わ た ぬ き

浅沼まど

物語本編

1:『匿名の依頼』

 その夜、私は締め切りに追われていた。


 医療系Webメディア『メディカルノート』に寄稿する記事。テーマは地域医療の崩壊、取材先は██県内の過疎地域にある診療所。三日後が締め切りで、まだ構成すら固まっていなかった。

 瀬野せのしおり、二十九歳、フリーライター。

 肩書きだけは立派だが、実態は綱渡りの日々だ。契約しているメディアは三社、月の収入は不安定で、家賃六万円のワンルームがやっとという暮らし。華やかさとは無縁の、地味な仕事。

 午後十一時を回った頃、メールの通知が鳴った。

 編集部からの催促さいそくかと思い、うんざりしながら画面を開く。

 差出人のらんには、見覚えのないアドレスがあった。


 `████████@protonmail.com`


 件名は「ご依頼」。

 迷惑メールだろうか。開かずに削除しようとして、ふと本文の冒頭が目に入った。


瀬野せのしおり

 突然のご連絡、失礼いたします。

 ██県朔望さくぼう市にかつて存在した「綾瀬あやせ総合病院」について、記事を書いていただけないでしょうか』


 ――綾瀬総合病院。


 その名前を見た瞬間、心臓が小さく跳ねた。

 知っている。というより、忘れられるはずがない。

 七年前、祖父が入院していた病院だ。

 メールを読み進める。


『同病院は七年前に閉院しておりますが、その経緯には不可解な点が多く、地元でも様々なうわさささやかれています。

 つきましては、閉院の真相を調査し、記事として発表していただきたく存じます。

 報酬は後払いで構いません。金額はご相談に応じます。

 まずは資料をお送りしますので、ご検討ください。

 なお、私の身元についてはお答えいたしかねます。ご了承ください』


 匿名とくめいの依頼。

 怪しい、というのが第一印象だった。

 そもそもフリーライターへの仕事依頼は、通常、編集者や広報担当者を通じて来る。匿名で、しかも「身元は明かせない」などという依頼は普通ではない。

 悪戯か、あるいは何かのトラブルに巻き込もうとしているのか。

 削除しよう、と思った。

 だが、指が動かなかった。

 綾瀬総合病院。

 あの病院には、私にとって忘れられない記憶がある。

 祖父は七年前の春、脳梗塞で倒れて綾瀬総合病院に搬送された。幸い一命は取り留め、リハビリを続けていた。回復は順調で、医師からも「もうすぐ退院できるでしょう」と言われていた。

 ところが、その矢先に病院が閉院することになった。

 突然だった。経営難と医療事故が原因だと報道されていたが、詳しいことは何も分からなかった。祖父は別の病院に転院し、その二週間後に亡くなった。

 死因は心不全しんふぜん

 転院直前まで元気だったのに、急に容態ようだいが悪化したのだという。

 当時、私は就職したばかりで、見舞いにもろくに行けていなかった。祖父の最期に立ち会えなかったことを、今でも悔やんでいる。

 だからだろうか。

 「綾瀬総合病院」という文字を見ただけで、あの頃の記憶が蘇ってくる。

 メールには添付ファイルがあった。


 `shiryo_01.pdf`


 開くべきではない、という直感があった。

 それでも私は、ファイルをクリックしていた。


         ◆


 PDFの中身は、手書きの文書をスキャンしたものだった。

 罫線の入ったノートに、ボールペンで細かい文字が並んでいる。日付と時刻、そして短い記録。

 当直日誌だ。

 私は医療系の記事を書いてきた経験から、こうした書式には見覚えがあった。病棟の看護師や医師が、夜勤中の出来事を記録するためのものだ。

 日付は七年前の四月。

 綾瀬総合病院が閉院する、およそ二ヶ月前にあたる。


---


【資料01:当直日誌(写し)】


令和██年4月2日(水)


21:00 夜勤開始。申し送り事項特になし。

22:00 巡回。各病室異常なし。

23:15 ナースコール。304号室(瀬野██様)より。トイレ介助。

00:30 巡回。異常なし。

02:00 巡回。3階東病棟、廊下の照明が一部点滅。設備課に報告予定。

03:45 304号室(瀬野██様)、眠れないとのこと。しばらく話し相手になる。

05:00 巡回。異常なし。

06:00 日勤への申し送り準備。


※3階東病棟の照明については、以前から報告しているが対応されていない。再度確認を。


---


 瀬野██。

 伏字になっているが、間違いない。祖父の名前だ。

 三〇四号室。確かに祖父はその部屋にいた。見舞いに行った時、窓から見える桜の木がきれいだったのを覚えている。

 画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 なぜ、この日誌が私の元に送られてきたのか。

 そしてなぜ、祖父の名前があるページが選ばれているのか。

 偶然とは思えなかった。

 送り主は、私が誰なのか知っている。祖父が綾瀬総合病院に入院していたことも。

 だとすれば、この依頼は——。

 私は母に電話をかけた。

 3コールで繋がる。


「どうしたの、しおり。こんな時間に」

「お母さん、ちょっと聞きたいことがあって」

「何?」

「おじいちゃんが亡くなる前のこと」


 電話の向こうで、母が息を呑む気配がした。


「……何を今さら」

「最期に何か言ってなかった? うわ言とか」


 沈黙が流れた。

 数秒か、数十秒か。それが妙に長く感じられた。


「お母さん?」

「……言ってたわ」


 母の声は、どこか躊躇とまどいを含んでいた。


「何を?」

「名前よ。知らない名前を、ずっと繰り返してた」

「名前?」

「うん。変な名前だなって思ったの。人の名前なのか何なのか、よく分からなくて」

「なんて名前?」


 再び沈黙。


「……ごめん、思い出せない。もう七年も前のことだし」

「そう」

「なんで急にそんなこと聞くの?」

「ちょっと調べ物をしてて」

「調べ物?」

「おじいちゃんが入院してた病院のこと」


 電話の向こうで、母が小さく息を吐いた。


「やめなさい」


 その声には、普段の母らしくない硬さがあった。


「あの病院のことは、調べないほうがいいわ」

「なんで?」

「なんでって……とにかく、嫌な予感がするの。あそこには関わらないで」


 それきり、母は何も言わなくなった。

 電話を切った後、私は再びパソコンの画面に向き合った。

 当直日誌のPDF。三〇四号室。祖父の名前。

 そして、日誌に書かれたもう一つの記述が、妙に引っかかっていた。


「3階東病棟、廊下の照明が一部点滅」


 単なる設備の不具合。そう読める。

 だが、なぜか嫌な感じがした。

 3階東病棟。

 祖父の病室は304号室。3階西病棟だったはずだ。

 東病棟には何があったのだろう。

 私は匿名の送り主に返信を書いた。


『資料を確認しました。

 詳しくお話を伺いたいのですが、お会いすることは可能でしょうか。

 また、なぜ私にこの依頼をされたのか、教えていただけますか』


 送信ボタンを押す。

 返信はすぐに来た。


『お会いすることはできません。

 追加の資料は順次お送りします。

 なぜあなたなのか、というご質問についてはお答えいたしかねます。

 ただ、一つだけ申し上げられることがあります。

 あなたは、この依頼を断れません』


 画面を見つめたまま、私は凍りついた。

 脅迫だろうか。

 それとも——。


『あなたのお祖父様は、「それ」を見たのです』


 メールの最後に、一文が追加されていた。


         ◆


 その夜、私は夢を見た。

 病院の廊下を歩いている。白い壁、リノリウムの床、消毒液の匂い。どこか懐かしい光景。

 祖父の見舞いに来た時の記憶だろうか。

 だが、何かがおかしい。

 廊下の照明が点滅している。規則的に、ゆっくりと。

 その明滅の向こうに、誰かが立っていた。

 人の形をした影。

 顔が見えない。いや、顔がある位置に、何もない。

 影がこちらを向いた。

 そして、


「——」


 何か言った。

 聞き取れなかった。でも、それが名前だということだけは分かった。

 誰かの名前。

 いや、違う。

 私の名前を、呼んでいる。

 目が覚めた。

 午前三時四十五分。

 スマートフォンの画面が光っていた。

 新着メール。


『調査を楽しみにしております。

 くれぐれも、名前を覚えないようにしてください』

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