をさらに煽った。


 「くっ……もう、やだ……」


 「やめてはなりません。感情を抑制すること。さもなくば、外交会議の場で、貴女の緊張は小さな破滅を生むでしょう。さあ、次はホットミルクの温度調節です。貴女の魔力で、ミルクを36.5℃に保ち続けてください。感情の乱れは、即座に温度の変化に現れます」


 リリアは、震える手でミルクの入ったコップを握りしめた。


 彼女の魔力制御訓練は、感情を殺すという、ニートにとっての最大の苦行で始まった。


 熱すぎる、または冷たすぎるミルクは、リリアの恐怖や焦燥を正確に示していた。



 魔力制御訓練の合間を縫って、次は魅力向上特訓が始まった。


 担当は、蠱惑的で奔放なサキュバスの血を引く四天王、リリムだ。


 「リリアちゃん!リリムお姉さんと一緒に、魔王の威厳と魅力をアップさせようね!」


 リリムは妖艶な微笑みを浮かべ、リリアのぶかぶかジャージを指差した。


 「まずはその服。外交で着ていくローブの重さに負けないよう、背筋を伸ばす練習からよ。魔王は、自信とオーラで玉座を支配しなきゃ」


 リリアは言われるがまま、玉座の代わりに置かれた普通の椅子に座ってみるが、すぐに重力と疲労に負けて猫背になり、あごが胸に埋まった。


 「あう……体が、重力と仲良しなんです……背筋を伸ばす筋肉、どこに行ったんだろう……」


 「だめだめ!背筋をピンと!猫背だと、オーラがすべて足元に落ちちゃうわ!リリアちゃんの笑顔はお菓子を前にした子供の笑顔になっちゃうから、今回は全てを支配する魔王の冷笑の練習をしましょう!」


 リリアは鏡に向かい、必死に口角を上げてみたが、その顔はむしろ胃薬を求めて三千里のような、歪んだ苦悶の表情にしかならなかった。


 「うう……怖い顔が、できません。人を威圧するより、クッキーを分けてあげる方が得意です……」


 「人見知りが邪魔をしているわね……」


 リリムは深くため息をついた。


 「なら、最終手段よ。外交会議の場で、貴女が話す言葉はたった一つ。『クッキーは、食べる?』。それを、威厳と支配を込めて言い放つ練習よ」


 リリアは戸惑いながらも、セバスチャンに向かって試みる。


 「せ、セバスチャン……クッキーは……た、食べる?」


 声は小さく、語尾は不安に震えている。


 「魅力がマイナスに振り切れております、リリア様」


 セバスチャンは即座に評価した。


 「貴族たちに『魔王はクッキーしか食べさせないのか』と勘違いされるレベルでございます」


 「どうすればいいんですか!」


 リリムはリリアの肩に手を置き、真剣な顔になった。


 「いい?リリアちゃん。貴女が何もできないことは、もう皆知っている。だからこそ、開き直りなさい。貴女の究極の怠惰を、揺るぎない絶対的余裕だと錯覚させるのよ」


 「絶対的余裕……?」


 「そう。玉座に埋もれ、足をブラブラさせ、使節団を私の時間を奪う迷惑な訪問者だと心底軽蔑する。そして、その迷惑な訪問者に対して、最高級のクッキーを恵んでやるという態度で臨むの。それが、貴女の真の威厳になるわ」


 リリアはハッとした。


 迷惑な訪問者という言葉は、リリアのニート魂に強く響いた。


 自分の聖域を侵す者たちに対する軽蔑こそが、リリアが唯一持ち得る絶対的な感情だった。



 訓練を終え、心身ともに疲れ果てたリリアは、自室のベッドに倒れ込んだ。


 しかし、明日はいよいよ人間界からの使節団が到着する。


 リリアは、外交会議のシミュレーションを脳内で繰り返す。


 (魔力は暴走させちゃいけない。笑顔は怖い顔になる。背筋は伸びない……もう、外交は無理だ!)


 リリアは、最後の希望をセバスチャンに託した。


 「セバスチャン!外交会議のクッキー、本当に最高級のやつを用意しましたか!?最高のクッキーと、究極のホットミルクが、私の最後の希望なんですよ!」


 「ご安心ください、リリア様。人間界の外交官がこれまで口にしたことのない、『魔王城特製:究極の精神安定クッキー』をご用意いたしました。バターの香りを最大限に高め、甘さを極限まで調整した逸品です」


 「よし……これで、なんとかなる……」


 リリアは、クッキーの魔力に頼ることを決意した。


 その時、リリアは急に思い当たった。


 「そういえば、セバスチャン……外交なら、兄上が一番得意なのでは?」


 リリアは身体を起こした。


 長兄アルヴィンは、遺言では魔王位を辞退したが、魔界の外で冒険者として活動している。


 人間界の言語や習慣に慣れ、交渉術も持っているはずだ。


 「兄上は今、人間界に近い辺境で遠征中のはず。使者との交渉くらい、兄上に代役を頼めばいいじゃないですか!私は、その間、昼寝を……」


 セバスチャンは表情一つ変えず、優雅にお辞儀をした。


 「リリア様、それはできません。アルヴィン様は交渉役として有能すぎるのです」


 「有能すぎて、なぜダメなんですか?」


 「先代魔王様は、リリア様を魔王に据えた目的を覚えていらっしゃいますか?究極の怠惰が、魔界の次の平和に繋がる、つまり、魔界の戦意を徹底的に減退させることです」


 セバスチャンは続けた。


 「もし、外交能力に長けたアルヴィン様が交渉の場に出れば、人間界の使節団は、魔界を依然として危険で、油断ならない国と評価するでしょう。それでは、先代魔王様の望む平和のための極度の無能、失礼、究極の怠惰を体現できません」


 リリアは愕然とした。


 「つまり……私は、外交能力ゼロであることが、魔界の平和に必要だと?」


 「その通りでございます。魔王様の腹筋ゼロがヴァルハラ様の熱血魂を刺激したように、魔王様の外交能力のマイナス値は、人間界の警戒心を弛緩させるための最終兵器なのです」


 リリアは、兄の存在が、自分の代わりになってくれる希望ではなく、自分の無能さが魔王位に必要不可欠であるという、非情な証拠でしかなかったことに絶望した。



 リリアは、絶望的な緊張と共に、外交会議の朝を待つことになった。


 その夜、リリアが眠りにつく前に、セバスチャンが静かに部屋に入ってきた。


 彼はリリアのベッドサイドに立ち、いつもより真剣な声で語りかける。


 「リリア様。人間界の使節団は、先代魔王の死を魔界の弱体化と見て、非常に強硬な要求をしてくるでしょう。彼らは、貴女を試すため、あらゆる無礼な振る舞いをするかもしれません」


 リリアは身震いした。


 「い、嫌だなあ……」


 「ええ。ですが、万が一、彼らが魔王様を侮辱したり、過度な要求を突きつけてきた場合……貴女の感情は必ず乱れます。メフィスト様も警告された通り、貴女の魔力は、貴女の怒りや絶望といった感情に呼応して暴走するでしょう」


 セバスチャンは、メフィストの言葉を繰り返しながら、リリアの頭を優しく撫でた。


 「しかし、リリア様。もしそうなったとしても、世界は新魔王は強硬な姿勢で臨んだと受け止めます。結果として、魔界の威厳は保たれる」


 彼は、その言葉を区切って、微笑んだ。


 「だから、リリア様。もし限界が来たら、無理に我慢する必要はありません。貴女の怒りは、魔王家の威厳を守るための、最終兵器となるのです。貴女が感情の抑制に失敗し、空間を歪曲させ、使節団を無に帰したとしても、それは、魔王としての支配の証明となるのです」


 リリアは、自分の存在自体が、魔界の平和を賭けた、恐ろしいギャンブルであることを悟った。


 「わ、わかりました……まずは、クッキー外交で……平和を……」


 リリアは、重い瞼を閉じた。腹筋ゼロ、外交力ゼロ、だが魔力だけはトップクラスというアンバランスな魔王は、翌朝、人生最大の難関である「人との交渉」に挑むこととなる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2025年12月18日 10:00

魔王城の引きこもリリアは、不本意ながらも玉座に座る ばん太郎 @bantaro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画