第3話:イルミネーションの乱

「……慰謝料って、何」


 私の声は、たぶん地獄の底から響いていたと思う。

 イルミネーションの輝きが、今や尋問室のスポットライトのように冷たく、残酷に私の毛穴の一つ一つまで照らし出している気がした。


 彼がガタガタと震えながら、私を見る。

 その唇は紫色になりかけていた。寒さのせいじゃない。恐怖のせいだ。

 情けない。

 本当に情けない男だ。

 元妻の前では借りてきた猫みたいに縮こまっていたくせに、私に対しては「言えなかった」という卑怯な言い訳を用意している。


「い、いや……その……家のローンの残債というか……手切れ金というか……財産分与の調整金みたいな……複雑なやつで……弁護士も入ってて……」


「聞いてないわよ。そんな話、一言も」


「言おうと思ってたんだ……本当に……でも、タイミングが……」


「タイミング? クリスマスに元妻に遭遇して、公衆の面前で暴露されるのが、ベストなタイミングだとでも?」


 私は彼の手を振り払った。

 ヌルヌルしていたハンドクリームの感触が、今はただ生理的に気持ち悪い。

 まるで、彼の隠していた嘘そのものみたいに、ベタリと私の手のひらにこびりついている。

 裏切られた、という感覚が胸に広がる。

 いや、勝手に信じていただけかもしれないけど。

「バツイチだけど、誠実な人」だなんて、私が勝手に脳内で補正をかけていただけだ。


「あつこさん、待って……! 誤解なんだ、いや誤解じゃないけど、説明させて! 弁護士も入ってて……」


「弁護士? 今度は弁護士?」


「あ、いや、その……」


「触らないで」


 私は早足で歩き出した。

 コンクリートの地面を蹴るたびに、外反母趾がズキリと痛む。

 でも、足の痛みなんてどうでもいい。

 もっと深いところ、プライドの根幹がズタズタに引き裂かれている。

 寒さが骨身に沁みる。

 コートの下に貼ったカイロなんて、もう何の役にも立っていない。心が冷え切っているからだ。


 そして何より、あの元妻の余裕たっぷりの笑顔に見下された自分が、惨めでたまらない。

「お似合いよ」

 あの言葉が、脳内で無限にリピートされる。

 呪いの言葉だ。

「あなたたちは、底辺がお似合いよ」という烙印を押されたのだ。


「私、帰る」


「えっ、レストラン予約してるのに……!」


「キャンセルしてよ! 慰謝料払う金があるなら、そんな贅沢できないでしょ!?」


 人混みの中で、私の大声が響いた。

 自分でも驚くほど、ドスの効いた声だった。

 周りのカップルが、ギョッとした顔で振り返る。


「え、何あれ?」

「修羅場?」

「おばさんがすごい剣幕で怒鳴ってる……怖っ」


 若者たちのヒソヒソ声が、容赦なく突き刺さる。

 好奇の視線。憐憫の視線。

 そして、「ああはなりたくないね」という、残酷な未来への拒絶を含んだ嘲笑。

 彼らの目には、私たちはどう映っているんだろう。

 クリスマスの聖なる夜に、金の話で揉める、浅ましい中年の男女。

 夢も希望もない、現実の権化。


 あーあ。

 やっちまった。

 最悪だ。


 四十代半ばにもなって、六本木のど真ん中でヒステリー。

 一番ダサいパターンのやつだ。

 これこそが、あの元妻が嘲笑った「お似合い」の姿そのものじゃないか。

 彼女は、きっと少し離れたところから、今の夫(あのシュッとした金持ちそうな男)と腕を組んで、この様を見て高笑いしているに違いない。

「ほら見たことか。私が捨てた男と、それを拾った女の末路なんて、あんなものよ」と。


 私は立ち止まり、深く溜め息をついた。

 白い息が、イルミネーションの青い光に溶けていく。

 視界が滲む。

 涙が出そうだ。

 悲しいからじゃない。悔しいからだ。

 でも、泣かない。絶対に泣かない。

 泣いたら、厚塗りしたファンデーションが崩れて、目尻の皺に入り込んで、地割れみたいになる。

 マスカラも落ちて、目の下が黒くなって、パンダ目になる。

「おばさんのパンダ目」だけは、絶対に避けなければならない。それが、私の人間としての最後の尊厳だ。


「……あつこさん」


 彼が追いついてきた。

 肩でゼーゼーと息をしている。

 体力ないなぁ。私より足遅いんじゃないの?

 そんなところも、見ていてイライラする。

 もっとスマートに追いかけてきて、ガシッと腕を掴んで、「行くな!」とか言えないの?

 言えないわよね。腰痛持ちだものね。


「……ごめん。本当に、ごめん」


 彼は深々と頭を下げた。

 九十度くらいの、サラリーマン根性が染みついた綺麗な最敬礼。

 その頭頂部が、イルミネーションの光を受けて、うっすらと透けて見えた。

 頭皮が赤い。

 ストレスなんだろうか。

 それとも、寒さで血管が浮いているんだろうか。


 ああ、もう。

 本当に、嫌になる。


 この薄くなった頭も、小心者の性格も、隠し事をする卑怯さも。

 元妻に頭が上がらない情けなさも。

 そして、そんな男と一緒にいる自分も。

「別れよう」と即座に切り出して、タクシーを止めて颯爽と帰れない自分も。


 全部ひっくるめて、惨めで、人間くさくて、脂っぽくて、どうしようもない。


「……私、お腹空いた」


 私は唐突に呟いた。

 怒鳴ってエネルギーを使ったら、急激に血糖値が下がった気がした。

 胃がキリキリする。空腹とストレスのダブルパンチだ。

 人間とは悲しい生き物だ。どんなに心が傷ついても、腹は減る。


「え?」


「レストランはキャンセルして。キャンセル料取られるなら、それは貴方が払って。でも、あんな高いところ、今の私たちの身の丈に合わない」


「でも……せっかくのクリスマスだし……あつこさん、楽しみにしてたじゃん……」


「楽しみにしてたわよ! でも、今はもう無理! 慰謝料の話聞いた直後に、フォアグラなんて喉通らないわよ!」


「……ごもっともです」


「いいから、キャンセル!」


「は、はい!」


 彼は慌ててスマホを取り出し、店に電話をかけ始めた。

 震える指で番号を探している。

「あ、もしもし……予約していた田中ですが……あ、はい……すみません、急用ができまして……ええ、本当に申し訳ありません……はい、キャンセル料は振り込みます……はい、すみません……」

 ペコペコとスマホに向かって頭を下げる彼。

 その姿は、クレーム対応をしている中間管理職そのものだ。

 イルミネーションの下でやる姿じゃない。


 その姿を見ていると、怒りが少しずつ、諦めのような、泥のような感情に変わっていく。

 この人は、ずっとこうやって生きてきたんだろう。

 誰かに謝って、誰かに気を使って、損ばかりして。

 そして、私もまた、そんな彼を選んでしまった。


 電話を終えた彼が、恐る恐る私を見た。

 雨に打たれて捨てられた、薄汚れた老犬のような目だ。

「怒らないで」と訴えている。

 ズルい目だ。


「……キャンセル、できた?」


「うん、できた。……キャンセル料は五千円だって。……コース料金の全額じゃなくてよかった」


 安堵したように言う彼に、またイラッとする。

 五千円だって大金よ。

 私のランチ五回分よ。


「高いわね」


「……ごめん。俺の給料から出すから」


 当たり前だ。


「その代わり、何か奢って」


「え?」


「五千円分とは言わないけど。……もっと安くて、カロリー高くて、今の荒んだ気分に合うやつ。……上品な味付けなんていらない。化学調味料と脂と塩分が欲しい気分なの」


 彼は瞬きをして、それから私の顔色を窺うように、恐る恐る周りを見渡した。

 六本木の華やかなレストラン街。

 どの店も満席で、幸せそうな顔をした人たちがガラス越しに見える。

 今の私たちがあの中に入ったら、空気清浄機が作動するレベルで場違いだ。私たちは負のオーラを纏いすぎている。


「……あっちの方に、屋台が出てたような」


 彼が指さした先は、イルミネーションのメインストリートから一本外れた、ビルとビルの隙間のような、少し暗い路地だった。

 そこだけ、昭和の空気が漂っている。


「屋台?」


「うん。……たこ焼きとか、焼きそばとか。……あそこなら、予約いらないし」


 たこ焼き。

 クリスマスの六本木で、たこ焼き。

 本来なら「ありえない」選択肢だ。

 でも、今の私には、それが一番「お似合い」な気がした。

 私の心は、もうフレンチを受け付けない。

 もっと下世話で、熱くて、口の中を火傷するような刺激を求めている。


「……いいわね」


 私は言った。


「マヨネーズたっぷりで。ソースもドバドバかけて。あと、缶ビールも。……発泡酒じゃなくて、ちゃんとしたビール買ってきて」


「……分かった! 買ってくる! エビスにする? それともプレモル?」


「どっちでもいい! アルコールが入ってれば!」


「了解!」


 彼がパッと笑顔になった。

 その笑顔を見ると、少しだけ毒気が抜ける。

 単純な男だ。

 本当に単純で、バカな男だ。

 でも、その単純さに、救われている自分もいることが、悔しいけど事実だった。

 こんな惨めな夜に、一緒にたこ焼きを食べてくれるのは、この世界で彼だけなのだから。

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