薄明かりの灯火

不思議乃九

薄明かりの灯火

I. 十二月の遅い幕開け


十二月は、いつも、我が家の庭に置かれる一本の電飾ツリーの設置を待って、ようやく本格的な幕を開ける。


周囲の家々が、霜が降りるやいなや、まるで年の瀬の競争であるかのように早々と庭木や玄関先にチカチカと点滅するLEDの飾りを施すのを、私は毎年、二階の窓から静かに見下ろしている。彼らの熱狂は、純粋な季節の歓びというよりは、むしろ「今年も滞りなくこの行事をこなしました」という、一種の義務の完了報告のように見えてしまうのだ。最新式のカラフルな光は、瞬間の賑やかさを提供するが、心に深く沈殿する温かさを持たないように、私には感じられる。


だから、私はいつも少し遅らせる。


それは、私にとっての静かな抵抗であり、あるいは、この家だけの特別な「間」を設けるための儀式だった。街の喧騒がクリスマスへと最高潮に達する直前、他の家のイルミネーションがすっかり当たり前の風景として溶け込み、その新鮮さを失いかけた頃。毎年、必ず、その古い一本のツリーは、埃を被った倉庫の隅から引っ張り出される。


この遅延には、私の仕事の忙しさも多分に影響している。師走の追い込みは年々厳しさを増し、定時で帰る日など、もう久しく記憶にない。家族には申し訳ないと思いつつも、だからこそ、このツリーを立てる日だけは、仕事のしがらみを断ち切る絶対的な区切りとして機能するのだ。


「お父さん、まだやらないの?」


高校生になったばかりの長男、智(さとる)が、玄関先で焦れたようにそう尋ねるのは、もう何年もの恒例だ。彼は、その言葉を待っている、というより、その言葉を私に投げかけることで、自身の「待っている」という感情を承認しているようにも見える。


智は、今、人生で最も多忙な時期を生きている。彼の多忙とは、学業でも、部活でもない。彼の全エネルギーは、今年、運命的な激戦の末に手に入れた**「Nintendo Switch 2」**の所有権と、それを通じて得られるべき「優越感」の維持に注がれている。彼にとっての価値基準は、デジタル世界の「評価」と「勝利」に尽きる。


彼の脳内メタスコアは常に満点を目指しており、友人との会話は、いかに自分のプロコントローラーの操作技術や、限定版のゲームソフトの所有を、「上からに見せずに」、しかし、確実に相手に悟らせるかという高度な心理戦に費やされている。一日の終わりに、自分の部屋でヘッドホンを装着し、画面の光を浴びている彼の姿こそが、現代の戦士の肖像なのかもしれない。


彼にとって、コントローラーを握る行為こそが現実であり、その他の行事は、せいぜいその現実を彩る背景音楽程度の価値しか持たないはずだった。


しかし、このツリーを設置する日ばかりは、智の目は、プロコントローラーの精密なボタン配置ではなく、倉庫から取り出された電飾のコードと、古びたネオンバルブの塊に向かう。その表情は、デジタル世界の勝利者としてではなく、ごく普通の、ただの無邪気な少年のそれに逆戻りする。その瞬間、彼の世界の基準が一変する。


「ああ、今日は残業で遅くなったから、明日にな」


私がそう答えると、彼は僅かに不満を漏らしつつも、なぜか満足したような複雑な顔をして、自室へと戻っていく。彼の部屋のドアが閉まる直前、僅かに漏れ聞こえるヘッドホンの音量が、彼の日常の苛烈さを物語っている。彼もまた、戦っているのだ。



II. 錆びた針金とガラスの星


翌日、土曜日。朝から冷たい雨が降っていたが、午後になり、雲の切れ間から薄日が差し始めた。私は、久しぶりにスーツを脱ぎ捨て、作業着に着替えた。


夕闇が庭を覆い始める頃、私たちは倉庫の奥から、例のツリーを運び出す。その人工のもみの木を模した安価な造りは、もう十年以上、この家を見守り続けてきた年季が入っている。幹の部分は色褪せ、枝の針金は錆びて茶色い粉を吹いている。電飾は、最新のLEDではなく、温かみのあるオレンジ色の光を放つ、昔ながらのネオンバルブだ。


数年前に一度、最新式のものに買い替えようと家内と相談したことがあったが、なぜか二人とも気が進まなかった。


「この色じゃなきゃ、なんか違うんだよね。なんだか、光がとげとげしいのよ、新しいのは」


家内がそう言って、結局、古びたものを修理して使うことにした。電球一つ一つに込められた「過去」の記憶は、新品の輝きでは上書きできないことを、私たちは本能的に理解していたのだろう。買い替えはしない。毎年、このツリーを庭に立て、電飾を丁寧に巻き付けること。それこそが、我が家にとって、この季節の「買い替え不可能な」儀式なのだ。


「これ、まだ使えるのかよ。コードがベタベタしてる」


智が、古びたネオンコードを引っ張りながら、訝しげに言う。彼の世代にとって、この手の旧式な電子機器は、すぐに故障するか、あるいはもう時代遅れのゴミでしかないのだろう。彼は、このアナログな「手間」の価値をまだ理解できていない。


「使えるさ。毎年、一つ二つ切れているバルブを付け替えているからな。ほら、智、お前は幹の固定を手伝え。これを立てて、土台にブロックを載せる。去年どうしたか、覚えてるだろ?」


私は、智に、ツリーの根本を支えるための重しになるブロックを運ばせる。記憶の確認もまた、儀式の一部だ。


そして、作業が始まる。冷たい針金と、冬の空気が、手のひらに直接伝わる。


このツリーは、ただ立てるだけでは終わらない。古びて歪んだ枝の一つ一つを、元の生命力があった頃の形に近づけるよう、丁寧に広げ直さなければならない。私は軍手をした指先で、錆びた針金をそっと曲げ、枝のシルエットを整えていく。智は、初めは不満げに手伝っているが、作業が進むにつれて、口数が少なくなる。彼の意識が、デジタルな世界から、目の前の「もの」の感触へと移行している証拠だ。


「父さん、この一番上の枝、もうちょっと右に開いた方が、バランスが良くないか?なんか、画面のパースがちょっと崩れてるみたいだ」


突然、智が具体的な提案をした。「パース」というゲーム用語を使ってはいるものの、彼の視線は、コントローラーの操作ではなく、枝葉の影と、これから灯される光のバランスに向けられている。


「そうか、智にはそう見えるか。よし、やってみろ」


彼の指示通りに枝を調整すると、確かに全体のバランスが格段に良くなった。ゲームの画面構成を瞬時に解析する彼の観察眼は、現実の世界の「美」にも通じるものがある。


電飾を巻き付ける作業が、最も集中力を要する。コードが均等に、そして枝の奥深くまで光を届かせるように、螺旋を描きながらも、不自然な隙間を作らないように。この配置の妙が、点灯した時の立体感を決める。


智は、手慣れた私の巻き付け方を見ているうちに、自分からコードの束を持ち、下半分の枝を担当し始めた。彼の指先が、普段の乱暴なゲーム操作からは想像もつかないほど、慎重に、そして優しく、電線をモミの木の葉に絡ませていく。その光のコードは、彼と私と、この家との、見えない繋がりそのものだ。


そのとき、彼は、本当に満面の笑みを浮かべた。それは、ゲームで最高スコアを出したときの「勝ち誇った笑み」でも、友達にマウントを取るときの「優越の笑み」でもない。それは、純粋な**「光」への期待と、「創造」の喜びに満ちた、顔の筋肉が全て弛緩したような、心地の良い、「綻びた顔」**だった。そこには、何の駆け引きもない、純粋な喜びだけが存在していた。


「今年もクリスマスのメタスコアはどうやら体験版だけで高得点だ」


私は心の中でそう呟いた。この、まだ灯りも点けていない、古びたモミの木の存在。そして、その作業に没頭する智のこの一瞬の笑顔こそが、私にとって、何物にも代えがたい「高得点」の証明だった。



III. ポトフの香りと残業の影


最後に、電源プラグを外壁のコンセントに差し込み、スイッチを入れる。


パチッ、という乾いた音と共に、庭の片隅に、オレンジ色の温かい光が、ふわりと咲き誇った。


最新のLEDのような鋭利な眩しさはなく、街灯の冷たい白色光を吸い込んでしまった夜の闇の中に、このネオンのツリーは、まるで過去の記憶から取り出したセピア色の写真のように、優しく、ぼんやりと浮かび上がった。その光は、家の窓ガラスを反射し、室内の空間にまで、微かな「光の粒」となって舞い込んできた。その光は、周囲の冷たい喧騒から、この家だけを切り離し、特別な結界の中に置いているようだった。


智は、完成したツリーの前に立ち、しばらく言葉もなく見上げている。彼は、自分の手のひらで作り出したこの、アナログな光の魔法に、心を奪われているようだった。プロコントローラーで成し遂げる勝利とは全く異なる、穏やかで持続的な満足感が、彼の全身を包んでいるのが、私にはよくわかった。


その沈黙を破ったのは、家の中から漂ってきた、強く、深く、懐かしい香りだった。


ポトフ。


家内が、ツリー設置の儀式を終えた私たちを労うために、毎年作ってくれる定番の料理だ。長時間煮込まれたキャベツ、人参、じゃがいもの甘い匂いと、ブイヨンの豊かな香りが、冬の夜の冷たい空気の中で、一層濃密に感じられる。その香りは、光と同じくらい、私たち家族の記憶に深く結びついている。


その香りに、智ははっと我に返ったように、こちらを振り返った。


「お父さん、腹減った」


「そうだな。お母さんが呼んでいる」


私は、プラグを外すのを「少しだけ遅らせる」ように、スイッチを入れるのを「少しだけ遅らせる」理由を、毎年、この瞬間に思い知る。遅れて始めるからこそ、この光と香りが、日常の延長線上ではなく、特別な、そして感謝すべき「祝祭の瞬間」として、強く心に刻まれるのだ。


家の中に入ると、家内はエプロン姿で、暖かな灯りの下、大鍋から立ち上る湯気を眺めていた。彼女の髪には、微かにポトフの香りが移っている。


「お疲れ様。智も、今日はよく手伝ったわね。さあ、冷えたでしょう、すぐに温まるわよ」


食卓には、湯気を立てるポトフが並び、その傍らには、智が一番好きな、外側が硬く香ばしいパンが添えられている。


智は、ゲームの話題も、学校の話題も出さず、ただ黙々と、熱いポトフをスプーンで口に運ぶ。その満足そうな顔は、まるで、数日後に迫ったクリスマス本番を、今、この体験版だけで「高得点」だと認めているようだった。彼の世界で最も重要なのは、一時的に、この食卓の温かさに置き換わっている。


私は、ポトフの温かさと、窓に映るツリーの残像、そして家族の穏やかな空気に包まれ、一日働いた疲れを溶かしていく。この瞬間の充足感が、明日からの激務への唯一のエネルギー源だ。


ふと、玄関の隅に立てかけられた、私の会社のカバンに目が留まる。分厚い資料と、明日のスケジュールが詰まった、重いカバンだ。


「ごめん、明日も残業だ」


私は、つい、そう呟いた。この温かい空間に水を差すようで、すぐに後悔した。


家内は、静かに私を見て、柔らかな表情で言った。その声は、ポトフの湯気のように、優しく私の胸に広がる。


「知っているわ。この時期だもの。でも、あなたは、この一本のツリーを立てるための時間だけは、毎年絶対に作ってくれるもの。そして、片付けるのは、他のお宅より少し遅れて。その、少しの遅れが、私たち家族にとっては、一番大切なのよ。それだけで十分よ。智も、そう思っているわ」


智は、スプーンを持つ手を止めず、顔を上げることもなく、ただ一つ、強く頷いた。その頷きは、彼の心からの同意であり、私への信頼の表明だった。彼は、私の「残業」を理解し、この「儀式」の優先順位を理解しているのだ。


私は、熱いポトフを一口啜った。塩気とブイヨンの深みが、疲れた体に染み渡る。


窓の外の庭では、古いネオンバルブのツリーが、優しく、しかし確実に、この家の存在を夜の闇に浮かび上がらせていた。それは、私が明日、そしてこれから何日も残業で家にいなくても、家族の心の中に、温かい「居場所」を灯し続ける、約束の光なのだ。


この光が消えるのは、他のどの家よりも少しだけ遅く、それは春の気配が本当に近づいてきて、この温かいオレンジ色の光が、必要なくなる、その日なのだろう。その遅れは、私の愛の形そのものなのだ。


【了】

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