中年のメモ

いわもと

中年のメモ

つまらない、疲れた、眠れなかった。日々がこのように繰り返される。だけではないがだけではないが、つまらない、疲れた、眠れなかった、のインパクトというのは楽しみや達成にくらべて、大きくて困った。


今日という日も昔になる。未来から見れば今日はもう昔。今日が江戸時代くらいにもなれば縄文時代くらいにもなる。江戸時代の暮らし、縄文時代の悩み。そんな風に遠いこととして未来の人が今に思いを馳せる。今から見れば今は今、未来から見れば今は昔。未来から見る、そうすれば今は昔。未来の人になって昔を生きていると思う。そうすると色んなことが些細でやや安心。


おもんなおもんなエブリデイ。枯れたか感受性。なんかないか、なんかおもろいこと。なんかする、どっか行く、誰かと会う。動く、すると疲れる、すぐ疲れる。だからあんまり何もできへんくておもんなくなってると予想。老人やん。さて正解は。


毎日毎日ため息がでる。朝から晩までスマホを見つづける。月曜から日曜までスマホを見つづける。気付いたら見てる。面白いから。面白いけど「無」。超「無」。脳が反応してるだけ。スマホを見てるだけの人生。スカスカマイライフ。なんの人生。なんの人生か教えられる人は詐欺師。


こうしてなんかしてなんか思って、なんもせずなんか思って、思うことに疲れて果てて、また思うことを繰り返して繰り返して繰り返して果ててそれが人間。思う機械。果てる藁。


抜くと楽だ。抜けないのは辛い。抜ける時は抜く。抜いても大丈夫。どうせ誰も見てない。むしろ抜いた方が好感。抜けてないのは違和感。見られてても抜ける。怒られても抜ける。つまり切り替え。交感神経のOFF。そういうのが本来。隣にライオンがいるわけじゃなし。


こんなだらけたものを書いていいのか。無駄。恥ずかしい。はは。それはそっくりそのまま生のことだ。上に、良い方向に、なぜ目指さないのか。怠けるな、と。はは。なぜ上へなぜ良い方向へ、と問うてみて、答えようとすれば恥ずかしいのはむしろ……。青春だから許していたもの。季節が過ぎて(恥ずかしい)そう思っていたもの。それこそが自然に任せた純情なのだ。


つまらない。それは狩りをしないからだ。マンモスを狩る。そういうものがない。どうせ狩れない。うんざりだ。それにだるくて。だから狩ろうとしない。だからつまらない。このつまらなさ。それが今の生。今は狩猟時代か。ちがう。狩りは必須ではない。狩りたければどうぞご自由にだ。このつまらなさから逃れようとして、生存の狩りではない逃避の狩り。それが今の狩りだ。できるか。あるか今。逃れようとする意味が。


あわよくば評価、称賛されようみたいな気持ちがむくむく湧いてくる。なんて恐ろしい現象。「いい」を目指す理由がそういう欲、見栄では邪心だ。軽蔑だ。まずいと思わなければ。「いい」は良い。別に良い。よくなくても良い。だから「いい」を目指す理由はない。なのに評価、称賛、いい思いがしたいが理由になっては新しくない。理由がつまらない。用心して拒む。


することがない。なんかないか。「無」の時間。何かしていても「無」。していないと同じ。そういう「無」をしている。じゃあ「有」をするとは行動と意欲の一致。それが「有」だとして「有」は充実という感覚。「無」は退屈という感覚。苦痛だけがリアルだとしたら、全くどんな世界だ。


「いい」がいい。「いい」でなければ。そういう観念。毒されている。なぜ「いい」を目指すか。それは欲だ。そして刷り込みだ。成功したい(しなければならない)よく思われたい(思われなければならない)優位に立ちたい(立たなければならない)なんて毒されている。自分にもある。「いい」を「純粋」に目指す。それは「いい」をゴールにすることだ。「いい」の先の評価、称賛、モテ、裕福。そういうものをゴールにすると「いい」が「浅ましい」になる。そうなるなら「いい」を目指さない。よくなくてもいい。問題ない。


よく思われたい。いい思いがしたい。それは生物として自然だ。そしてその反対もまた自然なのだ。誰が何をどのようにしても自然。何かが自然で何かは不自然、そんなことは本当は何一つない。ただ受け入れられるかられないか。そしてられるとしてもられないとしても本能も理性もバグも自然、人は自然。


有名になりたいみたいな感情は本当に感情なのか。植え付けられた観念、刷り込み、気持ちと観念の乖離。じゃあ何になりたい、したいと問われても困る。どんな問いだよ。そんな問いは要らない。どうやって食っていこう。でいいだろ有名になりたくない。目立ちたくない。ひっそり暮らす。それはそれで退屈だ。あー退屈だ。


欺瞞だ!「いい」を目指さないと言いつつ目指している。でも「いい」を目指すメリットがない。無駄なこと、意味のないこと。利益主義。無意識に「いい」を目指す。でも目指しても無駄意味がない。矛盾葛藤虚無。一体何をしているんだ。こんなことして何になるんだ。人の悩み。解脱したと思っていた。


結局報われたい。それだけだ。一人の人間が報われたり報われなかったり。報われる技術、報われるコンディション。花を見るだけで晴れただけで報われられたらそれで良いんだから。


「いい」は誰にとっての「いい」か。自分他者それ以外。ともかく何が「いい」のかどうか分からない。人の数だけ「いい」があるとして。どんなものでも誰かにとっては「いい」んだとして。じゃあなんでも「いい」か。よくなくても「いい」か。


孤独を感じる時それは一人かどうか関係なく一人。ある思いが言えないということ。一人で抱えるしかないと思うしかない時一人ではなくても堪らなく独りでに傷ついている。


「いい」を目指す。それは結局競争。よりよくは全て競争。であるならセルフ競争、自己満足、修行でいい。他者と競うなら勝てるもの勝ちやすいものを。卑怯ではない。そう思うのはマンガや音楽の刷り込み。負けるデメリットは確実にある。勝ちにくいもの勝てないもの勝ちがないものは、セルフ競争、自己満足、修行だ!たとえば生活の細々としたことをよりよくするならば。


若さを救ったのは風俗嬢と詩を書くこと。中年も辛いが若者も辛い。若者はリビドーにそうとは知らず振り回される。


書くのは書かざるを得ないから。書かざるを得ないのに書けない苦しみ。それは実存の危機。書かざるを得ないとは何なのか。それは書くであれ体を動かすであれ、人はアウトプットをせずにはいられない生き物。


つまらないから傷つかない訳ではないし、疲れたからつまらなくならない訳ではない。つまらない、傷ついた、疲れた、眠れなかった、虚しい、などは順位を入れ替えながらミルフィーユのように重なり合っている。どれか一つだけの状態ではない。はーしんどいわー。


中年の危機。いわゆるミッドライフクライシスについて。これは実際には外から見れば何も変わっていない。空から地獄が降ってくると心の内で勝手に騒いでいる。もうダメだと一人で絶望している。怯えている。何も変わってないのに、起こってないのに。思い詰めるほどのエラーはない。脳内のバランスの変化か。あるいは変わっていないからこそ、変わらないという変わらなかったという。


生きることのむずかしさ。それはあからさまなむずかしさではなく、側から見ればむずかしくない。しかし本人はむずかしい。そういうむずかしさ。普通にすればというその普通のむずかしさ。だから伝わらない理解されないだから一人で抱える。その重さ。そういうむずかしさ。


「フライドポテトを食べよう」という思いつきが立派なアイディアになるときがある。今の状況やそれまでの流れとその思いつきがハマる。側から見れば大したことはない。しかし本人にとってはアイディア、ナイスアイディア。そういうとき、そういうこと、そういうものは良い。


成功しても自分や生活を超えることはできない。成功で何を超えられるだろう。変えられるとしても超えられない。変える方法は他にもある。なのに成功を目指すのは単純ではないか。成功で変化するというハードモードをどうしてわざわざ選んだ。それはつまらない見栄。人よりも優位に立つんだという、なくても別にいい、むしろあったら邪魔になることが多い、そういう人としての過剰さ。「若さ」という言葉で片付けてみる。


人の過剰さ。つまり全体として見た時、人の何%かはあらかじめ破滅することになっている。過剰さが何かを生みまた何かを壊す。生まれるのは壊されるのは、自分かもしれない。そういうシステム、恐ろしい仕組み。


うーん、書くことがない。それはいいことなのか。どうしようか。仕事でもないしこれが全てでもないし。ただ習慣で朝起きたら煙草を吸ってコーヒーを飲む、みたいなそういうものなんだけどそういうものが案外生きることの糧になるのだから書くことがないというのは煙草が吸えないと同じみたいな、そこまでではないかもしれないけど、わりと大切というかそういう生活の中のちょっとしたアクション。


がんばる理由が成功したいなどの社会的な上昇である場合そう長くは続かない。なぜなら上昇を望んでいるというのは半分以上嘘だからだ。つまり半分以上自分を騙している。その歪みが亀裂になりもうこれ以上がんばれないとなる。理由は簡単に手に入る。目に飛び込んでくる。それを選んだり拒んだりできるように注意深くあれたら。


ただ生活がある。何を得ても失っても色々な生活があってもものすごく得たとしてもそんなに大きな差はないだろう。ざっくり食って寝る。それは超えられない。時に人はものすごく得ようとしてものすごく失うそしてその後にも生活は続く。少し良くなったり少し悪くなったり、そういう小さな変化を繰り返しながら。だから変わらんのですよ。羨ましいと人が思うその人にもただ生活があるだけだ。


実存を賭ければその他を何とか無視できた。「これさえあれば後はなんでも」だった。だが実存を賭けてもしょうがない。そう気付いた時これまで無視してきたその他がここぞとばかりに襲ってきた。まじでホラーだ。現実は何も変わっていないというのに!


暇だ。そしてまだ試験九日前なのにもう緊張する。これは何だ。暇だから余計に緊張するのか。今日蜂を退治した。これも緊張した。その緊張の余韻と試験前の緊張が接続されたのだろうか。体のことは分からない。推測してみてもそれはただの推測だ。


試験まであと何日だ。八日か。顔が火照る。原因は何だ。受かるか分からない。それは当たり前。試験に全てを懸けた訳ではない。苦しみだけではなく暇つぶし遊びの要素もあった。なのに緊張するのは動物としての戦ってる感を体が求めてるのだろう。真剣だったのはたしかだ。しかし実際には趣味とあまり変わらないのでは?と思う。受かればラッキーくらいの感覚でいいような気もする。中年はこれが全てだ!みたいなのよりのらりくらりやっていくべき。そんな気がする。


勉強したくねーまーじで嫌早く試験終わってくれ解放されたいもう何年勉強したと思ってるねん喜びもあったけどさすがにもう充分だわはーしんどいわー。


詩を書くのも勉強するのも惰性。惰性でいいむしろ惰性がいい。だが惰性はつまらない。だが惰性でないものは戸惑いを孕む。つまらないオア戸惑い。どっちのデメリットを選ぶ。いやーしかしつまらない。戸惑いたくないのだけれど。というか基本つまらないと戸惑いは交互にやってくる。割合に個人差はあれど。つまらないのは嫌いでも戸惑うのも嫌い。じゃあどうしろと。ばーんと解決するものは見当たらない。


Facebookを見ていた。友達の過去をさかのぼった。そこで感想がしょうもないだった。するとなんか全部がしょうもなく思えた。同級生と遊ぶのも外国人と交流するのもしょうもないと思う自分がしょうもない!じゃあ何がしょうもなくないんだ。それは夢中熱中熱狂。今の枯れた自分にそれができるか!? 瞬間はある。だが続かない。そんなもんなのか!?


眠いと気付かないこと。それに限らず心身の調子の変化やその原因に気付かないままのとき自分はひそかに混乱している。その混乱さえも気付かないことがある。自分の色々にどれだけ自分は気付いているか。気付いていないか。まったく自分というのは謎だ。


向上しない。これが一つのテーマになりそうだ。向上しようとするとき目は上を向いている。しかし上以外にも場所はある。上以外に目を向けてみては。上以外にも下や横や中や外や斜めや奥や手前や後ろや前やどこにも目を向けないがある。という自分から自分への提案。


なんかこう…生きてるだけになっちゃってるよなあ。ハマっていた色んなことに飽きちゃって生きてるだけになっちゃったなあ。まあこれが普通なんだろうか。生きてるだけじゃ空虚。でもこれが普通なんだろうか。生きてるだけじゃないってすごいエネルギーだ。過剰だ。過剰こそが人の若さだ。戻りたいような戻りたくないようなまだ若いような。よう分かりまへん。


それが「いい」かどうか自分で決めればいいはずなのに誰かの「いい」がないと自分も「いい」とは思えない。そもそも自分の「いい」は自分の「いい」なのかということを考えると何でもいいと思えてくる。どうせこれは本物じゃないしどうせこれも本物なのだ。という諦め。だから何でもいいのだ。


人は「生物である」と同時に「人間である」だから生物共通のもの(たとえば生殖本能)がありながら同時に人間固有のものがあるそれを忘れて生物としてばかりではそれはじゃあ何の固有性もない純粋生物ではないか。生物としての本能を人間の固有性が否定する。人間の固有性を生物としての本能が否定する。そんな絡み合いが人にはある。


公平でなくてはならない、それは理念としてならいいが実際には公平などありはしない。それぞれがそれぞれの位置でする、それが公平になるわけがない。だから公平を自らに課す必要はない。悪くとも単なる理念にとどめる。そうでなければきっと大きな損をする。損をしてきた。公平のために自分の有利を使わないではいけない。有利は使うもの。


自己責任ではなく他者は責任を取らないだ。誰であれ他者は自分がどうなったとしても責任を取ってはくれない。その事実!とはいえだから自己責任ではなくとにかく他者は責任を取らない!


「いい」は捏造できる。誰かが嘘で「いい」と言えば、そうすれば周りも「いい」と思い始める。そしていつのまにかそれは「いい」になる。だから「いい」なんてその程度のものでしかない。


誰も働いていないというのが良い。誰かが働いていると罪悪感がある。だから誰も働かないでほしい。


何を言うてるんだろう。書く書かないだの書き方だの書く理由だの結局それは「いい」に囚われてるからそういうことで悩む。「いい」に囚われない、拘らない。そういうのが大事だ。


「模倣」というのは「いい」の「模倣」だ。人は「いい」を「模倣」する。しかしそれが「いい」のか。不良は不良を「いい」としている。芸術家は芸術を「いい」としている。不良は芸術を何としている。芸術家は不良を何としている。「いい」は人による。自分の「いい」は無数にある「いい」のうちの一つに過ぎない。自分の「いい」は決して特別ではない。特別な「いい」は存在しない。全ての「いい」は普通だ。だから「いい」を目指してもゴールは普通だ。お金がほしいならお金を目指す。ワーキャーがほしいならワーキャーを目指す。「いい」を目指して得られるものは「普通」だ。


「安泰」なんてないなんて恐ろしい。将来どうなるか心配だ。何かをして、何か行動を、その勇気が……どうなるか分からないそれがただ怖い。環境を変えてやっていけるだろうか。意外となんとかなるか。普通にどうにもならないか。普通にギャンブルだ。


羨ましい。遊んでいる全ての人が。時間はあるだが遊ぶ人がいない。つまんねー生活。遊べる人はどこにいる。探そうともしないこの怠惰。つまらなさと怠惰はトレードオフか。つまらなさから逃れるには怠惰から逃れなくてはいけない。でもそうなのか?まだ疑問がある。


遊びの中の楽しみと面倒臭さ。結局面倒臭いを受け入れて遊ぶしか楽しみにたどり着く術はないのか?その内面倒臭いにも慣れて楽しみやすくなるのか?分からないやってみないことには何も。とにかく遊んで遊んでいく内に楽しむコツみたいなものが見えてくるのか?


何かぽっかり空白ができてすることがなくなってしまったという気分が去年の秋頃から続いている。これは一時的なものなのか。また何かに夢中になれるだろうか。本当に何をしたらいいのか。ただだらだらしてる。胸の奥にちりちりと焦りを抱えながら。


「ストレス」がないとつまらないのか?そういえばストレスがあるとつまらないとは思わない。ストレスはつまらなさを軽減する?それがストレス?つまりつまらないということはストレスがないということ?つまりストレスがなければストレスを発散できない。「発散」が楽しいのだとして、発散するものがなければつまらないということか?


「いい」を目指して「いい」にたどり着いてそうすれば課題は解決すると思っていた。「いい」にたどり着くそれだけで報酬があるそう思っていた。でも「いい」にたどり着いても報酬はなかった。過程での喜びが報酬だった。だからもう報酬はないのだ。達成ボーナスはないのだ。


「いい」を目指すことの良くなさ。「いい」を目指すとは作為であり「狙っている」であり人工である。だから目指して得た「いい」は作り物感がある。壮大な言い訳のような。だから作為を徹底できないなら目指さないつまりここがそこなのだ。自然に出たものを受け入れる。


「センス」はつまらない。「上手さ」はつまらない。そういうものを使わないで何かをする。素朴に表現する。評価を求めるとセンスや巧さに走りがち。そしてつまらなくなる。センスや巧さはつまらない。ダサくない下手じゃないそれはおもんない。おもんないは評価どころではない!


なんて無駄なことをしていたんだと気づくと落ち込む。しかし無駄なことでもしなければ退屈なんだよ。無駄なことに熱中するそのかけがえのない時間。振り返ってみればなんの意味もないその時間でどれだけ年収をあげられただろう健康になれただろう人と付き合えただろう。無駄なことをした代償退屈を振り払った代償嫌なことを拒絶した代償。


歩くというのは何か目的がある。目的もなく歩くというのは変だ。目的からは逃れられないのだとしたらなんて悲しい生き物。


目的がなくなるとどうしていいか分からなくなる。クライシスだ。このような仕組みが向上心を駆り立てている。どうしていいか分からないの中で向上心を持たずかといってクライシスにもならずつまらないにもならず平気でいるにはどうすればいいだろう。


何かしないとつまらない。何かするには目的がいる。人に会う何かをするどこかへ行く、ための目的がないから何もできずにつまらなくなる。目的がいるというのは思い込みか?目的もなく何かをする、それは何だ?


謎の情熱。それこそが失ったもの。目的も理由も後付け。とにかく謎の情熱があった。謎の情熱謎の情熱謎の情熱。それは何だ。


将来の不安(このままでいいのかあるいはこのままでいられるだろうか)が今をつまらなく感じさせるのか。将来の不安がいつもぼんやりとあってそれが今をつまらなくさせている説。将来の不安という圧倒的現実に負けてしまって物事に熱中できず退屈に打ちのめされている説。中年の危機の正体は将来の不安なのか?まだ分からん。


振り返れば創作を長いことしないということはなかった。もう書き尽くした予感に怯えていた。怯えながら新しい表現を探していた。「いい」を目指さないというのが新しい表現なのか。それは分からない。もしかすると恐怖が原動力だったのかもしれない。そんなのが原動力なのは嫌だなあ。楽しみを持つには楽しむ力が必要なのか。大袈裟にいえばどんなことでも楽しむ力があれば最強か?


思い描けないということが中年の危機の問題なのか。右を見ても左を見ても上を見ても下を見ても現実しかないという、現実オンリーという現実。夢を見ることの無意味さ。現在も未来も現実だけがあるという、それを自分は辛く思っているのか?つまり執着。創作も人間関係もインターネットも将来もこうありたいあらねばあるべきだという執着があるから理想や現実の何かしらを認められず中年のクライシスを引き起こすような気がする。「飽きた」というのはある種失望であると同時に執着から離れるいいきっかけかも。


熱中するというのは物事にものすごく仕えることだ。主従でいうと従であり身分でいうと奴隷(やる気満々の)であり自由不自由でいうと不自由である。メリットはものすごく物事に仕えているので細かいことが気にならない。たまに喜びがある。熱中することがないやりたいことがないというのはなんだか寂しい。退屈。もっといえば苦しい。一方で楽だ。それは物事にそこまで仕えていないからだ。自由と言えるだろうか良くも悪くも。自由とは一体何だろう。


『怠惰の美徳』という本を注文した。怠惰というのは自由と関係がある。とちょっと思ったからだ。怠惰ではないというのは自由ではないというのは言い過ぎかもだが怠惰がなければ自由はないのではないか。それくらいは言ってもいいのではないか、と定かではないが少し思ってそんなことを怠惰なスタイルで書いている。


何もしたくないという気持ちと何かしないとという気持ちの両方がある。間をとってだらだらなんかテキトーにするというのはどうだろう。下手を出すそのまま出すというのは大らかさであり逆にとか成長のためだとかそんな目的的なことではない。思いついたことをやったりやらなかったりするなんかもうそれでいいというかそれくらいしかないんじゃない?問題があるとすればいつまでも思いつくわけじゃないということ。無理やり思いついてもなあんか違うんだよな。それならやらされ仕事の方がずいぶんマシかも。


毎日がつまらない。それはたしかにそうだ。ただそれは24時間ではない。何かしらすればその間はつまらなさが紛れる。だからまあテキトーに紛らわして時には退屈を感じてそれでいいのではというかそれしかないのではという気がしないでもない。


センスオブワンダーという本がある。読んでないが自然とかのワンダーを描いているのだろう。そこで思ったのは生きる意味というのはないかもしれないがこの世界には自然に限らずおんもしろいものがたくさんある。この世界はおんもしろさに溢れている。広くもいけるし深くもいける。だからそれを味わって味わって味わえばそれでいいんじゃなかろうか。知らないことは山ほどある。驚きや喜びはまだまだ眠っている。それを味わう。体力や気力、好奇心が大切だ。その大切なものをどう維持・確保するかが大切か?と月並みっぽいことを言ってみた。


書く描く見る読む聞く。要するに「する」その味わいや奥深さや喜びはその行為の中にある。たとえばそれで成功することは書くことの喜びなどとは全く(!)別である。成功することの喜びは書くことの喜びではない!成功することの喜びって何???味わいや喜びや奥深さは大抵行為(あるいは体験)の中にある気がする。成功に味わいや奥深さはある?


人生いろいろ。されど似たようなもの。されどポイントの位置が違う。そこで人生は分岐しついぞ分岐しなかった人が一般だ。ついぞ分岐しなかった人への憧れとそんな人本当はいないのではないかいやでも一般だしやっぱり沢山いるのではないか。一般を知る術があるようなないような、そこら辺にいるようないないような。


人生マンネリ。足りないのは好奇心か。しかしもう飽きちゃったというか興味を持てない。センスオブワンダーと言われましても興味が持てないんだよなあ。感受性がオワタなのだろうか。まあいいか(いいのかな)。


思い描くとダメになる。なぜってそれは駆け足になるから。行為は歩くくらいの速さでしないと。目的に向かってがーっと突き進むのではダメだ。ゆっくり色々と耽る余裕の中で行為を進めていかないと。道が直線になってはいけない。それでは成功か失敗の二択に陥る。ただそれをしている、そいうのが良い。そんな気がする。

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