第5話:カビと絆の結末


トイレから戻ってきた彼は、幽霊のように青ざめていた。

「……スッキリしましたか?」

「はい……本当に、穴があったら入りたいです……」

彼はソファの端に小さく座り込んだ。

すっかり意気消沈している。

「まあ、お水飲んで落ち着いてください」

私は常温の水を渡した。

時計を見ると、もう二十三時を回っている。

「……終電、まだありますか?」

私が聞くと、彼はハッとして時計を見た。

「あ、やばい。……ギリギリかも」

「急いでください。泊めるわけにはいきませんから」

「はい! すみません!」

彼は慌てて立ち上がろうとして、今度は

「ぐきっ」

と嫌な音をさせた。

「痛っ!!」

腰を押さえて、その場に崩れ落ちる。

「えっ、ちょっ、田中さん!?」

「こ、腰が……ぎっくり……かも……」

「嘘でしょ!?」


神様は、どこまでこの男に試練(と私への嫌がらせ)を与えれば気が済むのか。

胃もたれの次は、ぎっくり腰か。

「うう……動けない……」

脂汗を流して呻く彼。

さっきまで「老後まで一緒に」とか言っていた男が、今まさに老人のように這いつくばっている。

「救急車……呼びますか?」

「いや、それは……恥ずかしいし……少し休めば……」

「でも、終電なくなりますよ」

「…………」

沈黙。

それはつまり、私の家に泊まる(というか、動けないから居座る)ことが確定した瞬間だった。


結局、彼はリビングのソファで朝を迎えることになった。

私は寝室から毛布を持ってきて、呻く彼にかけてやった。

「……すみません、あつこさん。こんなはずじゃ……」

「本当にね。最高のシュトーレン食べて、ロマンチックな夜になるはずだったのにね」

「……面目ないです」

「いいですよもう。……痛み止め、ありますから。飲みます?」

「はい……お願いします」


ロキソニンと水を渡し、私は彼を見下ろした。

情けない。

本当に情けない姿だ。

髪は乱れ、眼鏡はズレて、口からは微かに嘔吐の名残とニンニク臭がする。

これが、私の恋人だ。

「……寝てください。明日の朝、動けそうなら帰ってくださいね」

「はい……おやすみなさい……」

彼は弱々しく呟き、目を閉じた。


私は寝室に戻り、ベッドに入った。

眠れるわけがない。

リビングに、見ず知らずの(いや、恋人だけど)男が転がっていて、しかもカビたパンと餃子の匂いが充満しているのだ。

私は天井を見上げて、一人で笑った。

乾いた笑いだった。

「……何やってんだろ、私」

四十五歳のクリスマス。

本来なら、もっと穏やかで、大人の余裕に満ちた時間を過ごしているはずだった。

それが、介護と汚物処理とカビ騒動で終わるなんて。

涙が一筋、枕に吸い込まれていった。

悔し涙なのか、呆れ涙なのか、自分でも分からなかった。


翌朝。

恐る恐るリビングを覗くと、彼はまだソファで丸まっていた。

「……田中さん、生きてます?」

「……おはようございます……なんとか」

彼はゾンビのようにゆっくりと身を起こした。

「腰は?」

「まだ痛いですが……なんとか歩けそうです」

「そうですか。じゃあ、朝ごはん食べたら帰ってください」

「えっ、朝ごはんまで……?」

「空腹でロキソニン飲むと、胃が荒れますから」

私はキッチンに立ち、お粥を作った。

昨夜の残りの餃子は、見るのも嫌だったのでゴミ箱へ(シュトーレンと共に)葬った。


二人で向かい合って、お粥をすする。

静かな朝だ。

昨夜の騒動が嘘のように、冬の朝日が差し込んでいる。

「……美味しいです」

彼がしみじみと言った。

「レトルトですよ」

「それでも……あつこさんと食べる朝ごはんは、美味しいです」

彼は少し照れくさそうに笑った。

その笑顔を見て、私は思った。

ああ、ダメだ。

絆されてる。

こんなヨレヨレの、加齢臭と思わぬトラブルのデパートみたいな男に、

「可愛い」と思ってしまっている自分がいる。


食後、彼は帰っていった。

何度も何度も頭を下げて。

「クリスマスのリベンジ、必ずしますから! 正月に、初詣行きましょう!」

懲りない男だ。

でも、その懲りなさが、今の私には救いなのかもしれない。


彼が去った後の部屋は、急に静かになった。

私は窓を開けて、換気をした。

加齢臭と、湿布の匂いと、微かなカビの匂いを追い出すために。

冷たい風が入ってくる。

身震いしながら、私はテーブルの上を見た。

そこには、彼が忘れていったマフラーがあった。

娘さんが選んだという、派手なチェックのマフラー。

私はそれを手に取り、少しだけ顔を近づけてみた。

臭い。

おじさんの匂いがする。

でも、その奥に、不器用な優しさと、人間くさい温もりが隠れている気がした。


「……バカみたい」

私はマフラーを畳んで、ソファに置いた。

来年は、ちゃんとした保存方法を教えよう。

そして、ぎっくり腰にならないように、一緒にストレッチでも始めようか。

完璧な王子様なんていない。

いるのは、カビを生やすパン作りおじさんと、

それを受け入れてしまう、寂しがり屋のおばさんだけ。

でも、それでいい。

この凸凹で、カビ臭くて、ポンコツな恋が、

私の人生の「最高傑作」になるかもしれないのだから。


スマホを取り出し、彼にLINEを送る。

『マフラー、忘れてますよ。……初詣の時に返します』

既読はすぐについた。

『ああっ! すみません! ……でも、会う口実ができてよかったです!』

相変わらずのポジティブさ。

私はスマホに向かって、小さく呟いた。

「……メリークリスマス、田中さん」

空っぽになったゴミ箱の中で、青いカビが生えたシュトーレンだけが、

この騒がしい夜の証人として、静かに眠っていた。

(第5話完)

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手作りシュトーレンがカビ生えてた件 月下花音 @hanakoailove

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