わ た ぬ き
浅沼まど
物語本編
1:『匿名の依頼』
その夜、私は締め切りに追われていた。
医療系Webメディア『メディカルノート』に寄稿する記事。テーマは地域医療の崩壊、取材先は██県内の過疎地域にある診療所。三日後が締め切りで、まだ構成すら固まっていなかった。
肩書きだけは立派だが、実態は綱渡りの日々だ。契約しているメディアは三社、月の収入は不安定で、家賃六万円のワンルームがやっとという暮らし。華やかさとは無縁の、地味な仕事。
午後十一時を回った頃、メールの通知が鳴った。
編集部からの
差出人の
`████████@protonmail.com`
件名は「ご依頼」。
迷惑メールだろうか。開かずに削除しようとして、ふと本文の冒頭が目に入った。
『
突然のご連絡、失礼いたします。
██県
――綾瀬総合病院。
その名前を見た瞬間、心臓が小さく跳ねた。
知っている。というより、忘れられるはずがない。
七年前、祖父が入院していた病院だ。
メールを読み進める。
『同病院は七年前に閉院しておりますが、その経緯には不可解な点が多く、地元でも様々な
つきましては、閉院の真相を調査し、記事として発表していただきたく存じます。
報酬は後払いで構いません。金額はご相談に応じます。
まずは資料をお送りしますので、ご検討ください。
なお、私の身元についてはお答えいたしかねます。ご了承ください』
怪しい、というのが第一印象だった。
そもそもフリーライターへの仕事依頼は、通常、編集者や広報担当者を通じて来る。匿名で、しかも「身元は明かせない」などという依頼は普通ではない。
悪戯か、あるいは何かのトラブルに巻き込もうとしているのか。
削除しよう、と思った。
だが、指が動かなかった。
綾瀬総合病院。
あの病院には、私にとって忘れられない記憶がある。
祖父は七年前の春、脳梗塞で倒れて綾瀬総合病院に搬送された。幸い一命は取り留め、リハビリを続けていた。回復は順調で、医師からも「もうすぐ退院できるでしょう」と言われていた。
ところが、その矢先に病院が閉院することになった。
突然だった。経営難と医療事故が原因だと報道されていたが、詳しいことは何も分からなかった。祖父は別の病院に転院し、その二週間後に亡くなった。
死因は
転院直前まで元気だったのに、急に
当時、私は就職したばかりで、見舞いにもろくに行けていなかった。祖父の最期に立ち会えなかったことを、今でも悔やんでいる。
だからだろうか。
「綾瀬総合病院」という文字を見ただけで、あの頃の記憶が蘇ってくる。
メールには添付ファイルがあった。
`shiryo_01.pdf`
開くべきではない、という直感があった。
それでも私は、ファイルをクリックしていた。
◆
PDFの中身は、手書きの文書をスキャンしたものだった。
罫線の入ったノートに、ボールペンで細かい文字が並んでいる。日付と時刻、そして短い記録。
当直日誌だ。
私は医療系の記事を書いてきた経験から、こうした書式には見覚えがあった。病棟の看護師や医師が、夜勤中の出来事を記録するためのものだ。
日付は七年前の四月。
綾瀬総合病院が閉院する、およそ二ヶ月前にあたる。
---
【資料01:当直日誌(写し)】
令和██年4月2日(水)
21:00 夜勤開始。申し送り事項特になし。
22:00 巡回。各病室異常なし。
23:15 ナースコール。304号室(瀬野██様)より。トイレ介助。
00:30 巡回。異常なし。
02:00 巡回。3階東病棟、廊下の照明が一部点滅。設備課に報告予定。
03:45 304号室(瀬野██様)、眠れないとのこと。しばらく話し相手になる。
05:00 巡回。異常なし。
06:00 日勤への申し送り準備。
※3階東病棟の照明については、以前から報告しているが対応されていない。再度確認を。
---
瀬野██。
伏字になっているが、間違いない。祖父の名前だ。
三〇四号室。確かに祖父はその部屋にいた。見舞いに行った時、窓から見える桜の木がきれいだったのを覚えている。
画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
なぜ、この日誌が私の元に送られてきたのか。
そしてなぜ、祖父の名前があるページが選ばれているのか。
偶然とは思えなかった。
送り主は、私が誰なのか知っている。祖父が綾瀬総合病院に入院していたことも。
だとすれば、この依頼は——。
私は母に電話をかけた。
3コールで繋がる。
「どうしたの、
「お母さん、ちょっと聞きたいことがあって」
「何?」
「おじいちゃんが亡くなる前のこと」
電話の向こうで、母が息を呑む気配がした。
「……何を今さら」
「最期に何か言ってなかった? うわ言とか」
沈黙が流れた。
数秒か、数十秒か。それが妙に長く感じられた。
「お母さん?」
「……言ってたわ」
母の声は、どこか
「何を?」
「名前よ。知らない名前を、ずっと繰り返してた」
「名前?」
「うん。変な名前だなって思ったの。人の名前なのか何なのか、よく分からなくて」
「なんて名前?」
再び沈黙。
「……ごめん、思い出せない。もう七年も前のことだし」
「そう」
「なんで急にそんなこと聞くの?」
「ちょっと調べ物をしてて」
「調べ物?」
「おじいちゃんが入院してた病院のこと」
電話の向こうで、母が小さく息を吐いた。
「やめなさい」
その声には、普段の母らしくない硬さがあった。
「あの病院のことは、調べないほうがいいわ」
「なんで?」
「なんでって……とにかく、嫌な予感がするの。あそこには関わらないで」
それきり、母は何も言わなくなった。
電話を切った後、私は再びパソコンの画面に向き合った。
当直日誌のPDF。三〇四号室。祖父の名前。
そして、日誌に書かれたもう一つの記述が、妙に引っかかっていた。
「3階東病棟、廊下の照明が一部点滅」
単なる設備の不具合。そう読める。
だが、なぜか嫌な感じがした。
3階東病棟。
祖父の病室は304号室。3階西病棟だったはずだ。
東病棟には何があったのだろう。
私は匿名の送り主に返信を書いた。
『資料を確認しました。
詳しくお話を伺いたいのですが、お会いすることは可能でしょうか。
また、なぜ私にこの依頼をされたのか、教えていただけますか』
送信ボタンを押す。
返信はすぐに来た。
『お会いすることはできません。
追加の資料は順次お送りします。
なぜあなたなのか、というご質問についてはお答えいたしかねます。
ただ、一つだけ申し上げられることがあります。
あなたは、この依頼を断れません』
画面を見つめたまま、私は凍りついた。
脅迫だろうか。
それとも——。
『あなたのお祖父様は、「それ」を見たのです』
メールの最後に、一文が追加されていた。
◆
その夜、私は夢を見た。
病院の廊下を歩いている。白い壁、リノリウムの床、消毒液の匂い。どこか懐かしい光景。
祖父の見舞いに来た時の記憶だろうか。
だが、何かがおかしい。
廊下の照明が点滅している。規則的に、ゆっくりと。
その明滅の向こうに、誰かが立っていた。
人の形をした影。
顔が見えない。いや、顔がある位置に、何もない。
影がこちらを向いた。
そして、
「——」
何か言った。
聞き取れなかった。でも、それが名前だということだけは分かった。
誰かの名前。
いや、違う。
私の名前を、呼んでいる。
目が覚めた。
午前三時四十五分。
スマートフォンの画面が光っていた。
新着メール。
『調査を楽しみにしております。
くれぐれも、名前を覚えないようにしてください』
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