おんな傭兵レナーテ

北條カズマレ

全文 約19500字

序章:魔法使い狩り

 馬糞の臭いは硝煙の匂いに取って代わられ、戦場から貴族の重装騎兵が消え、歩兵がパイクと火縄銃で戦うようになった頃……。

 辺境では、魔術の学院がよく燃えるようになった.


*****


「――大気よ、我が糧となりて凝縮せよ。遍く理(ことわり)をねじ伏せ、雷霆(らいてい)の槌となりて敵を退けよ」

 老魔導師の声が、戦場に朗々と響き渡る。

 彼は地面から数メートルの高さに浮遊し、その周囲には幾重もの光の障壁が展開されていた。銃弾も、矢も、その障壁に触れた瞬間に勢いを失い、数秒間静止した後でポトっとぬかるんだ地面に落ちた。

 老魔導士の指先に、太陽ごときの眩い雷撃が収束していく。

 パイクを持って陣形を組み、突進しようとしていた傭兵たちがにわかに恐れをなし、恐慌が生じていく。

「あ……ああっ! 魔法だぁ!」

 一般人の魔法に対する認識は、災害に似ている。地震や洪水のように、どんな戦術や剣技も通用しない、理不尽なまでの暴力。理解不能かつ強大な力……。それをもたらす魔術師は恐怖の対象である。朗々とした詠唱は、魔法を発動するためのトリガーだけでなく、兵士たちの恐怖を最大限に引き出すための「演出」でもあるのだ。誰もがその威力に呑み込まれ、一歩も動けない。

 だが、隊長の瞳は雷光ではなく、魔素(マナ)を紡ぐために大きく開かれた老魔導師の喉元を冷徹に見つめていた。彼の頭には、恐怖ではなく、ただ一つの戦術的な問いだけが浮かんでいた。

「魔術師ってのは、どうしてこうも自分の声を聴かせたがるんだ?」

 隊長は隣に控えていた擲弾兵(グレナディア)たちに顎で合図する。

 彼らが手にしていたのは、不格好な陶器の塊だ。

「やれ!」

 隊長の号令と共に、五つの壺が空中に放り投げられた。

 狙いは魔導師の身体ではない。その足元、障壁のわずか手前の地面だ。

 ガシャーン!

 陶器が砕ける乾いた音。直後、内部の粉末が発火する。それは魔法ではない。純粋な化学反応である。ボシュッという低い破裂音と共に、猛烈な勢いで白と黄色の混じった煙が噴き出した。

「な、なんだ……!?」

 詠唱の途中、足元から立ち上る異臭に老魔術師が眉をひそめる。

 それはただの煙幕ではない。硫黄、生石灰、そして唐辛子や毒草を煮詰めてできた、特製の「窒息ガス」だ。

「……雷霆の、つ、ちとな、り……ごほっ!?」

 風向きも計算されていた。気流に乗った煙が、浮遊する魔導師を直撃する。

 気管支を焼き尽くすような刺激臭。魔術の詠唱には、長く、深く、正確な呼吸(ブレス)が不可欠だ。肺いっぱいに魔素魔素(マナ)を取り込み、言葉として紡ぐ必要がある。だが、彼が肺に吸い込んだのは魔素(マナ)ではなく、高濃度の化学物質だった。

「ごほっ、ごほっ! ぐ、う……げほッ!!」

 美しい詠唱は、下品な咳き込みによって中断された。言葉が途切れれば、術式は成立しない。指先に集まっていた雷光が、行き場を失って霧散していく。

「あ、あく……め、目が……!」

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、喉を掻きむしる魔導師。呼吸が乱れ、集中力が途切れたことで、彼を守っていた鉄壁の障壁が揺らぎ、薄れていく。

「術式崩壊(キャンセル)確認」

 隊長の脇で望遠鏡を覗いていた副官が冷徹に告げた。彼は火縄銃の火皿に、ゆっくりと新しい火薬を注ぎ込む。

「魔術師様は繊細だ。戦場で歌なんか歌ってるからそうなるんだ」

 煙の中でむせ返り、高度を維持できずにふらふらと降下してくる老人に、数十人の銃兵が狙いを定めた。周りの魔術師の弟子たちが刺激臭の薄黄色い煙の中で慌てふためいている。

「射撃(フォイア)!」

 一斉射撃。それは魔術師たちを地獄へと叩き落とす……はずだった。しかし彼らにはまだ保険があったようだった。

 射撃の号令の直前、地面が大きく波打った。

「ううっ!?」

 それは、魔術師の弟子たちが命と引き換えに地面に仕込んでいた、対銃兵用の最終魔術の発動だった。地面から現れたのは、家一軒分ほどの大きさがある泥と岩の塊だった。魔術師たちが作り出した自動人形、ゴーレムだ。その不格好な腕が振り上げられ、銃兵達の射線の前に立ち塞がった。

「くそ、ゴーレムか!」

 望遠鏡を覗いていた副官が、火薬を詰め直す手を止め、絶叫した。

「銃兵(ミュスケッタ)! 急げ! 方陣の背後に退け! パイク兵(ピケン)は構え! 槍の壁を崩すな!」

 老魔導師の処理に集中していた銃兵たちは、目の前に立ち塞がった岩と泥の巨塊に一瞬たじろいだが、副官の怒声に弾かれるように動き出した。彼らは火縄銃を乱暴に背中に回し、急いでパイク兵の密集した方陣の隙間から後方へと回り込む。

 最前列のパイク兵たちは、己の前に立ちはだかったのが、先程の魔法剣士とは違う、純粋な「質量」の暴力であることに顔を青ざめさせながらも、渾身の力で長槍の穂先を前に突き出し、牙を剥く巨獣を迎え撃つ姿勢を取った。

 ゴーレムはパイク兵が作る槍襖(やりぶすま)へと突っ込んでくる。

 ドォォォン!!

 鈍い衝撃音が戦場を揺らす。

「ぐぅ、重てぇ……!」

「押し返せ! 足を止めるな!」

 最前列のパイク兵たちが悲鳴を上げる。

 全長五メートルの長槍(パイク)は、騎馬突撃ですら跳ね返す「鉄壁」だ。だが、相手は痛みを感じない泥の塊。穂先はゴーレムの体に深々と突き刺さるが、その柔軟な泥の肉が槍を飲み込み、逆に兵士たちの動きを封じていく。

「槍が……抜けない!?」

「くそっ、このままじゃ潰されるぞ!」

 ゴーレムは槍が刺さったまま、さらに一歩を踏み出した。

 ミシミシと槍の柄が軋み、数本が耐えきれずにへし折れる。

「うーむ、あんなものがあるのか……!」

 後ろで指揮をとる隊長は、その圧倒的な質量差による圧殺を前に、奥歯を噛みしめていた。

(火縄銃を再装填する時間はない。パイクを捨てて散開か、いや、それでは何かあった時に対応できない……)

 戦術的な思考が高速で回転する。その時、彼の視界の端を、一つの影が黒い風のように横切った。

「動いたか……」

 隊長は呻きにも似た歓喜の声を上げた。

「さすがだ。めっけもんだったなぁ、あいつは」

 彼の思考が結論に至るよりも早く、その影、傭兵レナーテは動き、進撃が止まったパイクの陣形へと飛び込んでいく。

 物理的な質量差による圧殺。方陣(スクエア)が崩れかけた、その時だった。兵士たちの密集陣形の隙間から一人の影が躍り出た。

 それは隙間を縫う黒い風のように、素早くパイク兵達の腰より下の空間を滑って駆け抜ける。そして身を起こし味方のパイクの柄を踏み台にして跳躍すると、泥の巨人の懐へと一直線に飛び込んだ。

 その名はレナーテ。女でありながら傭兵として細身の剣を振るう、若き戦士。

 彼女が狙うはゴーレムの胸部。泥が半乾きになっている部分に、指先ほどの大きさで刻まれた複雑な幾何学模様――『命令紋章(エンブレム)』だ。

 あれがこの人形に「敵を潰せ」という定義を与えている心臓部。

 ゴーレムがレナーテに反応し、丸太のような腕を振り下ろす。風圧だけで押しつぶされそうな一撃を、彼女は身をよじるだけで紙一重にかわす。

 彼女は剣を振るわなかった。代わりに、懐から取り出した片刃の短剣の「背」を使った。

 ガリッ。

 硬質な音。

 レナーテはすれ違いざま、ゴーレムの胸に刻まれた紋章の、ほんの一部分を削り取った。

 深く斬る必要はない。「命令文」の一部が欠損すれば、術式は成立しなくなる。

「……あ?」

 パイクを構えていた兵士たちが、間の抜けた声を上げた。

 直前まで猛威を振るっていた巨人が、唐突に動きを止めたからだ。

 振り上げられた腕が空中で静止し、次の瞬間――。

 ドササササッ……。

 巨人は形を保つ魔力を失い、ただの大量の土砂となって崩れ落ちた。

 飲み込まれていたパイクが、泥の中から解放される。

 レナーテは土煙の中で着地し、短剣に付着した泥を指で弾いた。

「ただの泥人形だ。命令(コード)を書き換えられない古いタイプで助かったな」

 彼女は崩れた土の山を冷ややかに見下ろす。

パイク兵たちは、何が起きたのか理解できずに顔を見合わせた。

彼らには、レナーテが剣で巨人を殺したように見えただろう。だが実際は、彼女は「文章を添削」したに過ぎない。

「ぼっとしてるな! 槍を構え直せ! 硫黄の催涙煙が晴れちまう!」

 背後からの隊長の怒声に、兵士たちは慌てて隊列を組み直す。方陣の隙間に滑り込みながら、彼女は小さく息を吐いた。

「皮肉なもんだぜ……」

 そのつぶやきは、陣形の中では戰の鬨の声にかき消され、誰の耳にも届かなかった。


*****


第一章:偽りの陽だまり


 鉄と脂、そして微かな死臭。それが傭兵団に染み付いた匂いだった。

「噂通りの活躍でしたね! どうしてあの土巨人を倒せたんです!? あ、荷物を持ってあげましょうか?」

 行軍の休憩中、会計係のゲオルグが愛想笑いを浮かべて近づいてきた。華奢な体に似合わぬ大きなインク瓶を抱え、どこか頼りない男だ。

 レナーテは反射的に、腰の剣に手をかけた。

「あたしに触るんじゃねえ!」

 金髪の優男は一瞬本気で恐怖したようだったが、すぐに笑みを取り戻し、敵意がないことを示すように両手を広げた。

「あはは、仕方ないですよね。この世界で女だけで生きていくならそれぐらい警戒しないと……」

 そう言うと、ゲオルグは肩をすくめて引き下がった。

「っち」

 舌打ちが漏れる。レナーテにとって、女であるという事実を突きつけられるのは不快だった。男とか女とかではなく、剣士として扱って欲しい。しかしそれが理解されたことは一度としてなかった。

「おい、レナーテ」

 野太い声が響く。この「鉄の牙」傭兵団を率いる隊長、マニックブルクだ。顔から首筋にかけて刻まれた大きな傷跡、黒錆に覆われた使い古された鎧、それは彼が生き延びてきた修羅場の数を物語っている。

「素晴らしい活躍だったぞ。お前のような強い女は嫌いじゃない。先頭に立てば士気も上がる。みんな守ってやりたくなるから、臆病風を忘れて前へ出てくれる」

 隊長はレナーテの肩を叩いた。そこにあるのは、戦士への敬意と、兵としての利用価値、そして隠しきれない「男としての欲」だった。

「……ありがとうございます」

 以前のレナーテなら、その手に噛み付いただろう。だが不思議と、今はそこまでの殺意が湧かないのだった。この傭兵隊長と契約し、魔術学院殲滅の遠征に加わって1ヶ月。彼の圧倒的なカリスマ性と、実力さえあれば取り立てる公平さが、レナーテの警戒心を鈍らせていた。とある目的のために潜り込んだはずが、この居心地の良さに毒され始めている。

「ぬう!? ハッ!?」

 ふと、隊長が誰もいないはずの空間を見つめた。そして厳しい顔をさらに険しくシワだらけにすると、虚空に向かって剣を抜いた。

「けぇい!」

 鋭い踏み込み。そこに敵がいれば袈裟斬りにするような動き。

 レナーテは眉をひそめた。この傭兵隊長には奇行が多かった。

「隊長は時々ああだから……」

 ゲオルグが小声でフォローするが、その行動の意味は不明だった。ただの素振りにしては、殺気が具体的すぎる。

(まあ、人それぞれ色々あるからな……)

 二十代になって数年。レナーテはこのクズばかりの傭兵の世界で、だんだんと大人な考え方ができてきている自分に少し驚いていた。


*****


 夜、野営地に火が灯る。お楽しみの時間だ。傭兵たちの群れには、それを追いかける商人の一団がつきものだ。彼らは略奪品と兵たちの給金を酒と肉に変え、夜毎の酒宴を支えた。

「いやっほう! また勝ったぜ!」

 昼間のシリアスな空気はどこへやら。傭兵たちは賭け事に興じる。

「があ! イカサマだ! そのサイコロには水銀が入ってるにちげえねえ!」

 身体に付いたノミを掻きむしってピョコピョコさせながら、傭兵たちは酒をあおる。

 踊って場を盛り上げるのは娼婦たちだ。彼女らもまた楽しそうにしている。街の娼館はギルドに牛耳られ、入りたくても入れない、行き場所のない女たち……。彼らは娼婦というよりはむしろ、みんなの妻のように振る舞った。商人たちの馬が引くパン窯でパンを焼き、傭兵たちの衣服を繕い、淡い恋の相手になって傭兵稼業のロマンスを演出した。

 そんな中でも一際注目を集める女がいた。

 燃え盛る篝火の周りを、娼婦のハンナが軽やかに舞う。彼女の足が泥濘を離れるたび、肌から放たれる蒼白い光の粒子が、火の粉のように夜の闇へと散った。それはただの錯覚ではない。最低限の魔力で、兵士たちの鉛のような疲労と小さな傷を癒やす、ごく初級の治癒魔法だ。だが、過酷な戦場で生きる男たちにとって、その微かな光は、理不尽な暴力から身を守る鉄壁の鎧よりも尊い。彼らは酔いの勢いと、心からの感謝をもってハンナを「女神」と称え、彼女の周りには夜の帳(とばり)を忘れさせるような、偽りの陽だまりが生まれるのだった。

 偽りの陽だまりを、レナーテは遠巻きに見ていた。


 ざわめく喧騒から一歩離れた場所で、木の器に入った酒をちびちびと飲む。口に含むのは、火と血の臭気に紛れた、辛口で安っぽい蒸留酒だ。それでも、ハンナの蒼白い光が作り出す、一時の平和と熱に、張り詰めていた心がわずかに緩むのを感じる。


 この束の間の癒しは、誰にも話したことのない、彼女自身の深い闇を浮き彫りにする。本来、この世界に飛び込んだのは、たった一人の仇を見つけ出し、復讐を遂げるためだった。しかし、気づけば五年。そしてこの傭兵団でも復讐相手の尻尾も掴めないまま、一ヶ月。この鉄と脂の匂いが染み付いた「鉄の牙」傭兵団の、暴力的ながらも単純な日々に、いつの間にかどっぷりと浸ってしまっている。復讐という鋭い刃が、この居心地の良さに毒されて、鈍り始めていることを、彼女は自覚していた。

 踊り終わったハンナは、傭兵たちの間を歩くと、そのヒゲだらけの顔に順番にキスしてまわる。指先が兵士の肩に触れると、淡い光が灯り、打撲や切り傷が塞がっていく。

「あー、ハンナちゃんは存在自体が聖なる魔法だなぁ、疲れが飛ぶぜ」

「もっと奥まで癒やしてくれよ」

 兵士たちは卑猥な言葉を投げかけ、ハンナは「みんなが幸せならあたしも幸せ」と聖女のように微笑む。

 レナーテはそれを見ながら、魔法使いを狩る傭兵団が、なぜ彼女を許すのか。以前、隊長に問いただした時の答えを思い出す。

『ハハ、お前も真面目だなあ、レナーテ。女の魔力など、せいぜい肌を癒やすか、小さな灯りをともす程度。魔法の剣や光弾を形成するほどの出力はない。無力、故に許される』

 レナーテは焚き火を見つめながら、拳を握りしめた。

 強力な魔法使いは殺すくせに、自分たちに都合の良い、女の弱い魔法は見逃す。舐めた連中だ。イラつきを表に出すことはなかったが……常にその炎は燻る。

 だが同時に、甘い誘惑が胸をよぎる。復讐なんて忘れて、この牧歌的な「家族ごっこ」に永遠に身を委ねるのも悪くないかもしれない、と。

「レナちゃん、そんなに張り詰めなくていいのに」

 レナーテのそばまでくると、ハンナが温かいスープを差し出した。

 そして、彼女はレナーテの冷えた体をそっと抱きしめた。

 ハンナには、レナーテの鎧のような強がった心が見透かせているようだった。優しさという名の温かな交渉術は、レナーテの固くなった心を開かせる。

「ん……」

 レナーテはそれをつい受け入れてしまう。男性のゲオルグのちょっとした優しさは拒否したのだったが、娼婦ハンナの分け隔てない癒しをハネつけるだけの理由は持っていなかった。


*****


 その幻想は、唐突に砕け散った。

 国王からの金貨の馬車が到着しなくなった。支払いが滞り、さらに残存する魔術学院勢力の妨害工作によって、補給路が完全に断たれたのだ。

 たちまち傭兵団の後ろを屍肉漁りの低級な獣にようにくっついてきていた商人たちの数が減る。傭兵が戦を商売に使うように、彼らも商売でやってる。金の切れ目が縁の切れ目、というのは、少なくとも契約期間中は王のために命を張る傭兵よりもシビアだった。

 残った商人たちは馬車を持たない、荷車引きの低級商人だった。馬がなければ近くの都市まで荷を引っ張るのも難しい。傭兵団の輜重隊も同然の、兵団がなければ生きられない連中。彼らは物々交換で武具や装備の代わりに干し肉や小麦を提供し、娼婦たちが娼婦用馬車から鍋を引っ張り出して肉入りの小麦粥にした。

 しかしそんなもので二千人の腹が満たせるはずもなく。

 魔術学院がため込んでいた宝具や便利な道具を買い取り、それを方々の村で物々交換して食料を持ってくる中規模商人がいなければ、傭兵の遠征は成立しない。

 やがて、飢えがきた。

 それでも、王命である。契約期間中は各地の魔術学院を焼き払う任務は放り出せない。

 飢えは、人を獣に変える。

 昨日まで笑い合っていた仲間たちの目は血走り、隊長は冷徹に命じた。

「奪え。生き延びるためだ。抵抗する者は殺して構わん」

 傭兵団たちは寒村を襲った。それは戦争ではなく、一方的な狩りだった。

 農夫が槍で突き殺され、女たちが髪を掴まれて引きずられていった。

「さあさあ! 獲物を獲ってきて! たくさん食料を持ってきた人には、サービスしちゃうよ!」

 飢えは娼婦たちの口元から聖女の微笑みを剥ぎ取り、欲望剥き出しの狂喜に変えていた。ハンナは「女神」の光を宿したと言われたあの優し気な目で、略奪品を追う傭兵たちの獣心を掻き立てる。他の女たちもまた、自らの生存のために男たちの暴力と略奪を煽る炎となり、奪ってきた干し肉やパンを調理したり口一杯に頬張ったりしながら、血塗られた成果を分配する。

 偽りの陽だまりは完全に血の泥濘に沈んだ。

 ゲオルグだけが無表情で、略奪品の目録を作成していた。震える手で一心不乱に、彼は現実から逃げるようにペンを走らせている。

 狂騒と悲鳴の中、レナーテは略奪行為の管理を隊長から命じられていた。一人があまりに抱え込みすぎないように、全員が均等に略奪できるように奪い合いや諍いを収める役割だ。

 反吐が出るような光景を間近で見ることになった

「これはただの飢えた獣の群れだ」

 レナーテの足元で、子供の死体が泥にまみれていた。彼女は嘔吐感をこらえ、顔を上げることができなかった。これが戦争ではない、一方的な「狩り」の結果だ。飢えに駆られた傭兵団は、戦士の集団ではなく、ただの悪魔かケダモノだと、改めて突きつけられた。

(いったい何をうぶなことを考えていたんだ……)

 彼女の脳裏に、過去の出来事が浮かぶ。

(まだ、15年にはなってねえよな? いや、もうすぐ20年……か?)

 復讐の理由を、彼女は再び思い出した。いや、もっと早くに思い出すべきだったのだ。魔術の学院が燃やされているのを見た時に……。それは、トラウマの抑圧のせいだった。

 吐き気に込み上げるものを感じながらも、彼女は隊長から命じられた略奪行為の管理を続けた。一人があまりに抱え込みすぎないように、全員が均等に略奪できるように奪い合いや諍いを収める、冷徹で機械的な調整役。

 ……反吐が出るような光景を間近で見ながら、彼女の胸中で、偽りの陽だまりは完全に血の泥濘に沈み、代わりに、復讐を誓った時に宿した冷たい炎が、再び燻り始めた。


*****



 その夜、レナーテは賭けで巻き上げた金、もとい、農民の命と引き換えに奪い取った作物を商人に売り捌いて得た金貨で、安酒を煽っていた。灼けるような蒸留酒だ。喉を通り過ぎるたびに、奪われたものの血の匂いが混ざっているような錯覚に陥り、胸が悪くなる。だが、飲むのを止められなかった。この自罰的な苦痛こそが、辛うじて彼女の理性を繋ぎ止める鎖だった。

「おえぇ……」

 ギャハハガハハという焚き火の喧騒から隔絶された天幕の裏手から何かが聞こえた気がした。レナーテがふらつく足取りで向かうと、泥濘に膝をつくゲオルグの姿があった。彼は胃の中のものを吐き出しており、その背中は細く、頼りなく震えている。レナーテは無言で近づき、その華奢な背をさすってやった。鎧を着たこともないだろう、書記官の薄い肉体を感じた。

 一頻り吐き終え、ずるずると泥から立ち上がった彼は、青白い顔で力なく笑った。夜目にもわかるほどの冷や汗が、額に貼りついている。

「……慣れないですね」

 ゲオルグは絞り出すように言った。

「僕は元々、教会の人間だったんです」

 レナーテは驚きを感じた。しかし表情にはださない。幼き頃から続く復讐を密かに誓う生活は、彼女の顔に仮面を縫い付けるに至った。誰にも心を許せない、そんな仮面の呪い……。

 だからこそ、目の前で身の上話をされると、どう受け止めていいかわからなくなるのだ。ゲオルグは続けた。気分の悪さが帰って彼を饒舌にした。

「……古い魔法の研究をしていました。父は神父で、僕は書庫の隅で古文書を読んで育った。しかしこの傭兵団に学院を焼かれて……まだ少年だった僕は、読み書きの技能があったから、生かされた。それ以来ずっとここで、この悪魔たちの会計係をしています」

「そうか」

 その言葉は、まるで過去の美しい幻影と、現在の血塗られた現実とを対比させるようだった。古文書を読んでいた指先が、今は略奪品の目録を震えながら綴っている。

「……あんたも、奪われた側の人間だったか。そして、その後の暴力に適応するしかなかった……」

 レナーテは静かに語る。背中をさすってもらっていたゲオルグは、驚いたように振り返った。

「『も』……?」

 その瞳には、かつて見た恐慌も、犠牲者の血で書くような書類へ向かう狂気も宿っていない。ただ、深い疲労と、人間の営みへの諦念だけがあった。そして、困惑。

「もしかして、レナーテさん、あなたも……」

 レナーテは立ち上がって顔を逸らした。

「口が滑った」

 彼女はそう言うと、自分のテントの方に向かう。

 彼は確かに奪われた。だが、復讐という茨の道を選ばず、自らの魂を売り渡すことで、生き残る道――服従の道を選んだのだ。そして、その選択が彼を、この地獄の記録者たらしめている。レナーテはその矛盾を抱えた青年に、奇妙な共感と、僅かな哀れみを覚えた。彼と自分は、おそらく何も違わない。いや、殺しに加担しない分、彼の方がよほど善人で、運命に負けないでいるのだろう。


*****


 娼婦のテントの横を通る。仕事の時の嬌声を横にレナーテがぼーっと酔った頭で通り過ぎようとすると、一人の影を見とめた。ハンナだ。今夜も彼女は傭兵たちを癒やし、その「女神」としての役割を終えたばかりだった。彼女の肌からは、まだ微かに蒼白い魔力の光が散っていた。

「ああ、レナちゃん……」

 ハンナはレナーテに気づくと、有無を言わさずに、その冷えた体をそっと抱きしめた。

「なぁに? 今日は酷い顔してるよ?」

「あ、おいぃ……」

 レナーテは反射的に体を強張らせたが、その背中をさすられるうちに、抵抗の力が急速に抜けていくのを感じた。ハンナの抱擁は、男たちの欲望や暴力とは無縁の、分け隔てのない純粋な癒やしだった。男の優しさを拒絶した彼女も、この娼婦の情けをハネつけるだけの鎧を持っていなかった。

 結局、レナーテはハンナのテントで横になっていた。彼女の耳元で、添い寝するハンナの安らかな寝息が聞こえる。泥にまみれた戦場ではありえない、穏やかで静かな温もり。レナーテはいつの間にか、長らく忘れていた安堵感に包まれ、そのままハンナの体温の中で、久々に心の底から安心して眠りについた。

(ああ、なんて居心地がいい。復讐なんて忘れて、この偽りの家族ごっこに永遠に身を委ねるのも悪くないかもしれない……。少し、少しの残酷さを我慢すればいいんだから……)

 復讐という鋭い刃を鈍らせる、甘い誘惑。優しさという名の毒。レナーテは、それが心にかけられた罠だと知りながら、今の心の力ではそれを振り払うことができなかった。彼女は弱り切った魂を休ませるために、その毒を、静かに受け入れたのだった。


*****


第二章:諦念の結果


 次の魔術の学院は、地域を支配する城塞のような威容をしていた。しかしマニックブルク隊長は、どこかから巨大な大砲を包する傭兵隊を調達してくると、城壁に向けて昼夜問わず撃ち込んだ。

 巨大な鉄の塊は馬と男たちの膨大な労力で戦場に運ばれ、大量の火薬をテントの天幕を使って雨から保護し、射撃の合間に油で慎重に冷却された。

 彼ら傭兵にとってそれは、女や老人でもちょっと歌を歌うだけで使えてしまう魔法とは違う、本当の努力の結果だ……。実態がどうあれ、そういう自負があった。

「行け! 学院の中からお宝を運び出せ! ヒョロい魔術師どもをぶっ殺せ!」

 マニックブルクが怒号のような命令を飛ばした。

 砲撃で大きく穿たれた城壁の穴から、傭兵たちが略奪品を求めて雪崩れ込む。マニックブルクの怒号に後押しされ、誰もが勝利を確信していた。炎上する学院内部からは、魔術師の断末魔と銃兵の鬨の声が混ざり合い、戦場全体を興奮の坩堝(るつぼ)に変える。

 だが、その興奮は一瞬で凍りついた。

 学院の中庭から、地鳴りのような轟音と共に、一つの巨塊が姿を現したからだ。

「な、なんだ!?」

「でけえ! ゴーレムか……?」

 それは全長三メートルを超え、全身を覆う鎧は蒼白く禍々しい魔力光を放っている。手に持つ大剣と大盾は、その巨体に合わせて規格外の大きさを誇る。砲撃にも耐え抜いた石造りの城壁が、この巨人の一歩によってあっけなく崩れ落ちた。

「うわああああ!!」

 その圧倒的な「質量」と「魔力」の暴力の出現に、先まで勝利に酔っていた傭兵たちの間に、深い恐怖と混乱が走る。

 戦場を支配していた銃声と怒号が、その一角だけ凍りついたように静まり返っていた。

 巨人の全身を覆うフルプレートの鎧は、内側から溢れ出す蒼白い魔力光によって脈打ち、手に持つ長剣と大盾は、まるで切り取られた月明かりのように輝いている。

「撃て! 撃ち続けろ! 近寄らせるな!」

 パイク兵の陣形の戦闘で中隊長が裏返った声で叫ぶ。

 遅滞なく放たれた数十発の鉛弾が、蒼白の騎士に殺到した。

 キン、キン、キィン!

 絶望的な音が響く。弾丸は鎧の表面で蒼い火花を散らし、まるで雨粒のように無力に弾け飛んだ。魔力によって強化された装甲は、物理的な衝撃を完全に無効化していた。

「くそっ、槍だ! 突き崩せ!」

 三人のパイク兵が決死の覚悟で突撃する。五メートルの長槍が騎士の胸板を捉えた――瞬間。

 騎士は無造作に大盾を振るった。

 轟音。

 鋼鉄の穂先どころか、樫の木の太い柄が、まるで枯れ枝のように粉々に砕け散る。余波で吹き飛ばされた兵士たちが、泥の中に転がった。

「化け物だ……魔法の化け物だ!」

 誰かが叫び、強固なはずのパイク方陣が恐怖で揺らいだ。その隙を見逃さず、蒼白の騎士が踏み込む。輝く長剣が一閃される。

 勇敢な、あるいは無謀な傭兵が、自分の剣でそれを受け止めようとした。

 ズガァンッ!!

 金属音ではない。爆発音だった。

 魔法剣と接触した瞬間、傭兵の剣は強烈な魔力の反発を受けて弾き飛ばされ、持ち主の腕の骨をへし折りながら宙を舞った。

 防御不能。接触することさえ許されない、絶対的な力の奔流。

「……ちっ。厄介な『本物』が出てきやがった」

 混乱の渦中で、レナーテは一人、冷静にその光景を観察していた。

 あれはこの学院が誇る対軍事用魔導師、通称「輝く甲冑(ルミナス・アーマー)」。

(ガキの頃、噂では聞いていたが……)

 レナーテは青く輝く剣が一人また一人と傭兵たちを吹き飛ばすのを冷静に観察していた。

「っち、歩兵じゃどうしようもねえ」

 その後方でマニックブルクが呻く。彼が最も警戒し、忌み嫌う、魔術と武技の融合体だ。

「大砲! 大砲だ! 準備しろぉ!」

 マニックブルクは号令を飛ばす。大金を払って雇った砲兵たちが慌てて作業に取り掛かる。城壁を壊した後にも仕事をするなんて思ってもみなかったらしい。確かに巨大な砲弾ならあの怪物のような巨人剣士を倒せるだろうが……相当な時間がかかる上、当たるとも思えなかった。

 そんな後方の混乱をよそに、レナーテは腰の短剣を抜き、逆手に持った。彼女はパイク兵たちの背後から、音もなく進む。巨人魔法騎士が次の獲物を求めて剣を振り上げた時、レナーテは動いた。

 正面からではない。瓦礫と死体の隙間を縫い、相手の視界の死角へと滑り込む。

 騎士が気づく。蒼い兜の奥の瞳がレナーテを捉えた。彼にとっては、羽虫が一匹飛んできた程度の認識だろう。騎士は無慈悲に、輝く剣を横薙ぎに振るった。

(受けちゃダメだな。触れたら終わりだ)

 レナーテは神経を研ぎ澄ます。

迫りくる死の光。彼女はそれを目視しながら、自身の魔術を発動する。《屈折と透過》……彼女の故郷で学んだ術式だった。

 レナーテの姿が、陽炎のように揺らぐ。騎士の剣は、正確にレナーテの胴体を両断する軌道を描いていた――はずだった。

 ブォンッ!

 空を切る音。必殺の一撃は、レナーテの頭の先のわずか数センチ手前を通過した。

「……!?」

 騎士の動きが一瞬、硬直する。彼には「斬った」という確信があったはずだ。だが、彼が見ていたレナーテの姿は、光の屈折によって本来の位置からわずかに「ずらされた」蜃気楼だった。

 レナーテは回避行動すら取らず、ただ「そこにいるように見せかける」ことで攻撃をすり抜けたのだ。

(ふんっ!)

 剣を振り抜いて体勢が伸びきった騎士の、その内側。

 レナーテは呼気を吐きつつ踏み込んだ。目前には、蒼白く輝く強固な装甲版。どんな刃物も通さない魔力の壁。だが、どんな完璧な鎧にも、必ず存在する「弱点」がある。

 関節。

 動くためには、装甲と装甲の間に隙間を作らざるを得ない。レナーテの視線が、騎士の脇の下、腕の付け根にあるわずかな継ぎ目を捉えた。そこだけ、蒼い光が薄い。

(ここだ!)

 彼女は短剣を突き出した。そのままでは、短剣の刃も魔力装甲に阻まれるかもしれない。

 だから彼女は、再び魔術を使った。

 今度は回避のためではない。攻撃のために。

 突き出された短剣の刃が、透明化し、光を屈折させる。それは相手の距離感を狂わせるためのものではない。

 物理的な刃を「視覚的に認識できないほど極薄の、魔力の針」へと変質させる応用。

 音もなく。抵抗もなく。

 透明な刃は、蒼い魔力の守りをすり抜け、鎧の継ぎ目へと深々と吸い込まれていった。

「が、ぁ……!? な、なに……」

 兜の内側で、くぐもった呻き声が漏れる。急所を貫かれた騎士の動きが止まる。それは彼にとってあまりにも意外な一撃だった。鎧の隙間さえも……この魔法の防御があれば絶対に貫けないはずだった。

 だが、この小柄な女傭兵の一撃はそれを掻い潜って彼の胴体を深々と突き刺したのだ。

「な、これは、魔法……!?」


 騎士は驚愕を露わにした。まさか、彼が誇る蒼白の魔力装甲の継ぎ目から、得体の知れない透明な刃が身体の奥深くまで侵入してくるとは思わなかったのだろう。


 内臓が傷つけられたようだった。騎士は膝をつき、兜を取ってみせた。口から血を吐くその顔は、少年のものだった。


「あんた……」


 レナーテはついそう呟く。10代にして魔法の実験に自らを差し出した哀れな少年……そんな背景がすぐに分かった。彼女もまた、幼き頃に学院でそのような運命になった友人を目にしていたのだ。


 少年の顔の騎士は血を吐き出しつつこう言う。


「お前はなぜ傭兵どもに協力する!? その知識量……学院に身をおいていたのではないか!?」


 レナーテは答えない。しばらくの沈黙があった。


「黙れ……」


 そして彼女は冷たい言葉を吐き捨てた。再び剣士の口から血が吹き出す。それはまさに血を吐くような言葉だった。


「ふう、ふう、私は幼き頃から学院のために体を捧げた。体が肥大化し、魔法の鎧に身を包み、古代より続く魔法の知識を守るために奉仕してきた。なのに、なのにお前は……」


 少年の騎士は、魂の奥底から絞り出すような声でそう告げた。その言葉は、レナーテへの問いかけであると同時に、自らの人生に対する悲痛な叫びでもあった。


「あたしは……」


 レナーテは目の前の敵から目線を外し、呻くように答えようとする。しかしそれは隙でしかなかった。


「あの悪魔のような傭兵隊長に従う裏切り者め! やつは15年前からずっとあらゆる魔法使いを根絶やしにしようとしているんだぞ!?」


 最後の力で、騎士は魔法の輝きを失いつつある剣を振り抜いた。それは、レナーテの足元を薙ぎ払ったように見えた。


「ぐ、あああっ!」


 レナーテは悲痛な叫びを上げ、泥の中に倒れ込んだ。


 その様子を騎士が捉えるより早く、後方で指揮を執っていたマニックブルクが怒号を飛ばす。


「どけ! レナーテ!」


 レナーテは泥の中で転がりながら、騎士と後方の声を結ぶ線から身をずらした。その瞬間――。


 ドォォォォン!


 戦場に轟音が響き渡る。一発の巨大な砲弾が、魔法剣士の巨体を正確に捉えた。その鎧は巨大な城壁崩落用の砲弾を喰らい、陶器壺のように砕け散る。鎧から溢れ出していた蒼白い光が、火が消えるようにフツリと途絶えた。


 光を失い、ただの重たい鉄の破片となった巨体が、泥の中に崩れ落ちる。


「足が! レナーテの足が!」


 戦場の喧騒を切り裂いて、誰かの悲鳴のような絶叫が響いた。砲弾の熱と硝煙、そして泥にまみれたレナーテの右足は、膝下から先が消えてなくなっていた。


*****


 瓦礫と土煙の臭いの中、レナーテは天幕に運び込まれる。傭兵団の中にも彼女のファンは多い。心配するものが多数、治療を買って出た。この傭兵団や後ろをついて回る商人たちの中に、信用できる医者はいない。誰もが自分で傷口を縫う方を選んだ。だから、腕に自信があるものも多かった。

「バカ! 私はこのくらい自分で治療できる!」

 しかしレナーテはそんな彼らの申し出を撥ねつける。

「でもヨォ……」

 いつもの荒々しさもどこへやら、一人の傭兵がそう呟き、他に10人はくだらない数だけ集まった男たちも首を縦に振らない。しかしレナーテの剣幕はすごいものがあった。

「女が一人で自分の世話できるって言ってんだ! さあ帰った帰った! ズボンの下を覗き見する気かぁ!?」

 彼女の剣幕と、最後に投げつけられた下品な言葉に、集まっていた男たちは居心地悪そうに顔を見合わせ、すごすごと天幕から退散していった。

 誰もいないことを確認すると、彼女は自ら、右足の処置に取り掛かった。血と泥を拭い、薬草と油を塗り、厳重に包帯を巻いていき……。


*****


 数時間後、隊長が見舞いに来た。彼はレナーテの足元を一瞥しただけで、憐れみも、労いの言葉もなかった。

「惜しいな。もう使い物にならん」

 隊長はそう吐き捨てると、天幕の裏口から出ていった。そして、副官に向かって、声を潜めることすらしない冷え切った声が聞こえてきた。

「手足のない女でも、慰み者にはなるだろう。ハンナのところに放り込んでおけ」

 彼の言葉が、レナーテの胸に残っていた最後の「家族ごっこ」への甘い迷いを、槌の前の氷のように砕いた。彼女はもはや、彼らにとって尊敬すべき「戦士」ではない。ただの、利用価値のある「肉」に成り下がったのだ。

 だがレナーテは、その屈辱的な地位を受け入れた。不自然なほどに、あっさりと……。


第三章:むせかえるようなニオイの中で


 娼婦たちのテントは、饐えた匂いと香水の匂いが混じり合っていた。

 足を失ったレナーテを、ハンナが甲斐甲斐しく世話をしてくれたが、その表情はどこか明るかった。

「ありがとな、ハンナ」

 ハンナの寝床を借りて休ませてもらっているレナーテは、なるべく慎ましく聞こえるように礼を言った。ハンナの笑顔は絶えない。

「よかったね! レナちゃん」

「あぁ……うん?」

 レナーテは、聞き間違いかと思って一瞬困惑した。

「あ、ああ……ま、まあ、足一本で済んでよかったよ。命あって物種だからな……っはは……」

 彼女は力なくそう言うと、恐る恐るハンナの表情を伺った。ぞくっとした。レナーテの背中を冷たいヘビが這うような感覚が……。

「よかったね、レナーテちゃん。片足がなくなって、やっと『こっち側』に来てくれた」

 ハンナの表情は、母の抱擁と同じくらい温かく、殺人鬼さながらの狂気に満ちた安堵に輝いていた。

「あの人に特別扱いされてるあなたが、ずっと妬ましかったの。魔法なんて使えても、女は結局こうして男に尽くして生かしてもらうしかないんだから」

 それは、己の境遇への諦念を、レナーテという例外が崩すことを許さない、歪んだ連帯の表明だった。「女の魔法は軽い」という差別を受け入れ、その狭い檻の中でしか生きられないことに安住する女の、心の叫び。

「ふふ、レナちゃん、だーいすき。ケガが治ったらすぐにお客を取りましょうね……」

 そう言ってハンナは気持ち悪いほどに優しくレナーテを抱きしめて眠った。レナーテはハンナの手を振り払わなかった。ただ、一言も口にせず、心の内で長きにわたる友情に終止符を打った。


*****


 何もしないで過ごした二週間後、レナーテはマニックブルク隊長の天幕に呼び出された。

「足の調子はどうだあ?」

「休ませてもらいましたから、おかげさまで……ハンナの癒しの魔法もありましたし」

 隊長はレナーテの足元、包帯が巻かれた膝下を一瞥した。しかし、その視線には何の感情も宿っておらず、すぐに天幕の入り口と、誰もいないはずの背後の虚空へと向けられた。

 レナーテはそんな冷たい視線の関心のなさを気にも留めないふうに、松葉杖を使って立っていた。

「ほーん、そうかい」

 隊長は酒を煽りながら冷淡に答えた。

「まあ、動けねえなら動けねえで、使い道はいくらでもある。ハンナが可愛がってるらしいじゃねえか。悪くねえ話だろ」

 レナーテは松葉杖に体重を預け、わずかに頭を下げた。

「……隊長のご配慮、感謝いたします。もう戦場に出ることはできませんが、この身一つで、できる限り、皆様の役に立たせていただきます」

 隊長は鼻で笑った。

「聞いてて気分のいい返事だ。そうこなくっちゃ。お前みたいな強い女は、変に生き残ろうとすると面倒なことになりやすい。大人しく、与えられた場所で、女らしく生きていくのが賢いやり方だ」

 レナーテの返答は、少し間があく。

「……はい。骨身に染みました」

 しかし殊勝にそう答え、視線を床に落としたまま、静かに沈黙した。マニックブルク隊長は、レナーテが完全に諦念に囚われたと確信したように満足げに頷いた。

「それでいい……うん!? はあッ!!」

 レナーテは視線を上げた。その目に映ったのは、マニックブルクが虚空に向けて剣を振るっている様だった。剣閃は鋭く、殺気に満ちているが、そこには誰もいない。

「いるのはわかってるんだぞ!」

 まるで何かに怯えるように、彼は苛立ちを露わにした。

「いったいなんなんすか? そのタコ踊りは……?」

 もう礼儀正しいモードは終わりとばかりに、レナーテはぶっきらぼうに問いかけた。その視線を感じた隊長は、血走った目で一瞥した後、酒を煽り、声を潜めた。だが、その声は熱を帯びていた。

「昔、魔術師どもの間でも禁忌の透明化魔法を使う連中がいてね……」

 その時。レナーテの体がビクッと震えた。しかしマニックブルクは気づかないまま息を切らせて酒を飲みながら言葉を続けた。

「薄汚ねえ暗殺者の一族。王が魔術師狩りを命ずる原因になった奴らさ。そいつらを殺した時、一匹だけ逃しちまったんだ。目の前で透明化して消えやがった。地下室で母親と一緒に隠れていた……。まだガキだったが、もう15年以上経つ。それ以来、成長したそいつがそこらで俺を狙って潜んでるんじゃねえかと思うと……虚空に向けて剣を振るわねえと安心できなくなったんだ。お前にしか話さねえことだぜ」

 レナーテの心臓が氷のように冷えた。15年前、地下室で、透明化の術を使い、母親と隠れていたガキ……。

「……そうか、そうなんだな?」

 レナーテは呻きにも似た声で確認した。

「ああ?」

 マニックブルクは声を荒げた。その声はあまりにも低く、あまりにも殺気に満ちていて、先ほどまでの従順な子猫のような態度とはあまりに違っていた。

「おまえ……おまえが……」

 レナーテの口からギリギリという音がした。歯軋りの音だった。

 どうでもいい。この悪魔に処女を散らされるのも、もうどうでもいい。そう思い始めていた諦めの甘い毒が、一瞬で解毒された。

(こいつだ……)

 この虚空に怯えるチンケな傭兵隊長こそが、間違いなくレナーテの師を、友を、家族を殺した仇だ。

「何を言ってやがる? 小娘が」

 隊長はレナーテのつぶやきを聞き逃さなかった。

「足を無くしたフリをすりゃあ、もう殺しに関わらなくて済むと思ったんだが……」

 レナーテは松葉杖を捨てた。そして背後に手を回すと、何かを外す音がした。

「おめえ、いったい……」

 マニックブルクは状況が飲み込めないようだった。目の前にいるのは女……力のない女……しかも片足がない、究極の弱者のはず……。レナーテが前に進み出る。存在しない足が、確かにテントの地面を踏み締めるのを、マニックブルクは見た。

「な!?」

「……この世で唯一殺してえやつの正体を見ることになるたぁな。あたしはずっと強いフリをすることで生きてきたが……弱いフリも油断を誘えるなら使えるんかねえ」

 レナーテがそう言うが早いか、腰の短剣を抜き、刀身(ブレード)だけに《屈折と透過》をかけた。

 ランプの灯りの中で、柄だけが黒く浮かび上がる奇妙な武器が出来上がった。。だが、これこそがレナーテの、長年磨き上げてきた復讐の牙だ。

「おめえ、足、足をどうしたんだ? 透明……?」

 マニックブルクは瞬時に想定される魔法と目の前の現実との間を線で繋いだが、その一瞬の判断の遅れが、彼の命取りとなる。

(女だしな。魔法なんて、ハンナのような慰め程度のものしか使えまい)

 その慢心が、彼の命とりだった。

「貴様!! あの時のガキ!! 女だったのか!! 女にビビるか……」

 レナーテは一気に踏み込んだ。膝下がない……そう装うために折り曲げた足を透明化魔法で消していたのだ。久々に地面を踏み締めたその足は、痺れを残していたが……十分に動いた。

 隻脚の不自由な女だと思っていた相手が、一瞬のうちに15年間恐れ続けた暗殺者になって目の前に現れたのだ。彼女の肉薄に、マニックブルクは自らの命を奪う「悪夢」が目の前に現れたことを悟り、反射的に近くの剣に手を伸ばした。

 その一瞬の隙。

 《透過》させているだけの、鍛え上げられた戦士の脚。全盛期の瞬発力が、レナーテの体を砲弾のように彼女の仇へと肉薄させる。

 マニックブルク隊長は驚愕に目を見開きつつも、長年の修羅場で培った勘で地面を転がって距離を取り、剣を抜いて体制を整え直し、迎撃態勢を取った。速い。さすがは魔術師狩りの傭兵と言ったところ。

 レナーテがさらに力強く、素早く踏み込む。そして振るう短剣。彼はその「柄」の位置を見て、完璧な見切りで首を逸らした。

「届かん!」

 勝利を確信した彼の顔に、安堵の表情が浮かぶ。だが、次の瞬間、彼の首筋から鮮血が噴き出した。

「なっ!?」

 透明化された刃は、光の屈折により、柄の位置から想定されるよりも長く、鋭く伸びていたのだ。認識外のリーチが、彼の太い血管を深々と切り裂いていた。

「……が、は……」

 どくどくと脈すら感じる勢いで血を吹き出す首を押さえ、崩れ落ちるマニックブルク。指の間から彼の命が溢れ出る。薄れゆく意識の中で、レナーテの「見えない刃」と「見えない足」を見て、すべての真実を悟ったよう

「おまえ……レナーテ、そうか……」

 レナーテは冷ややかに、そして静かに彼を見下ろした。

「ガキの頃にお前さんに修練を中断させられちまったからな。王が恐れたという、透明化魔法は半端なままだ。全身を消すなんて高等な芸はできない。でも、仇を殺すにはこれで十分……傭兵としての生活が、あたしを磨きあげたんだ」

 レナーテは血濡れた短剣の透過を解いた。再び現れた刃は、血に塗れ、鈍く光る。

「女の魔法だと舐めてくれたおかげで、油断してくれて助かったよ。じゃあな。束の間のおちゃらけた生活は……案外楽しかったぜ」



終章:新たな旅路


 天幕を出ると、騒ぎを聞きつけた傭兵たちが集まり始めていた。

 レナーテは透過を解き、ハッキリとした自分の足で大地を踏みしめて歩き出した。

「レナーテさん!」

 レナーテがハンナのテントに行き、最低限の荷物を取ろうとしていると、ゲオルグが入ってきた。青い顔をしている。反射的に彼女は、ああ見てしまったなこれは……と思った。

「そ、その、じ、実は……聞いていたんです、さっきの、隊長との会話……」

 レナーテは荷造りをしながら彼の話を聞いた。

「へえ、それで、あたしを傭兵どもに告発しようってか?」

 レナーテはゲオルグの方を見ることもせずにそう言った。告発……十中八九、傭兵たちに魔女認定され、絞首刑だの火炙りだのにされるのだろう。

(アッハハ)

 なぜだが、それでもいい気がした。唐突に人生の目的を達成してしまったところなのだから。

「レナーテさん!」

 ゲオルグはしゃがんで革袋に荷を詰めているレナーテに駆け寄り、その肩をぐっと掴んで抱き寄せた。その指先は、略奪品の目録を書いていた時と同じく、微かに震えていた。

 彼はレナーテの顔の横で、掠れた声で語りかける。

「あなたが、その、隊長のものになるなんて許せなくて……。あなたは、本当に美しい人です……あなたは戦場で咲き誇る一輪の花だ。どんなに血を浴びてもあなたは汚れたりしない。あなたには生き残ってほしい」

 レナーテは短く息を吐き、スッとゲオルグの抱擁から逃れ、革袋を抱えてテントの隅まで退がる。

「何を勝手に気取ってんだ。あんたはどうなんだ? ええ? いつも、誰かの陰で震えて、逃げることしか考えてねえ」

 レナーテは荷物を肩に載せると、もう彼に構わず天幕から出ようとした。

「レナーテさん!」

 背後からゲオルグが追いかけてきた。彼の手には帳簿が握られている。

「待ってください! 僕も……僕も連れて行ってください! 読み書きでお役に立てます!」

「来るな」

 レナーテは短く拒絶した。

「あんたは付いて来れない。それに、あんたにはやることがあるだろ」

「やること……?」

「あんたはただ一人、略奪や虐殺にいい顔をしなかった。力は弱いかもしれないが、死なないでほしいと思えるいい男だよ」

 レナーテは彼の胸元の帳簿を指でなぞった。愛撫するような、好意に満ちた手つきで。

「あんたはその帳簿の中で、殺した村人の数を数えて震えていればいい。……それができるうちは、あんたはまだ人間だ」

 ゲオルグは泣きそうな顔で顔を横に振った。彼が人間性を保ち続ける限り、傭兵たちの罪は記録され続けるだろう。それは、レナーテなりの彼への救済だった。

 彼女はゲオルグに背を向けテントを出ると、騒ぎの渦巻く野営地の喧騒へと足を踏み出した。その途上、出口のそばで、目を血走らせたハンナとすれ違った。

「レナ……ちゃん?」

 レナーテの足があること。そしてレナーテの瞳が、もはや「娼婦の諦め」ではなく、鋭い「戦士の光」を宿していることに気づき、彼女は言葉を失った。ハンナの目に映るのは、片足を失った娼婦ではない。自由と、冷酷な決意を宿した、真の魔法剣士の姿だった。

 ハンナは立ち尽くす事しか出来なかった。レナーテは彼女に何も言わず、ただ通り過ぎた。

「あなたの足は……嘘だったのね」

 その言葉にレナーテは足を止めることすらない。ハンナの優しげな顔が、嫉妬と恐怖で歪む。

「あなただけは、特別だなんて、許さない……!」

 ハンナは絶叫した。その声は、野営地の騒ぎを切り裂くほど鋭かった。

「暗殺犯人だよ! この女が隊長を殺したんだ! 魔女だ!」

「ヤッベ」

 レナーテは舌を出して笑うと、振り返らなかった。ハンナの絶叫を背中に受けながら、ただ走り去る。

 混乱する傭兵団を背に、夜の闇へと疾走する。

 復讐は終わった。帰るべき場所も、縋るべき偽りの家族もない。

 しかし、冷たい夜風を切って走るその足取りは、かつてなく軽かった。

 レナーテは自由な一人の人間として、道なき荒野へと踏み出していく。

(了)

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おんな傭兵レナーテ 北條カズマレ @Tangsten_animal

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