魔王城の引きこもリリアは、不本意ながらも玉座に座る
ばん太郎
第一章:魔王就任、不本意につき
第1話:引きこもりの日常と運命の宣言
魔王城の西棟、三階の奥にある一室。
その部屋は、城の豪華絢爛な装飾や威厳とは、完全に無縁の世界だった。
窓には厚手の遮光カーテンが何重にも引かれ、室内の光は、辛うじて床に散乱するゴミの合間を縫って漏れる、微かな常夜灯のみ。常に薄暗い。
いや、薄暗いというよりも、永遠に夜のような状態が維持されていた。
これが、魔王家の三女、リリア・フォン・ダークネスの、何物にも代えがたい聖域だった。
室内の惨状は筆舌に尽くしがたい。床には脱ぎっぱなしの服(主にヨレヨレのTシャツとスウェット)、読みかけの単行本や文庫本(ジャンルは異世界転生から推理小説、恋愛漫画まで雑多)、空になったお菓子の袋(ポテトチップス、チョコ菓子、グミの袋が三層構造)、そして何かの実験に失敗したのか、乾いたコップの跡など、正体不明の何かが散乱している。
足の踏み場など、とうの昔に消失していた。
城の使用人たちの間では、ここは畏敬の念を込めて「魔界のダンジョン」と呼ばれている。
部屋の主――リリア・フォン・ダークネスは、今日もベッドの中で丸まっていた。
彼女は魔王族特有のプラチナブロンドの美しい髪を持っているが、それは何ヶ月も手入れされていないせいでパサパサと乾き、布団の上でボサボサに広がっている。
肌は日光を浴びていないため極度に青白く、目元には薄いクマが張り付いていた。
着ているパジャマは、もう三日間着替えていないお気に入りの、クマ柄のフリース素材だ。
時刻は午後三時。魔王城のほとんどの者が執務に励む時間だが、リリアにとっては一日の始まりにも満たない時間帯である。
いわゆる「昼夜逆転生活」の真っ最中だった。
リリアは魔王家四人兄妹の三女だ。
長兄は魔王位を継ぐ能力も資格もあったが、人間界での冒険者活動という逃げ道を。
次女は魔法学院の教師をしている。
そして、三女のリリアは――魔王城随一の究極の引きこもりとして、その存在感を、逆に無として轟かせていた。
彼女の存在を覚えている者のほうが、圧倒的に少ない。
「……あと五分」
リリアは布団に顔を埋めたまま、かすかに呟いた。
これで何度目の「あと五分」だろうか。もはや時間の概念は、彼女の中で完全に崩壊している。体内時計は、お菓子の残量と、次に読みたい漫画のページ数でのみ動いている。
部屋の隅には、昨夜読み終えたばかりの小説が積まれていた。
タイトルは『異世界転生したら最強魔法使いだった件』。
流行りのジャンルだが、リリアの感想はいつも同じだ。
(どうして、わざわざ異世界に転生したがるんだろう。知らない人ばかりの場所に行って、チート能力を使って、魔王を倒したりするなんて……めんどくささの極致じゃない。現実世界ですら面倒なのに、わざわざ別の世界に行く理由がわからない)
リリアのニート精神は、宇宙一の引力で、彼女をこのベッドに縛り付けていた。
コンコン。
突然、ドアをノックする音が響くと、リリアは反射的に布団を頭まで被った。
彼女の平穏を乱す、この世で最も面倒くさい存在が来訪した合図だった。
「リリア様、お食事をお持ちしました」
落ち着いた男性の声。
使用人頭のセバスチャンだ。
彼は五十代、白髪交じりの髪をきっちりオールバックに撫でつけ、常に完璧に仕立てられた燕尾服を着こなす。
絵に描いたような執事だが、リリアにとっては、その完璧さが逆に最大の脅威だった。
「……いりません」
か細い声が、布団の中から消え入りそうに返される。
「昨日もそう仰いましたね」
「今日もです」
「では明日は?」
「明日もです」
「来年は?」
「来年もです」
セバスチャンは深いため息をついた。
この問答は、リリアが引きこもりを始めてから続く、日課の攻防戦である。
彼は懐から鍵を取り出すと、ガチャリと音を立てて、躊躇なくドアを開けた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 鍵かけてたのに!」
リリアは布団から飛び起きる。
真っ赤な瞳が驚愕に見開かれた。
「合鍵を三十本ほど作らせていただきました」
セバスチャンは平然と答える。
「なんでそんなに多いのよ! 絶対おかしい! 合鍵を三十本も作るなんて、それはもう侵略じゃないですか!」
セバスチャンは優雅に部屋へ入ってくると、床に散乱する本の山、お菓子の袋の地層を一瞥したが、何も言わなかった。
彼はワゴンを押しながら、ゴミの山を器用に避けて進む。
その動きは、熟練の職人技の域に達していた。
「本日のお食事は、トマトスープとサラダ、それからローストチキンです」
「……お腹空いてないです」
リリアは布団に潜り込もうとした。
しかしセバスチャンの手がそれより早く、リリアが抱きしめていた布団を、剥ぎ取る。
「ひっ!」
リリアは悲鳴を上げて枕を抱きしめた。
ボサボサの髪、よれよれのクマ柄パジャマ、そして虚ろな目。日光を拒否した青白い肌。
完全にダメ魔族の典型である。
「リリア様、三日間何も召し上がっていません」
「……水分は摂ってます」
「お茶とジュースは食事に含まれません。栄養価が偏りすぎです」
セバスチャンは淡々と、食事をテーブルに並べ始める。
というか、テーブルの上も本と空き容器で埋まっているため、まず本を積み上げ、スペースを確保するところから始めなければならなかった。
「せめて朝食だけでも召し上がってください」
「……今何時ですか?」
「午後三時です」
「じゃあ朝食の時間過ぎてるじゃないですか」
リリアは最後の抵抗を試みる。
「リリア様にとって、起床後最初の食事は朝食です」
セバスチャンは理屈で返してきた。
リリアは言い返せない。というか、言い返す気力もない。
セバスチャンはスープをスプーンですくうと、リリアの口元に、恭しく持っていく。
「あーん」
「!?」
リリアの顔が真っ赤になった。プライドではなく、極度の恥ずかしさからだ。
「や、やめてください! 子供じゃないんですから! 執事として、それはどうなんですか!」
「では、ご自分で召し上がってください」
「……そ、それは、その、手が動かないというか、昨夜読んだ小説の主人公の気分がまだ抜けてないというか……」
「では私が」
セバスチャンが再びスプーンを構える。
「わ、わかりました! 自分で食べます! 早くどいてください!」
リリアは渋々ベッドから這い出た。
よろよろとテーブルまで歩き、椅子に座る。
その動きは驚くほど遅い。引きこもり特有の、省エネモードの動きだ。
温かいトマトスープを一口飲む。
(……おいしい)
リリアの胃が、久しぶりのまともな食事に歓喜の声を上げた。乾ききった体に、栄養が染み渡る感覚。
「……おいしい」
「ありがとうございます」
セバスチャンはわずかに微笑んだ。
「でも量が多いです」
リリアは、次に立ちはだかるローストチキンを見た。
「全て召し上がってください」
「無理です。これ、絶対無理です。このチキン、私より腹筋ありますよ」
リリアは泣きそうな顔でローストチキンを見つめた。確かに量は多い。
いや、普通の魔族にとっては適量だが、三日間水分しか摂っていないリリアには拷問レベルである。
「少しずつで結構です。ただし、全て召し上がるまで私はここを動きません」
「…………」
リリアは観念した。セバスチャンは本気だ。この男は本当に、リリアが全て食べ終わるまで、このゴミと埃の中で、完璧な姿勢を保って立ち続けるだろう。
リリアが食事を続ける横で、セバスチャンは静かに口を開いた。
「リリア様、本日は重要なお話があります」
「……聞きたくないです」
「そうですか。では先代魔王様の訃報については後日」
リリアの手が止まった。スプーンがカチャンと音を立てる。
「……え?」
「先代魔王様が、昨夜お亡くなりになりました」
静寂。
リリアは目を瞬かせた。一度、二度、三度。そして――
「……え、生きてたんですか?」
「リリア様」
セバスチャンは、さすがに表情を硬くした。
「いや、だって最後に会ったのいつでしたっけ。五年前? 六年前? 私がリビングから出て行った覚えがないんですけど」
「三年前のお誕生日です。リリア様が自室から一歩だけ出られた日です」
「あ、そうでした」
リリアは何事もなかったかのように食事を再開した。
父との交流の希薄さが、この魔王城の現実だった。
セバスチャンは深いため息をつく。
「葬儀は明日、午前十時より執り行われます」
「……行きません」
「ご家族全員の参列が義務付けられております」
「体調不良ということで」
「毎回その理由ですね」
「だって本当に体調悪いんですもん。日光アレルギーだし、人見知りアレルギーだし、なにより喪服が重すぎるアレルギーなんです!」
リリアは本気で訴えた。
彼女の顔色は、確かに日光を浴びていないために常に青白い。
「リリア様、逃げることはできません。既にお部屋の鍵は全て回収いたしました」
「ひどい!」
「窓にも鉄格子を取り付けさせていただきました」
「えっ!?」
リリアは慌てて窓を確認すると、遮光カーテンの隙間から、本当に頑丈な鉄格子が外部に設置されているのが見えた。
「いつの間に!?」
「昨夜、リリア様が熟睡していらっしゃる間に、ヴァルハラ様にお手伝いいただきました」
「なんでよりによって、あの筋肉ゴリラを!なんて事をするんだ!」
セバスチャンは微笑んだ。
その笑顔は、もはや悪魔のようだった。リリアの逃げ道は、物理的にも精神的にも完全に封鎖された。
「明日、午前九時にお迎えに参ります。正装でお待ちください」
「喪服なんて持ってません!」
「すでにご用意しております。着用マニュアル付きで」
「着る体力がありません!」
「お着替えもお手伝いいたします。一分以内に」
完璧だった。逃げ道が一つもない。
「……人生で一番嫌な予感がします。魔王になるくらいなら、いっそ換気口に詰まったまま死にたい」
リリアは頭を抱えた。
セバスチャンは満足そうに頷くと、空になった食器を片付け始める。
リリアはショックのあまり、無意識にローストチキンまで完食していた。
「では、明日お会いしましょう」
セバスチャンはそう言い残して部屋を出ていった。
扉が閉まると同時に、ガチャリと外から鍵がかけられる音が響く。
リリアは一人、ベッドに倒れ込む。
「……やだなぁ。外に出たくない。人に会いたくない。服を着替えたくない……」
でも、逃げられない。鉄格子とセバスチャンという、最強のガードに阻まれている。
リリアは布団を頭まで深く被った。
現実逃避である。このまま寝れば、明日が来ないかもしれない。
そんな淡い希望を抱きながら、彼女は目を閉じた。
しかし、明日は容赦なく、そして劇的にやってくる。
魔王城の引きこもり、リリア・フォン・ダークネスの運命は、彼女が最も望まない形で、強制的に、最高難易度のRPGへと突入しようとしていた。
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