第2話:葬儀と就任式。パジャマの下で三回転


 父の葬儀は、魔界の主要貴族たちが集まる厳粛な儀式だった。


 前日のうちにセバスチャンに逃げ道をすべて絶たれていた私は、朝九時に、諦めと絶望に満ちた顔で彼の迎えを待っていた。


 「リリア様、お着替えを」


 セバスチャンが差し出したのは、魔族の伝統的な黒い喪服だった。


 それは豪華な装飾はないものの、分厚い生地が何重にもなっており、魔王の権威を示すかのように、異様な重量感があった。


 「うっ……重い」


 日光アレルギー、人見知りアレルギーに加え、リリアには重い服アレルギーがあった。


 普段、着用するのは体重の負荷を極限まで減らしたクマ柄のフリースパジャマだけだ。

 この重い喪服を直に着るなんて、拷問以外の何物でもない。


 「リリア様、これは義務です」


 「でも、着る体力がありません!腕を通すだけで、筋肉が悲鳴をあげます!」


 リリアの最後の抵抗は、セバスチャンには通じなかった。


 しかし、リリアの抵抗があまりにも激しく、かつ体力があまりにもなかったため、セバスチャンも妥協せざるを得なかった。


 「よろしい。この上から羽織っていただく形にしましょう」


 最終的にセバスチャンが取った選択は、リリアが着ていたクマ柄のフリースパジャマの上から、ゆったりとしたマント状の喪服ローブを羽織らせるという、史上類を見ない着付けだった。


 「これは、一種の虚弱対策レイヤリングとご理解ください」


 セバスチャンはそう言ったが、彼の眉間には深い皺が刻まれていた。


 そして、葬儀会場。


 リリアは会場の隅に立たされ、人々の視線から逃げようと必死に体を小さくしていた。


 その時、長兄アルヴィンと、妹のミレーヌがリリアの横を通りかかった。


 アルヴィンは遠征服姿で、いかにも忙しそうに会場を後にしようとしていた。


 妹のミレーヌは、王女らしい完璧な正装に身を包み、リリアを一瞥した。


 そして、その視線は私の足元に釘付けになった。


 「リリア……まさか、あなた、その格好で参列するつもりなの?」


 ミレーヌの声には、怒りよりも先に、深い失望が滲んでいた。


 「し、仕方ないでしょ。重いんだから……」


 「仕方ない? 信じられないわ! 喪服の下に普段着を、しかもクマの柄なんて! 見て!ローブの下からフリースがはみ出してるわよ!」


 ミレーヌは声を抑えようと必死だったが、怒りが収まらない。


 「リリア、あなた、魔王家の人間としての最低限の義務を理解しているの!? 貴族たちが皆見ているわ。その姿は、一族の恥よ!あなたの『今すぐベッドに戻りたい』というオーラで、この会場の厳粛な雰囲気が台無しよ!」


 ミレーヌは、リリアの体調を心配するよりも、魔王家の体面が傷つけられることに激しく怒っていた。彼女にとって、リリアの怠惰な振る舞いは、許しがたい裏切りだったのだ。


 リリアは、激怒する妹の顔と、周囲の嘲笑の視線に、その場で溶けて消え去りたいと思った。


 この屈辱的な葬儀の後、数日間の準備期間を経て、リリアは次の大惨事、魔王就任式へと向かうことになった。



♦︎



 セバスチャンが読み上げる遺言は、極めて簡潔だった。


 「――よって、長兄アルヴィンは、既に冒険者として魔界の外に活路を見出しているため、継承権を辞退する」


 長兄は元々政務嫌いで、自由な冒険者稼業に熱中していた。


 リリアは内心「良かった、兄上、逃げ切ったな」と思った。


 「――次女アメリアは、魔法学院の教職に専念し、次世代の育成に貢献するため、継承権を辞退する」


 次女は研究熱心で、外交や政治が嫌いだったのは知っていた。


 ここまでは予想通りだ。リリアは内心安堵し、静かに次の言葉を待った。


 「末妹ミレーヌは、王室外交を担う才能に長けているため、魔王位ではなく、王室外交大使として、新魔王を補佐する役割に専念させる」


 ミレーヌの体が、ピクリと動いた。


 彼女は魔王家の威厳を守るという使命感が人一倍強い。


 その彼女が、魔王位ではなく補佐役に任命されたことに、わずかな不満と戸惑いが滲んだのが見えた。


 そして、運命の言葉が紡がれる。


 「そして――三女リリア・フォン・ダークネスに、魔王の地位を継承させる。彼女の『究極の怠惰』こそが、魔界の次の平和に繋がると信じる」


 「…………は?」


 リリアは思わず素っ頓狂な声を上げた。


 会議室に集まった貴族たちが、一斉にリリアに注目する。


 リリアは、パジャマの上から喪服を着たまま、玉座の間ではない、ただの会議用の椅子に座っている。



 「ちょっと待ってください!父上、何を考えてるんですか!?究極の怠惰って、褒め言葉じゃないですよね!?」


 リリアの隣で、ミレーヌが静かに立ち上がった。その声は静かだが、鋼のように硬い。


 「父上の判断は、正直、理解に苦しむわ」


 ミレーヌはリリアを一瞥した。


 「なぜ、私ではなく、あなたに魔王位を? 私であれば、即座に魔王城の体面を立て、貴族たちの不満を抑えることができる。あなたには、それができるの?」


 「でき、できるわけないでしょ!だって私、腹筋ゼロだし、交渉はクッキーで済ませたいし……」


 「問題は、腹筋やクッキーではないわ」


 ミレーヌは深くため息をついた。


 「魔王家の人間として、あなたは公の場で振る舞うことすらできない。しかし、遺言は絶対。父上の意図が何であれ、私は外交大使として、魔王家と魔界の威厳があなたによって傷つけられることだけは、絶対に許さない」


 セバスチャンは遺言書を閉じた。


 「リリア様。長兄様と次女様は辞退されました。ミレーヌ様は外交大使としての責務を負います。リリア様以外に、継承者は残されておりません」


 つまり、強制だった。


 リリアのニート生活は、父の謎の遺言により、一瞬で崩壊した。


 「決定です。明日、玉座の間にて、魔王就任の儀を執り行います」


 リリアは絶望した。彼女のニート生活は、父の謎の遺言により、一瞬で崩壊した。



♦︎



 葬儀後、父の遺言により正式に魔王位を継承したリリアは、次の試練として就任式に臨まされた。


 「リリア様、こちらが純金糸と魔石の刺繍が施された、歴代魔王の威厳を象徴する『夜天のローブ』でございます」


 セバスチャンが差し出したローブは、葬儀の喪服よりもさらに豪華絢爛で、物理的に信じられないほど重かった。


 推定重量は、リリアの体重の半分はある。


 「ひぃ……な、何ですかこれ! 甲冑ですか!?これなら、鉄格子の換気口の方がマシ!」


 リリアは断固拒否を試みた。


 「セバスチャン!これを着るなら、私は腹筋が10回できるようになってからにします!それまでは、パジャマで!」


 「ご冗談を。さあ、お着替えを」


 「リリア様、失礼ながら、現在のリリア様の腹筋はゼロ回でございます。腹筋10回の方がマシ、という選択肢は、残念ながら存在しません」


 セバスチャンは再び冷徹な事実を突きつけた。そして、力ずくでローブをリリアに着せた。


 リリアの極度の抵抗と虚弱体質により、ローブは彼女の華奢な体に対して過剰装備となり、重さで猫背になり、ローブの豪華な肩パッドが耳まで覆い隠すという、威厳とは程遠い着崩れ状態となった。


 その姿は、高価な衣装に無理矢理押し込められた、疲弊したぬいぐるみのようだった。


 リリアの足は、すでに小刻みに震えている。


 そして、悲劇は起きた。


 玉座への階段。


 一段一段が、リリアの虚弱な体にとってエベレスト登頂並みの苦痛であり、二十キロのローブは、彼女の重心を容赦なく崩した。


 ローブの裾が階段に引っかかり、私はそのまま前のめりに、三回転がり、五回よろめき、最後に階段の壁に衝突して止まるという、見事な大惨事を披露した。


 「あああああ!やだ!誰か止めて!もう、腹筋が耐えられない!」


 観衆の貴族たちは、もはやざわめきすら起こさない。


 静寂の中、呆然とした視線だけがリリアに突き刺さる。


 なんとかセバスチャンに半ば担ぎ上げられながら玉座の前に辿り着くと、宣誓の儀が始まった。


 セバスチャンの小声のプロンプト(カンペ)に頼りながら宣誓を進めるが、緊張とパニックで頭は真っ白だ。


 「えーと、私は……魔界の……えーと、アニーと、ど、どみそしるのために……」


 「安寧でございます、リリア様!味噌汁は日本料理です!」


 なんとか最後の決め台詞まで辿り着いたが、ここで決定的なミスを犯した。


 「魔王として、せ、世界をドミミネイト、じゃなくて、ど、どぶねいとします!」


 ドミネイト(支配)という単語すら、滑舌の悪さと緊張で言えない。


 そして、いよいよ玉座に着席。


 ドッ、と重いローブごと腰を下ろした瞬間、私は確信した。


 「足が、床に届いていない……!しかもローブが重すぎて体が埋まってる!」


 リリアの身長では、豪華すぎる玉座の座面が高すぎて、足が宙に浮いてぶらぶらしている。


 重いローブに体が埋もれ、足をブラブラさせているその姿は、まるで巨大な宝飾品の赤ちゃんだった。


 一部の楽観的な貴族は「おお! 魔王様がブランコを楽しまれている!」と拍手喝采を送ったが、その声はセバスチャンの冷たい一瞥で即座に静まった。


 (なんで私がこんな目に……!こんな屈辱を味わうくらいなら、やっぱり腹筋100回の特訓の方がマシだった!)


 私の華々しい魔王デビューは、大惨事と失望の目線によって、幕を閉じた。



♦︎


 

 就任式という人生最大の恥辱を経験した後、リリアはすぐに自室の聖域に戻って現実逃避を試みた。


 しかし、その聖域は長くは続かなかった。


 就任式の翌朝、私は寝起きで衝撃の光景を目にした。


 「リリア様、魔王城の主の居室としては、あの状態は看過できません」


 セバスチャンは完璧な笑顔でそう告げると、四天王を動員した「魔王城大掃除作戦:別名・ゴミ地層掘削プロジェクト」を発動した。


 ヴァルハラは持ち前の怪力で、私の部屋のドアを半壊させ(すぐに直された)、メフィストは謎の化学薬品を使って、床に張り付いたお菓子のシミや、飲み物が固まった跡の地層」を消そうとしていた。


 リリムは、なぜか露出度の高いドレス姿でホコリを叩き、ティアマトは床に散乱した漫画を読み漁っていた。


 「や、やめて! 私のゴミの山がアイデンティティなのに! 私の生きた証を消さないで!」


 私の漫画やゲーム、お菓子のゴミの山は、プロの執事技と四天王の強制労働により、三時間で完全に消滅した。


 床の地層は消滅し、私の私物はすべて整頓された棚の中に整然と収められている。


 太陽光を防いでいた遮光カーテンも、風通しのため一部が開けられていた。


 「私の聖域が……!これではただの、広いだけの監獄じゃないですか!私のニート魂をどこに置けばいいの!」


 私は絶望のあまり、部屋の隅にある換気口のカバーを、必死の力でこじ開けた。


 「こうなったら、換気口から脱出する!ニートは自由な空気を求める!」


 リリアは持てる限りの体力を使い、細い換気口へと身を滑り込ませた。


 換気口は、私の最後の、そして唯一の逃げ道だった。


 しかし、しばらく進んだところで、最悪の事態が発生した。


 「つ、詰まった……!運動不足の体に、換気口の柔軟性はなかった……!」


 私は換気口の中、身動きが取れない状態になった。

 

 全身が、換気口の金属部分に密着し、冷たい。そして何より、体勢が苦しい。


 その時、換気口の下の床から、聞き慣れたセバスチャンの声が響いた。


 「リリア様。何をなさっているのですか」


 セバスチャンは、私が換気口に入ったことなど、すべてお見通しだったのだろう。


 私は換気口の穴から、涙目で返答するしかなかった。


 「……ダイエット、始めます。ここなら腹筋ゼロでも大丈夫……」


 セバスチャンはフッと微笑んだ。


 「無理をなさらず。換気口は狭うございます。私が引き抜きますので、一度お戻りください。本日、人間界からの使者が来ます」


 私の逃亡計画は、秒速で、そして物理的に終了した。



 換気口から救出され(セバスチャンが滑りを良くするために、なぜか高級オリーブオイルを塗布した)、再び玉座に座らされた私は、セバスチャンの報告を聞いて、顔面蒼白になった。


 「使者が……来ますか」


 「はい。先代魔王の死を機に、人間界と魔界の関係を見直すための和平交渉を持ちかけてきました。就任から一週間後の、異例の速さです」


 「わ、和平交渉!? 政治? 外交? 私が一番苦手とする、人とのコミュニケーションじゃないですか!」


 私はパニックに陥った。


 魔王が外交をするなんて、漫画には書いてなかった。漫画なら、勇者が来て戦うだけだ。


 「どうしたらいいんですか!?」


 セバスチャンはいつもの完璧な笑顔だが、どこか楽しんでいるようにも見える。


 「それは、魔王であるリリア様がお決めになることです。魔王の裁量が問われます」


 「ええと……、とりあえず、使者が来たら、コーヒーと、最高級のクッキーを、山盛りで出してください。あと、ホットミルクも。お茶請けが豪華なら、多分、多少交渉がまずくても、人間は機嫌が良くなります!」


 リリアの提案は、外交戦略ではなく、ただの人見知り対策であり、完全に「おやつで場を和ませる」というコメディ戦略だった。


 セバスチャンは深いため息をついた。


 「魔王様。それは外交戦略ではなく、ただの休憩時間でございます。それでは、人間界からの使者は、魔王を舐めてかかりますよ」


 「でも、私、交渉なんて無理です!言葉につまづくし、早口になると何言ってるかわからなくなるし、玉座から足はぶらぶらしてるし……」


 「魔王様には、基礎的な知識と、魔王としての威厳を養う訓練が必要です」


 「訓練!?」


 私が悲鳴を上げるのに対し、セバスチャンはどこか嬉しそうだった。


 「はい。まずは、魔王としての体幹を養うため、ヴァルハラ様の体力訓練。そして、魔王の力を制御するためのメフィスト様の魔力訓練。そして、威厳を身につけるためのリリム様の魅力向上特訓が必要です」


 「ひぃぃぃ!全部嫌だ!特に体力訓練は嫌だ!腹筋ゼロだもん!」


 リリアは泣き叫んだが、セバスチャンは容赦なかった。


 「もう一度、申し上げます。リリア様。腹筋ゼロでございます。それが嫌なら、腹筋を増やしましょう。さあ、訓練の始まりです」


 私の魔王就任後の生活は、こうして腹筋ゼロという絶望的な現実から始まる、本格的な地獄の特訓へと突入していくのだった。

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