カマキリにあこがれた男
ジョージ
カマキリにあこがれた男
腹を風船のように膨らませるイメージ。横隔膜を押し下げて、胸から腹の下まで空気でいっぱいになるようにゆっくりと吸い続ける。皮膚の下のろっ骨を一本ずつ開いて、背骨を一つづつ繋がりからほどき、最後に骨盤がゆっくりと開くのを想像した。体がほどけて腹の中がすべて空気で満たされていく様子を思い描きながら、今度はすべてを吐き出す。吸い込んだ倍の時間をかけて、ゆっくりと。それを十回繰り返したところで脳みそが酸素でいっぱいになって体が軽くなる。そよ風にも揺らいでしまいそうな感覚をそのままに、手足のひらを床について四つん這いになった。膝と肘をまげて胴体を床すれすれまで下げて顔を垂直に上げて、大きく息を吐く。
「ふぅ」
草原をかける風、それに吹かれて揺れる体をイメージしながら背中にあるはずの羽を広げた。ギギギと音を立てて開いた羽が風を受けてふわりと揺れる。尻がもち上がりそうになるが足を踏んばって耐えた。僕は細長い体を反らすように頭を高く掲げ、右手を振り上げカマを振るった。鋭い刃先がブンと空を切る音で胸が高鳴る。ぶん、ぶん、ぶおんと振り下ろすたびに自信と自尊心が満たされていく。
僕はカマキリ。
芋虫に見立てたクッションに思い切り振り下ろし、引き寄せてから噛み付きそいつの息の根をとめた。頭の中では目の前の獲物がビクビクと痙攣し、儚い命を僕に奪われそうになっている。甘い汁と肉の感触を頭の中でそうぞうしながら夢中でかみついていたがビーズクッションのケミカルな匂いと埃っぽい味が口の中に広がり、襲い来る現実に辟易しそうになる。だが襲い来る現実を押しやって顎も力を込めて、三日ぶりの獲物を味わった。もっと、食欲を掻き立てるような甘くて美味しい匂いが広がるはずなのにやっぱり無機質な味しか感じることができない。悔しい。顎を左右に開いてもっと思い切り噛み切ろうとしたところで、急に現実的な音が部屋中に響いた。インターホン田。ピンポーン、というぶしつけな音が僕を外側の世界に引き戻していく。あぁ、いやだ。
「はい」
僕は渋々応答した。
「あ、オレオレ。開けて」
インターホンのカメラ越しに見えるのは大きな瞳に小ぶりな顔。友人はじっとカメラを覗き込んでにこりと笑った。カムイだ。古い友人の潮田神威。僕は急な現実に内臓が重く掻き回されるような気持ち悪さを感じながら開錠のボタンを押した。彼がエレベーターホールに入ったのを確認してからクッションをクローゼットに投げ入れてキッチンに向かう。夢心地だったのに台無しだ。最悪だ。乱暴な手つきで電気ポットでお湯を沸かしながらマグカップに紅茶のティーパックをセットし、昨日コンビニで買っておいたフルーツとヨーグルト、豆腐とゆで卵と豆のサラダを冷蔵庫から出しておいた。再度インターホンがなったので鍵とドアを開けてやるとニヤニヤしながら友人は部屋に入ってきた。
「パンツくらい履けよな」
それだけ言ってリビングの床にどかりと座り、我が物顔で荷物を広げ、リュックに入っていたパソコンとスマホ、モバイルバッテリーを広げ始めた。それらを整然と床に並べ何かの準備を進めていく。
「なに」
僕の問いかけには答えず、三脚とカメラ、撮影用の小さな照明を手際よくセッティングしていた。
「動画、撮るって言ってたじゃん。忘れた?」
カムイは作業する手を止めることなくそう答えた。そういえば昨日の夜そんなことを言っていたかもしれない。そうだ、あぁ、思い出した。寝る直前の電話でそんなことを言っていた。
「忘れてた。ていうか、酒飲みすぎて記憶あんまりない」
「あぁ、ね。昨日電話で話した時すげぇ酔ってたよね。なんで?あかねちゃんってそんなに飲ませる感じだったっけ?」
「いや、あかねは違う卓。あいつは飲ませないよ。飲ませてきたのは別の指名できた子なんだけど、なんか機嫌悪くてテキーラリレーさせられた」
「わ、まじか。お前でもまだそんなんやってんだ。えらいねぇナンバーワンになったのにさ。あれ、お前ちょっと顔浮腫んでる?風呂入ってきてもいいし、なんなら走ってきてもいいよ。時間的には」
「今まさに風呂入ろうと思ってたところだから、そうする」
「うん、俺、ちょっとやんなきゃいけないことあるから1時間くらいしたら戻ってきてくれればいいし」
カムイはパソコンで何かの作業を始めた。僕はパソコンが苦手だから機種の名前とかわからないけど、四〇万円のいいやつだということは聞いている。
こいつは古い友達だ。だけど今では仕事仲間といった方がいいかもしれない。いわゆる人脈で金を稼いでいる奴で、男女問わず仕事を紹介したり店や企業から集客や人材紹介を頼まれたり、イベントのチケットを知り合いに売って利ザヤをとったりと人と人をつなげて金を稼ぐことを仕事にしているらしい。そんな仕事のためか、カムイのスマホが静かなのを見たことがない。こいつ自身かなりの連絡魔だが常に複数人とのやり取りを並行しているので、リアルに一緒にいるときは常にスマホを手放さずに何かと連絡を取りつづけている。それを失礼だと感じる人もいるだろうし、特に恋人になるような女性はカムイのそんな様子に不快感を表すことが多いけれど、僕はそれくらい無関心でいてくれる方が嬉しいし居心地がいいと思っている。だからか十代のころから一緒にいるが一度もケンカすることなく上手くやってこれた。
僕は忙しそうなカムイを残して浴室に向かった。ひんやりと冷えたフローリングを歩き、先ほどの興奮が冷めていくのを実感しながら浴室に入ってシャワーをひねる。冷水が温水になるのを待ちながら、頭をおもいきり振って気持ちの切り替えを図った。
あぁ、もう、ほんとに。せっかくいい感じで一日のスタートを切ることができていたのに。まだ狩りが終わってないのに、もう仕事か。いやだ、あと一時間、いや三十分でいいからカマキリでいたかった。
「服着て」
風呂上がりにカムイに怒られた。僕は全裸が好きだし、まだカマキリでいたかったのにわざわざ切り上げて風呂まで入ったのに、そんな風に言われるのは心外だ。心外だがいい大人なので不本意ながら肌着だけ身に着けて床に座った。肌に当たるポリエステルの感触が気持ち悪い。裸になりたいけれど、動画を取るためなら仕方がない。スマホに届いた動画撮影の概要を確認しながらカムイの作業が終わるのを待ち、時間を持て余したのでストレッチをしながら待った。
「よし、おっけ。お待たせ」
「うん。服、どうしたらいい」
「あー、どうしようかな。いつものやつもいいけど、うーん。あれは?先週、美智さんに買ってもらってたチェックのやつ」
「チェックの…シャツ。先週?」
クローゼットを漁り、指定されたシャツに袖を通していつものジーンズを履いてから照明に照らされたカメラの前の椅子に座った。インカメラに映った自分の顔をチェックして身だしなみを整えておく。
「いける?」
「いけるよ」
「おっけ。じゃあカメラのカウントダウンに合わせて始めちゃって」
撮影用のスマホの液晶に3、2、1とカウントダウンが映された。僕は1が0になった瞬間に表情筋を動かしてスイッチを切り替えた。仕事の時間だ。
「皆さんこんにちわ。歌舞伎町のホストクラブZeezのナンバーワン、マロです。えーっと今日はね、皆さんからいただいた質問にお返事をしていきたいと思います。ていうのも、先日の料理動画のコメント欄にすごい量の質問いただいちゃいましたので。僕、結構自分の話してるつもりだったんですけどね。あんまり伝わってなかったかな。ま、てことで今日は特に多かった質問から答えていきたいなぁと思ってます。基本的にNGなしですから最後まで見てってくださいね。では、最初の質問はこちら」
僕はスマホを片手に一人で話し続けた。完璧に、書いてある通りに。読み上げる質問はコメント欄からカムイが選んできたものだ。それに対する返答は、完璧にカムイが作り上げた原稿どおり。そこに僕の意見なんて一つもないけど、嘘とも言い切れないような絶妙な返答が作り上げられていた。撮影した動画はマロのアカウントとして掲載される。が、そのアカウントの動画には僕しか映っていないけれど別に僕が運営しているわけではなく、僕はただ店のために演者に徹しているだけで、アカウントの管理は店とカムイに全て委ねている。僕はログインすることすらできない。すっぴんなのも私服なのも計算のうちなのだとカムイは言う。店に出る時はもう少し見た目を整えた状態で出ているけれど、動画はこの気の抜けた感じがちょうどいいらしい。視聴者はそこそこいるらしく、月々ある程度の動画の収益が立っているらしいが僕はよく知らない。一応僕個人の売り上げとして計上してもらえているらしいが、カムイにそのままトスして動画制作の経費や謝礼として受け取ってもらっている。つまりこれは仕事だが、カムイのための仕事に演者としてでているという事になる。僕のメリットはかなり薄いが、いい宣伝になるからとオーナーから言われいているので辞めるわけにいかない。それに、少し有名になったおかげでメディアへの露出も増えたので仕事につながっていることは間違いない。
三十分撮影して、2本分になるそうだ。カムイは撮影が終わるとニコニコしながら片づけをしてPCに向かって編集作業をはじめた。僕はそれを見ながらさっき用意した軽食を片付けることにした。
「食べる?」
一応礼儀としてカムイにも声をかけたが「やー」という曖昧な返事だけを返されたので一気に口にかきこんで食べてしまった。ぬるくなった紅茶をすすりながらスマホをチェックしメッセージに適当に返信をしていく。今日はエースの美智が来てくれるはずだから彼女の家まで迎えに行かなきゃいけない。その他の客の子たちにメッセージをおくりながら。洋服を脱いで出勤用の服に着替えて身支度を整えた。毎週五十万円使ってくれるウイちゃんが来るらしい。あぁそうだ、プレゼントに欲しがっていた香水を買っていかなければならない。あとはコスプレイヤーの子、女王様のれいら様、OLのあまねちゃん。
「もう行くけど」
仕事の予定を確認しながらカムイに声をかけた。
「あ、まじ。じゃぁ俺このまま作業しててもいい?今日はもう出かける予定無いから」
「いいよ」
カムイはこの家が気に入っているらしく、集中して作業したい時には何時間も居座っていくことがある。何も置いていない質素な部屋なのに訳がわからない。
「今日はアフター行くから朝まで帰ってこないよ。腹減ったらカップラーメンあるから食べてて」
「あー」
スマホと財布を入れた小さな鞄を持った。スマホと携帯しか入らないような小さな鞄だがこれだけでも確か三十万近くするらしい。プレゼントだからよく知らないけれど、傷つけないよう慎重に扱いながら家を出た。鍵はスマートロックなのでスマホをかざすと鍵がかかる。外はまだまだ明るくて暑いが時間は十七時だ。青空も刺すような日差しも僕の何もかもを許してくれる気がしてたまらない。特にこの季節は明け方と夕方が長いから生きている実感を強く感じる。
気分がいいので、タクシーを拾わずに小学生がはしゃぐ声が聞こえてくる中を駅に向かってゆっくりと歩いていくことにした。雲の浮かぶ青空から飛行機のシルエットが飛んでいくのが見える。目で追いながらのんびりと歩いといると僕を追い越して行った学生の一人が軽くぶつかってきた。
「あ、ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ」
黒髪がヒラリと跳ね、赤く染まった顔が僕を見つめた。駆け足だった彼女は後ろ向きで走りながらぺこぺこと頭を下げながら移動している。
「あ、危ないよ」
「あ、あはい、すみません」
「いえいえ、大丈夫」
「はい、ありがとうございます。すみません!」
近所の高校の制服を着た彼女に見覚えがあった。高校生なんて知り合う機会がないので気のせいかとも思ったが、あの申し訳なさそうな顔や声にも覚えがある気がしてならない。でも、どこで見たのか、どこで聞いたのかは全く思い出せない。
駅へ近づくと、向かう途中で線路沿いの植え込みに男が2名ほど入り込んで三脚を構えていた。大きな望遠レンズのカメラと、手持ちのカメラを装備してそわそわと楽しそうに話をしている。鉄道の写真を撮りたいのだろうと思って見ていると、その背中に小さなバッタが止まっているのが見えた。小さな頭に大きな足。緑の小さな体は風に飛ばされまいと男の背中に必死にしがみついているようだ。触角を動かしながら逃げ道を探しているのだろうか、それとも高すぎて降りられなくなってしまったのだろうか。僕はいつの間にか男のもとへ足を向けていた。線路わきの植え込みに足をかけ、男の背中のバッタに近づくとやつは何かを察知したのかそわそわと動き回り始めた。飛び降りないのはやはり高すぎて降りられないのだろう。僕は手を伸ばしてその躰にふれようとした。次の瞬間、ごぉぉっ!と地鳴りと轟音が通り過ぎていった。電車が通過するのにあわせて男たちが興奮したようにシャッターを切っている。僕は一瞬ひるんでしまいバッタから目を離してしまった。気が付くと男の背中には何もいなかった。僕は飛ばされてしまったバッタを探そうかとも思ったが、足元に繁る雑草を見てあきらめて仕事に向かうことにした。男たちは僕の存在に気が付かないまま写真の確認を行っている。楽しそうだ。
僕は駅前でタクシーを止めた。美智のマンションの名前を告げて到着までひたすら客の女の子たちにメッセージを送り続け、スケジュールや女の子の管理について考えながら頭の片隅ではさっきのバッタの姿を思い出しては、後悔を感じていた。あの子に触れてみたかった。緑の尖った体や足先、繊細な触覚がまぶたに焼きついて離れない。あの子が僕に触れてくれたらどんな気分になるだろう。指先にかすかに感じる繊細な感覚。無機質な瞳、鋭利な口元。それから柔らかな腹と精巧な細工を施された機械のような関節。あの子が体長2メートルだったらいいのに。僕のことを腹の下に敷いて、組伏して計算され尽くした完璧な造形で覆ってくれないだろうか。スマホの画面を見ると「さささささささ」と文字が入力されてしまっていたので慌てて消してメッセージを入力し直した。だめだ、あと五分ほどで美智のマンションについてしまうから頭を切り替えなければならない。スマホの内側カメラで顔と髪型を確認し、気持ちを作るように自分に言い聞かせた。僕はホスト、僕はホスト、クラブZeezのマロ、マロという名前のホスト。
寿司屋を出るタイミングで美智が腕を組んできた。彼女のお気に入りの店は今日もお気に召したようでたいそうご機嫌だ。店を出て夏のぬるい空気を頬に浴びながら、美智は赤い顔で鼻歌を歌っていた。彼女を歩道側にそっと誘導して歩きながら店に向かう。
「ねぇ、その靴、前に買ってあげたやつ?履いてくれてるんだ」
「ん、うん。かわいい?」
「かわいー、やっぱりその色似合うね」
美智はデイトレーダーで、もう一生困らないほどの貯蓄があるらしい。僕の見た目が好みだという理由だけで指名をくれて毎月二千万円は使ってくれている。さらに高額なプレゼントもくれる。彼女のおかげで僕はナンバーには入れているといっても過言ではないし、被りのあおりにも大人の対応をしてくれる本当にありがたい存在だ。
「でも、シャツにあってないかも。靴に合わせてもうちょっとはっきり色にしたらよかったんじゃない?」
「美智さん、最近ダークローズの色の服が好きだから、僕がピスタチオカラーでとなりに並んでたら映えるかなって」
「え、うそ」
「ん?」
「私のため?」
「当たり前じゃん。だって今日は美智のために服着てるんだから」
「えー、もー!あ、見て。今日ちょうどダークローズっぽい色のインナー着てる!リップも!」
「似合ってるよ。可愛い」
「ふふ、うん。これ今季の新作なんだって」
美智は一見可愛らしいが、実際には強くて賢くて支配的な女性だ。何事にも囚われたくないという自由意志を信条に生きている。そして馬鹿で従順で気遣いのできる男が好きだ。それが僕の得意な役どころだから相性がいいんだろう。僕は先ほど美智と一緒に買った四つの香水の紙袋を持っていたが、そのうちの一人は今日来るお客様、ウイちゃんに渡す分、あと2本はストックとして自分の家に置いておくつもりだ。店に向かう道中で美智に香水を一本プレゼントした。
「これ、持っててください」
「え、これさっき買ってたやつ…ストック用じゃないの?」
「ストックは3本あれば十分だよ。これ、僕と会えない時に嗅いでて欲しい。僕のこと忘れないで欲しいから、もらって」
「ちょっと、やだ!何女々しいこと言ってるのよ!もー、しょうがないなぁ」
美智はニコニコしながら香水を受け取ると丁寧に、大切そうに鞄にしまった。
「ありがとう」
首を傾げながら微笑む彼女は、初恋に浮かれる女の子みたいだ。
「こちらこそ、受け取ってくれてありがとう」
美智は腕に抱きつきしなだれかかってきた。花束のような香水の匂い。柔らかな感触としっとりとした体温を感じる。美智はとても美しい女性だと思う。彼女のルブタンがまっすぐ道を歩けるよう慎重にアテンドしながら店に向かい、いつものように恋人として隣に座り、高い酒を開けながら彼女が気分良く過ごせるよう最大限のおもてなしをする。遅れてやってきた客も、アフターでバーに行った客も、全員僕の恋人。マロ、という男に仮想の恋人を求めて大金を払ってくれる。実際の僕の価値とはかけ離れた大金だ。ぼくの実態ではなく、僕が見せる虚構に払っているのだから、ぼくが受け取っているプレゼントもご馳走してくれる高級な食事も店に払ってくれる代金も、すべて彼女たちの運んでくる大金は虚構への対価だ。実在する僕の経歴や価値観、趣味嗜好なんて彼女達にとってはどうでもよくて、それがカマキリへの偏愛や昆虫に対する羨望を抱えるような人間であったとしても虚構さえ感じ取れればそこに価値を見出してくれる。儚く散ってしまう切り花を飾るでもなく、毎日水を与え日光に当て肥料を与えなければならない植木を育てるでもなく、小虫を与えれば生き続けるハナカマキリを一匹買っておくようなものなんだろう。擬態した華やかさ、偽物の飾りだ。僕は、僕自身が虚構に生きているから彼女たちといて居心地がいいのかもしれない。むしろ、虚構を得るために支払う対価が”金”である彼女たちの方が僕よりも優位な存在かも知れないとすら感じている。僕の虚構は実現することがないんだ、僕が自分の殻を破って生まれ変わり姿かたちを変えて住む環境を移して生きていくことなんてできない。手術でどうにかなったり、高額の支払いでかなう夢ではない。僕は僕の中にしかないあこがれに焦がれ苦しんで境目で無様にもがく以外に虚構を味わう術を得ない。なんて愚かなんだ。なんて可哀そうな男だ。僕は、僕の殻を脱ぎ捨てて今すぐ草むらに飛び込みたい。ただそれだけのことができない時点で自己実現が出来ている彼女達より劣っていると思う。
その日の帰り道、僕は思いのほか疲れていたのか酒が回って足元がおぼつかなくなってしまった。無駄に長い足が絡まりそうになって本当に歩きづらい。真っ直ぐ歩くため、意識的に縁石を踏んで歩く明け方六時、自宅に戻るとカムイが床で眠っていた。フローリングに何も敷かず、バスタオルをかけて体を丸めて足の間に手をはさんで深い眠りについていた。胎児のようだ。僕はカムイを横目に寝室に向かい、服を脱ぎ捨てて眠った。
数時間後、僕が起きる前にカムイは帰ったようでリビングには何も残されていなかった。まるでカムイなんていなかったように跡形もない。あいつはいつもそうだ。僕のことを極度の潔癖症だと思っているので、できる限りキレイに使ってくれる。自分の家は壊滅的に汚いのに、僕の家に来ると掃除ができると本人が不思議そうに語っていた。そういう僕も、あいつの家に行くとつい散らかしてしまうのでたぶん環境に左右されているだけなんだろう。
酒を抜くために水を2杯一気に飲み干し、潤った脳みそで考えた結果、その日は近所の銭湯に行くことにした。外に出ると昨日とはうって変わってじっとりと湿った曇り空で、雨が降るなら傘がいるなと引き返そうか悩んみながら歩いていると、目の前から一人の女の子が歩いてくるのが見えた。ティシャツにハーフパンツという軽装で、ふらふらと今にも倒れそうな足取りで歩いてくる。あぶなげなその様子に視線を送っていると、飛び出た縁席の一つにつまずいて崩れ落ちるように転んでしまった。あわてて駆け寄って「だいじょうぶ?」と声をかけたが返事がない。返事がないどころか、声が聞こえていないように無反応だ。顔色も悪く、どうしたものかと考えていると、女性が腕だけの力で上半身を起こして低くうなった。
「あ、あの、触っても大丈夫ですか」
僕の声掛けに女性は答えない。女性の歩いてきた方から車いすの男が向かってきたので、道を譲らなければと僕は慌てて女性の肩と膝を抱えてすぐ近所にある公園まで担いでいった。力が抜けた人間は重いと聞いていたけれど、身長188センチで80キロのベンチプレスを持ち上げられるまでに鍛えた僕の体でも運ぶのは一仕事だった。公園について、ベンチに女性を横たえてその顔を見た。色が消えて真っ青、もしくは真っ白と言っていい。
「大丈夫ですか」
「あ」
彼女は仰向けにベンチに横たわり、ぼーっと空を見上げながら言った。声は喉の奥でかすれるように鳴っている。
「大丈夫じゃなさそうなんで、救急車呼んでもいいですか」
「え、いえ、ほ、だいじょうぶで」
「いや、全然大丈夫そうじゃないんで」
「いや、あの」
「薬とか、すぐに何かしなきゃいけないような病気ですか?」
「ひ、貧血、です」
「貧血…」
「少し休めば、平、な…で」
「いや、平気な顔色じゃないです」
彼女は大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。
血の気が引いた顔は二日酔いの時によく見るけれど、酔っ払いや急性アルコール中毒の人とも違うただ静かに血の気が引いていく様子に僕は焦り、不安に駆られた。目の周りは肌の色から血色が消えて土気色にまで変化してきている。唇は境がわからないほど色を失い、呼吸も浅い。僕は救急車を呼ぼうとスマホを取り出した。震える手で1、1、9と押そうとした瞬間、彼女が口を開いた。
「あ、…のみ…て」
「え?」
僕は彼女の口元に耳を当てて聞き取ろうと息を殺した。
「あの、温かい、の、飲みもの」
「あ、はい」
僕は彼女を一人にすべきか悩んだけれど、公園の端に自動販売機があるのを見つけたので急いで帰ってくれば大丈夫だろう、と小走りでその場を離れた。けれどこの季節に温かい飲み物が置いてあるはずもなく、仕方がないので通りを一本渡ったところにある小さなスーパーまで走った。大急ぎで買い物を済ませて戻ったが、すぐに彼女から目を離したことを後悔した。僕が目を離した数分のうちにスーツを着た男が一人彼女のそばに近づいてきていた。腰をかがめて彼女に何か声をかけているようだが、良く見れば男は声をかけるふりをしながら手を彼女の乳房の上に置いていた。
「おい」
僕の声に飛び上がるように驚いて、何か甲高い声を出しながら男は走り去っていく。彼女は眼を閉じて相変わらず真っ白な顔をしている。触られていたことに気が付いていないみたいだ。
「大丈夫?買ってきたよ」
僕が声をかけても彼女は眼を開かない。胸が上下していて呼吸しているのはわかるので、彼女の肩の下に腕を差し込んでゆっくりと持ち上げた。さすがに目を覚ましたのかうっすらと目を開けて僕にもたれかかるようにして起き上がると、僕が差し出したペットボトルを受け取って少しずつ飲み始めた。
「すいません、僕銭湯に行く途中だったので臭いかもしれません」
「え、いえ、ぜんぜん」
女の子は少しずつ口へ飲み物を運び、僕に寄りかかりながらではあるけれど二十分ほどかけてペットボトルの半分を飲んでいった。こんなもので貧血が良くなるのか不安だったが、その頃には少し顔色が戻っていた。
「大丈夫?」
「はい、あの、ありがとうございます」
「いや、いいんだよ。それよりこんなことしかできなくてごめん」
「え、そんな!私の方こそ、すみません。あの、お客様なのにこんなことしてもらっちゃって」
申し訳なさそうに言った彼女の言葉の意味が一瞬分からなくて、僕は返答に迷ってしまった。そんな僕の様子を見て、慌てたように
「あの、わたし駅前のコンビニで働いていて」
そう教えてくれた。
「あ、そうなんですか」
「はい」
「駅前のコンビニ…あぁ、夕方にいる?」
「あ、そうです」
「あぁ、はいはい」
駅前のタクシー乗り場の近くにあるコンビニで働く女性だとその時に初めて気が付いた。それと同時に昨日ぶつかってきた女子高生が彼女だということにも気が付いた。
「もしかして昨日、道で会いました?」
「あ、はい。すみませんでした。急いでて」
「バイトですか」
「遅れそうで」
「あぁ、なるほど」
確かに彼女の出勤している時間に迫っていたなと思った。よく行く店であるとはいえ、店員の顔を覚えているほどは通っていない、が、そういえば先日行った際に彼女と同じシフトに入っている別の女性店員からしつこく連絡先を聞かれ、その時に彼女を制して逃がしてくれたのがこの女性だったな、というようなことを思い出した。
「家、どこですか」
「え」
「あ、いや、変な意味じゃなくて」
「家、ですか」
「送っていきますよ」
「いえ、大丈夫です。私買い物しなきゃいけないから」
「買い物?」
「はい。そこの薬局まで」
彼女はそう言って、ペットボトルの蓋を締めると財布をとりだした。飲み物の代金を支払おうとしてきたので断った。頑なに拒んだが、あまりにも申し訳ないと言い続けるので僕は耐えられずに笑ってしまった。
「大丈夫、本当に。ふふ、僕、ホストしてるんで女の子からお金をもらうのは仕事の時だけって決めてるんだ。だから気にしないで。大人になって、大金持ちになったら店に遊びに来てよ」
彼女は困った顔で財布をしまい、こちらが恐縮するほど頭を下げ続けていた。それから立って歩けるようになるまで三十分ほど僕の肩に身を預けていたが、2本目のジュースを飲み終わると立ち上がって薬局に向かうと言いだした。僕は勝手に彼女についていき、勝手に見守るという形で同伴を許されたので買い物に付き添って、きちんと家に帰るまで見守らせてもらった。
彼女は4階建ての小さなマンションの2階に父親と二人で住んでいるそうで、エントランスからエレベーターに乗るところが見えたところで、後は扉を開けて入るだけならもう大丈夫だろうとマンションを出た。銭湯に向かおうとしたところで、ふと何かが気になって今出てきたばかりのマンションを見上げた。別に彼女の家の場所を特定しようとか、そういうつもりはなかったけれど本当になんの気無しに見上げただけだった。小さな背中を向けている彼女は、エレベーターから離れた角部屋のドアを開けたところだった。あぁよかった、家に入れたのかと安心したのも束の間、猿の鳴き声のような叫び声が聞こえた。それは彼女が家のドアを閉めたことで聞こえなくなったので、彼女の家の中から聞こえてきているのだろうと思う。僕は驚きすぎてしばらく立ち尽くしてしまった。あれはおそらく、女性の叫び声だ。ヒステリーというのだろうか。その日は一日、彼女の家にいる猿の存在が頭から離れなかった。
その日の出勤前、リイチさんに大久保病院前に呼び出された。僕は悶々とした気持ちを抱えたままだったけれど、リイチさんが嬉しそうな声で電話をかけてきたのを聞いて少しいい気分になった。何故なら彼は僕と似た趣味を持っているからだ。僕の趣味だけでなく仕事のこともよく理解してくれていて、その上とても気遣いの上手い人なので突然の呼び出しにも喜んで馳せ参じてしまう。
「リイチさん、お待たせです」
「あ、マロくん。ちょっとこっち」
リイチさんはフルオーダーのスーツを着ているにも関わらず、衣服を気にせずに植込を覗き込んでいた。僕の声に反応して顔だけを一瞬こちらに向けたが、すぐに植込に視線を戻した。
「なんですか、なんですか」
「マロくん、これ、これさ、何かな」
「え、どれっすか。え、え!」
リイチさんの視線の先には、なんと金色に近いオレンジ色のカマキリがいた。見たことのないような、透けてしまうんじゃないかと思うほど美しい肌、飴細工のような肢体を枝に絡ませて休むメスの個体だ。
「ぃひー、えー」
「なんだいその声」
「や、あの、大きな声を出してはいけないと思って。うわ、わわ」
僕はあまりの美しさに心拍が跳ね上がるのを感じていた。指先が震える。その子はぐっすり寝ているのか僕らの視線を受けても微動だにしない。リイチさんは周囲の葉や枝を抑えながら「さ、さ」と僕に目配せをくれた。大慌てでスマホを取り出して無音カメラを立ち上げ撮影した。が、震えてしまってあまり上手く撮れなかった。見かねたリイチさんがスマホを受け取り接写で撮影してくれた。美しい顔や体のラインをスマホに収めてからそっと返してくれた。僕は撮影されているその子をじっと見つめながら奇跡のような存在に、込み上げる感動を抑えきれず気がつくと涙を流していた。
「はっはあ、ははは、泣いてんの」
「へ、へ」
「えぇ?」
「はぁ、美しい。美しすぎます。こんなに美しい子がいるなんて。へ、へ」
「泣きかた」
リイチさんはおかしそうに笑っていた。笑ってはいたけれどその声は囁くような声で、美しい子への配慮を感じる。
「どうする、連れて帰るか」
「え!」
僕は返答に困った。連れて帰りたい。連れて帰って僕のお嫁さんになってもらいたい。でも、それはできない。
「どうした、ん?」
「え、と、うわー!連れて帰りたいけど、でもダメなんです。彼女が僕を受け入れてくれるとわかってからじゃないと、僕の独断で連れて帰るなんて申し訳なくて」
「え?あぁそうかい」
そういうと、リイチさんが枝をちょんちょんとこづいた。彼女の触覚がぴくりと動いた。
「あぁ、そんな」
「ナンパしようってんだから、とりあえずこっち見てもらわなきゃなぁ」
「ちょっと、あの、慎重に」
「わかってるよぉ」
美しい子は顔を動かしてこちらを警戒し始めた。僕の心臓は壊れてしまいそうだった。彼女が僕を見ている。四つの瞳に僕が写っている。
「あぁ、ああ、へ…へ、ふ」
「おいおい、ナンパするならシャキッとしないと」
リイチさんが揶揄うように言うもんだから、僕の顔は火がついたように熱くなってしまった。
僕はしゃがんで涙を拭うと、慎重に手を伸ばした。美しい子を怖がらせてしまわないように、そっと斜め前からアプローチをして様子を伺う。胸を張るように少し体を上げて僕を正面から見つめてきた。口元が動いているので何か話しかけてきているのかもしれない。僕のポンコツの耳では聞き取れないのが申し訳ない。お願いします。お願いします、と繰り返し心の中でつぶやいて震える指をその子に差し向け続けた。
「お嬢ちゃん、どうだい。いい男だよ」
リイチさんが後押ししてくれているが、微動だにせず僕のことを値踏みするような視線を送っている。そんな気高い姿に鳥肌が立ってしまう。彼女の視線を感じるととても冷静ではいられなくなってしまい毛穴が開き、発汗し、体が火照っていく。ダメだ、こんな人間臭いようでは嫌われてしまう。汗のにおいも、高すぎる体温も彼女には不愉快でしかない。ひっこめなきゃ、落ち着いて、できるだけ彼女に近い存在になるんだ。
「お」
リイチさんの嬉しそうな声と共に、美しい前肢が僕の指に乗せられた。恐る恐る、といった様子で僕の指に体を預けてくれる。僕の興奮は最高潮に高まって、呼吸をするのも忘れて彼女を食い入るように見つめてしまった。
「いいねぇ」
肢体が全て僕の手に委ねられると、僕は全身から喜びが迸るのを感じた。この子と結ばれるために生まれたのではないかとすら思うほどの喜び、興奮、僕は運命を感じていた。全身が震えるほどの高揚感が駆け巡る。
「マロくん、ほれ、このカゴ使っていいよ」
リイチさんがそう言いながら虫籠を開けて彼女に入るように促してくれる。
「ほれ、安心して入りな」
彼女がカゴに足をかけそうになった、次の瞬間美しい羽を広げてふわりと宙に浮いた。「あ」という僕の声を気にもとめず、彼女は陽に透ける前翅を閃かせながら空高く飛んでいってしまった。僕はそのあまりの美しさに言葉を失いながらも、胸の真ん中が抜け落ちてしまったような喪失感を感じた。彼女が離れた右手が途端に軽くなったようで、その重さを感じられないことがとても寂しい。ふわりふわりと飛んでいくその姿を、せめて瞼に焼き付けておこうと彼女の姿を見つめた。
「ふられちゃったか」
リイチさんが僕の肩に手を置いて励ますようにゆすってくれた。僕はしばらく呆然とその場に座り込んでいたが、気がつくと公園に移動し、ベンチでリイチさんが買ってきてくれたコーヒーを片手に慰められていた。体の真ん中が抜け落ちたみたいにショックだった。いつの間にか、趣味仲間の前田さんが来ていて先日見つけたという珍しいダニについて熱く語っており、その傍らでリイチさんはニコニコとその話を聞きながら僕の手を握って励まし続けてくれた。
「そろそろ時間だろ、マロくん」
そうリイチさんに促されて僕は仕事に向かった。ひどく気が乗らなかったけれど、失恋したって仕事はしなければならない。それは仕事をいただいている以上仕方のないことだ。仕方のないことだとわかっていても足取りは重く、とても店に出られるような顔ではなかっただろう。ヘアメイクをお願いしているサロンに到着する前に、カムイとバッタリ会いそのことを指摘された。
「顔やば」
ケラケラと笑いながらカムイもまた励ますように僕の肩を叩いた。
「もう、無理かもしれない」
絞り出すような僕の声に、カムイはさらにおかしそうに笑っていた。
カムイと初めて出会ったのは高校二年生の始業式の日だった。僕の席がカムイの席の前で、当時身長が180センチを超えた僕の後ろでは黒板が見えないと文句を言われたのがきっかけだ。カムイは当時身長158センチだから、確かに見えづらかったと思う。僕らは席を交換し、それからよくつるむようになった。カムイという珍しい名前は彼の父親がつけたそうだ。覚えやすい名前のためなのか、それともあいつの人柄のせいなのか当時からあいつは友達がたくさんいた。下級生も、上級生も、他校生にまで友達がいて、街を歩けばカムイ、カムイとよく声をかけられていた。友達として紹介してもらうこともあったけれど僕と仲良くなってくれる人はほんの一握りだった。カムイの親は普段家にいないそうで、2DKのアパートにお邪魔して夜遅くまで遊んでいた。母子家庭と聞いていた。カムイの母さんは働き者だけど、弱くて従順な性格をした女性という印象だ。男の言うことは絶対だと刷り込まれているような言動が多く、例えそれが息子の友達である僕の言うことであっても言われた通りに動いてしまうような危うさがあった。カムイは母親を大切にしていたけれど、高校を卒業してすぐに母親の元を離れて夜の世界に足を踏み入れていき、地元の悪い先輩に紹介してもらったキャッチやバーテン、裏カジノでディーラーなどをして生活を始めた。高校の頃なんかは二人で同じアルバイトに応募して泊まりがけで働いたりもしていたが、半年もするとカムイはすっかり夜の世界に染まっていた。大学に進学していた僕にホストの仕事を紹介してくれたのは二十歳になった時のことだった。すぐに売れた僕はかろうじて大学を卒業したけれど、カムイと一緒に夜の世界にどっぷり浸かってしまった。それから数年、就職せずにホストを続けている。
「お前、今日あのキャバの子が来てくれるんじゃなかった?大丈夫その顔で」
「ダメかも。今日仕事いく気になれない」
「おいー、しっかりしてくれよ。あの子稼いでるだろ」
「だって、あぁ、もう。あそこに戻りたい」
「戻らねぇでしっかり働けよ」
「いやだ、嫌だよ。せっかくリイチさんが紹介してくれたのに、僕は…」
「リイチさん、って光木組の?」
「みつ、いや、どうだったかな。どっかの監査役やってるとか言ってたけど。あの人は蝶と蛾の愛好家なんだ。標本にしてしまうから僕とは少し趣味が違うんだけど」
「あぁ、そう。へぇ」
「前田さんは昆虫全般が好きなんだけど、新種の発見と論文がメインでさ、今日も新種の発見に小笠原」
「はいはい、それよりさ、俺にリイチさん紹介してくれない」
「え、なに蛾に興味あるの」
「ちげーよ」
カムイはゲラゲラと笑った。あぁ、人脈作りか。
「リイチさん、あんまり近づかない方がいいよ。怖い人だから」
「いや、知ってるけど」
「僕も、あまりよく知らないし。フジイさんって苗字だってことは知ってるけど、名前はリイチじゃないらしい」
「あぁ、へぇ、そうなんだ」
「うん。あだ名なんだって。親しい人しか呼ばないらしいよ」
「何お前、親友てこと?」
カムイが少しからかうように言った。僕の友人がカムイ一人しかいないことをわかっててイジってる。
「まさか。僕は本名も知らないし、あっちも僕のことをマロ君って店の名前で呼ぶんだよ。趣味の集まりだからハンドルネームみたいな感覚だけど、それってつまりプライベートには踏み込むなよってことだから。実際、リイチさんの周りの人怖い人ばっかりだし、その人たちと話すときのリイチさんは別人だし」
「へぇ、ていうかリイチって名前じゃないんだ」
「あーうん。若いころにつけられたあだ名なんだって。東大の理科、えーっと、一類?に通ってたから。自己紹介の時に最終学歴は東大の理一です、って自己紹介したらあだ名がリイチになったらしい。あの人頭いいんだよな」
「え、とうだい?東大出身なの?」
「らしいよ。中学の理科の先生の免許も持ってるって言ってたかな」
「はぁー、そう」
カムイが目を輝かせている。こいつはミーハーなところがあるから、そんな面白い肩書だと知ってますます興味を持ってしまったのだろう。
「…昆虫に興味があるなら虫好きとしてリイチさんに紹介するけど、光木組のフジイさんに興味があるな本当にやめとけ」
「わかってるよ」
渋々といった様子で口をつぐんだカムイの様子からして、これは近いうちにまたすぐに頼まれるなと感じた。僕はリイチさんのことは大好きだけど、リイチさんの仕事は大嫌いだ。リイチさんの仕事仲間も苦手だし。それがわかっているからリイチさんは僕に仕事のことを一切語ろうとしないし、距離を取ってくれている。それは僕も同じで、リイチさんの仕事の迷惑にならないようわきまえているつもりだ。
リイチさんの話をしているうちに、だんだん先ほどのあの子のことで頭がいっぱいになってきた。確か写真を撮ってもらったはずだとスマホの画面を見ると、美しい肢体が画面いっぱいに表示された。僕の瞳に映った時より淡い色合いだが、はっきりと琥珀のような透明感が感じられる。オレンジとも金色とも取れないその美しさで、僕は口を開けたまま恍惚と見つめ続けた。そんな僕を苦笑いでヘアメしたサロンの担当さんに見送られながら、渋々、本当に行きたくなかったがその日も労働に向かった。
翌日、僕は何も置いていないリビングで久しぶりの捕食を行うことにした。あの子に振られたのはきっと僕の鍛錬が足りていないせいなんだ。まだ、まだ僕は弱くて情けない、救いようのない雄だ。家具も何も置いていないリビングに全裸で立ち、大きく息を吸った。腹の奥底まで空気を吸い込んで体を大きく伸ばしてから細くゆっくりと吐き出す。四つん這いになり両手足をふんばって、肋骨を開くように体を震わせた。触覚と複眼、単眼で獲物を捉え、音をたてずにそっと近づいた。カマを振り上げて獲物のクッションに向かって思い切り振り下ろす。どすっと音がして僕のカマに捉えられたクッションが悲鳴をあげているのがわかった。もがいて、逃げようと足掻いている。暴れれば暴れるほど、僕のカマが食い込んで体の奥深くまで食い込んでいく。素早く獲物に噛みついて、息の根を止めようとありったけの力を込めた。ケミカルな匂いと布の感触が口いっぱいにひろがる。あぁ、これは偽物だ。偽物だけど今の僕にとっては精一杯の代替品なんだ。今の僕にはこの程度の獲物がお似合いだ。
虚無感と厭世の感に浸りながらそれからの時間はただ座って過ごした。自分のくしゃみで我に返って目を覚ますと、昼を過ぎていてひどい空腹を思い出した。そうか、昨日の昼から酒以外を口にしていない。僕が野生で生きていければそこらへんで食事をとって済ませることだできたのにそういうわけにはいかない。深くため息をついてから肌着とティシャツ、美智が買ってくれたサッカー地の短パンを身につけてコンビニに向かった。品揃えがいいので、最寄りのコンビニではなく駅前まで行こうと思い灼熱の中を歩き始めた。日差しが差すように降り注ぎ、線路沿いの草むらにも昆虫たちの影は見えない。木陰で休んでいるんだろう。蝉の鳴き声が響く中、徒歩十分の道のりを二十分掛けゆっくりと歩いて行った。
「あ、どうも」
涼しい空気が頬を掠める。コンビニのドアが開いてすぐに彼女に声をかけられた。貧血で倒れた子だ。名札を見るとキヌエと書かれていた。随分と古臭い名前だ。
「どうも」
「昨日はありがとうございました」
「いいえ。もう大丈夫ですか?」
「は、はい!もう大丈夫です。あの、何かお礼をしなきゃと思っていたんですけど」
「いやいや、いいですよ」
「でも」
「元気に頑張ってください。それだけで大丈夫」
キヌエは申し訳なさそうに顔を伏せながら仕事に戻って行った。仕事中だからなのか、薄く化粧をしているし髪の毛をしっかりと縛っているので先日よりも少し大人っぽく見えるのは気のせいではないはずだ。
「あ、こんにちわぁ」
キヌエの同僚で、以前僕に連絡先を聞いてきた女の子が声をかけてきた。茶髪のボブヘアに小柄な体、甘えるような声に聞き覚えがあった。名札にはカナと書かれていた。
「えー、きてくれたんですね。嬉しい」
カナは僕の手を取り、ぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねた。
「どうも」
僕はカナの手を優しく掴んでそっと離した。
「今日は何を買いにきたんですかぁ。もし甘いものが好きならぁオススメあるんですけど」
「おすすめ?」
「はい。コラボ商品なんですけど結構美味しいんです」
僕はカナに連れいてかれるがままにスィーツのコーナーへと歩いていった。キヌエは仕事に戻って行った。結局僕はカナがオススメす甘いものは買わずに、プロテインバーとアイスと水、投げ焼きうどんを買って店を出た。店を出る時にカナが手を振ってくれたけれどキヌエは品出しをしていてこちらを見ることはなく、僕はやはりどうしてもあの猿のような叫び声のことが気になってしかたがなかったのでキヌエに声をかけたかったけれど忙しそうだったので諦めることにした。今日は仕事が休みなのでしばらく時間を潰そう。コンビニ前のベンチが空いていたので、腰を下ろしてからアイスの袋を開けた。ペットボトルの水を飲みながらゆっくりとアイスを食べ、蝉の声を聴きながらぼんやりとしていた。こんなに暑いと昆虫たちが出てきてくれない。早朝か夕方じゃないと彼らは顔を見せてくれないから、今日は夕方に少し歩いて神社まで行ってみよう。明日の朝は早起きして少し離れた公園まで行ってみようか。スマホに届く女の子たちからのメッセージに返信を送りながらそんなことを考えていた。アイスを食べおわって、水を半分ほど飲み終わる頃には一時間は経っていたと思う。
「えー、待っててくれたんですかぁ」
甲高い甘い声が聞こえてきた。カナが私服に着替えて店から出てきていたようで、ノースリーブのニットワンピースに小さなカバンを持っていた。僕のとなりにピッタリと立って上目遣いで見つめてくるのでにこりと微笑みを返しておいた。
「お名前教えてください!ね、私この前連絡先渡したと思うんですけど、登録してくれてますか?」
「あ、ごめん。ちょっと忘れちゃって」
「えー、もー、じゃあもう一度渡すから今度は登録してくださいね」
カナはそう言ってスマホを取り出した。僕もスマホを取り出して連絡先の交換を行う。
「え、この、マロって名前?」
「あぁ、そう。僕、ホストやってるんだよね」
「え、ホスト?ホストってやば」
気がつくとキヌエが外に出てきていた。ティシャツにジーパン、小さなカバンを肩から下げている。コンビニの制服を着ているときに比べてずっと幼く見えるのは何故だろうか。
「あ、どうも」
「どうも、キヌエさん」
ふふふ、とカナが笑った。
「キヌエちゃん、お疲れさま」
「おつかれさまです」
「ねぇねぇ、やばくない?お客さん、ホストだったんだってぇ」
カナが一人で楽しそうに話しかけている。キヌエは困ったように笑いながらやり過ごそうとしていた。不意にカナが僕の腕に手を回して胸を思いきり押し付けてきた。
「めちゃかっこいいなとは思ってたけど、やっぱりそういうお仕事してたんだぁ」
「かっこいい?ありがとう」
「ふふふ、このあと暇ですかぁ?もし暇だったら、ちょっとご飯とか行きません?あ、カラオケでもいいですよ」
「ご飯?あ、ごめん。これ買っちゃったからさ」
「え、えーざんねぇん」
「埋め合わせじゃないけど、絶対連絡するから。また違う日にご飯いこ。僕もこんな格好じゃなくてもう少しおしゃれしてくるからさ」
そうして僕はカナから離れた。これはもう、客にするしかないなぁと考えながら早足でキヌエの後を追った。キヌエはゆっくり歩いていたので、すぐに追いつくことができた。
「あの、すみません」
「え」
振り返った彼女の顔は驚きに満ちていた。
「こんにちは。すみません突然」
「あ、はい」
はいとは言いながらも、彼女の顔は驚きと懐疑に満ちている。
「あの、すみません、ほんとにナンパとかじゃないので。っていうと逆に怪しいんだよね」
「はぁ」
「昨日のこと、やっぱりどうしても心配で」
「え」
足が止まった。とともに焦ったような顔で視線を巡らせている。取り繕う言葉を探しているような様子だ。
「えっと、私何かしてしまいましたか」
「いえいえ、あの、普通に貧血で倒れるって心配じゃないですか。なのに今日は普通に働いているし」
「そう、そうですかね。いや、私よく学校とかでも休んでること多くて」
「そうなんですね。あの、まぁ…これは差し出がましいことだってわかってるんですけど、あなたが買い物していた袋の中がちょっと見えちゃって」
「え、え」
焦りが手にとるように伝わってくる。あの日はあえて指摘しなかったけど、あの猿のような叫び声を聞いてからだとどうしても良くないことを考えてしまって仕方がない。男性用の避妊具、ローション、大量の精力剤とエナジードリンク、チーズとゴミ袋。貧血で体調が悪い中どうしても買いにいかなければならないようなものではないはずだ。
「あれって、君が使うものじゃないんじゃないかな。その、家の人が使うものを買いに行ったんじゃない?」
「あ、あのえっと」
「差し出がましい事言ってごめんなさい。男だから、見た瞬間に分かっちゃって。あれ、男の人が使うモノだよね」
「それはそうなんですけど」
言葉に詰まったように彼女が口を閉じてしまった。確かに言いにくいことなんだろう。
「もし、病院とか警察とか学校に何か言いに行った方がよければ行きますよ」
僕は彼女の顔を覗きこんでみた。相変わらず顔色が悪いが、冷や汗をかいていて必死に何か釈明するように「あの、違くて」と口籠もっていた。
「あの日、下着つけていなかったよね。というか、寝巻きみたいな服装でサンダルだけ履いて男物の財布持って出てきていたでしょう。あれ、彼氏のものかなとも思ったんだけど、お父さんのものなんじゃない?それかお兄さんとか」
気まずそうな彼女に構わず僕は追求を続けた。
「えっと」
「あの日、マンションの外歩いていたらすごい叫び声が聞こえてきたんだ。あれは女なの人の声だよね」
あれは、猿に似た女の叫び声だ。何を言っているのかはわからなかったが、それでも「おせーよ」に近い叫び声だったように思う。
「ねぇ、学校にもアルバイトにも行っているみたいだけど、家の中の居心地が悪いようだったら周りの大人に相談した方がいいよ。俺みたいなのに言われても説得力ないかもしれないけど」
「なんで」
「え」
「なんで、そんな」
「すみません、ほんとお前誰だよって感じだよね。わかってます。でも、その」
「はい」
僕はあの日、ベンチで見知らぬ男に胸を触られていた彼女の姿を思い出していた。キヌエはまだまだ子供で、幼くて、大人に守られていなければならないのに、無防備な服装で、死んだような顔をしているところを見ず知らずの男に好き勝手されるなんて放って置けるわけがない。この子のことを深く知っているわけではないけれど、それでも直感的にそう思っていた。
「君が可愛いからっていうのもあるけど、単純に大人として放って置けなかったんだよね。僕自身、高校生の頃から一人暮らししていてたくさん困ったことを経験しているんだけど、その中でも一番困ったのが家を乗っ取られかけたことなんだ。地元の先輩とかいう人がいつの間にか合鍵作っちゃってさ。それで昼間に勝手に入って昼寝したり風呂使ったりし始めちゃって。で、いつの間にか女連れ込んだりしてほんと最悪でさ」
「えぇ」
「そもそも親がいきなり海外に移住するとか言って家を出ていったのが悪いんだけどね。じいちゃんの遺産が入った途端に父親の祖国に移住しちゃいまして。それで高校生なのにいきなりひとり暮らしが始まった訳なんだけど、やっぱり子供だから鍵の管理とか戸締まりとか甘くて、あっという間に乗っ取られちゃったんだよ」
「祖国、って、海外なんですか」
「あ、そう。僕の父親ベルギーってところの出身なんだ」
「ベルギー」
「知ってる?」
「オランダの隣」
「お、そうそう。よく知っているね」
「授業でやりました」
「そっか、それでもうかれこれ十年近く会ってないんだよね」
「え、そんな」
「ひどいよねぇ。メールとか電話はくれるんだけどね」
僕らは自然な流れで公園に入っていった。そこは、先日彼女を介抱した公園だ。木陰になっているベンチに向かって歩きながら僕は続けた。
「そいつよりさらに上の先輩に当たる人がお巡りさんになって戻ってきてたからその人から注意してもらってなんとか合鍵も返してもらって追い出せたんだけど」
「はぁ」
「俺が何言っても、子供の言うことだからって聞いてもらえなかったんだよ。親がわりに守ってやるとか、先輩だからいうこと聞けとか、未成年が一人で暮らすなんて心配だ、とか色々言われてさ」
僕はベンチに座ったところで未開封の水を渡した。彼女はそれを開けて口をつけながら神妙な顔をしていた。
「でも、警察が出てきた途端尻尾巻いて逃げていったし、地元にも帰ってきていないみたいだから僕に言っていたのは口先だけの言い訳だったんだろうなと思う」
僕のスマホが通知を知らせる音を立て続けに鳴らした。カナからだろうなと思ったので少し放置しておくことにした。
「あの、スマホ」
「あぁ、いいんですよ」
「あ、そうですか」
「うん」
蝉の声がけたたましく鳴り響いた。僕らの後ろの木に止まっていた子が鳴きはじめたんだろう。静かになるまでしばらく僕は口をつぐんでいた。彼女もペットボトルを握りしめたままじっと静かにしていた。
蝉の声を聞くと、一人で暮らした実家の夏を思い出してしまう。千葉のハズレにある庭付きの一軒家。いつまでもお姫様でいたい母親の趣味で建てられた白とレースの家。庭にはベンチとブランコ、植え込みには大量の薔薇が植えられていた。一年も持たず全て枯れてしまったけれど。あの家で一人で暮らすのは本当に寂しかった。そんな時に聞こえてきた蝉の声にどれだけ救われただろう。まぁ、すぐにカムイと出会って彼の家に入り浸りになるんだけど。
「私、父子家庭なんですけど」
キヌエが話しはじめた。
「お母さん、小さい頃に出ていっちゃったんです。浮気してたんじゃないかな。知らない男の人が迎えにきて、二人で出て行っちゃったんです」
蝉が静かになった。僕らに会話の時間をくれているんだろうか。それとも疲れて休んでいるだけなのか。求愛の叫びが絶えたてしまったら、夏なんてつまらないだけなのに。鳴きはじめて欲しい気持ちと、彼女との会話を続けたい気持ちが相まって相槌もできなくなってしまった。
「お父さん、ちょっとおかしくなっちゃったんですよね。お母さんいなくなってから怒鳴ったり落ち込んだりすることが増えて、それでも仕事は頑張って行ってたんです。学校の先生だったんですけど、なんか去年、急に仕事辞めちゃってから恋人の女の人を家に呼ぶようになって。今は塾の先生やっているらしいんですけど、週に2日くらいしか出勤しないんです」
「それは、少ないね」
「ですよね。学校の先生ってすごく忙しいから、ちょっと疲れちゃったのかなって思ってしばらく黙ってみてたんですけど」
「ホストの俺だって週4日は働くのに」
「そうなんですか」
「うん」
「お父さん、顔つきも変なんですよ。全然違う人みたいになっちゃって。働かないからお金なくなってきて、でも女の人がお寿司食べたいとかお肉食べたいとか言い出したらふらっと外食してきたりするんですよ。二人で」
「キヌエさんは?」
「私がバイト行ってる間とか」
「あぁ、なるほど」
蝉の声がまた響きはじめた。彼女の話に相槌を打っているのか、そんなひどい男父親じゃない!と怒っているのだろうか。
「お兄さんが聞いた、叫び声なんですけど」
「うん。すごかったね」
「あれ、お父さんの彼女の声なんです」
「うわぁ」
「あの人、勝手に荷物運び込んで、お父さんの寝室に住み着いちゃったんですよね。勝手に家のもの使うし、お風呂とか長くて迷惑だし、夜中までテレビ見てるしそれに、その」
彼女が言い淀んだ。水を飲んで待っていると、意を決したように
「せ、その、セックスの時の声がすごくて」
「猿みたい?」
僕の間髪入れないコメントにふっと吹き出していた。
「そう、そうですね。猿みたいに」
「あぁ、やだなそれ」
「嫌なんですよ」
「お父さんは何にも言わないの?」
彼女はそこでまた少し黙った。胸元を押さえて斜め前を睨んでいる。ティシャツを掴む手に力が込められている。
「お父さん」
「まぁ、言いたくないならいいよ」
「あ、はい、あの」
「ん?」
「もう一人前だから、って」
「キヌエさんが?」
「はい」
僕は心から驚いて彼女を見つめた。目の前の少女はどう見てもまだまだ子供だ。カナは見た目からして二十代半ばに見えたけれど、比べてみてキヌエは明らかに幼い。学生服を着ている時なんて、真面目で擦れていない十代、大人の体に子供が宿る思春期そのものだ。
「もしかして、もうちょっといやな言われ方した」
「え、え…はは、わかりますか」
「まぁなんとなく」
「すごい、さすが接客のプロ」
「いや、それほどでも」
「その、えっと。私、体が大きくなるのが早かったから。体は立派だな、みたいなそんなことを」
ため息が出た。嫌なため息だ。こんなに幼い子に向かってそんなことを言う親がいるなんて信じられない。
「ひどいね」
「ひどい、ですよね。私、当事者だからかあんまりピントきていなくて。学校の友達にも相談できないし」
「学校の先生にも言いづらいのかな」
「言い、づらいです。正直。だってお父さんが学校の先生やってたんですよ。自分の先生だって同じ考えの人間かもしれないですし」
「あぁ、そうか」
「お兄さんの時は、学校の先生が助けてくれたんですか」
「ん?うーん、そうだね。いや、友達かな。あとは地元のつながりだね」
「そっか」
「おばあちゃんは?」
「おばあちゃん、施設に入ってます」
「あーね。そっか」
「高校卒業したら家を出て就職します。だからそれまでの辛抱なんです」
「そうか、そうだね、それができるならそうした方がいい。でも、大学進学とかは考えてないの」
「進学、させてもらえないと思います。お金ないし」
彼女は胸元を掴んでいた手を離した。オーバーサイズのティシャツは、ファションとして着ているのかとも思ったけれど大きな胸を隠すためなのかもしれない。あまりよく分からないが、いわゆる巨乳ではあると思う。幼い顔つきや表情に比べてアンバランスなスタイルではあるなと思った。大きめの服でそれを隠し、化粧で童顔を誤魔化そうとしているんだろう。でも滲み出る幼さは隠しきれていない。
「僕、大卒だけどホストだし、まぁね」
「そうなんですか」
「うん、実はね、大卒なんだ」
「何学部ですか」
「え、あぁ。生物学部。昆虫が好きで」
「へぇ」
キヌエの目が輝いた。この子は大学に進学したいのかと思った。先程の会話でも思ったけれど、頭のいい子だ。資金さえなんとかなればきっと進学を選ぶんだろう。
「昆虫が好きで進学したんだけど、標本とか解剖図が辛くてあまり真剣に通ってなかったんだよね」
「あ、そうなんだ。生きているのが好きなんですか」
「そうそう。生きていて欲しいんだ」
「あぁ、なんかちょっとわかります」
「本当?」
「はい、私標本とか剥製が苦手で」
「そうそう、生きているのがいちばん美しいんだから。生きている状態が美しいし正しい姿なんだから」
「あ、わかります。研究の為ってわかっていても、今の時代写真やデータでいいだろって思っちゃいますね」
「そう!そうなんだよ!生きて動いている姿こそ観察するべきなんだ」
「ふふ、本当に好きなんですね」
「あぁ、うん、好き、好きっていうか、昆虫になりたいんだ。好きすぎてもはや昆虫になりたいんだよね」
僕はテンションが上がってうっかり口を滑らしてしまった。でも心のどこかでキヌエなら受け入れてくれるような気がしていた。
「なりたい、なりたいんですか」
「なりたいね。草むらで生活できたらなって思っているよ」
「ふ、ふふふ」
思いのほかキヌエには面白い話だったようだ。口元を押さえてしばらく笑っていた。冗談を言ったと思われたのかもしれない。まぁ、いい年をしたホストが虫になりたい、なんて幼児のようなことを言い出したら笑い話にもなるだろう。
「おかしい?」
「お、おかしいというか、かっこいい虫さんだなって思って。こんなにかっこいい虫がいたらみんな群がってほっておいてくれないでしょうね」
「かっこいい」
「かっこいいですよ。優しいし」
「優しいかな」
「助けてくれたじゃないですか」
「あぁ、そうか」
僕の脳裏には、あの黄金に輝く美しい子が浮かんでいた。僕の手から羽ばたいていってしまったあの子の姿がずっと僕を苦しめている。
「この前、僕ふられちゃったんだよね」
「え、そうなんですか」
「うん、かっこよくて優しくても、フラれてしまうんだ」
「うわぁ、信じられない」
「本当にそう思う?」
「え、はい。カッコ良すぎて引いちゃったんじゃないですか。好き避けってやつ」
「好き、さけ?」
「好きになりすぎて、一緒にいるのがたまらないから避けちゃうみたいな。お兄さんかっこいいから恥ずかしくなっちゃったとか?よくわかんないけど」
好き避け、というのが最近の若い子の言い方なのか。好きすぎて近づけない、みたいなことか。僕はその言葉をかみしめ、理解するのに少し時間がかかったけれど、理解が及んだ途端に絵の具が画用紙に広がっていくようにジワリと心に希望が広がった。この、キヌエの意見に僕がどれだけ救われただろうか。好き避け、好き避け。すきだから避けちゃう。なんてことだ、そんなことがあるのか。恐るべき女子高生。恋愛に関する感度が高いのだろうか。
「好き、好きなのかな」
「いや、よく分からないですけど、お兄さんが本当に好きならもう一度告ってみてもいいんじゃないですか」
「え、もう一度?」
「本気なら何回告っていいと思いますけど」
僕の胸に救いの光が満ちた。ハレルヤ。そうか、本気なら何度アプローチしてもいいんだ。
「お兄さん、本気なんですね」
「え、あぁ、うん。本気だよ」
僕の言葉を、彼女は笑わずに聞いてくれた。これはいい友達になれるかもしれない。
「いいなぁ、そんなに本気になれるものが私にも何かあったらいいのに」
「え」
「本気になって向き合えるものが見つからないんです。だから大学進学も本気で考えてないんですよね」
「あぁそうなの」
「はい。人生の目標みたいなものがあればいいんですけど、これと言ってなりたいものが無くて」
「へぇ」
「高校生のうちから将来のこと決めるのって難しくないですか」
「まぁ、そうだね。難しいかもしれない。なんか好きな本とか憧れてる人とかいないの」
キヌエは黙ってしまった。あぁ、マズイ質問だったかなと少し申し訳なく思ったけれど、しばらく悩むように視線を伏せた後、ふと思いついたように僕のことを見上げた。
「あの、笑わないで聞いてくれますか」
「僕は虫になりたい男だよ。大丈夫、笑わないよ」
「あの、私、バイト先の熊井さんになりたいんです」
「熊井さん」
「はい。身長がお兄さんくらいで体重が百キロ以上あるんです。ほとんどが筋肉で、二の腕と太ももが私の胴体くらいあるんですよ。すごく力持ちで顔も怖くて」
「え、その人になりたいの」
「なりたいんです」
幼い顔で、華奢な体の彼女が憧れるには意外すぎる人物像に僕は頭が追いつかない。
「熊井さん、クマみたいだから熊井さんって呼ばれてるんですけど。あ、お店で使っている名前は実はあだ名なんです。私もキヌエっていうのは本名じゃなくて、繭って名前なんです」
「あ、そうなの」
「はい。トラブル防止で店ではあだ名を使うようにしているんです」
「まゆさん。繭だから絹にしたんですか」
「あ、はいそうですね。蚕とか、蛾とかにならなくてよかったです」
「はは、そうですね」
「熊井さんも本名は小峰さん、っていう全然クマと関係のない名前なんですけど、優しくて力持ちだからほんとに森のクマさんって感じで憧れてるんです。それに」
「うん」
「もし、私が男で顔が怖くて体が大きかったらお父さんとかあの女の人から酷い扱い受けなかったのかなぁって。あの人たちがうるさかったら壁をドンって叩いて『ウルセェ』って怒鳴りつけても負けないと思うんです」
僕は貧血で倒れてしまった日のキヌエ、もとい繭を思い浮かべていた。力無い足取り、風に吹かれたら倒れてしまいそうな体。あんな状態の女の子を外に出して避妊具を買いに行かせるなんて信じられないと思っていたが、なめられているんだと思えば腑に落ちるところがあった。娘のことを自分のためにいるお手伝いさん、もしくは聞き分けの言い従順な付属品くらいにしか思っていないんだ。
短い沈黙に響いた蝉の鳴き声。公園の反対側の木から聞こえてくる声に呼応しているのだろか。先ほどよりかすれてきたが変わらずに力強い。刺すような日差しが繭の足元を照らし始めたので、少し横にずれて彼女を日陰に移動させた。ぽかんとした顔をしていたが「暑いでしょ」と声をかけたところ納得したように座りなおしてくれた。
「ありがとうございます」
「日焼けって、やけどだからね」
「そうなんですか」
「うん」
「だから痛いんだ」
「痛いのは嫌でしょ」
「はい。やっぱりめちゃくちゃ優しいですね。こんなことされたの初めてです」
「そう?隣に座る人が火傷しそうになってたら誰だってこうするよ」
「あぁ、あは。うちのお父さんはしませんよ」
何がおかしいのか、繭は笑い交じりにそう言った。そして笑い話を続けるように
「以前に、お父さんが私のアルバイト先まで来たことがあるんです。ていうのも、私の給与の振込先をお父さんの口座にできなかったから、それに怒っちゃって。で、イライラしながら『店長は?店長いますか?親ですが、この店おかしくないですか?店長どこですか?』って。うちの店長、優しい感じのおばあさんなんですよね。それを知ってるからかなんか強気で。やばくないですか」
そんなことを半笑いで口にしたが、強く握りしめた彼女の手は血の気が引いて白く、手の中のペットボトルは握力ではつぶすこともできずに少しひしゃげるだけでボトルの中で残り少なくなった水が揺れていた。
「恥ずかしくて、帰って、って言ったんですけど。店長出せ!って大暴れしたんですよ。でもその時、ちょうど交代の時間で熊井さんが来てくれたんです。お父さん、熊井さんのこと見たら急にしおらしくなって黙って帰ってったんですよね。熊井さん何も言ってないのに。ただ黙って私のこと見ていただけなのに、お父さん怖くなっちゃったみたいで。で、それ見てから、あぁ私が子供で、小さくて、女だから怒鳴るんだろうなぁって思えちゃったんですよね」
「そっか」
「熊井さんにはなれなくても、お兄さんにみたいに背が高くてかっこよかったらあの女もうるさく言わないんじゃないかなぁ」
「そう?」
「うん。うちのお父さん見た目はかっこいいんだよね。目が大きくて、二枚目って感じで。それに、あの女アイドルが好きみたいでテレビ見ながらキャーキャー言ってるの聞こえてくるんだ」
「あぁ、そうなんだ」
僕の頭に悪い考えが浮かんだ。まぁ、悪いというほどのことではないけれど、僕は新しくできた友人に何かしてあげたいと思っただけだったんだ。ほんの少し助けになればいいかなと。
公園に小学生がなだれ込んできた。眼前を飛び回る羽虫のように、小学生たちは四方八方に動き回っている。それを眺めながら、その子たちの幸せそうな顔と繭の対比が辛くて思わず立ち上がってしまった。大きな体の僕が立ちあがったせいなのか、小学生の数名がこちらを見て目を丸くしている。
「行きましょうか」
僕は繭を促して僕の家の方に向かって歩いた。繭はなぜかおとなしくついてきてくれたけれど、道中は終始こちらの様子をうかがいながら歩いていたように思う。僕は自分の身内の話をして歩いた。主に母の話だ。父親は王子様のような見た目で、それを武器に浮気を繰り返す最低な男だったが、母は父にほれ込んでいてどんな浮気も気が付かないふりをしていた。が、ある日浮気相手の一人が家まで乗り込んできた。今でもその時のことは鮮明に覚えている。真っ白なワンピースを着た中年の女が家にあがりこんできて大騒ぎをしはじめた。来日する外国人のコーディネーターをしている父の顧客の一人らしいその女性は、運命の相手は私だとか、いつまで縛り付けているんだとか一方的に喚き散らしていたが、ふと僕と目があって動きが止まった。その時の僕は小学生で幼く、まだブロンドで薄茶色の瞳をしていた。浮気相手は僕の姿を見た途端、僕も欲しい、家も欲しい、母が出ていけばいいと言い始めて大変なことになってしまった。父は情けなく声をかけるだけで特に女を制止することもせず、母はさめざめとなくばかりだった。
「かわいそう、お母さん」
繭は同情的に言ってくれたけれど、僕は笑ってしまった。
「普通の母親なら、僕もお母さん可愛そうって思うんだろうけどね。うちの母はちょっとずれてるから」
「そうなんですか」
「うん。普通ならふざけるな!とかなんとか言って警察呼んだりするよね。そもそも浮気したら喧嘩して離婚、とかって話にもなるだろうし、弁護士挟んで慰謝料請求したりしてさ。でもうちの母はちがうんだ。『家と息子をささげるから夫を返して、この悪い魔女め!』って女に僕を差し出したんだよ」
「え⁉」
「すごいよね、魔女って」
「いや、そこじゃなくて」
「え、あぁ、母は父のことが大好きだったから。離婚なんて死んでもしないよ」
「そう、なんですね」
「結局母方の祖父母が弁護士たてて魔女から慰謝料とって追い払ったらしいんだけどね。あの時に母が言った『これは愛の試練なのよ。必ず迎えにくその日まで魔女の下で我慢してくれるわよね、アラン』って言葉は一生忘れないだろうな」
僕は母の声真似をしながらふざけた調子でそう言った。これは僕とカムイの鉄板ネタで、三文芝居みたいな母のしゃべり方を真似するとカムイは息ができなくなるほど笑ってくれる。純日本人なのに、外国人が訛ったような話方をするのは外国へのあこがれが強すぎるせいだが、なぜかそれを息子である僕に対してはひどくなる。他人には丁寧なお嬢様言葉で話をするので、使い分けているんだろう。
「アラン?アランっていうんですか?お名前」
「あぁ、うん。そう本名はアラン」
「おとぎ話に出てきそうなお名前ですね」
「まぁ、そうだろうね。あの母親がつけた名前だから」
目的地に到着してから、そこが僕の家だと知って繭はとまどっていたけどエントランスのソファで座って待っていてねと伝えてからは落ち付いたように座っていてくれた。僕は部屋に戻ってから溶け切っている鍋焼きうどんを冷凍庫に入れてから手早くヘアメイクをした。出勤や撮影の時と比べるとかなり簡易的だけど、それでも先ほどよりは大分ましな見た目になったと思う。さわやかさを意識して、あまりチャラそうに見えない好青年を意識して仕上げた。ハイブランドのロゴが書かれたシャツを羽織り、靴と鞄を同じブランドで統一して一番高い時計をつける。意識せず、全身が美智にもらったものばかりになってしまった。まぁ、美智はセンスがいいから別に気にならないけれど。
エントランスに降りていくと、繭は驚いたような顔で僕を見あげた。
「わぁ」
「ホストみたいでしょ」
「え、あはい。かっこいいですね」
「ありがとう」
僕はエスコートするように繭の手を取って歩き始めた。はじめは緊張した様子でついてきてくれていたけれど、五分も歩けば先程の調子で会話が弾みあっという間に繭の家に到着した。繭は少し緊張した様子だった。自分の家に帰るのに表情は暗く、足取りが重い。
「あの、ありがとうございました。送っていただいて」
「いや、いいよ。むしろうちに寄ってもらっちゃってごめんね」
「いえ、綺麗なマンションでびっくりしちゃいました。すごいんですね。受付の人がいるなんて」
「あぁ、まぁ僕はあの人たちに何か頼むことないんだけどね」
「あの人たち、何してくれるんですか」
「うーん、タクシー呼んでくれたりクリーニング出してくれたり、荷物受け取っておいてくれたり。電話かしてーとか言えば貸してくれるらしいよ。あとはマンションの会議室とかジムの予約とってくれたりとかかな」
「す、すごい」
「使わないんだけど」
「もったいないですね」
なんてことない会話を交わしただけだが彼女の家までのおしゃべりはたのしかった。店に来る女の子たちとも違い、素の自分を見せることに抵抗がないからなのかもしれない。高校生とは思えないほど繭はしっかりしていたし、僕はいつも以上に力が抜けていたからかも。それとも、繭が僕に対して恋愛感情を向けているように見えなかったからなのかもしれない。熊井さんになりたい、と繭は言っていたが実際には熊井さんのことが好きなんだろうと思った。いや、熊井さん本人というよりむしろ熊井さんのように強くて大きくて武骨な雰囲気の男が好きなんだろうな、と歩きながら考えていた。自分で言うのもなんだけれど、僕は女性にもてるから逆に自分に対して全く興味を示さない女性を見わけるのがうまい。まぁ、客にならない女の人という意味なので深入りすることはしないのだが、友達になるとこんなにも居心地がいいのかと少し驚いたくらいだった。
繭の自宅まであっという間だった。少し名残惜しい気もしつつ、玄関前に立つとおもむろに家の扉が急に開いた。外びらきなので、彼女に当たりそうになり咄嗟に彼女の肩を抱き寄せる。ちょうどその時に中から中年の女が顔を覗かせた。口を大きくあけて眉間に皺を寄せて、いかにも怒鳴りつけようとしているような勢いだった。僕は、スイッチを切り替えた。
「あ、んた。誰?」
猿の声だ、とすぐにわかった。と言うことはこいつが繭の父親の女か。
「どうも」
僕は繭に視線を送ってからそっと手を離した。繭は「すみません」と小さく言いながら、僕と女の顔を見比べて体を小さくした。
「ね、ねぇちょっと、この人誰?」
女が繭の腕を掴んで揺すりながら問いただすように言った。繭は答えに困っているようで僕に視線を送ってよこした。
「あの、えっと。バイト先のお客さんで」
「客?コンビニの?」
「はい」
「え?」
「こんにちは。繭さんのお友達のマロと言います」
僕は軽く頭を下げ、顔を女に寄せてにこりと微笑んだ。
「マロ?まろって」
女は僕の顔に釘付けになった。よかった。好きな顔だったらしい。
「あだ名みたいなものです。みんなが俺のことマロって呼んでくれるので。繭とはマユマロコンビですね」
「あ、そ、そう。そうですか」
瞳孔が開いて、頬が紅潮しはじめた。毛穴が開いているのか体臭がきつく香ってくる。
「繭とはちょっとしたことでお話をさせてもらうことがあって、仲良くなったんです。友達です」
女は言葉が思いつかないのか、僕の顔に見惚れているのかぼーっと僕の顔を見つめていた。
「ここ最近、彼女と仲良くさせていただたいているんですけど、やっぱり未成年のお嬢さんと仲良くするには保護者の方と一度お会いしておいた方がいいかなぁと思いまして」
繭は僕の変わりように驚いているようだった。つい数秒前までボソボソと抑揚なく話をしていた男が、急に笑顔ではきはき喋りだしたのだから仕方がない。
「そ、そうですか」
「突然すみません。ご迷惑でしたか」
「え、いえ、別に」
「よかった。お会いしてみたかったんです。お忙しい中すみません」
「はぁ、それはどうも、その、ご丁寧に」
「すみません、本当に突然で。ちょうど家の近くまで行く用事があったのでご挨拶に来ちゃいました」
「あ、そうですか。ちょっと、あんた」
女は、繭の手をギュッと握って戸惑いの視線を送った。繭の顔も同じくらい戸惑っている。
「もしかして、何か誤解させちゃいましたか?違いますよ、付き合ってるとかじゃないです」
「そうなんですか」
「えぇ、もちろん。俺はどちらかというと年上の女性の方が」
繭の目が僕と女の間を行ったり来たりしている。何が何だかという戸惑いがびしびし伝わってきて笑ってしまいそうだ。
「そうなんですかぁ」
「すみません、そういう話ではないですよね。俺と繭はなんていうかまぁ、うん。おしゃべり友達って感じですか。彼女のコンビニの皆さんと仲良くさせてもらっているんです」
「コンビニの、ねぇ」
女が繭から手を離した。
「繭とは気が合うので、これからもっと遊びに行けたらいいなって思ってまして。公園とか。もちろん変なところにはいきませんがやっぱり保護者の方は心配かなって思っちゃいまして。突然お邪魔してご迷惑でしたか?」
「えぇ、いえ、いいんですよ。別に。あ、もしよかったらあがっていきますか」
扉を大きくあけて僕を招き入れるような仕草をしたが、僕は首を横に振って申し訳なさそうにした。
「ありがたいですが、急に来たのにそれは申し訳なさすぎます。今度、繭の好きなケーキ持ってきますので、また今度おじゃまさせてください」
「あら、そうですか。えー別に、うちはほんといいんですよ?」
上目遣い、内股、甘えるような声。この女の軽薄さに驚いてしまったが、顔にでないように貼り付けた笑顔で遠慮を示しておいた。
「でも、こんな暑い日にわざわざ来てくださったのに」
「あ、じゃあこうしませんか?今度お父さんがいるときに。流石にお父さんがいらっしゃらない時にはおじゃまできませんよ。俺も男ですし、こんなきれいな彼女さんと二人きりになるのはちょっと」
この言葉で、相手が堕ちたのがわかった。あぁやっぱり。誠実で気遣いのできる、面倒見のよさそうな男が好きなんだなこの女。
「そんな、ご遠慮なさらずに」
「ありがとうございます。優しいんですね」
繭の顔が笑えるほど歪んでいった。宇宙人でも見る顔、というのはこういう顔なんだろう。
「ふふ、そんなぁ。そちらこそ優しいですよぉ」
「そんな、優しいだなんて。当たり前のことですよ。それじゃあ、今度あらためておじゃまさせてもらおうかな」
「え、本当ですか!やだ嬉しい。ぜひお願い致します」
僕はそこでスマホを取り出して女にQRコードを提示した。女は大慌てで家の中に引っ込んで数秒、すぐにスマホを片手に飛び出してきた。手が震えている。仕事用のアカウントを教えたら、その場で猫のイラストでハートがたっぷり添えられたスタンプが送られてきた。
「わ、可愛いですね」
「え!」
「スタンプ。かわいいですね」
「あ、はぁ」
「ふふ、嘘です。アイコン、かわいいですね」
女が堕ちていく。目つきが先程と明らかに違って、全てがピンク色に染まったみたいだ。
「あ、ありがとう」
「僕のこと、マロって呼んでくださいね」
「マロくん、ね」
「はい。なんてお呼びしたらいいですか」
「え、あ、私?めぐみ。めぐって呼ばれてるかな」
「めぐ、めぐさんですね。よろしくお願いします」
僕は今日イチの笑顔で右手を差し出した。めぐみが緊張したようにそっと握ってきた。僕はそのまま繭に視線を送ることなくその場を後にした。それでも視界の端に映った繭の顔は珍妙なものでも見るかのような表情だった気がする。
その日は、カナとめぐみからのメッセージが止まらなかった。仕事もないし暇だったのでいいけれど、二人ともわかりやすく僕にハマっていってくれたのでさっさと客にしてしまうことにした。まずはカナだ。
カナはアイリストをしながらコンビニでもアルバイトをしている二十五歳、実家暮らしだった。まずは、ひとり暮らしをしてもらおう。僕は数回の昼デートを重ねた後で「友達の不動産屋が困っている」という話をしてワンルームに引っ越しをさせた。この不動産業者はカムイの紹介だ。カナはアイリストとしての仕事を夜の時間帯に行っていたので、昼間働けるコンカフェの仕事を紹介した。初めは抵抗を示していたが、カムイ調べで一番の有料店を紹介したので徐々に慣れていきすぐに稼げるようになっていった。店に呼んだのは、4回目のデートの後。どうしても会いたい、と言い出した日に店に呼んで酒を入れないで座らせておいた。美智が来ている日で、ウイが煽りまくっていたのでその様子を見て火がついたのだろう。徐々にボトルを入れてくれるようになった。一人暮らしは寂しい、会いたい、大好きと恋人思考だったカナは、半年もしたら札束を積む快感を覚えて他のホストのところにも通うようになっていった。それに関しては、仕方がないと思っている。僕の客に支払いで勝つのは難しいから、もっと手軽に優越感を得られる奴のところに行ったんだろう。その頃にはコンビニはとっくに辞めていて、コンカフェで見つけたパトロンたちからもらったお小遣いをたくさん持ってくるようになっていた。
カナはいい遊び方をしてくれるようになったので僕も安心だ。この子はホスト遊びに向いている、と感じた僕の勘は外れていなかったということだ。多少恨まれはしたものの、新しい世界を開くきっかけになったことは感謝されていたし、生活を苦しめるようなことはしなかった。きっと遊び飽きたらいい男を捕まえて結婚するなりなんなり落ち着くんだろうというところまで見える。
問題はめぐみの方だった。
「めぐ、いちごのケーキ食べたいな」
「マロマロの私服かっこいかったよね。ね。どこで買ってるの」
「めぐもおそろい欲しいから、おちえて。一緒にオカイモノいこ」
こんなメッセージが何通も届く。毎日毎日だ。あの日の約束通り後日ケーキを持って繭の家を訪れたが、待っていたのはやたらと薄着をしためぐみだけだった。まさか繭すらいないとは思っていなかったので驚いたが、ほとんど仕事をしていないという父親も留守でケーキが二個余ってしまった。
「これ、どうしましょうか」
僕が困ったように微笑むと、なんとめぐみは自分の体の上にぼとりと落として
「あ、やだ。落としちゃった」
と言い僕を上目づかいで見つめた。内心、一個890円のケーキが、と怒りが込み上げたけれど、めぐみが続けた
「あん。もう。どうしようこれ。マロくん、食べてくれない?」
というセリフで全て飛んでいってしまった。正直、心を殺して体の上のケーキを食べることもできたけれど、こんなことを言いつつも実のところめぐみはそういう男はあまり好きじゃないかなと思って「困ります」と言って拭き取ってあげた。
「優しいんだね」
「だって、ここ、彼氏さんの家ですよね」
「もう、硬いんだから」
身体を拭く僕の股間をおもむろに撫でながらそう言った。めぐみは色情狂だ。それをこの時に確信した。
「めぐ、だめだよ」
「えー、なんで。大丈夫だよ」
「ダメダメ。俺そこらへんちゃんとしたいからさ。彼氏がいる子とはできないよ」
僕はめぐみの手をギュッと握って、目を真っ直ぐ見つめながらそう言った。めぐみは駆け引きを楽しむようにふふふと笑っていた。
結局、めぐみが店に来ることはなかった。あいつは虚構ではなくセックスを求めていた。その間に繭の家に呼ばれること2回、めぐみの実家に呼ばれること3回。メッセージは毎日。会うたびに毎回セックスを要求されたけど、それとなく拒否し続けた。それなのに、抱いてくれなきゃ店に行かない、私を本命の彼女にしてくれなきゃいや!とごね続けていた。普段ならこうなった場合には手を引くんだけど、偶然カムイと歩いているときに声をかけてきたのでそのままカムイに紹介した。今考えれば、めぐみに跡をつけられていたんだと思う。めぐみは三人でできると思ったのか見るからに興奮していたけれど、カムイがその場で煽て褒めて、高級エステに引っ張っていった。僕はしがないホストなので店に呼ぶくらいのことしかできないが、カムイの手にかかるとどうとでもできる。めぐみはあっという間にローンを組んで借金を作ってしまった。それから僕は綺麗だね、すごいね、頑張っているねとほめつづけ、少しでもサボったりヒステリーを起こしそうになったら「頑張れないなんて、嫌いだ」と突き放した。めぐみは仕事をしていなかったので、ローンを組んだエステで働かせた。街中で声をかけ、高級なエステ用品を売りつける仕事だ。意外なことにめぐみは向いていたようでそこそこ順調に稼げるようになっていった。その頃には繭の家を出て、実家の自室で生活するようになっていたから僕の当初の目標は達成できたんだと思う。コンビニで見かける繭の顔色は日に日に良くなっていった。
熊井という店員にも会うことができた。繭の教えてくれた通り、大柄で筋肉質な巨漢だった。街中で出会ったら怯んで道を譲ってしまうかもしれない。これはクマというより、どんな毒虫でも人のみにしてしまうガマガエルのようだなと思い身がすくむ思いだった。そんな怖いカエルくんは、接客になるとむしろフレンドリーで丁寧だったから、こういうところも繭が憧れる一因なんだろうと思う。数回見かけていくうちに恐怖は薄れ、むしろ僕もすっかりファンになってしまった。
ある冬の日、コンビニの外でコーンスープを飲んでいると繭が出てきて声をかけてくれた。
「あの」
話をするのは、マンションまで行ったあの日以来のことだ。僕は少し驚いて固まってしまった。
「あ、え、うん」
「アランさん、私、繭です。覚えてますか」
「いや、それはわかってるけど」
「お久しぶりです。あの、ちょっといいですか。着替えてくるので」
それだけ言い残して繭はコンビニに戻っていった。僕はその日、前田さんの講演を見に行こうと思っていたので困ったなぁと思ったけれど、その後のことが少し気になっていたので待つことにした。コーンスープのコーンを食べ終わる頃に繭は走って出てきた。あと数日でクリスマスというくらいの時期だったと思う。僕は連日の出勤と飲酒で少し疲れていたが、飛び出してきた時の繭のあふれんばかりの笑顔を見たらそんな気分も吹き飛んでしまった。
「あの、すみません。突然声かけちゃって」
「いえいえ。元気そうですね」
「はい。おかげさまで」
「よかった」
「あの」
「はい」
繭は少し髪が伸びていた。
「アランさん、あの女の人うちに来なくなりました。アランさんが何かしてくれたんですよね」
「ん、んー。まぁ、僕だけではないけど」
「あの後、あの女全くお父さんに興味を示さなくなっちゃって急に喧嘩が増えたんです。毎日毎日言い争いしていてそのうち出ていっちゃったんですよね。出ていく前に、ずっと私にマロくんがー、マロくんはー、ってアランさんの話ばっかりしてきたんですけど、アランさんが家から出ていくように言ってくれたんですか?」
繭のまっすぐな視線を受け止めるのが忍びなくて、視線を逸らしてしまった。
「家を出ていくようには言ってないよ。でも、お父さんより僕を好きになってもらえるようにしたからそれが原因かな」
「えっと、それなんですけど」
言葉を選ぶように視線をぐるりと巡らせて、両手をギュッと合わせてから繭は僕の顔を覗き込んで小さな声で言った。
「あの、えっと、あの女と付き合ってるんですか?好き?なんですか」
僕は吹き出してしまった。さっき飲み込んだコーンが戻ってきて盛大にむせながら、手を掲げて繭を制した。
「ゲェっ!が、かはっ!違う!違うよ!」
「え、あ、そうなんですか」
「当たり前じゃないか」
「そうなんだ。よかったぁ」
繭は安心したような顔で嬉しそうにしている。僕はあまりの純真さにしばらく呆然としていた。どうやって説明しようかなぁと考えながら、駅に向かって歩き始めた。繭はあの時のようについてきてくれた。
「僕は、いいお客さんになるかなと思ったから声をかけただけだよ。ホストだからさ。僕、あの時源氏名を名乗っただろ。友達になりたかったり、好きになった相手ならさすがに本名を名乗るよ」
体の奥底まで冷えるような曇り空だ。繭はフリースにマフラーを巻いているだけだけれど寒くないだろうか。
「寒くない?」
「え、寒くないです。さっきまで働いていたから」
「そっか。元気だね」
「アランさん、顔色良くないですね」
「あぁ、うん。忙しいんだ」
「そうなんですか」
「年末だから。稼ぎ時なんだよね」
「あ、そういえば、カナさん」
繭がポケットからリップクリームを出して塗りながら言った。
「カナさん、やっぱりアランさんの話をしばらくしていたと思ったらコンビニやめちゃったんですけど、カナさんもお客さんになったんですか?」
「ん、うん。そうだね。よく遊びに来てくれてるし、お店を楽しんでるよ」
「そうなんですねぇ。まぁ、お酒好きな方でしたもんね」
ホスト遊びの本質が分かって言っているとは思わないけれど「そうだね」と曖昧に濁しておいた。
「あの女の人がいなくなってから、お父さん仕事に毎日行ってくれるようになったんですよ。相変わらず貧乏なんですけど家で授業の準備したりテスト作ったりして、昔のお父さんに戻ったみたいなんです」
それから繭の家に到着するまでの間、噛み締めるようにそれまでの変化を一つ一つ教えてくれた。お父さんが毎日お風呂に入ってくれる、ご飯をたくさん食べてくれて健康そうで嬉しい、料理を作るようになって食費が減った、進学できるかもしれない、成績が伸びた、熊井さんと話せるようないなったなど。熊井さんにはずっと付き合っている恋人がいるそうだ。その相手は男性で、結婚することはできないけれど繭曰く”どんな夫婦よりも素敵な関係”だそうでのろけ話を聞くのが最近の楽しみだと。猛暑の中、陽炎のように儚くゆらいでいた少女の影は見る影もない。キラキラと可愛らしい笑顔で話をする少女は幸せに満ちていて、僕はそれを見られただけで良いことをしたような気分に浸ることができた。
「よかったね」
何度もこの言葉を口にした。繭はニコニコと笑って僕に何度も感謝を伝えてくれた。
前田さんの講演会の後、リイチさんに声をかけられた。リイチさんはただニヤニヤしながらスマホを差し出してきてその画面を見せてきた。
「リイチさん」
「ほれ」
僕は視線を落とした。その画面には、なんとあの夏の日以来会うことができなかった金色の美しいあの子がいた。僕が撮った写真とは違う、枯葉の上でそっと休んでいる美しい体。僕は興奮してしまい、のどの奥から「ヒィ」という声が出てしまった。だって、あれ以来ぼぼ休日全てを使って探し回っていたんだ。めぐみやカナの対応をしながらも、必ず朝と夕方には彼女の姿を求めて探し続けていた。何度もスマホの画面に表示していた美しい彼女の姿、それが今また目の前の液晶に表示されいてる。
「ハハハ、嬉しいかい」
「は、っは、はの、この子は」
「そうそう、あの時のべっぴんさんだよ。逃げられちまった後、悔しくてそれとなく探してたんだわ」
「え、みっみみつけたんですか⁉︎すごい!どこで⁉︎」
リイチさんはスマホをしまい、飴玉を取り出して口に放り込んだ。
「新宿御苑だよ」
「ギョエン」
盲点だった。まさかそんな離れたところに移動しているとは。
「そう。別件で行ったんだけどな、たまたま見つけたんだよ。行くかい、今からでも」
「えぇ!イイんですか!行きたいです」
「いいよ、もちろん。車まわすから乗っていきな」
僕はリイチさんが送ってくれた写真を見ながら迎えの車を待っていた。画面の中の彼女は少しピンボケしていたけれどとてもきれいで繊細な手足を枝に載せてモデルのようにポーズを取っている。許可を取って自分のスマホに送信し、しばらく見つめていると黒いレクサスが僕の前で停まって、運転席から若い男が下りてきた。バックシートのドアを開けてリイチさんを運転席の後ろに、僕をその隣に座らせてくれた。僕は助手席に座りましょうかと一応聞いてみたけれど、一睨みで黙らされてしまった。リイチさんは好きだけど、やっぱりこの人たちは苦手だ。
「マロ君、この前マレーシアからいい個体が届いてさぁ。是非見せてあげたいんだよなぁ。カミキリムシの仲間なんだけど」
リイチさんはウキウキしながらスマホを片手に僕に昆虫たちを見せてくれる。車の中はうっすらとたばこやほこりのにおいが漂っていて、なんというか男臭い。リイチさんの香水のにおいだけがオアシスのように香っている。
「ああ、すごい大きいですね。これ、なんだろう。ゴマダラカミキリの仲間ですか」
「そうみたいだね。さっき前田君にも聞いてみたんだよ。きれいな青だろう」
「はい。すごいな。この子はいまリイチさんのところにいるんですか」
「いるよぉ」
運転は驚くほど穏やかで、僕らが会話に没頭している間に車は新宿に到着していた。僕らのような愛好家はすぐに時間がたつのを忘れて話し込んでしまうところがあるけれど、それにしても早い。これはこの車の外観のおかげなのか、運転がうまいのかどちらんだろうか。新宿御苑の入り口で車を降りて入場券を買おうとしたところで、リイチさんの足が止まった。
「ごめんね、マロ君ちょっと待ってくれる」
僕は逸る気持ちを抑えきれずその場で足踏みしながらリイチの出発を待つ羽目になり、内心イライラしながらもあの子との再会を頭の中に思い描いていた。あの日、僕の手から羽ばたいていってしまった彼女。美しい雌のカマキリ。強く気高く、唯一無二の女神だ。あぁ、早く会いたい。早く会って、もう一度僕の気持ちを伝えたい。あわよくば僕の家に来て一緒に暮らしてくれないだろうか。そうしたら彼女のために新鮮な餌を毎日持ち帰って、口まで運んであげるのに。冷凍やドライフーズではなくて、生きたエサを。そのためには、小さくてもいいから庭が必要になるだろうか。実家はもう親戚に貸しているので戻れないけれど、実家の近くの小さな一軒家で彼女と二人でこの後の人生を過ごしたっていい。彼女が望むなら強くて栄養になりそうなオスを捕まえてきてつがいにしてあげることも許そう。子供ができたら、二人で育てればいいんだ。庭で餌を飼育し、家の中で彼女と一緒に過ごす。なんて素晴らしい人生だ。
「お待たせ。悪かったね」
「いえ、いえ。大丈夫です。リイチさんこそ忙しいんじゃないですか」
「おいおい、気を使った振りしなくてもいいよ。顔が『遅いんじゃボケ』って言っちゃてるから」
リイチさんはげらげら笑いながら年間パスポートを取り出してゲートに向かって行った。僕は大慌てでチケットを買ってそのあとに続く。苑内は人であふれていたが、ぼくらの目的地の周辺にはがらんとしていた。まぁ、それもそのはずでピクニックができるような芝生ではなく、うっそうと茂る草華や太い木の根が地中を張っているので座ろうにも座れないから。僕らはそんな茂みに膝をつき、植込みに顔を突っ込んであの子を探した。もしかしたらリイチさんは別の何かを探していたのかもしれない。でも、僕はとにかく必死で彼女の姿を探し、くまなく茂みの中を探索した。
探している間、ずっとスマホが鳴っていてうるさかった。仕事の連絡かもしれないけれど、それどころではないので勘弁してほしい。めぐみだろうか、美智か、新規の子かオーナーか、カムイかもしれない。よくわからないけど、とにかく放っておいてくれ。
気が付くとあたりはすっかり暗くなっていた。スマホのライトを照らして捜索を続けようと思ったその瞬間に着信があり指が滑って応答してしまった。
「マロ、何やってんだ!」
オーナーだ。声の調子からしてかなり怒っている。
「あ、おはようございます。すみません、えっと」
「お前今日出勤しないとか何考えてんだよ!カズに追いつかれちまうぞ!」
「カズ、そんな売り上げてるんですか」
「今日だけで一千万いきそうだって」
「おぉ、すごいっすね」
「何をのんきに、お前が抜かれたら俺の顔が立たねぇだろうが」
「すみません、でも今日はちょっと」
「はぁ?今日だよ今日」
「今日ですか、今日はあれなんですよね。今からデートで」
「なんだよ、店の外で女に会うなよお前!連れてこい」
「いやぁ、それが今逃げられちゃいそうなんですよね」
「あぁ⁉」
「ほんと申し訳ないんですけど、何とかするのでいったん電話切っていいですか」
「いや、お前今日の売り上げ握ってからにしろ!誰でいくら払うのか決めろ!今!いーま!」
スマホから聞こえてくる声がひび割れて響く。あぁもう、こうなったオーナーは大きな駄々っ子だ。僕がハイというまで怒鳴り、追いかけてくる。
「あー、と、とりあえず今から行けそうな子に電話かけてみます。今日なら船橋の女医さんとか、アスカちゃんかな。でも、ほんと大本命の子とデートしているところなんで、機嫌損ねたくないんですよ。こうやって仕事の電話してるのも怒らせちゃうかなって」
「んだよ、お前。理解のない女なんてさっさと切っちまえ」
「了解です。もうちょっと粘って無理そうなら別当たります」
「そうだ、うん。ぬるいこと言ってねぇで、とにかくカズには負けるなよ!絶対だからな!」
そう怒鳴ってから一方に通話は切れた。深いため息をつきながら僕は体を起こしてリイチさんを探した。美しいあの子の探索を諦めるつもりは毛頭ないけれど、オーナーを無視するのもまずい。とりあえず客の子に今日来られるかどうか確認くらいはしなければならないだろう。リイチさんは草むらの中で腹ばいになるような姿勢で何かを探している。
「リイチさん、何かいましたか」
「あぁ、うん。いたにはいたんだけどね、マロ君は見ない方がいいかな」
ささやくような問いかけにさらに小さな声で返事が返ってきた。僕は意味が分からずに視線の先に目をやったが、生きているものがいるようには見えない。なんだろうかと不思議に思っていると、リイチさんは土を掘って地中を水平に掘り進め始めた。まず深く掘って、側面を削るように少しずつ少しずつ何かを掘り出していた。
「マロくん、どうした。見ない方がいいぞう、いいのか?」
「あ、すみません。見ないようにします」
「で、そっちはどうだ?」
「あ、はい。見つからなくて、まだ探していたいんですけれどオーナーから電話がかかってきてしまったので、少し電話してきてもいいですか?」
「おぉ、売れっ子は大変だな」
「すみません、すぐ戻ります」
僕は急いで各所に連絡をした。今から家に帰ってヘアメをして出勤してもオーナーの言う売上を立てるのは難しいだろう。頭の先から爪先まで土だらけだし。ということは方法は一つしかない。僕は先ほど名前をあげた顧客は諦めて、自分の顧客の中で一番厄介な娘を呼ぶことにした。僕に入れ揚げすぎて風俗業界へ入り、最近では海外への出稼ぎにハマって性病とマリファナに体を侵されてしまったリカちゃん。彼女はカムイと僕の負の遺産だ。ボトルを入れろと強要したことも、風俗で働けと言ったこともない。海外の方が稼げると斡旋したわけではない。何もしていないけれど、そういう道があることを示唆したことでどんどんハマっていってしまった。僕の売上のためだけに男たちのおもちゃになることを、当時のリカちゃんも僕も特に深く考えていたなかった。深く考えていないから止めることもできず、リカちゃんが初めて風俗店に出勤してから海外で悪いことを覚えてくるまでわずか3ヶ月しかかからなかった。
「あ、はぁーい、マロくんじゃん、久しぶり」
「久しぶり、元気?」
フワフワしたリカちゃんの声が聞こえてくる。鼻にかかったような甲高い声。
「元気じゃないよー。先週ぶっ倒れて入院しちゃった」
「うわ、ほんと。今は?家?」
「家、家。ていうかさぁ、韓国で鼻中短縮と小顔リフトしてきたんだけど、多分その後遺症?ていうか施術後の薬サボったせいで意識ぶっとっんだ。へへへ」
「はぁ、何やってんだよ。自分の体大事にしなきゃダメだろ
「えぇ、だって。顔が痛くて水飲むのも大変だったんだもん。薬苦いし」
「今は大丈夫なの?」
「大丈夫だよー」
「よかった。元気にやってるか気になってたんだ。声聞けてよかったよ」
「え、何?それだけ?」
「うん。そうだけど」
「えー、なにそれ。マロ優しい」
「なんだよ、今更。俺はいつでも優しいじゃん」
「うーん、そうだよねぇ。優しいよね。イケメンだし、しごできだし」
「リカちゃんもね。でも頑張りすぎはダメだよ」
「へへへ」
「また今度ご飯食べ行こ。いつものバーでも良いけど、ダウンタイム辛いならホテルのアフタヌーンティーとかいいかもね」
「やーさーしー」
「だから、今更だって」
僕は通話をしながら足元の草むらを覗き込んでいた。が、暗いのでよく見えない。仕方がないので街灯の下に移動して照らされた範囲を捜索することにした。蛾や羽虫が飛び回っている中で黄金のあの子を探す。薄い羽、華奢な足。頭の中であの子の姿を思い描きながら隈なく視線を巡らせた。
「アフタヌーンティーかぁ。行ったことないなぁ」
「本当?リカちゃん、お姫様みたいな服好きだから、そういうの着てきてよ。きっと似合うよ」
「え、甘ロリのこと?本当?」
「うん。あれ可愛いよね」
「可愛い?」
「いつも言ってるし。可愛いよ」
「えー、じゃあ、着ていっちゃお。ねぇ、マロは今日何してんの?」
「ん、俺今日休みなんだよね。だから散歩してるとこ。ていうかさっきオーナーからきつく当たられちゃってさ」
「あぁ、あのオーナー、リカ嫌い。ブスのくせに偉そうなんだもん」
「あはは、仕事はできる人なんだよ」
「でもブス嫌い」
「なんだよもう。あ、俺はイケメンでよかった。ブスだったら嫌われちゃうとこだった」
「本当だよぉ。イケメンだし、ナンバーワンだし、マロって最強だよ」
「あは、ありがとう。でも最近そんなことないんだよな。カズって後輩が売上伸ばしててさ」
「え」
「まぁ、それでも売上的には俺の方が多いけどね。先月は九千万使ってもらったし」
「ウッソ、マロ一人で?やばーい!どんだけおばさん騙したの!」
「おばさんって。芸能関係のお客さんがついてくれたから、派手に使ってもらえただけなんだよ先月は。でもカズも五千万以上売上てて今月はさらに勢いがついてるみたいなんだ」
「へぇ、そうなんだ」
リカの声がだんだんと低く、怒りをはらんだような声色に代わっていく。
「後輩が伸びるのは素直に嬉しいんだよね。カズも毎日頑張ってるしさ」
「そうなんだ。でもマロが一番でしょ」
「ん?うん。まぁね。俺は特に心配してないんだけど、オーナーは俺を看板にして売り込んでいこうとしてる手前、負けたら許さないって考えみたいで。せっかくいい気分で散歩してたのに電話でどなられちゃった。それくらい期待されてるってことは分かってるんだけど」
「そうだよ!マロ、負けるとかありえないから」
「ありがとう、リカちゃん。リカちゃんの声聞くと元気でるよ」
「本当?りかもマロの声聞くと元気になるよぉ」
「あー、会いたいな。やっぱり会いたくなっちゃった」
「えー、ンフフ。りかも」
「今日この後会える?」
「会えるよ」
「ヘアメ間に合わないから私服なんだけど、それでもいい?」
「いいよ」
「ありがとう。めっちゃ嬉しい。じゃあ時間と場所は後で連絡する。あ、でも体が辛かったら無理してこなくていいから」
「大丈夫だよぉ。任せて」
僕は通話を切った。これで五百万は確約だ。急いで次の番号に電話をかけた。
「おい」
「え、あ、マロくん」
「お前さ、他店行ったって」
電話の相手はマナカ。この子もかなりクセが強いので最近は連絡していなかったし、突然来店した時も当たり障りない接客にとどめていた。マナカはなんというか、支配されたい管理されたいという欲が強くてこちらが引き込まれてしまいそうになる。どうしようもなく弱い捕食待ちのメスという感じだ。僕の得意分野ではない。正直苦手だが、その一方で虚構に大枚を叩いた瞬間、つまり支払い後の恍惚とした表情が誰よりも色っぽい。この子は強い男にしか興味がないから僕がナンバーワンであれば必ず来てくれる。そして強い男に誰よりも身を尽くす自分が大好きだから、誰よりも一番高い支払いをしようと仕掛けてくるはずだ。
「マロくんごめんなさい、ごめんなさい」
「他店の男に何吹き込まれたの」
「えっと、友達に誘われてつい」
「はぁ?」
「だって、マロくん人気者なんだもん。寂しいんだもん」
「俺、マナカにプレゼントがあるって話してなかったけ」
「え、あ…」
「誕生日にマナカの大好きな海に行って、プレゼント渡したいって言ったの忘れちゃったの」
「ううん、忘れていないよ、覚えてるよ。ごめんなさい」
「俺、プレゼント買って待ってたのに。お前、他店に行ったんだ」
「え、ヤダヤダ。ごめんなさい許して」
「許す?俺別に怒ってないけど」
「怒ってるじゃん」
「怒ってねぇって。マナカにはもう新しい男がいるんだから、それならそう言って欲しかったってだけ。俺のこと好きって言っていくれてたけど、まぁ所詮ホストだからさ」
「違うの、マロがいちばんなの!」
マナカが慌てている。バタバタと電話の向こうから身支度をしている音が聞こえてきた。
「やだ、マロ電話切らないで。マナカ今から会いに行くから。先月、パパからお小遣いいっぱいもらったの。だからいっぱい支払えるから切らないで」
「いや、もういいって。俺今日出勤じゃないし」
「え、お店にいないの」
「そうだよ」
「営業の電話じゃないの」
「はあ?営業って何?俺がマナカのこと、店にだけ呼ぶようなクズだと思ってる?売上以外の繋がりとか、そういうのをマナカは感じてないの?」
「ヤダヤダヤダ!違うの!マナカもマロのこと大好き!」
「嘘つくなよ、他店行ったくせに」
「行ってない!いや、ちが…行ったけど!本気じゃない!」
「いいからそういうの」
「ごめんなさい、許して、マロくんいないとマナカ死んじゃう」
「死ぬとか言うなよ。軽々しく。そういうところだよ」
「ヤダヤダ、もう言わない!言わないから!」
「プレゼント、渡そうと思って店のロッカーにしまってあるんだよ。それだけ、今度送るから」
「だめ!ダメなの!ヤダヤダ、マナカ受け取りに行くから!」
「あっそ。勝手にすれば」
「マロくん、お店来て、マナカのごめんなさい聞いて」
「はぁ、もう、仕方ないな」
「ごめんなさい、ごめんなさい!マロくんのこと好きなのに、他店に行ってごめんなさい。償いますから、お店に来てください」
「わかったよ。わかった」
「どうやったら許してくれる?」
「え?どうやったらって」
僕は足元にゆらりと揺らめく影を見つけた。まさかと思って地面に這いつくばり探してみるとわずかにきらりと光る後翅が見えた。僕は電話を少し離して高鳴る心臓の音が漏れ聞こえてしまわないように口を固く閉ざした。呼吸が速くなり、視界が狭くなる。僕の意識は完全に目の前の金色の肢体に釘付けになってしまった。
「マロくん!えーん、マロくーん」
電話の向こうから聞こえるわざとらしい泣き声。僕は彼女から視線を逸らさずにさっさと電話を終えることにした。
「許すも何も、結局俺はマナカの顔を見たら許しちゃうんだよ。わかってるだろ。いいよ、わかったよ店来いよ」
「うん!うん!行く!すぐに行くね!」
マナカが電話を切った。僕はスマホをその場に置いて美しい彼女の方に向かって体を移動させた。彼女は大きな石の影に入るようにじっと休んでいる。さっきは羽を伸ばしてリラックスしていたのだろうか。普段は畳んでいる羽を一瞬開いてくれたおかげで僕らは再会することができた。
「お、見つかったかい」
いつの間にかそばにきていたリイチさんがそっと声をかけてくれた。僕はふーふーと荒くなる鼻息をなんとか抑えようとしたけれど、彼女の全容を視認できた瞬間に喜びで「ははぁ」と喜びの声が出てしまった。
「ひ、久しぶり」
僕はそっと声をかけた。寝ているのかな。彼女は僕の方を振り向きもしない。
「あの、覚えているかな。大久保病院で一度会ってるんだけど」
触覚が僅かに動いた。僕は腹這いのまま少し後退して頭を低く下げる。
「すみません、急に声かけられたら嫌ですよね」
「頑張れ、マロくん」
リイチさんが励ましてくれた。僕の声は震えていた。金色の美しい顔がこちらを向いた気がする。街灯の明かりの中でも彼女の美しさは変わらない。夏の日差しの中でも、秋の枯葉の上でも、冬の街灯の下でも彼女が一番に綺麗だ。僕は震える指先をそっと差し出して、息を呑んでからずっと考えていたセリフを口にした。
「あの、一度断られているんですけど…どうしてもあなたに会いたくて、こんなところまで来てしまいました。僕はあなたのことが大好きなんです。忘れられないんです。もしあなたが僕を選んでくれるなら、僕は全てを捧げます。あなたのために引っ越しします。毎日美味しいご飯を用意します。死ぬまで苦労させません。あなたが望む僕になります。だから、どうか選んでください。僕のところに来てもらえませんか」
「そうだ、いいぞ」
僕の震える指先は、彼女から十五センチほどの距離まで近づいた。もう少し、もう少しだけ近づかなければまた逃げられてしまう。どうかどうか、もう逃げないで。
「あの、僕の家なら寄生虫とかもいませんし、雨も降りません。鳥とかカエルとか、敵もいません。赤ちゃん、たくさん産んでください。全員無事に育て上げて見せます。どうか、どうかお願いします」
僕はここまで言って目を閉じてしまった。怖くて直視できなかった。また彼女が飛んでいってしまうかもしれないと思うと、とても直視できない。
「お!」
リイチさんの声が聞こえた。
「マロくん、やったな」
僕の指先に、確かに彼女の足の感触があった。まさかと思ってうっすらと目を開けると、なんと彼女が僕の上に乗っていた。僕の手の上にその美しい体を乗せじっと僕を見つめてくれいた。
「あぁぁ」
「おいおい、やったなぁマロくん!よし、かごだ、おい」
リイチさんは運転手の男に虫かごを用意させてくれた。僕は揺らさないようにそっとその中に入ってもらって、近くの枯葉を数枚、石を一つ入れてゆっくりと閉じた。
「綺麗だなぁ」
リイチさんが嬉しそうにそう言ってくれた。僕は震える胸を抑えられず、全身が痙攣しているのを感じた。足に力が入らない。ゆっくりとその場に座り込み、彼女の姿をマジマジと見つめた。金色に見えた体は、オレンジに近い黄色で、おそらく突然変異なんだろうと思う。かつて、黄色いカマキリの画像を見たことがあるが、その画像の個体よりずっと美しい色をしていた。思った通り、ハラビロカマキリだ。彼女はゆっくりとした仕草でカゴの中を散策し始めた。あぁ、はやく広くて綺麗な家を用意してあげなければ。
「マロくん、仕事大丈夫か?」
「え?仕事?」
僕は上の空だった。が、じわりじわりと現実を思い出してしまった。
「リイチさん、僕、仕事行かなきゃダメですか」
「さっきの電話聞いてたよ。さすがだな」
「行きたくないな」
「行っとけ行っとけ。この子の分稼いでこなきゃいけないんだからさ」
「う、いやだ」
「うははは、気持ちわかるよ。俺も今すぐ仕事ほっぽり出してマレーシア行きたいもん」
「リイチさん、偉いです。大人です」
「だろう」
「僕、この子に家に来てもらいます。帰る前に餌をなんとかしなきゃ」
「業者紹介するよ。餌くらいならすぐに用意してくれると思う」
「えぇ!いいんですか⁉ありがとうございます。僕、リイチさんがいなかったらどうなっていたか」
「いいんだよ、いいんだって。俺も同じ趣味の仲間がいて嬉しいんだから」
「ありがとうございます。ご恩は必ず返します」
「うんうん、良かったなあ」
それからリイチさんは僕を家まで送ってくれた。いつの間にかコンシェルジュが餌を受け取ってくれていて、少し引き攣った笑顔で部屋まで届けてくれた時は少し驚いたが、すぐにリイチさんにお礼のメッセージを送った。
彼女との束の間の別れは辛かったけれど、さっと着替えて店に向かった。まずはリカちゃんと店外で会ってカフェに入ろうと提案した。が、当然のようにリカは現金を持ってきていて店に立ち寄って入り口で支払いだけをして店内に入らず、さっさと出てきた。架空の支払いにはなるが、まぁそこはオーナーが目を瞑ってくれた。僕はカフェでいちごのパフェをご馳走して、ダウンタイムで顎が開かないリカちゃんの口に少しずつ運んであげて1時間ほどで解散した。持ってきた現金は七百七十七万円だったそうだ。スリーセブン。海外での出稼ぎ中にスロットにハマったらしい。ありがとうと伝えて別れ際にキスをしてあげると満面の笑みで帰っていった。
それから、店の中で待たせていたマナカの元へ向かった。2時間近く待たされていたのに、マナカは泣いて喜んで、狂ったように高い酒を頼んでくれた。プレゼントとした香水を震える手で受け取ってから財布を差し出してきたので僕は財布の中の現金の範囲内で注文を変更し結局五百万円の会計になった。その日の1番の売り上げを出せたのでラスソンを勝ち取れる状況ではあるが、出勤日ではなかったので辞退してマナカをタクシーに乗せ自分も急いで自宅に戻った。その時、店の外でめぐみを見かけた気がしたけれど、もうカムイに預けた後だったし特に気にせず家に帰ることにした。
それから、僕と彼女の二人きりの生活が始まった。僕は彼女のために百二十センチの水槽を用意した。産卵してもおかしくない時期だったので細心の注意を払って彼女が生きていた環境になるべく近づけるように意識しながら、本当は2メートル水槽を用意して僕も中に入って生活したかったが急に距離を詰めすぎると嫌われてしまうかもしれないのでそこに関しては少しずつ進んでいくことにした。水槽の中に土と植物と石、小さな水場と落ち葉の山を配置し彼女が過ごしやすい環境に近づけるよう、毎日試行錯誤しながら愛の巣を作り上げていった。僕の捕食も毎日見てもらって、僕が彼女に相応しいオスであることをアピールしようと思ったが、彼女は存外興味がないようでほとんど見てもらうことができなかった。そんな連れない態度もたまらなく嬉しい。生きた餌を投入しても、がっつくことはなく上品に捕食する姿にみとれ、僕は水槽の前で全ての生活が完結させるようになっていった。彼女の目の前で情けない姿を見せたくなくて、今まで裸で過ごしていたのをやめて家の中でも身だしなみを整えて過ごすようにもなった。
カムイが家に遊びにきたときは、彼女のいる部屋には通さず動画の撮影やホストのマロとしての存在を切り離せるように配慮した。彼女にとっては僕はただのアランなんだから。
そして僕は、引退を意識し始めた。
そんな僕の心境に真っ先に気がついたのはカムイだった。付き合いが長いから当然だろう。理由を聞かれたけれど「潮時かな」とはぐらかした。僕は生きていくのに不自由しない程度の現金はもう蓄えていた。家賃は高いけれど、それ以外の生活費はほとんどかかっていないから貯金は潤沢にある。それをカムイは知っていたので特に深く追求されず、それでもなんとかして引き留めたいのだろうという雰囲気は感じていた。
僕は、出勤を減らした。次に気がついたのは美智だった。美智は僕の気持ちを察したのか、来年海外に移住すると言い始めた。ずっと暮らしてみたかったフィレンツェでアパートを探し始めたらしい。イタリアの男と遊び回っている美智の姿が瞼に浮かび、僕は素直な気持ちで応援しておいた。ただ、好きな女の子でもできたのか、という質問には首を振っておいた。会話の最後に「一緒に来る?」と言ってくれたのは心から嬉しかったけれど、僕には日本に残る理由があるから感謝を伝えてから断った。
それから、僕は引退に向けてオーナーと話し合いを重ねた。オーナーは激怒したり店を持たせてやるとすり寄ってきたり、僕だけを無視したり後輩を持ち上げて煽るようなことをしてきたけれど、僕の態度が変わらないことに気がつくと次第に何も言わなくなっていった。
そして彼女と一冬を越した後、奇跡的に命をつないでくれた彼女はますます美しい女性になっていた。立派な体が水槽の中で餌を食む姿は神々しさすら感じる。そして、桜が散りかけているある日、彼女に雄を差し出してみたところ見事交尾に成功した。通常秋ごろに繁殖期が来るので半年かけてゆっくりオスに慣れさせればいいかなと思っていたが、時季外れの妊娠に僕はひどく驚いてしまった。はじめは彼女はほとんど興味を示さず、オスも逃げ腰だったので失敗かなぁと思っていたが、成功した。オスが懸命に種付けを行い交尾に成功した後、彼女は頭からオスを食べ始めた。僕はその姿にひどく興奮した。勃起が収まらず、彼女がオスを食べ終わった瞬間に言い得ぬ快感を感じてしまいしばらく動けなかったほどだ。彼女の口の中に黙って入り咀嚼されていく雄のことを羨ましいと思った。水槽の中を虫眼鏡で覗き込んで美しい口元を見つめ、彼女が満足するまでオスに自分を重ね合わせて人生で一番の快感に酔いしれた。気持ちよかった。夢がかなったと思った。大切な出産前の儀式であることは知っているけれど、自分の中の欲望を抑えられず目を離すことができななかった。自分の子供を産んでくれるメスの栄養になる、メスが子供を産むための栄養として身を捧げる。その崇高な行いに自分を投影し、僕はその瞬間にオスと一緒に彼女に食べられ死んでしまったんだと思う。彼女の一部になり、子供の栄養になり生まれ帰る。そうして生まれた個体がまた、オスとメスに生まれ変わって自身の全てを捧げて次の世代に命を繋いでいく。崇高なサイクルに自分を投影してその中で命を終えたいというかねてからの願いが叶ったような気がした。
その日から僕は完全に出勤するのをやめた。残り少ない彼女との時間を大切にしたかったからだ。リイチさんからの短い呼び出しにだけ応じて、それ以外の時間は彼女とずっと一緒にいた。といってもリイチさんは事情を組んでそっとしておいてくれたけど。僕は幸せだった。カムイは店を辞めてから僕の家に来ることは無くなった。友達だったが、よく考えれば最近は仕事に関わることでしか会うことがなかったのでもう昔のような友人関係ではなくなってしまっていたのだろう。
彼女は産卵してから一週間後に動かなくなってしまった。僕は三日泣き続けた。何とか生活していたが、気が付くと涙がこぼれてその場で動けなくなってしまうほど、僕の喪失感は大きかった。彼女は動かなくなっても美しかったが、やはり生命力あふれる彼女の姿は見る影もなく、耐えられなくなり彼女の肢体を桐の箱に入れてリイチさんに頼った。リイチさんはすぐに僕と彼女を火葬場へ連れていき、そこで火葬してもらうことができた。煙になって空に消えていく彼女と一緒に僕も消えてしまいたいとつぶやくと、リイチさんは「残された子供たちのことを考えろ」と優しく諭してくれた。
彼女が残してくれた子供たちは、僕の家ですくすくと大きくなり水槽が手狭になったので床面積4平方メートル、高さ1.5メートルのアクリルのケースを手作りして、彼らの母が生きていた環境にできるだけ近づけて生育することにした。子供たちが共食いしないように餌をふんだんに与えたところ、餌も繁殖をはじめちょっとした箱庭のようになってしまった。これはマンションで生活するには限界があるなと考えながらも、僕は彼女の忘れ形見との生活を大切に過ごしていた。
ある日、インターホンが鳴った。しばらく来客の予定などなかったのでひどく困惑したが、それはコンシェルジュからの呼び出しだった。なんの用事だろうかと訝しんでいると、
「お客様がお見えです」
と言った。以前、客の女の子が店から後をつけてきて家に入ろうとしたことがあったので、基本的に来客は断っていた。コンシェルジュにも女性の来客はあり得ないので断ってほしいと伝えてあったので、一体誰がきたのだろうかと不審に思った。リイチさんなら直接連絡をくれるはずだし、カムイは部屋番号を知っているから直接インターホンを鳴らしてくる。
「誰ですか」
「あの、繭さんという方です」
僕は耳を疑った。懐かしい名前に急には顔を思い出せなかったが、確かに彼女はこのマンションまで連れてきたことがあったのでここに来てもおかしくはない。ただ、どんな用件だろうかと考えた。が、考えても仕方がないので僕が降りていくので待っていてくださいと伝えて身支度をした。その時に気がついたのだが、僕はかなり人相が変わってしまっていた。毎日風呂に入って髭を剃り、服を着ていたけれどホストをしていた時とは顔つきが違っている。初めて会う人のような鏡の中の自分に驚きながら、僕は子供たちに声をかけて家を出た。
エントランスに着くと、ミーティングスペースに繭が座っていた。
「繭、どうしたの」
僕の声掛けに、パッと顔を上げた彼女は髪が短くなっていて顔が汚れていた。よく見ると、服装がセーラー服だ。学生服のセーラー服ではなく、風俗店で使われるような粗末なものだ。僕は嫌な予感がして机を挟んだ対面に座って彼女の様子をじっくりと観察した。
「アランさん、あなたが私のこと、売ったんですか」
繭はスカートの上で硬く握りしめた自分の手元を睨むように見ながらそう言った。目の周りが赤く腫れていて、涙がうっすらと浮かんでいる。
「え?」
意味がわからない。僕はさらに彼女をよく観察してみた。ホストを辞めてから観察眼が鈍ったのかもしれない。彼女の声は怒りに震えているようだった。
「私、お父さんの借金を返すためにマッサージ店で働くように言われたんです。あの女がうちのお金持っていっちゃったから、大学の費用稼ぐためにコンビニやめて紹介された店で働けって」
淡々としているけれど、憎しみや怒りが満ちている。
「お父さんがそう言ったの?」
「違う。カムイ」
僕は雷に打たれたような衝撃を感じた。カムイ?カムイがそんなことを言ったのか。
「カムイ、ってどうして」
「あの女が連れてきた」
「え」
「あの女が出ていってから数日後に、あの女がうちの通帳を持ち出して貯金全部引き出して出ていったんだって。私は知らなかったけど、お父さんが仕事に毎日行くようになったのはあの女に有り金全部持ち出されたからだったんだって。で、あの女、最近になって何度も何度も金の無心にうちに立ち寄るようになったの。戻ってきたんだよ」
涙が頬を伝って繭の胸元に落ちた。声がうわずって震えている。
「最後にうちに来た日に、小柄なアイドルみたいな顔の男と一緒にきたの。その人がカムイって名前で、マロくんの友達ってあの女に紹介されてた。その日、うちにはお金なんて全然ないし、むしろお父さんに借金があるってわかったみたいで家の中で大暴れしていった。カムイはニヤニヤしながら見てるだけだった。あの女は暴れるだけ暴れて、父さんが帰ってきたら走って出ていっちゃった。で、お父さんの借金をカムイが買い取るって提案してきたの。お父さんは督促状に嫌気がさしていたみたいで、カムイの提案にすぐ乗っかっちゃって」
「カムイが?ほんとうに?」
「うん」
「あいつ」
「カムイが見たことないような現金を持ってうちに来た日に、私に契約書だっていう紙を見せてきたの。マッサージ店で働く、報酬は父親に二割、カムイに八割支払われるって内容だった。私の分なんて考えてなくて、私は寮に入って食事と睡眠以外はずっと仕事していろって。未成年だから単価が高いし一年も働けば借金は全て返済できるから一年頑張れ、って言われた」
「は、嘘でしょ」
「うそ?私のこの服装見て」
ここで初めて繭が顔を上げた。唇と肌は乾燥して頬は痩けており最後にあったときのふっくらとした彼女の面影はまるでなかった。
「ごめん、まさかそんな」
僕は何も言えなかった。僕が原因を作ったことに違いない。めぐみをカムイに紹介したのは僕だ。まさかカムイが未成年の子供に仕事を斡旋するなんて思わなかったけれど、僕が知らないだけでもしかしたらずっとそんなこともやっていたのかもしれない。
「いくら」
「え」
「借金はいくらなの」
僕の問いかけに繭はしばらく考えた後「八百万くらい」と答えた。
「僕が払うよ」
僕はスマホを取り出してカムイの番号をコールした。通話中のようで繋がらない。メッセージで「繭の借金は俺が払うから、店はやめさせて」と送った。
「え?」
「利子ふくめて八百万でいいんだよね」
「あ、えっと、借用書にはそう書いてありました」
「利子が膨らむ前に僕が支払ってしまうから安心して。店にはもう行かなくていい」
「でも、お店の人が絶対に逃さないって」
「お店の名前わかる?」
「え、あ、はい」
繭が僕のスマホで店のホームページを調べて見せてくれた。URLをコピーして警察の相談窓口に未成年を働かせているという内容で通報した。これで捜査の対象になる。が、店を一つつぶしてもカムイが手引きする限り彼女が風俗店から逃げ出すことはできない。僕はカムイの番号を呼び出し続けた。
「アランさんは、私のこと、というか借金に関しては何も知らないんですか?」
「知らないよ、全く知らなかった。本当にごめん、カムイがここまでやるとは思わなくて。本当にごめん」
「そうだったんだ」
「カムイは僕がなんとかする。だから君は安全なところで隠れていて。誰か頼れる人はいる?」
「頼れる人…学校の先生とか」
「先生の連絡先は?」
「あ、だめだ。先生、お父さんの後輩だからお父さんに告げ口するかもしれない」
「じゃあダメだ。熊井さんは?」
「熊井さん、連絡先は知ってるけど、スマホ店に置いてきちゃった」
「コンビニに電話したらつながるかな」
「え、っと。どうだろう。出勤してればつながるかも」
僕はカムイにかけ続けるために、コンシェルジュにコンビニの電話番号を検索してもらい、電話をかけてもらった。電話をかけると2コールで老女の声が聞こえてきたので僕は繭に電話で話すように言った。
「あ、あの、お久しぶりです。はい、はい。鈴木です。すみませんでした、急にやめてしまって。あの、熊井さんいらっしゃいますか」
僕の中に怒りが沸々と湧き上がってきた。カムイに対しても、あの父親に対しても。そして何より、中途半端にした自分自身に対して。
「あの、店長はいたんですけど熊井さんいないそうです」
「そっか」
僕はスマホでカムイに電話かけ続けていたが相変わらず繋がらない。家の場所を知っているが、行っても家にはいないだろう、常に出歩いているのは知っている。
「僕の家ならいてもらってもいいけど、嫌じゃない?」
僕の提案に繭は驚いたようだったが、首を横に振った。
「嫌じゃないです」
「そう、そっか。なら心当たりの人が見つかるまで僕の家にいて」
そこまで話したところでスマホが通話中に切り替わった。瞬時に耳に当てて僕は話し始めた。
「カムイ、俺」
「おー、久しぶり。何?めっちゃ電話してくるじゃん」
「メッセージ見た?」
「あ、ごめん、見てない」
数秒経ってカムイが戻ってきた。
「繭ちゃん、知り合いだった?ごめんごめん」
軽い態度に苛立ちが膨らんだ。
「ごめんごめんって、お前」
「なんだよ」
「繭、未成年だぞ」
「あぁ、まぁ。そうだけど。なんだよ今更」
「いまさらって」
「リカちゃんだって19歳だったじゃん、お前が堕としたんだよ、忘れちゃったの」
「それとこれとは」
「一緒だろ、何言ってんだよ」
「一緒じゃない。まだ高校生だ」
「はぁ、何、そんなこと気にしてんの」
「お前」
「繭ちゃんだって一年で足洗えるんだから別にいいだろ。一生その界隈で生きていくわけじゃないし、父親だって支えてくれてるんだから潰れねぇよ。いつもみたいに励ましてあげればいいじゃん。何マジんなってんだよ」
カムイは当たり前みたいにそう言った。そうだ、確かに僕はホストだった。女の子たちの金の出どころがどこなのか知っていて、煽るようなことを散々してきたしカムイのような男に紹介して取り返しのつかない環境に追い込んだりもした。カナだって僕に連絡先を渡さなければアイリストとコンビニバイトだけをしていただろうし、リカちゃんもマナカも自分を大切にするために稼いだ金を使うことができたかもしれない。だけど、めぐみに関して言えば、あの猿のような狂った声から繭を解放してあげたかっただけだった。めぐみから金を引っ張ろうとは思っていなかった。ただ、繭に健康で幸せな生活を送ってもらいたいだけだったんだ。
「カムイ、悪いけど繭ちゃんから手引いてくれないか。借金額八百万って聞いてるけど、間違いない?」
「んー、いやいや、全部回収することには、利子含めて千三百万になる予定だったから、返してもらうなら千三百万だな」
「じゃあ千三百万はらう。それで、店に話つけてくれ」
「はぁ、まあいいけど」
「頼む」
「でさ、それであの父親のところに返すわけ」
カムイが鼻で笑うように言った。あの父親、と言われても僕は直接会ったことはないからピンと来なかったが、カムイがこう言うということはよっぽどなんだろう。
「父親のところに帰るかどうかは繭が決めることだろ」
「繭ちゃんの自立のためにお前が支えるわけ?何お前、繭ちゃんに惚れてんの?」
「惚れてない、あの子は友達だから」
「と、友達?」
「友達だよ。すごくいい子だ」
「はは。あはははは!マジかよ!友達って」
「わからないならそれでもいいよ。僕の友達はカムイと繭とリイチさん、それから前田さんだけだ。わけわからないメンバーだろうけど。僕にはそうなんだよ」
「はぁ、そうかよ」
「そうだよ。メッセージで振込先教えて。彼女が解放されたって確信を得たら振り込むから」
「はいはい」
通話を切ってから、僕は彼女を連れて家に戻った。何もない家だけど、セキュリティだけはしっかりしているからひとまずは安心だろう。
「ごめん、僕の家、椅子もないんだ。何もないんだよ本当に」
僕の家にある家具はベッドルームのベッドと一部屋分の箱庭や飼育道具、獲物に見立てたクッションがクローゼットに入っていて、それ以外は簡単な調理器具と家電のみ。リビングには何も置いていない。繭はそんなリビングを見て呆然としていた。
「引っ越ししたばかり、なんですか」
「ううん、ずっとこうなんだ。僕テレビ見ないから」
「え」
「この部屋は、なんていうか簡単に体を動かしたり、ホスト時代に動画撮影したりするための部屋だったから」
「そうなんだ、いやあでも、それにしても何もないですね」
「うん、ごめん。買ってこようか?」
「え、いえいえ!そんな」
「申し訳ないんだけど、バスタオル持ってくるからそれを座布団にして座って待ってて」
僕はそう言ってタオルを数枚渡した。繭が身につけているのはおもちゃみたいなセーラー服だったので、僕のティシャツを貸して、そのまま買い出しに出かけた。と言ってもマンションのすぐ隣の薬局やスーパーで必要になりそうなものを買って、繭に渡した。繭は申し訳なさそうにしていたけど、スーパーで買ってきた婦人服を見て「だ、ダサい」と少し笑ってくれた。
僕は一通りのことが終わると家を出て繭の実家に向かった。彼女の家に行くのは久しぶりだったので道を確かめながら、途中で各方面に電話で連絡をした。普通に歩けば二十分分程度の距離に四十分かかってしまったが、とにかく父親と話をしようと思ってできる限りのことをしようと考えを巡らせた。猿の声が懐かしいマンションに到着しインターホンを鳴らすと、どうぞという声が内側から聞こえてきた。父親と話せる、と意気込んで扉を開けた。が、繭の家で待っていたのはカムイだった。
「あ、来たんだ」
「カムイ、何してんの」
カムイはヘラヘラした様子で僕に向かって手をあげた。ダイニングテーブルの椅子に座り、目の前に座る男に何かを書かせている。僕は玄関から靴を履いたまま家の中に入りテーブルの書類に目を落とした。
「何これ」
「ん、繭ちゃんの再就職先について、ちょっとね」
カムイはなんてことないと言うようにそう言ってのけた。
「はぁ⁉︎」
「うるせぇな、落ちつけよ。とりあえず今の店での繭ちゃんの水揚げはお前の提案で完了するけど、お父さんは繭ちゃんに引き続き働いてもらいたいんだってよ」
「何言ってんだよ!それじゃあ、俺が借金を被った意味ないだろ!」
「そうだよ、意味なんてないんだよ。お前がいくら庇って繭ちゃんを守ろうとしたって、結局はこういうことになるんだって。どんだけ逃げてもついてくるんだよ。わかるだろ。もともとこっち側の人間なんだから」
そう言ってカムイは僕を見た。その時のカムイの顔は僕の知っている愛嬌のあるそれとは変わってしまっていた。母親思いで、友達が多くて人脈作りが上手なカムイではなく、人を金に変えることになんの抵抗もない男の顔をしていた。そうか、カムイはもうしばらくずっとこんな顔をしていたのか、と初めて気が付いた。なまじ付き合いが長いせいで、高校生の頃の面影がちらついて正しい姿が見えていなかったのだと。そしてそれは、僕がかつて顔に張り付けていた顔でもある。
「わか、わかるけど、そんな。ていうか、お前何考えてんだよ!」
僕は父親らしき男の前に紙を叩きつけた。男は肩をびくりと震わせて怯えたように僕を睨みつけた。
「あああんた、なんなんだよ。なんで繭のこと知ってんだよ」
父親の口からボソボソと声が漏れ聞こえる。
「あんた、なんで邪魔するんだよ。繭は俺の娘なんだから別にいいだろ。コンビニなんて稼げないんだから、もっと稼げる仕事で家族に還元しようとしているだけじゃないか」
「還元、て」
「だって俺は今まで一人であの子を育てあげたんだ。嫁に浮気されて、生徒にバカにされて保護者にクレームつけられて、降給になっても毎日出勤して頑張って育てたんだよ。たった一年くらい、なんで我慢できないんだ」
男の目は空で、繭の口から聞いていた立派な父親像からはかけ離れているように見えた。娘の目から見た父親というものは、たとえ実態がどうであれ立派で頼もしいものに見えるんだろうか。かっこよくて、働き者で仕事熱心な父親。僕は頭の中で描いていた繭の父親像とのギャップに戸惑いはあったが、その様子を見て繭をこの男のところに戻すわけにはいかないと確信した。
「なぁアラン、お前どうしちゃったんだよ。かなちゃんだってコンビニで働いてたのにコンカフェ紹介して結局デリヘルまで落としたじゃん。なんで繭ちゃんにだけそんな庇うんだよ」
「繭は、自分の意思で働いてるわけじゃない。猿みたいなババアと、どうしようもない父親に追い込まれてギリギリのところで生きてたから、仕方なくアルバイトしていただけだ。借金だって、繭がホスト遊びで作ったものじゃないだろ。何に使ったのか知らないけど働いて返すべきなのは父親のあんただ」
「それってさぁ、お前の中だけの美学だよね。意味ないよ」
「そうかもしれない」
「わかってんなら口出してくんなよ。センスねぇよ」
カムイはいら立ちを顔中に張り付けて僕を軽くにらんできた。僕は見下ろすみたいにカムイに視線を送った。
「僕は女の子たちを働かせたいわけじゃない。働いた対価を払うのに値する男になりたかったんだ。彼女たちは強いから、強いからこそ男を餌付けして食い物にしていいんだよ。食われる男は選ばれる男だから」
「はぁ?」
カムイが小馬鹿にしたように言った。相変わらず父親は僕のことを睨みつている。
「女性は強いんだよ」
「強い?どこがだよ。お前、あんだけ女の子たち食い物にして、カスまで搾り取ってよくそんなこと言えるよね」
「そうだよ。僕は女の子たちから大金をもらっていた。でも僕が女の子を食っていたわけではなく女の子に金で食われていたんだ。女の子の理想の男になって、欲しい言葉をあげて、気持ちよく金を使える男であり続けた。僕は美味しい餌として食われ続けていたんだよ。僕を栄養にして彼女たちは虚構を楽しんでいただけで弱者な訳じゃない。僕は、男は弱い。女性は強いんだ。でもそれは男の弱さを補うために強いわけじゃない。男を養分にして女性が生きていくためなんだよ。僕は飛び切り旨い餌を食べさせてもらえる価値のある虚構を、夢を見せ続けるオスで、張り合って勝ち取るだけの競争率を維持し続けていただけだ。彼女たちが望む虚構になり替わって狩りの獲物にされていたんだよ」
僕は家の中をぐるりと見渡した。家族写真が飾ってあるが、埃をかぶっていて周囲に乱雑に置かれたものに埋もれてしまっている。でも、確かに半年前、繭はここで幸せに暮らしていたはずだ。最低な状況から立ち直り、家を整えて食事を作り、勉強していた。本来ここはそういう場所であるべきなんだ。
「オスはメスが安心して子供を作り、その子たちが無事生まれてくるように支えるべきなんだよ。メスが命を燃やして子孫を残ようにオスも身を削るべきだ。ただ、中にはオスを自己実現のために消費したいメスがいるんだ。子供ではなく自分を育むために」
僕の言葉を、まるで宇宙人の演説を聞くかのようにバカにした顔でカムイは聞いていた。
「僕のお客さんは、男に大切にされる自分に対してお金を使っていたんだ。男を支え、守り、自分の理想の形を作り上げ昇華させるために労働して金を支払い続けた。彼女らは彼女らを守るためにお金を使わない。彼女たちの気分を良くしてくれる男に対して対価を支払っていたんだよ。そして、そんな男の存在が自尊心を満たしてくれるって知ってるんだ。確かに法外な金額だし、やり方はよくなかったと思う。でも、オスは結局女性の養分で、活力を与える存在になるべきだ。女性の方が強く、子を生み、守るから」
僕は息を継ぐ間も無くそう言い切った。言いながら、内心どこかで泣きそうになっていた。僕は、活力になりたい。強い女性の活力として消費されたいんだ。母が僕を簡単に切り捨てた時から、父が母を喜ばせるようなことを言いながら女との浮気を楽しんでいるのを知った時から、男の役割は女の享楽のために消費されることなんだ、と理解してしまったから。
「何言ってんのお前。きも」
「カムイ、お前、母親が男の言うことばっかり聞いて損して生きているのをいつも心配してたじゃないか」
僕の言葉に、カムイの表情が変わった。怒りや苛立ちが滲み出ている。
「は?なに」
「ひどい父親のいいなりになっていた時も、隣近所に責められた時も、学校の先生にお前の育て方について的外れな意見をもらった時も、相手が男だからという理由で唯々諾々と従う母親を嗜めて、責めて、励ましてたお前はどこ行ったんだよ。なんでこんなクソみたいな父親が繭の人生をクソみたいなものに貶めようとしているのを黙って見てるんだよ」
「は?なんなのお前。今俺の母親の話は関係ないだろ」
「関係ないか、そうか。俺はクソみたいな父親が高校生の娘を売り飛ばそうとしているのを斡旋するような友人は知らないんだけどな」
「んだよ、だから!今まで何度もこんなことあっただろ!」
僕らは黙って互いを睨み合った。言い合いをするには僕らはお互いの汚いところも弱いところも知りすぎている。これ以上言い合ったら泥試合になることは分かっていた。だから、二人して黙っていた。
「繭は、今どこにいるんですか」
父親が不意に尋ねてきた。
「は?」
「あいつ、店から逃げ出したんですよね。逃げても行く当てなんてないから帰ってくるかと思ってましたが、今アイツ、あなたの家にいるんですか」
父親は視線を上げずに淡々と話し続ける。少し不自然な口調を不審に思ってみていると貧乏ゆすりがぴたりと止まった。
「お前の所に帰るわけないだろ」
「へぇ、でもあいつが店の服のまま友達や学校の先生に頼るとは思えないし、アルバイト先にもやめるって連絡したばかりですからね、気まずいんですよねぇ」
「何言って」
そのとき、父親の膝の上にスマホが置かれていることに気が付いた。液晶が光っているので画面が良く見える。通話中の画面であること、それから相手の名前まではっきりと見えた。
「お前…!」
父親が電話していた相手は、繭の働かされそうになっていた店の名前で表示されていた。この男は繭の居所を店に教えようとしている。
「はは、あ、あんたん所だろ。あんたの家、どこだっけ?カムイ、教えてくれよ」
「西新宿のハイタワーレジデンス、28階B」
「カムイ、お前」
「アランうるさい。お前ジャマなんだよ。仕事してんだから黙ってろ」
「黙るのはそっちだ!何考えてんだよ!」
「ふ、あんた、繭のこと抱いたんですか。あいつ、胸だけはでかいですからね」
あろうことか、父親が僕に向かってそう言った。頭に血が上り、全身の筋肉が怒りに震えた。
「お前、最低だな」
「は、別に、なんとでも言ってください」
「繭は、あんたのこと褒めてたのに」
僕の言葉を聞いても、父親は乾いた笑いを鼻からこぼすだけで貧乏ゆすりをして黙り込んだ。
「繭と初めてちゃんと会話をしたのは、繭が真夏にあんたのコンドームを買いに行かされた日だよ。下着も身につけていないパジャマ姿で、貧血でフラフラなのにばばぁに怒鳴られて父親のゴムと精力剤を買いに行かされた日だ。お前と女が子供部屋の隣で猿みたいにセックスばっかりしてるから、あの子はつらくて死にそうな顔していた。それでもお父さんのためにとがんばって働いてアルバイトで稼いで。そんな娘に感謝もせず、お前バイト代を勝手に使おうとしたらしいな。それでアルバイト先まで怒鳴り込みに行ったって?」
父親は貧乏ゆすりを止めない。こいつの目には繭がどう映っているんだろうか。想像したくもないけれど、繭が毎日こんなのと直面していたのかと思うと反吐が出そうだ。
「胸だけはでかい、か。そんなことよりもっとずっといいところがたくさんあるのにな。あんたの娘は、アルバイト先で愛されているいい子だ。愛情深くて、強かで、立ち上がることを諦めない素晴らしい人だよ。だから、僕は友達になれたんだ」
「友達、な。は、どうだか。あいつの事無垢な処女だとでも思ってんだろ。あいつはな、あの女にそっくりなんだよあの女。アイツの母親」
父親の貧乏ゆすりが激しくなった。
「あんた、騙されてる。あの子はな、見た目も中身も母親にそっくりだ。胸がデカくて可愛くて、一見おとなしそうだろ。そう見せかけて、実は男を咥えまくってんだ。話し方も、見た目も、最近では俺に対する態度まで似てきやがった。あいつはいつかお前を裏切るよ。信じて結婚した俺を裏切って、捨てて家を出ていったんだ。あいつは最低だ。あいつに似ている繭だって最低なんだよ。蛙の子は蛙。どうせ男を咥えまくってるんだから、初めから風俗で働けばいいんだ。そうすれば俺みたいな不幸な男は生まれないんだから」
父親の声は掠れていて、甲高くなっていった。僕は、繭の母親を知らないけど、同じような女達はよく知っている。夫に飽き、失望し、他の男を求める女性たち。その陰で傷ついている男たちがいることはわかっている、わかっているけれど、子供をその犠牲にするのは間違っている。
「繭は、母親とは違う」
「一緒だよ。一緒だ。は、どうせ、同じなんだ」
「あんたの妻と同じなのはめぐみだろ。繭は違う。結局、お前が憎む女はお前が自分で選んできてるんだよ。お前がちんこで選んだ女がしょうもないだけで、繭は関係ない」
父親の顔色が変わった。青白かったのが、土気色に変化する。と、拳を振り上げて僕に向かってきた。怖くもなんともない、フラフラとした拳だ。つま先でみぞおちを押したら簡単に椅子に倒れこんだ。こんな男にかまっている場合ではない。僕はスマホを手に繭に電話を掛けた。二コールで通話がつながる。
「繭、繭、大丈夫?」
「あの、えっと」
「誰か来た?」
「きました」
「え、エントランス開けちゃった?」
僕の心臓が激しく高鳴る。まさか、とは思うが店の人間が初めから僕の家に辺りを付けていたとしたら到着していてもおかしくない。なんせ、カムイがあちら側にいるんだから。ちらりと視線を送ると、カムイは口元に笑みを浮かべていた。腹が立つがそれどころではない。
「開けちゃいました」
「あ、待って、その人って」
電話の向こうでピンポーン、とインターホンの鳴る音が聞こえてきた。「はーい」と繭が返事を返している。
「繭、繭!待って、開けないで」
僕の声もむなしく、通話の向こうではごそごそと何かの音が聞こえてくる。
次の瞬間、玄関ドアが派手な音を立てて開いた。バンっと大きな音を立てたのは僕らのいる部屋のドアだった。
「アイアイ、どうもこんにちは」
がさついた嫌な声が響く。入ってきたのは剃り込みの入った角刈り、スキンヘッドで派手なジャージを着たいかにも、と言う風貌の男たちだった。三人入ってきた中に、リイチさんの運転手がいた。先頭の男が僕に会釈して声をかけてきた。
「どうも、マロさんですよね」
僕は男に向かって頭を下げた。
「お世話になります。マロです」
「藤井のところのものです。この度はどうも」
「いえ、お願いします」
父親は、目を丸くして男たちと僕を見ていた。口をパクパクさせて状況を把握しようとしているようだ。
「だ、誰だ」
「ヤクザ」
カムイのその返事に、父親の顔から再度色が消えていった。
「どうも、お父さん」
「え。あ、え?」
「あんたね、単刀直入に言うけど借金したでしょ?それね、もう僕らが請け負うことになったから」
「は、は?誰ですか。ていうか、なんですか」
「あんたの借金、もううちで一本化させてもらったんですわ。巡り巡って、うちのとこに来たんもなんかの縁ですから。ね、これから頑張って返していきましょうね」
「え、え」
男たちは父親の腕を掴んでムリやり立たせた。僕は男たちをさけるように身をかわしながらスマホを耳元に戻した。
「アランさん、あの、大丈夫ですか?今どこにいるんですか?」
「大丈夫だよ。繭は?」
「私は大丈夫です」
「本当に?誰か来たんでしょ」
「はい、あれ、メッセージ見てませんか?」
「メッセージ?」
「あの、熊井さんに店長が話してくれたみたいで。彼氏さんと一緒に来てくれるって」
「くま」
「はい、あの後、エントランスの方に折り返しの電話が来たそうで、来てもらえることになったんです」
「熊井さん」
「そうです。すみません、アランさんの家なのに知らない人を呼んで」
一気に肩の力が抜けた。吐息と一緒に腹の底から不安が抜けていく。
「いや、いいよ。そうか、熊井さん一緒なんだ」
「はい。すぐに来てくれて、彼氏さんと三人でじっとしてます」
「そっか、そっか。よかった。熊井さんと一緒にいて。それから、僕以外の人はもう入れないでね」
「はい。分かりました」
「うん」
僕は安心して通話を切った。とりあえず繭は安全だ。
カムイは苦虫を噛んだような顔で男たちと僕の顔を見比べている。男たちの中の一人が、帯封のされた現金を八束、カムイに放り投げた。カムイは慌ててそれを受け取りながら、僕に説明を求めるように視線を送っていたが僕は気がついていないふりをした。
腕を掴む男たちの中の一人が、椅子を蹴飛ばした。吹き飛んだ椅子が壁に当たって大きな音を立てて転がった。父親の肩が震え、見るからに怯え始めている。先ほどの小馬鹿にしたような様子は椅子とともに吹き飛んだようだ。
「お父さん、だめだよ。立派な職業についてたんだし、まだまだお仕事できるのにしないなんて。お父さんが借りた借金はね、闇金に回った後、一回ここのチビが立て替えて返済したでしょ。で、このチビにここのイケメンさんが金を払って、イケメンさんが債権者になったわけ。でイケメンさんが、僕らに債券を譲ってくれたから、僕らが返済をお願いしにきたんだよね。わかる?」
「は?は?いや、知らない分からない。なに」
「知らないよねぇ。わかんなかったよねぇ。だって何も考えずにお金借りちゃったもんね。でも安心して。僕らで割りのいい仕事見つけたから。お父さんが一年頑張ったら返せちゃうから。ね。で、パスポートある?」
父親がガタガタと震え始めた。震えながら視線を送った先にあるキャビネットを男たちの中の一人が乱暴に捜索し、パスポートを見つけ出した。父親の財布とパスポートと共に、男たちはあっという間に父親を連れて出ていってしまった。男たちの動きは軍隊のように無駄がなく、滞在時間は十分もなかったんじゃないだろうか。僕とカムイは静かになった部屋に取り残された。カムイは投げ渡された現金を呆然と眺めている。
「カムイ、悪いけどこれが僕の始末の付け方だから」
僕は男たちの背中を見送りながらカムイにそう声をかけた。
「は、そうかよ」
吐き捨てるような返事が返ってくる。
「あいつの借金は、あいつが支払うべきなんだよ」
「よく言うよ」
カムイが深いため息をついた。
「アラン、あれ、あの男たちってリイチさんのとこ?お前大丈夫なの、ヤクザに貸し作っちゃって」
僕はカムイを見た。顔色が悪い。
「大丈夫なわけないだろ」
「あーあ、俺知らないよ。助けないよ、さすがに」
「いらないよ」
「は?一人でヤクザ相手に出来んの?」
「できる。というか僕だからできると思う。今度、マレーシアに行ってカミキリムシを捕まえてくるんだ。現地にしか住んでいない子。リイチさん海外に行けないから。それで目当ての子を連れてくることが出来たらチャラにしてもらえるんだ」
僕は本当のことを伝えた。これは事実だし、僕はこの条件に追加して、カミキリムシを標本にするという一番やりたくないことをやらされることになっている。法律上、生態を輸入することはできないが、適切に処理された標本であれば可能だ。リイチさんは今まで独自の方法で生体を輸入していたが、そのルートが使えなくなってしまったらしい。困り果てていたところに僕からのお願いがきたので、交換条件に標本の作成と輸入を依頼された。僕にとって昆虫標本というのは生きている人間を磔にして晒し者にするくらいグロテスクな行いだから、見たくもないし、存在を感じるだけでも嫌悪感が募る。でも、仕方がない、助けてもらった借りを返すにはやるしかない。
「はぁあ?か、カミキリムシって…なんだよそれ、あー、ばかみてぇ!夏休みの宿題じゃねぇんだよ」
カムイがため息まじりにそう言って金を握りしめた。
「モノの価値は人それぞれだから」
「そりゃそうだけどさぁ。カミキリムシって、なに、俺そんなのに負けたの?」
「そうだよ」
「あー、やってらんねぇ」
席を立って家を出て行こうとするカムイの体がぴたりと止まった。玄関先に立つリイチさんと目があったからだ。
「え、あ」
「どうも、カムイ君」
リイチさんは暗い玄関からそう声をかけてきた。家に入ってくるつもりはないらしい。
「はい、あの」
「どうも、光木組の藤井です」
「あ、はい。はい、あの、リイチさん、ですよね」
「マロくんにはそう呼ばれているね。まぁ、そっちはあだ名だから藤井で覚えておいて」
「え、でも」
「俺のことをリイチって呼んでいいのは俺が尊敬している人だけだから、お前は間違っても呼ぶなよ」
リイチさんの迫力はすごい。本職になると普段の虫好きのおじさんとは一気に雰囲気が切り替わる。
「カムイ君ね。あんまり際どいことしない方がいいよ。普通の店に未成年紹介するとかさ。未成年働かせてるって警察にタレコミがあって、オーナーが血眼になって君のこと探してるから逃げるなら逃げな」
それを聞いて、カムイは顔を真っ青にして家を飛び出していった。申し訳ないけど、仕方がない。カムイならなんとか生き延びてくれるだろう、土壇場でも助けてくれる人くらいいるんじゃないかとも思うが、父親のあの電話でカムイがこの家にいることは伝わっているから早く逃げないと捕まってしまう。少しくらい同情的な感情がないとは言わないが、カムイもわかっていて渡っている界隈なんだからせいぜい頑張ってほしい。
僕は繭の私物らしきものをいくつか回収して紙袋に突っ込み、リイチさんと一緒にマンションを出た。
「お世話になりました。ありがとうございました」
「いやいや、君にはまだ働いてもらうから」
「マレーシアですね、分かってます」
「悪いね。僕のお目当ては君の審美眼と熱意がないと発見は難しいと思うんだ。こればっかりは素人に頼めないからさぁ。その代わり、留守中の君の愛しい子たちのことはこちらで面倒見ておくから」
「ありがとうございます。実はケンカを繰り返す子たちを少しずつ慣らしているところなんです。餌の取り合いならまだしもケンカにでもなったらと思うと気が気じゃなくて。できるだけ急いで戻りますね」
「おぉ、そうか。それは大変だ。うん。マレーシアは仲裁が落ち着いてからでいいよ。君らのタイミングで声かけてくれ」
「そんな」
「いいんだよ、大切な家族じゃないか」
「あ、ありがとうございます。あの」
「ん?」
「いつも、笑わずに真剣に向き合ってくれて、ありがとうございます。本当に、本当に感謝しています。僕がここまで頑張れたのは。認めてくれたリイチさんのおかげです」
「え、いやぁ、ハハハ!そんなこと」
「だって」
「いや、感謝してるのは俺のほうだよ。マロくんほどの熱意ある若者と一緒に好きなものに熱中できるって、俺にとってはすごく嬉しいことだから。多分、君が想像するより何倍も」
「そんな、僕の方こそ。今までの人生で、僕のことを馬鹿にしなかったのはカムイしかいなかったんです。だから」
「あぁ、彼のことが心配かい?」
僕は少し迷ったがリイチさんに尋ねてみた。
「カムイはどうなりますか?」
僕の問いかけに対し、リイチさんは言葉を選ぶように時間を置き、ゆっくりと丁寧な言葉で返事をくれた。
「あの男は大丈夫だろう。まぁ、なんだ。冬虫夏草のような男だから。虫の体に寄生し、蝕み、養分にしてしまう」
「冬虫夏草?」
僕はその言葉に背中の毛が逆立つのを感じた。冬虫夏草は大嫌いだ。虫に寄生する寄生虫の次に嫌いだ。
「そう。僕は嫌いではないけどね。あれはあれで興味深いものだよ」
「…はい」
「はは、マロ君はまだ嫌いかぁ」
「大嫌いですね」
「うん、まぁ、君の理想とは違って、そこに種の繁栄やメスの幸福、子孫のための犠牲というような大義がないように見えるからなぁ。栄養が豊富な個体にくっついて育って、吸い尽くしたら次へ行く。そこに意志はなくて、ただ胞子を飛ばして次の宿主を探して寄生していく。それはそれで生存戦略としてありだとは思うが」
「美学が感じられません。疫病みたいだ」
「美学ね。美学」
リイチさんは自動販売機を見つけてコーヒーを2本買った。一つ僕に渡してくれたのでお礼を言って受け取り口をつけた。自分で自覚がないだけで相当のどが渇いていたらしく、僕は一口目の勢いのままにコーヒーを飲み干してしまった。リイチさんはにこにこと僕を見ていた。
僕はリイチさんの言葉を頭の中で復唱した。一回で理解するのが難しい。僕は冬虫夏草が苦手だから、付き合いの長いカムイがそれと同位と言われてもすぐには理解が追いつかなかった。僕を理解して、友人として紹介してくれたあいつが冬虫夏草だとしたら僕はずっと寄生されていたのだろうか。僕らは金銭のやり取りだけの関係ではなかったはずだ。だけど、僕の収入からカムイの儲けが出ていたのも事実だし、客に仕事の紹介を頼んだことでカムイが儲かったのも事実だ。
「おぞましい、と思います。でもそんなことを言ったら、やっていたことは僕も似たようなものでしたが」
「ハハハ、そう思うか。うんまぁ、見る人が見たらそうだね。今回のことで得難い教訓を得たんじゃないか、君たちは」
「だといいです」
「気になるかい」
「すみません、長年友人でしたので」
「まぁ、それはそうだろう。そうでなければ薄情だ」
僕らはそこで解散した。
それから僕は、カムイとの連絡を絶ってしまった。唯一の気がおけない友人と決別してしまった。あれからあいつの事を何度も考え、僕や女の子たちに寄生して胞子を飛ばす姿を想像しては吐きそうになりつつ、頭の片隅に教訓として常に置いておくようにした。僕だって、女の子に寄生して吸い尽くしてしまった過去がある。尽くしているつもりになって、女の子に無理をさせて身を亡ぼすのを黙ってみていた。アイツと同じだしアイツを責められる立場ではない。ただ、線引きをしたところが違っただけだ。多分。
だから結局、僕はカムイを恨むことも軽蔑することもできなかった。美智から送られてくる綺麗な絵ハガキとスマホを鳴らし続ける女の子からのメッセージをじっと見つめ過ごしていると、頭の中に次々と金を出させる方法が浮かんでくる。もう返信することはないけれど、この子たちの虚構を壊し奪ってしまったことの責任の取り方が分からなくて今までやっていたことの是非について柄にもなく考えてしまう。マロはもういない。マロという男が女の子の為に尽くすことはもう二度とあり得ない。だって僕はもうアランとして愛しい彼女と、その子供たちと生きていくと決めたから。勝手だとわかっているけれど、子供を持ち、女性に対する姿勢が変わってしまったのかもしれない。あんなに天職だと思っていたホストという生業が、しこりのように僕を苦しめるとは想像もしていなかった。
僕は、昆虫になりたい。もっと具体的にいうと、カマキリになりたい。自認する性別は男だし、人間であるということも理解している。だけど僕はカマキリになりたいんだ。カムイは何になりたかったんだろう。強い男か、母親を支える孝行息子だろうか。それとも億万長者か、人気者か。本人の口から聞いたことはなかったことが悔やまれる。繭は強く逞しい男になりたいと言っていた。父親が消えた後、繭は残された家で生活しながら高校を卒業し、一年後に短大に入学した。生活費は母方の祖父母と連絡が取れて、そちらが少し出してくれたそうだが、僕からも少し渡して足しにしてもらった。断られたが、社会人になって返せるくらい稼げたらご飯奢ってと伝えて押し付けてきた。父親の行方は僕も繭も知らないけれど、きちんと働いているらしい。二週間弱のマレーシア滞在から戻るとリイチさんがこっそりと教えてくれた。
「マロくん」
ある春の晴れた日、清澄白河のカフェで声を掛けられた。しわがれた女の声だった。墨田美術館で北斎漫画の昆虫が見てみたくて珍しく遠出をしてる時で、カムイと決別してから3年が経過していた。
「あ、えっと」
頭にとっさに浮かんだ「猿の悲鳴のおんな」と言いかけて僕は口を閉ざした。
「久しぶりだね」
僕は二人掛けのテーブルに座ってグアバジュースを飲んでいるところだったが、相手の女は断りもなく空いている席に腰を下ろした。反射的に話を聞く姿勢になりかけたが、僕はもうホストではないしこの人の接待をする義理はないのだ、と思い至り素の自分でいることにした。黙って見つめている僕を、虚ろな目で見つめ返しながら、女は語り始めた。
「ほんと久しぶり。元気だった?しばらく店で見なくなったと思って探してたんだよ。マロ君が店からいなくなってから半年くらいでカムイとも連絡取れなくなちゃってさあ、私お金借りてたから逆に助かっちゃったなぁってくらいなんだけどね。彼にはいろいろお世話になったからさ、ちょっとは心配していたわけ。だって私、ほら、これだったから」
女は両手首の内側を合わせて手錠につながれたようなポーズをとった。
「まぁすぐに出てこれたんだけど。外に出てきたらさぁ、あんたもカムイもいないじゃない。さみしかったわよ。まぁ、新しい彼氏いるからもういいんだけど。で、その彼との生活にカムイに預けてた担保がどうしても必要になっちゃったから、それだけでも返してもらいたいなぁって思ってて。」
口元だけうっすらと笑っている。
「それでね、カムイの居場所を知っていそうな人に話を聞いて回ってるの。マロ君なら知ってるよね」
女の足が僕のスニーカーを蹴飛ばした。脚を組もうとしてぶつかったのだろう。
「誰?」
「は?」
ぼくの問いかけに女は不機嫌そうににらみつけてきた。
「誰だっけ、確か繭の父親の彼女だったよね」
「は?本当に忘れたの?」
「忘れた。名前なんだっけ」
「信じられない!元カノの名前忘れるなんて!」
「僕に元カノなんていないけど。女の知り合いは客か友達だけ」
目の前の女はぶるぶる震えはじめた。初めてこの女と会った日のことを思い出した。あぁ、そういえばあの暑い夏の日に扉を開けた時もこんな顔をしていた。
「私は客じゃない」
「そうだね。結局店には来なかったもんね」
「そうよ。デートたくさん行ったじゃない。なのに友達だっていうの?」
だんだんと語気が強くなる。おやつ時のカフェで小さな子供もいる中、こんな話は続けたくなかった。僕はグアバジュースを一気に飲みほしてから店を後にした。女は勝手に後をついてくる。
「ちょっと!」
「カムイの連絡先なら消したから知らない」
「何言ってるのよ、そんなわけないじゃない!カムイが動画を上げ続けてるんだから!あんたの!マロの動画!」
僕は足を止めた。
「え?」
「本投稿はしてないけど、すぐ消えちゃうやつ、なんだっけ?なんとかかんとかであんたの写真とかつぶやきを投稿してるじゃない。見ていないの?まだ連絡とってなきゃできないことじゃない!」
僕は女の顔を見た。上から見下ろすと白髪や薄毛が目立つ、かなりくたびれた女だ。あの頃よりかなり老け込んだように見える。
「あのアカウントは僕のものじゃない。更新されてるなら、カムイが勝手にやっていることだ」
「は?ちょっと待ってよ。最近、あなたのご両親のところに遊びに行ったって投稿は?あれもあなたじゃないっていうの?」
僕の心臓が跳ねた。驚きすぎると人は無言になるらしい。言葉を失った僕を見て、女はさらに続けた。
「何よ、動画のコメントにもちゃんと返信していたじゃない。本当に知らないの?」
「知らない」
「はぁ?どうなってるのよ」
「あいつとはもう関係ないんだ。会いたいなら会いに行けばいい。投稿しているんだったら居場所くらい興信所で探せばあっという間に見つかるだろ」
「いや、マロの携帯から連絡すれば出るかもしれないじゃない」
「連絡先消した。さっきも言ったけど」
「嘘よ!」
「嘘じゃない」
「じゃぁスマホ貸しなさいよ」
「いやだ」
「ほら、知ってるんじゃない。嘘ついてないならスマホ貸せるはずだもの」
「貸せないし、知らない」
「いい加減にしてよ!」
「それはこっちのセリフだ」
「うるさい!早くスマホ出せ!」
女が僕に掴みかかってきた。ズボンのポケットにしまったスマホをまさぐるためなのか、腰回りに手を回して抱き着くような形になり、ふと以前殴り掛かられたときのことを思い出した。繭の父親のふらふらとした拳。と、同時に記憶が引っ張り出されたのか、めぐみという名前を思い出した。
「あぁ、めぐみか。やっと思い出した」
「はぁ?」
「あんたの名前。めぐみだ。そうだ。美顔器売ってたんじゃないの」
「いつの話してんのよ!その後パワーストーンとガンを消す薬売ってパクられたのよ!あんたほんとに何も知らないのね!」
僕は抱き着いてきた女の腕をつかんで距離を取った。女は顔をゆがませながらそれでもスマホを狙って突進してくる。仕方がないので逆に抱き寄せてからめぐみのブラジャーのホックをはずしてやった。
「きゃぁ!え、なに」
驚いた隙をついて体を離し、広く空いた襟首から見えていたブラ紐を真上に引っ張った。ずるんという感触とともに持ち上がったブラジャーを慌てて手で押さえながらめぐみはかがみこんだ。
「何すんのよ!」
「いきなり抱き着いてくるから、抱かれたいのかと思った」
「はぁ⁉」
めぐみの顔は耳まで真っ赤に染まってニホンザルみたいになった。
「スマホ見ても無駄だよ。カムイの連絡先は知らない。けどスマホを渡したら登録されてる知り合いに余計なことされそうだから渡したくない。お前に知られたくない人間関係もあるんだよ。あと、変な買い物されたりしても嫌だし」
僕はかがみこんでいるめぐみに向かって一方的にそう言ってから駅に向かって逃げるように歩いた。僕は無駄に足が長いのでおそらくめぐみは追いつけないだろう。案の定、地下鉄の入り口で振り返った時にはめぐみの姿は見えなくなっていた。
ここで、ふと両親のことを思った。マロのSNSアカウントを検索してみてみると、もう投稿は消えてしまっているようで見ることはできない。めぐみの言ったことが本当なら、マロに成りすましたカムイがSNSを運用し続けていることになる。もう新しい動画は撮影していないし、案件も引き受けていないのになぜ運用を続けているんだろうか。金にならないのに。
地下鉄のホームで電車を待ちながら、ふと背筋に悪寒が走った。
僕になろうとしている。
信じられない発想に「そんなはずはない」と考え直そうとしたが頭の中に次々と思い浮かぶ以前のカムイの発言や態度が、妙にしっくりとはまってしまった。病的に依存されていたわけでも、監視されるように生活をしていたわけでもないが、僕の友人関係はすべてカムイ経由だったし仕事もカムイの紹介で始めた。趣味以外の全てにカムイがいたと言っても過言ではない。カムイに紹介された職場で、カムイの知り合いに雇われて、そこで知り合った女の子たちはカムイに紹介して稼げる仕事をあっせんしてもらっていたし、僕の住む場所だってカムイが探してきて紹介された場所だった。あいつが知らない知り合いはリイチさん、前田さん、繭。だけだと思っていたが、それ以外でいえばベルギーに旅立った両親もカムイを介さないつながりと言える。あいつはリイチさんを紹介しろとうるさかったし、繭の家庭に不自然なほど入り込んだ。
頭の中でそんなはずないと思いながら、わずかに感じていた違和感が少しずつ繋がりを持ち始めた。
そうだ、そういえば「カナをデリヘルにおとした」言っていたが僕が知っているのはコンカフェで働いているところまでだ。ほかのホストに通うようになってからは連絡を取っていないから、おそらくカムイがいろいろと店を紹介してたどり着いたんだろうと思う。たどり着いたことすら知らなかったが、カムイからすればホスト遊びをするきっかけを作った僕も同罪なんだ。ほかの女の子にしてもそうだ。僕は金を稼げとは言っていないが彼女たちは頑張って働いて高額な支払いをしてくれた。そのお金の作り方を指定したことはないけれど、カムイを紹介するということは風俗店やグレーな働き口を紹介することにつながるんだから紹介した時点で僕は加害者ということになっているんだろう。そして、共犯者だったマロが消えてアランが独り立ちしたことで共犯者を同一化してしまったんじゃないだろうか。
心優しかったかつてのカムイが、母親想いで友達が多かった彼がその道をそれて夜の街に浸って、僕と長い時間ともに”金を稼ぐ”という目的のために動いていたことがカムイを壊してしまったのではないかと気がついた。
自宅に戻り、薄い記憶を頼りに祖母の家に電話をかけた。一度目でかけ間違えてしまったが、なんとか固定電話の番号を思い出して繋げることができた。祖母から母の現在の連絡先を聞いて電話をかける。
「もしもし」
数年ぶり、いや十年以上空いていただろうか。耳慣れない母の声は低く不愉快そうだった。
「もしもし、母さん。俺、アラン」
僕の声は、なんとも言えない緊張感があったと思う。別に気まずい訳ではないのに手が僅かに震えてしまっていた。
「え?アラン?」
「うん」
「本当に?アランなの⁉︎」
「そうだよ」
徐々にテンションが上がっていく声色に、記憶が戻っていく。あぁ、そういえばこんな声だった。
「ちょっとどうしたのよ!びっくりしたわぁ、いきなりだもの」
「そうだね。ごめん、急に」
「いいのよ、それで、どうしたの?」
母は機嫌が良かった。父との生活は落ち着いているらしい。もし昔のように父の悪いところが出てしまっていたら早口で文句をぶつけられることだっただろう。おかげで聞きたいことは全て聞くことができたが、母から聞いた話の内容は想像よりも異様なものだった。
カムイは一ヶ月前、突然メールを送ってきて二日後には父と母の家を訪れたらしい。そして僕が行方不明になったと涙ながらに語り、連絡があったら教えてくれないかと言い残していったそうだ。高校の頃の友人で、僕の写真をたくさん持っていたので母はすっかり信じてしまったそうだ。それはそうだろう、あいつは両親が知らない僕のほとんど全てを知っているんだから。
母は僕の連絡先を知らないかばあちゃんに聞こうとしたが、その電話をかけた時に「息子をほっといて海外に移り住んだからそんなことになったんだ」と説教されてしまい逆ギレして通話を終えてしまったそうだ。
「おばあちゃん、心配してたわヨォ」
と呑気に語る母は、特に僕のことを心配している様子はなかった。まぁ、それはそうだろう、十代の子供を置いて一切連絡を取らないような親なんだから。
「大丈夫だから、心配しないで。それから、カムイの言うことはもう信用しないで」
それだけ言って僕は会話を終えた。次に母と話をするのはいつになるだろうか。
父譲りの金髪じゃなかったというだけで僕を愛せなくなった人だ。すっかり茶髪で昆虫なんかに憧れている息子に興味なんてないんだろう。
アランはいらない子だった。幼い頃の天使のような金髪を失い、父の面影が薄れて母に似ていく息子は捨てられ、昆虫に変身したいと願う変わり者になり誰からも必要とされなくなった。そんなアランをみんなに愛されるマロに変身させたのはカムイだった。カムイはマロである僕に価値を感じてくれていたけれど、僕の両親になんて興味ないと思っていた。
僕はあの高層マンションから退去して、郊外の一軒家で一人暮らしを始めた。彼女の子供達の子供達、さらにその子供たちの代まで苦労なく暮らせるように、人間の居住スペースは最低限にしてほとんどを中庭にしてある一軒家。僕の楽園だ。ここはリイチさんにも案内していない。僕は中庭の全体が見渡せる定位置に座って彼らを眺めながらスマホを開いた。
マロのSNSは今日も投稿されている。本投稿ではない、二十四時間で消えてしまう上にマロの姿も映っていない。風景や、食事、ブランドロゴなどそれっぽいものばかりだ。いままでずっと顔や私服の写真ばかり載せていたのにぱたりとそうではなくなったホーム画面は、現役を引退し隠居生活を楽しんでいるようにみえる。
「今日もマロは肉を食らう」
「今期の新作可愛すぎ」
「このお姫様は誰かな」
いかにもマロが言いそうな事ばかりだ。当たり前か、初めからあいつが運営していたんだから。
「どっち買うおうか悩む。二百万と二百五十万」
「高層階しか勝たん。眺め最高」
「ベルギービールと寿司という組み合わせ、最高に俺っぽい」
「なんか知らんが事業をするなら出資してくれるらしい。俺って人気者」
高級品、高層マンション、正体不明の経営者。日々更新される投稿を見る限りマロは現役を退いてからその経歴を活かして経営に乗り出そうとしているらしい。ホストクラブか、別の事業か。一体どういう仕組みかわからないが、マロに出資したいと言う人がいるとしたら、それはカムイの知り合いなんだろうし、カムイを経由してことを進めていてもおかしくはない。おかしくはないが、まぁ、気分は良くなかった。マロは、僕の知らない僕の大嫌いな道に進もうとしている。金儲けにも経営にも興味はないし、自分で高級品を買ったり海外を旅行することだってありえない。かつての僕だったものが僕の元を離れて違うものになっていく様はまるで虚構が一人歩きしてしまっているようでゾッとする。僕が客の彼女たちと作り上げた虚構ではなく、誰の夢も叶えない、役割を果たさない虚構。どんなにSNSで虚勢を張ったとしてもマロにはなれないし、マロが親と仲直りすることも、現実のマロが店を持つことも起業することもできない。全部ありえない事なのに繰り返し投稿される内容を見ていると本当のことのように感じられるから、一層怖くなる。アランから離れた”マロという虚構”が独り歩きしようとしている。
自宅の中庭で小さなカマキリたちが餌に群がっているのを眺めていると、今日の投稿を知らせる通知が鳴った。札束とブランドものの鞄が映った写真が投稿されている。こんなものより、カマキリたちの食欲のほうが大切なのに誰もそのことを知らない。マロとしての僕しか知らない人は今現在の僕がこんな生活をしているとは想像もしないだろう。虚構の中のマロの方を信じる子が多いんだろうと思う。親ですらきっと、今の僕とSNSの中の僕のどちらが本物かと聞かれたらSNSの中のマロこそ本物の息子だと言うかもしれない。それくらい、母は僕のことを知らないから。だからこそ、僕は虚構の僕が気持ち悪くて仕方がない。
成し得ない夢を語り、あり得ない家族関係を公表し、偽物のライフスタイルを発信し続ける。嘘はいつかバレる。虚構はいつか消え去ってしまう。なのに日々更新される投稿とそれに寄せられるコメントは虚構に栄養を与え太らせてゆっくりと僕の知らない方向へ進んでいく。
おぞましい寄生虫に乗っ取られ、水辺へと向かうように。
2
父親がネクタイを締めていた。鏡の前で、苛立ちをあらわすように舌打ちをしながら何度もネクタイを締めてはほどき、また締めなおしてはイライラとした顔を鏡に向けていた。そして母を怒鳴りつけ、髪の毛をつかんで引き倒す。母の叫び声が聞こえて自分の心の中がすごく苦しくなる。母はゆっくりと立ち上がると、ふんぞり返る父の首元に手を当てて首元のネクタイを手に取った。震える指で締め直し、きれいに整え終わると深く頭を下げた。父は満足そうに微笑むと母と自分を残して家を出ていった。
それが僕の最初の記憶だ。
自分の父親は今でいうDV野郎で、母を殴って痛めつけて思い通りにしないといられない奴だった。ひどいときには母が立てなくなるくらい痛めつけて罵倒していた。自分は母のことが大好きだったので辞めてほしいと伝えたことがある。3歳か4歳か、それくらいの年だっただろうか。父は普段、子供に対して全く関心がなかったくせに来客時には膝にのせたり話しかけてきたりするところがあり、今思うと外面だけいい人だったんだろうと思うが、当時言葉を覚えたてだった自分はあまりにも愚かなことに自分の話を真剣に聞いてくれている父にたいしていまなら話を聞いてくれるだろうかと期待をかけてしまった。
「おかあさんをぶたないで、大きいこえでおこらないで」
親戚などの大人の前で僕はそう父に伝えた。父の顔から表情が消え、背中の下のあたりを強くつねられたのを覚えている。
「何言ってるんだ、カムイ」
微笑みを取り戻した顔でそうささやく父の目は細かくピクピクと痙攣していた。
「いたい!やめて!」
その叫び声で親戚が集まってきた。父親は慌てて手を差し伸ばして何か優しい声をかけてきたけれど、そばに駆け寄ってきてくれた父の年の離れた妹だという叔母の胸に飛び込んだ。叔母が「どこが痛いの?背中?」と聞いてくれたので大きく頷きながら服にしがみついた。叔母は洋服をたくし上げて確認した後「怖かったね」と言って頭を撫で、抱きしめてくれた。母が遅れて駆けつけてくれて、叔母と一緒になって抱きしめてくれた。ここまでしか自分の記憶にはない。この後、大人たちがののしり合うように大喧嘩をしていたような気がするけれど。
翌日には簡単な荷物をもって祖父母の家に一時的に引き取られ、しばらく過ごした中で父と母は離婚したと聞かされた。母に引き取られた自分は狭いアパートで二人暮らしを始めることになる。父のいない家はどこよりも安心できたし母の笑顔が見られるようになって初めて家の中が幸せだと感じていた。
小学校に上がってからは、貧しいながらに母と穏やかに暮らしていたと思う。背が低かったので友達から馬鹿にされたり貧乏を笑われることもあったけれど、自分にとっては怒鳴り声より笑い声の方がましだと思えたから、なんとも思わなかった。貧乏もチビも、自虐に変えてしまえば一転して人気者になれる。それに当時、子供時代にホームレスとして生活していた芸人のエピソードが流行っていたこともあって、自分が語る貧乏エピソードはウケにウケ周囲はだんだんと自分という存在を受け入れていってくれた。友達がどんどん増えて友達のお兄ちゃんやお姉ちゃん、その友達や知り合いにまで自分のことは知れ渡っていった。母はいつも友達と遊んでいる息子を見てニコニコと笑顔で見守ってくれていて、以前の陰鬱な様子からはまるで別人のように変わっていった。
母は働いていたが、在宅で仕事をしていたために友達を連れて帰っても喜んで迎え入れてくれた。確かに古い家だったが、デザインの仕事をしている母が選んだ家具や食器はどれもセンスが良く、きれいに掃除された室内で美味しいお菓子を作って待ってくれていたので友人は絶えることがなかった。
母はだいたい家にいてくれたけれど、スーツを着て外に出ていくこともあった。そういう日には暗い顔をして帰ってきて、夜眠るまで苦虫をかんだような顔をして仕事に没頭していた。中学に上がってすぐ、口の端からこぼれるように愚痴を吐いてくれたところによると、どうやら得意先の担当者が無理難題を吹っかけてくることがストレスになっているということだった。得意先というのはとある出版社の社員で、話し方や考え方が父に似ているらしい。仕事と割り切って接している分には合理的で推進力のある人物だが、シングルマザーで気の弱い母のことを見下すような発言をいちいちはさんでくるそうだ。母は決して言い返さず、微笑みを返すばかりで相手を増長させてしまう。それもよくないのだが、その男と打合せをしてきたあとは全く関係のない父のことまで思い出してしまって気持ちの割り切りが難しいと言っていた。それはそうだろう、あの父親の面影を感じることが母にどれだけ負担になるか想像しただけでもぞっとする。幼い自分は肩を揉んであげるくらいのことしかできずもどかしかった。
中学に入って、母への心配の他にもう一つの悩みが生まれてきた。恋愛ができなかったことだ。周囲が恋人を作っていく中で、自分はどうしても一人の相手を定めて交際するということに納得を得ることができなかった。それは父と母の関係が大きく影響しているのが明白で、恋人一人に依存することがどれだけ怖いことなのか刷り込まれていたからなのか恋人どころか特定の一人の人間と仲良くすることすら自分には難しいことだった。それと、自分たち母子が周囲の親切な人たちの救いの手を支えに生きていたから「みんなが少しずつ助けてくれている」という感覚を常に持っており、その救いの手を狭めてしまう気がして怖かった。母が体調を崩せば祖父母のみならずアパートの隣人や、父の妹が助けに来てくれたこともあった。学校の先生、近所に住む自治会長さん、PTAの父母、児童館の先生。あらゆる大人が自分たちを気にかけ、心を寄せてくれた。これは今になって思うことだけれど、おそらく自分たち親子の見た目が良かったということも起因していたんだと思う。母は小柄で声が可愛らしく、薄茶色のきれいな瞳と髪をしていた。決して美人ではないがとにかく愛嬌があり、ニコリとほほ笑むとたいていの人が微笑みを返してくれ、ゆったりと落ち着いた話し声は相手をリラックスさせる、そんな人だ。記憶の中の父は映画俳優のように大きくて整った顔をしていた。だからうまくいっていれば美男美女のカップルだったんだろうなとも思うが、父と暮らしていた時の母はとにかく痩せていて不自然に胸だけ大きい体系をしていたから結婚前までの話だろう。離婚してからは平均的な体型に戻っていき今ではすっかりおばさんだが相変わらず愛される人柄で落ち着いた穏やかな雰囲気を纏っている。自分は母のいいところを引き継いだのか身長は大人になっても164センチと小柄で丸顔で大きな瞳、笑うと”かわいい”と言われるような男に育った。鏡の前に立っても父親を感じることがないので母親に似てよかったと思っているが、唯一耳だけは父親の特徴を引きついでしまっていたので髪の毛を伸ばして隠していた。とにかく、自分たち母子は小さくてかわいい、少し頼りないけれど愛嬌のあるマスコット的な存在として数多くの人に支えられて生きてこられた。
中学2年の夏、そんな自分にも初めて彼女ができた。グループで仲が良い女子のうちの一人で、デートと言っても必ず仲間の誰かが一緒だったし関係の発展を求められることもなかったので気軽に交際を始めてしまった。が、彼女はそんな自分に不満を抱えはじめグループ内のバランスが崩れ始めてしまった。
「なんで二人で会ってくれないの」
「どうして違う女子と二人きりになるの」
こんなことで怒られたような記憶がある。どうして、と言われても答えられず、次第に彼女は違う男に惹かれ離れて行ってしまった。夏祭りに一緒に行こうね、と誘われていたのも複数の友人と一緒に行った方が楽しいと思って勝手に誘ってしまったし、二人で記念日のプレゼントを買おうと言われ外出した先で地元で仲がいい先輩に声を掛けられそちらに合流し、先輩に勧められたものを買って彼女に渡した。そんなことをしていたのでフラれて当たり前だが、当時は恋人という関係の距離感をとらえられずひどく落ち込んだりもした。なにせ、誰かに嫌われる、という経験をほとんどしたことがなかったからだ。自分のことを嫌っていたのは唯一父親だけだ。彼女に嫌われるということは、父親が自分や母に向けたような嫌悪を向けられるのではないか、自分はそれほどのことをしてしまったのではないか、ととにかく恐れて落ち込んでしまった。母はそんな自分の様子を見て話を聞いてくれた。「謝りなさい」と言われたとおりにすぐに彼女に謝り、怒りは解消されたようだがもう恋人としては無理と断られてしまった。それから、自分は本気の恋愛をするのはやめようと心に決めた。若干十四歳ながら自分に恋愛対象を大切にするのは無理だと確信した。
そんなことに悩みながらも過ごしていた母との穏やかな日々が急に終わりを告げたのは中二の冬のことだった。ある日の夕方、部活が終わって帰宅しても母がおらず、夕飯の支度をしながら探しに行こうかと迷い始めた時、母が真っ青な顔をして家の中に駆け込んできた。勢いのまま玄関と窓のカギを確認し、カーテンを閉めて電気を消してから、自分をトイレに引っ張っていって押し込んだ。ドアを閉めた後
「鍵を締めなさい!」
と大きな声で言った。あまりの剣幕に訳も分からず出ていこうとした瞬間、玄関ドアがダンダンダン!と叩かれる音がした。直感的に父だと思い、ポケットに入れていた携帯電話を取り出して誰かに助けをもとめなければと通話を押そうとした。が、誰に助けを求めていいのかわからず真っ白な頭でひたすらにアドレス帳に目を滑らせるしかできなかった。外からは母の「やめて」「帰って」という弱弱しい声と、激しくドアをたたく音が聞こえてくる。ダンダンダン!ダン!ダン!と次第に音の感覚が広がっていき、数秒の静寂が訪れた。自分は3歳のころの身体に戻ったように小さくなって震えていた。音が止まって数秒、ガラスの割れる大きな音がひびいた。あまりにも派手な音がしたのでアパートごと壊れてしまったのではないかと恐怖に身を固くしていると、男のうなり声がきこえた。
「あーーあー!ぅあーー!」
とても理性的とは言えないその声は、確かに聞き覚えのある父親のものだ。自分のいるトイレのすぐ横にキッチンがあり、その反対側はもうすぐに玄関だ。割れたのはきっとキッチンの窓だろう。母の声はドアのすぐ外から聞こえてくるから、トイレの前に立ちふさがって父と対峙していようだ。がシャンがしゃんとガラスの砕け散る音と
「入らないで!出ていって!」
という母の悲鳴が近づいてくる。母はもうすぐ扉の外にいた。
「かあさん」
自分の呼びかけに答えず、母はひたすらに同じ言葉を繰り返していた。
「あいつをだせぇ!ころしてやる!」
今度ははっきり聞こえた。父の怒声だ。
「いない!学校に行っているから!」
「出せ!殺してやる!お前の目の前で殺してやる!あいつを殺して、お前を殺してから俺も死んでやる!」
「いない!今日は帰ってこない!痛い!やめて!」
母が悲鳴に近い声と同時にドアの前でドスンという音が聞こえた。自分の心臓は飛び出して破裂してしまいそうで、それなのに体はピクリとも動かせず焦りと不安ばかりが募っていった。ドアのすぐ外から「あいつを出せ!あのガキを出せ!」と叫ぶ父の声がする。脳裏に浮かぶのは母の髪をつかんで引きずり倒すかつての父の姿だ。きっとあの頃と変らない、大きくて怖くて絶対的な存在感。ガキ、というのは自分のことだ。自分を殺しに来た。どれだけの時間叫び声を聞いていただろうか、ある瞬間に「違う!違う!」という父の声と聞いたことのない男の声が複数聞こえてきた。バタバタと外から複数人の大人の話し声と父の叫び声が聞こえ、次第に遠ざかっていった。何があったのか、おそらく父が誰かに連れ出されたのだろうとは思ったが恐怖のあまり体を動かすことができなかった。やがて静かになり、こんこん、と小さくノックされてハッとした。慌ててドアノブに手を伸ばして鍵を開けたが、それまで経験したことがないくらい手が震え、指先は凍ったように冷たくなっていた。
ドアを開けて、まず目に飛び込んできたのは母の顔。頬は赤く腫れ、髪の毛は乱れていて目が真っ赤に充血していた。それでも自分を見た瞬間に顔をほころばせて涙を流し抱きしめてくれた。「よかった、よかった」と言って今にも倒れそうになりながらただ茫然としている自分を抱きしめ、そして泣いていた。
それから2日間母は入院した。自分は祖父母の家に泊まらせてもらい、なんだかんだと年越しまでそこで過ごした。母は泊まりにきたり家に帰ったりと、父にかかわる様々なことに追われつつ仕事をこなしているようだった。父は祖父母の家には来なかった。隣に住む伯父が怖いから近づかないんだ、と祖父は苦々しそうに言っていたのを覚えている。伯父は土木関係の仕事を営んでおり、自宅近くの寮には若い従業員が多数控えていた。この従業員たちが母を好いており、父の姿を見かけたらただでは済まさないだろうということだ。
年明けに引っ越しを告げられた。まぁそうなるだろうと思っていたが、引っ越し先は他県で何のゆかりもない土地だったことは少し驚いた。もしまた父親が来たらと思うとどうしようもない不安に駆られたが、新居はオートロックのついたマンションで、DV被害者のシェルターとして使えるよう配慮された物件だということでそこに決めたようだ。引っ越しはあっという間に完了し、二月になった。中学は四月から転校することにして何とか電車を乗り継いで通っていた。そんな中で、同級生から節分の祭りに行かないかと誘われた。地元の神社で行われる祭りの一つで、毎年ちょっとした催し物が開かれたり、芸能人を呼ぶような一大イベントだ。友達の親戚が店を出すから遊びに行こう、という事だったので引越し先の新居からは少し遠かったけれど断るのも良くないと思い行くことにした。
当日、駅前から人の波に流されるまま神社へ向い友人たちと合流してからブラブラと周囲を歩いた。たこ焼きや焼きそば、ラムネや射的などの屋台を周り、座って休める場所を求めて少し離れた空き地を目指した。その空き地は地元の人間ならなんとなく知っている程度の知名度なので祭りに訪れたような遠方の者は知らないだろうという予想を立てて向かった。実際にその空き地には少し資材が置かれている程度で誰もいなかった。友人がクラスメイトに電話をかけて数人集めるというので、自分は電話をかけている間にトイレに行くことにした。トイレは空き地から神社に向かう途中に設置されている。引き返すように神社に向かい、トイレの列の最後尾に並んだ。並んでいる途中で友人数人とすれ違ったので挨拶を返していると、唐突にそいつは現れた。神社の方から歩いてくる人物、それは父親だった。
慌てて顔を伏せて、ちょうどよく開いたトイレの個室に駆け込んだ。前に並んでいた人は小便器に用があったようで怒られなかったのが幸いだった。とりあえず用を済ませてから、そっと個室を出て手を洗い外の様子を伺った。父親の姿は見当たらなかった。なぜここにいるのか、どうしてこの道を上がってきたのかわからなかったが見つかったら殺されるという恐怖が襲いかかってくる。あの日トイレに閉じ籠るばかりで何もできなかった悔しさや、殴られた母の顔、その後の情けない自分への後悔。色々な感情が渦巻いて吐いてしまいそうになりながら、恐る恐る友人たちの元へ向かった。勘違い、人違い、見間違い、その可能性であることを祈りながら一歩一歩進んでいくと、空き地にあと五メートルと近づいたところであの男の後ろ姿が見えてしまった。友人たちの元へ向かうその背中は、怒りに強張っているように前倒しでかつての父の恐ろしい姿と重なって見えた。
その瞬間、幼いころ神主さんに酷く怒られたときの記憶がよみがえってきた。なぜだかわからないが、その記憶がドミノを倒すようにこれからとるべき行動を示していきある一つの手段を提示した。それは絶対によくないことだが、それ以外の行動が思いつかなくなっていた。父の姿が大きく黒く、うごめく蟲の化け物のように見える。が、思いついた以上その行動をとらない選択肢はなかった。
「おーい、かむいー!」
自分はダウンジャケットのフードを深くかぶり、父親に背中を向けて、つまり進行方向後ろを向いてそう叫んだ。
「かむいー!こっちこっち!」
自分の背後から足音が近づいてくる。
「は?お前、トイレ?わかった、先行くよ」
そう叫んだ瞬間に父親が自分を追い抜いてトイレに向かっていった。心臓が高鳴り、耳の奥でどこんどこんと脈打つ音が聞こえてくる。なのにあたりはやたらと静かであいつの背中にだけフォーカスが当たったように視界がはっきりとしているように感じた。頭にあるのはあの襲撃の日のこと。母の泣き顔と、殴られた傷跡、壊れた家に家族の張り詰めた空気。母はまだ立ち直っていない。ボロボロの精神状態でなんとか毎日の生活を立て直すために働き、父親に関する法的な手続きを進めていた。自分はトイレの中で、祖父母の家で、学校の中で守られているだけ。胸が張り裂けそうだった。身長はとうに母に並ぶほど伸びたのに、声変わりだって迎えたのに自分はまだまだ幼い子供で何もすることができなかった。恥ずかしくて悔しくて、この一ヶ月は毎晩うなされるほど辛い日々を送っていた。
あいつがトイレから出てきた。並んでいた他の大人に追い払われるように飛び出てきたところを見ると中で大騒ぎしたんだろう。アイツは確かに怖いが、一般的な大人の男よりは小柄で華奢だから大人相手にはかなわないはずだ。
自分は、神社の裏の倉庫の方に向かって歩き始めた。歩き始めてすぐ、後ろからついてくる足音に気がついた。怒りをまき散らすような足音は間違えなくアイツの足音だ。心臓が跳ねるように鼓動している。痛い程全身の筋肉が硬直し膝が震えて崩れ落ちそうだった。怖くて、逃げ出したくて、大きな声を出して助けを呼びたかった。気が付くと、おかあさん、おかあさんと口の中で小さくつぶやいていた。
「おい」
アイツの声が二メートルほど後ろに迫った。振り返らずに目的地に向かって一心不乱に足を進めたが、気持ちばかりが急いてしまって足が思ったように動かない。早く早く間違えないように今この瞬間にあそこ迄連れて行かなければ。
「おい、おまえ!神威か!」
名前を呼ばれたのはいつぶりだろうか。もしかしたら初めてのことかもしれない。アイツの声で聴く自分の名前は新鮮で、自分を特定するその呼びかけはなぜか少しだけ自分の気持ちを軽くした。
「待て!おい!」
目的地に到着した。倉庫の裏にある小さな小屋。トイレのように見えるが、中にはぽっかりと大穴が空いている。大昔の井戸の跡だとかつて神主が言っていた。幼いころ、この穴中に石やカエルを放り込んで遊んでいたら、ものすごく怒られてしまったことがある。この井戸は本当に深くて底がぬかるんでおり入ったらもう出られないらしい。埋めてしまおうとしたが神社にゆかりのある井戸なので囲って保存しているとのことだった。
節分の祭りが佳境を迎えた。司会者がマイクを使い豆まきの号令をかけ、参加者が歓声を上げている。おおー!うわー!というような歓声とBGMが響く中、反抗期の中学生以外は神社に集まっているだろう。氷点下に近づくような寒い昼下がりに薄暗い神社裏に来る人間も、動物すらいなかった。小屋には鍵がかかっていたが鍵がついている戸板が外れやすくなっているのを知っていたので力任せに引っ張って外し、中に入った。中に入ると、上からロープが垂れ下がっておりそれを掴んで反対側にある小さな足場に渡れるようになっている。自分はそこに渡ってロープを掴んだまま小さな小屋の壁の木材に足をかけて上にのぼるようなそぶりを見せた。小屋の壁の隙間から陽の光が差し込んでうっすらと明るいなか、何とか上に逃げているようなふりをしつつアイツを待った。
「おい!」
ドアの向こうにアイツが現れた。壁を上っている自分を見上げてにやりと笑ったあと
「見つけたぞ!」
といって腕を伸ばした。
もし、自分の物語がコメディだったら大穴の上でジタバタと暴れる父が消えるように落ちていき、ハッピーエンド!と文字が現れて終わっていたはずだ。実際には、踏み出した一歩が奈落につながるとは知らず、驚いた顔を見せたかと思うと顔面を自分の足元の足場に激しい音を立ててぶつけたあと、鼻血をまき散らしながら転がるように穴の中へ落ちていった。叫び声は聞こえなかった。ボチャン、という水音がかすかに聞こえて、あとはとても静かになった。
ゆっくりと小屋を出て、だれにも見つからないようにフードを深くかぶって駐車場に向かった。誰にも何も言われなかった。父は行方不明、自分達母子は穏やかに暮らすことができた。
その日から自分は、自由になった。
アランと喧嘩別れをしてから、よく父親の事を思い出すようになった。アランと知り合ったのはアイツを井戸に落とした後。新しい土地で新しい学校に通うようになってからの事だ。アランは高校入学前から地元の有名人で、お城のような家に住む王子様のようなイケメンがいると主に女子の間で話題沸騰、自分も少なからず興味関心を向けていた。同じクラスになって、日本人離れした顔立ちや周囲に関心を向けない独特な雰囲気に一瞬で惹かれてしまった。アランの事が好きだという女子が自分に仲介を頼んでくることもあったがアランは全く興味を示さなかった。そのくせ、女の子と引き合わせると嫌な顔をせず相手をしてからのらりくらりとかわしつつ嫌われることなく上手に距離をとっていた。そんな様子を見てなんとなくアランは女に興味がないんじゃないかと思って聞いてみたことがある。
「ない」
そっけなくそう言った。その表情には何も浮かんでいなくて、恋愛に関する思春期特有の戸惑いや恥じらいは一切感じられなかったのが印象的だった。
アランの実家は、まさしくお城と呼ばれるのがふさわしい母親の趣味を煮詰めたような内装で、趣味の濃さに酔ってしまいそうだった。と同時に、あの内装の家にほぼ閉じ込めるように育てられたアランに酷く同情してしまった。自分が自分と母親を守るために周囲を味方につけようと必死になって交友関係を広げている一方で、アランは誰とも仲よくしようとせず距離感を大切にする相手とだけ交友を持っていた。アランとの距離感は自分を不安にさせるかと思いきや、意外にも居心地がよかった。アランより長い時間過ごした友人も、より深い話をした相手もいたけれど何故かふとした時にアランと一緒にいたいと思うことが増えていった。アランの整いすぎた顔や細くて長くて何故か筋肉質な体は、時折見惚れることもあったけれど見慣れてしまえば気にならなくなってむしろ表情に乏しい所ややたらと動かないでいるところが目につくようになった。どこも見ていないような瞳、呼吸を止めているのではないだろうかというほどの静寂が、まるで壁に張り付いたまま動かない蜘蛛のようでゾッとする。
「おまえ、たまに虫みたいになるよな」
ポロっとそう言ってしまったことがある。ちょっとした悪口、イジリのつもりだったがアランの顔にはそれまで見たことがないほどの笑顔が浮かんでいた。
「本当!?」
百戦錬磨の美女でも、恋愛不感症の喪女でも思わず心が動かされてしまうようなとびきりの笑顔でアランは抱きついてきた。アランが身体的な接触を図るのは珍しい事なのでおどろいて体が硬直してしまった。いい匂いがして、大きな体に抱きしめられると存外ときめいた。
「うれしい、うれしい!僕はカマキリになりたいんだ。いや、虫なら何でもいい。でもできるならカマキリになりたい。僕は、人間でいたくないんだ」
大きな体で僕を包みながら、アランはそんなことを言い始めた。全く理解できず、何も言い返せずにいるとぺらぺらと自分の夢を語り続けた。曰く、幼いころから自分の体に違和感があり、虫のように草原の中で暮らしている夢をよく見るようになったとか、虫のように繁殖して子孫を残していきたい、とか、オスとしての役割や生きていく季節に意味を感じてみたい、だとか。こいつは頭がおかしいんだと合点がいった。ただ、あまりにも嬉しそうにそう話をするので、アランが本気なんだという事だけは理解ができた。だから女の子に興味がないのか。だから男同士のマウント争い、格付け、ヒエラルキー、立ち位置、グループ内でのキャラ作りに興味がないのかと。こいつは人間ではなくカマキリだから。
「僕はいつかカマキリになって、草原でメスに食われて死ぬんだ」
アランはうっとりとした顔でそう言って自分を強く抱きしめた。ちょっとした恐怖だ。
「へぇ、そっか」
それしか返事ができない。この見た目で、このスペックでなんともったいないことを。
「あぁ、ありがとうカムイ」
それから、アランは自分を頼ることが多くなっていった。
スマホが鳴った。スマホは常に誰かしらからの通知を表示しているけれど、通知音を設定しているので分かった。これはすぐに対応するべきだ。内容を確認すると出資者の一人からの連絡だった。出資に関するブリーフィングの打診だ。飲食店を開業するための資金を出資してほしいと話を持ち掛けてから二週間。今回はうまくまとまりそうだ。出資を依頼しているのはこの資産家を含めて39名。色よい返事を返してくれたのは三名。これで四人目になりそうだ。マロの客から手っ取り早く金を集めようとも考えたが、そこは本人不在ではやはり難しかった。大きなため息をついて、スマホを閉じた。
東京の端、工場と田畑、住宅地ばかりの駅徒歩二十分、ボロアパートの二階角部屋。中学時代の同級生が住む部屋のかび臭い畳の匂いが身体に充満して反吐が出そうだ。本人は工場の仕事についているので今は不在だが夜になったら帰ってきてしまう。夕飯を作って洗濯物を取り入れて掃除をしておかなければならない。ささくれだった畳をかかとで擦りながらゆっくりと立ち上がって締め切ったカーテンから外を覗き見た。昼間なのにどことなく薄暗い路地は人ひとり通らない。わざわざこのアパートを目的地にしないと来られない場所だ。物音がしたら分かる、誰かが来たらすぐに察知できる。だからこんなに警戒する必要なはないはずなのに、自分を追いかけている相手の事を思うと警戒しすぎても足りないと思ってしまう。警戒して、逃げ回って、身を隠して生きていかないと井戸に沈められるよりもひどい目にあわされるだろう。
繭をヘルスに紹介したのは失策だった。
アランと一緒に夜の世界で生きていくのが楽しかったのは、アランが完璧できれいなお人形でいてくれたからだ。ある程度の良心があり、真実と快楽なら快楽を優先し嘘がうまい。女に執着を持たず、かといって見捨てたりもしない。女の子たちは面白いほどアランに夢中になっていく。アランの資質はきっと彼の母親が養ったものなんだろうと思う。あいつは生まれながらにして父親の代役で、物語に出てくるキャラであり、母親の夢を具現化するパーツの一つでしかなかった。あのお城みたいにきれいな家の中の家具の一つと言ってもいい。アランは気にしていなかったけれどアランの母親は料理がへたくそでほとんどが外食か母親のパート先からもらってきた廃棄品の食糧で賄われていた。それなのに身に着けている服や香水は高価なものばかりで、着せ替え人形で遊び続けている女の子がそのまま中年になったような人だった。
自分の母の体調が崩れたのは3年前のこと。体調が悪いというのに仕事を休もうとしないので無理やり病院へ連れていったところ病が発見された。そのまま入院となり難局は切り抜けたが、通院で仕事量が減り金銭的な不安からさらに体調を崩すようになってしまった。母を支えるために送っていた仕送りは決して安くはなかったが、母は自分の両親の介護、通院の介助を行なっていたから余裕はない状態だった。一度、自分が仕事をセーブして家族の支えになるという転身も頭をよぎったが高卒でキャッチを続けてきた自分が今更地元でまともな仕事につけるはずもなく、かといって不労所得を得られるほどの資産もない。仕方なく仕送り額を増やしてヘルパーを頼んだりと手伝える範囲で手を貸していた。今になって思えばこの時に家に帰っていればよかったんだと思う。
アランとの関係に翳りが見え始めたのはその少し前。リイチさんという人物の話を聞くようになってからだった。今までもあいつと仲良くなる人は何人かいたけれどどこか上辺だけの関係であるような気配を強く感じていた。高校の同級生、大学の友達、恋人になった女、バイト先の先輩、ホストクラブのオーナー、同期。皆アランが虫になりたいということまで知らされず、そこそこの関係で付かず離れずといった感じがした。特に恋人になった女の子は「相談があるんだけど…」とあっという間に自分に乗り換えようとしてきて呆れてしまった。まぁ、アランが相手なら仕方がないかとも思うが真逆のタイプの自分のところにきたところからして誰でもいいんだろうなという感想しかない。アランとの距離感が心地いいのなんて自分くらいのものだろう。通常の友人関係が1メートルの距離だとすれば、アランは常に3メートルくらいの距離を感じる。が、かけてくれる言葉や視線、気遣いは誰よりも優しくて甘い。自分に甘えてくる様子や心を開いてくれているような仕草は堪らなくなることもあるくらい心を掻き乱されそうになるが、それは決して手の届かないところから向けられている。自分は一歩踏み出すつもりも、アランのパートナーになる気もない。というかそもそも自分にはパートナーを作るつもりがない。父が母を殴る様子が脳裏を横切るので、結婚という制度にそもそも懐疑的になってしまっており、その前段階としての恋人関係にも踏み出せなくなってしまっている。男相手には「実は外では良い人間を装いながら家では女を殴って子供を苦しめるような男かもしれない」というレッテルを貼ってしまって、どんなにいい人相手であっても、いやいい人であればるほど警戒心が高まってしまって親密になれなくなっていた。友達は多いのに、親友は一人もいない。自分はそういう男でアランも一緒だと思っていた。なのに”リイチさん”はアランの懐にストンと入り込んでしまった。まさかアランを理解できる人間がいるなんて思わなかったし、それが夜の街の頂点に近い存在だということも意外だった。意外だったが、当初は特に興味も膨らまずどうせすぐに疎遠になるだろうとたかを括っていた。なのにアランは仕事よりもリイチさんを優先するような言動が増えていった。カマキリがどうとか、公園で虫取りをしたとか、到底ナンバーワンホストとは思えない振る舞いが増えていき、自分の中で言い難いほどの黒い感情が渦巻いていくのを感じた。
極めつけは「運命のカマキリ」だ。あいつが今までに見たことのない顔で語る運命の相手の存在が俺たちの関係を決定的なものへと変えてしまった。
道端で見ず知らずの金にもならない女の子に声をかけて、そいつのためにめんどくさいおばさんを引き受けたり、そんな風に身を尽くすような友人はいなかったはずだ。あいつはカマキリになりたかったはずなのに急に人間らしいことをはじめ、普通の人のような人付き合いを始めていった。
自分だけになついていたはずの動物が、ほかの人間に芸を仕込まれていたような不快感が込みあげた。自分の所有物でも、家族でもないのに。アランはもはや仕事仲間でしかなかったのに、それでもアランにとっての気の置けない友人は自分しかないいと確信していた。何にもない部屋のフローリングでラップにご飯とおかずをを置いてちいさくなって食事をしたり、大きいだけのベッドに体を横たえて死んだように眠っていたり、昆虫のように感情を感じさせない顔でぼーっとしている様子は自分以外には見せないのだと思っていた。客や仕事先の人間に見せる表情と自分に向ける表情は明らかに違ったはずなのに、繭やリイチさんという不確定な存在があっさりと入り込んでいた。
嫉妬ではない。不快感だ。
それに気が付いてからも普段通りにふるまっていた。不快感を抱えながらも、少しずつ変わっていく様子を3メートルの心の距離でじっと見ていた。そこらへんから、表向きは普段通りに振る舞っていても胸の中で何かが少しずつ変わっていったのだろうと思う。コンカフェで働いていたカナをラウンジで働かせ、徐々に太い客をつけていき欲に目がくらんだところで風俗を紹介した。整形費用、旅行費用、衣装代、そしてもちろんホストへの支払い。金策に追われるカナは飛びついてきた。アランの客は本人から言い出さない限り風俗店に紹介することはしないようにしていたはずだったのに「もういいや」とヤケを起こしてしまいそれまでぎりぎりのところで管理していた女の子たちのメンタルが壊れてしまってもいいかと、より稼げる仕事を斡旋するようにした。風俗やキャバクラへの紹介は確かにいい金になるけれど、どうしても女の子のメンタルや出勤を管理し続けなければならないという面倒臭さがある。まぁそれが仕事といえばそうなのだが、そこで意外といい金になったのが、田舎で嫁を探しているという家に女の子を送り込むことだった。風俗通いの中年にかけられた「嫁さん紹介してくれよ」という一言から始まった。半年間、家に住み込みで奉公させて一千万。女の子本人と自分で山分け、という条件だったが、女の子が戻ってくることはない。嫁、という扱いで囲い込まれ戸籍を移されてしまう。ここまでやって、自分は人買いの類になってしまったんだなと気が付いた。そう気が付いてしまってからは完全にタガが外れた。繭がアランを変えた一因であることとか、繭の父親が自分の父親と似ている気がしたこととか、そんな理由で繭を風俗で働かせて堕ちるところまで堕とそうと思ってしまった。トイレの扉と母の背中に隠れて怯えているだけの自分と、アランに助けてもらって呑気に生活をしている繭の存在が被ったのかもしれない。自分が一番憎んで、嫌いで、消し去りたい人生の汚点であるあの時の自分と。あの後、自分は自分の手で決着をつけた。繭もそうするべきだろう?アランに助けてもらって、父親と向き合わないで逃げ切って楽しいキャンパスライフを送る、なんて許されるはずない。許したくない。だから評判が一番悪いヘルスに紹介して稼げるだけ稼がせてから、父親に借金を作らせて一緒に破滅していくか繭が父親を見捨てて自分一人生き残るために差し出すか、どちらかの未来を選ばせてやろう、とか考えてしまった。今考えれば冷静ではなかったし、アランに気がつかれたら間違いなく関係が崩壊するとはわかっていた。わかっていたが、どこかアランも共犯者だという意識が抜けなくて許されるのではないか、と甘えが出てしまった。その結果がこれだ。
アパートの外が暗くなり、カラスの鳴き声が静かになり始めてから黒いパーカーを着てゴキブリのようにそっと外へでた。どことなく臭い空気の中を音を立てないようにそっと歩き、車のヘッドライトから顔を背けながら駅に向かって歩いていった。工場からの帰り道であろうおばちゃんたちが自転車で列をなして走っていく。低賃金の使い捨て労働者。そんな感想が頭に浮かんでしまう。自分はゴキブリのくせに。
スマホで貯金額を確認した。五千六百万。これを見ると安心する。ここに4日後に四百万追加されるはずだ。六本木で店舗の内見をしたときの写真を出資者に送りながら、住宅街の中、小石だらけの道を足音を立てないようにゆっくりと歩いた。
警察官が二人、急に僕の家を訪れたのは、三十歳の誕生日直前のことだった。僕の家は相変わらず彼女の子孫たちでとても賑やかでとても外の世界と長く交流を持つような余裕はなかった。あまりにも大家族になり過ぎてしまったので、急遽インターネットの力を借りて同好の士を探した。その中で新たに交流が北海道からきた近藤さん、フランス出身のロイ、台湾出身の柳さんの助けを借りて、相性のよかった子を引き取ってもらい一緒に生活をしてもらっていた。ロイは僕の生活スタイルに感動したようで、近くに家を買い同様に家族を作って暮らし始めている。僕は完全に昔の知り合いとの縁を切り、髪と髭を伸ばしてカマキリたちのためだけに生活をしていた。そんな穏やかな日々の中で急に現れた警察官は、僕を見て困ったような顔をしてからこう尋ねてきた。
「カムイ、という男を知っていますか」
僕は久しぶりに聞いたその名前に心臓がヒヤリとした。黙って頷くと、警察官の一人が写真を取り出して
「この真ん中の男の人を知っていますか」
と尋ねてきた。写真に写っていたのは小柄で朗らかな笑顔を向ける中年男性。旅行の時に撮った写真なのか、同年代の男女がその男の隣でピースサインをして笑っている。
「いえ、知りません」
「この人ね、カムイさんのお父さんなんですよ」
「え」
僕は写真を改めて見直してみた。全く似ていない。よくよく考えてみればカムイは母親と瓜二つだから父親には似ていないのだろう。似ているところがあるとすれば小柄なところくらいだ。
「初めて見ました」
「そうですか。あなたとの付き合いが長いと聞いているのですが」
「誰にですか」
「それはお答えできません」
その言い方に少しカチンときた。聞くだけ聞いて、答えてくれないのかと。
「そうですか、付き合いの長さでいえば、僕より長い人は他にもいると思いますけど。カムイは友達がおおいので」
警察官たちは口をつぐんだまま頷きもしなかった。なので僕は勝手に話し続けた。
「二人の共通の知り合いは何人もいますけど、関係が学生時代からのものだと知っているのは当時の友人くらいかと思います。その中でいまだにカムイと連絡を取っているのは一人か二人くらいでしょう。その二人のことを考えても僕らが仕事でも深く関わっていることは知らないはずなので、僕らの関係が続いていると知っているのは、僕の親か、カムイのお母さんくらいかと思いますが」
警察官のうちのひとりがカムイのお母さん、といった時に視線をずらすのが見えた。
「あぁ」
僕は小柄で穏やかなカムイの母を思い出した。あの人が夫の話をすることは一度もなかった。カムイが一度だけ、母は離婚前に父親から暴力を振るわれていてフラッシュバックすることがあるから父親の話題は出さないでくれと言ってきたことがある。そういう事情ならと触れずにいたが、この穏やかそうな小柄な男が暴力を振るっていたなんて信じられないというのが正直な感想だ。写真の中にいるのは図書館の司書、役所の窓口、学校の先生というような無害で人当たりの良さそうな風体の男だ。
「お母さんに会ったんですか」
「こちらが、お伺いしにきているので」
「そうですか」
「ん、そうです。で、ですね、カムイさんを探しているのはこのお父さんの件なんです。連絡を取ることは可能ですか」
「カムイとですか?」
「そうです」
「取れません」
「仲が良いと聞きましたが」
「数年前に喧嘩別れしました」
警察官たちの指すような視線が僕の背後に向けられた。誰もいないが何か見えているのだろうか。
「喧嘩別れ、ですか。原因は?」
「原因?」
「そうです。仲良いんですよね」
僕は先ほどまで家の中庭で悠々と羽を伸ばしていた雌のことを考えた。今日、オスに求愛されていた一番綺麗な雌のことだ。彼女の薄羽は光を受けると綺麗に輝く。それがあまりにも美しくて愛しい黄金の彼女を思い出させてくれる。彼女は求愛を受けるのだろうか。受けていたら今頃交尾の最中かもしれない。
「仲が良かった、です。あいつがキャッチで、僕がホストでした。僕の知り合いの女の子を不必要に風俗店に紹介して揉めたのでそれ以降連絡を取っていません」
「知り合いの女性、というのはホスト時代の客のことですか」
「いえ、本当にただの知り合いの子です」
「その方の連絡先は?」
「あぁ、うーんわかるかな」
「カムイさんに連絡が取れそうな人は知っていますか」
そう言われて、一瞬リイチさんの顔が浮かんだ。が、連絡を取らなくなって長い。警察官に話すわけにもいかず、考えたふりをしながらスマホをスクロールしてみた。と、その時にふと気が付いた。
「あぁ、SNSはみましたか」
僕の言葉に警察官のうちの若い方が驚いた顔をしていた。
「え、SNSをやっているのか」
「やってますよ。あぁ、そっか。カムイの名義じゃないから」
「え?」
「マロっていう源氏名でホストやってたんですけど、そのマロのアカウントをカムイに任せてたんですよ。僕がホストやめてからもそのアカウントが更新されていたので、そこにDM送ったら会えるかもしれません」
「ま、まろ?」
「マロです。承認されてないと見られないかもしれないですね。あ、大丈夫だ。これ。まだ更新されてますね」
僕のスマホを確認しながら若い警察官が自分のスマホを操作してアカウントを見つけたらしく、もう一人の警察官と耳打ちしながら何かを相談し始めた。
「僕が知っているのはこれだけです。僕のアカウントでしたし、僕の写真が使われてますが僕はログインできません」
「なぜ」
「そういうの苦手で。ずっとカムイに任せていたんです」
「でも、自分のアカウントですよね。こういうの気になりませんか」
「気になりますよ。でも連絡してどうなるんですか」
「どうって…辞めるように頼むとか」
「頼んで聞いてくれる相手なら喧嘩別れなんてしていません」
警察官は全く納得できていない様子でスマホを見つめていた。
「これ、投稿が数年前ですね」
「本投稿は、僕がホストしていた時代で終わってます」
「なぜ」
「なぜって、僕と喧嘩して会っていないからです。僕の写真を撮ることができないでしょう。今更新されてるのはすぐ消えてしまう投稿ばかりなので証拠も残らないし、好き勝手しても問題ないと思っているんじゃないでしょうか」
警察官は何か目で会話をしてから、スマホをしまって顔を上げた。
「家の中を探させていただいてもよろしいでしょうか」
「え」
「あなたを疑うわけではありませんが、何か彼につながるものがあるかもしれない」
「あ、え、いや」
「どうしたんですか」
「いやです」
「なぜ」
「今、あの、中でメスが、メスと言ってもあれです、カマキリですが、僕の家族なんですが、その、ちょうど求愛されていたので」
「は?」
僕はなんとか事情を説明しようとしたが、逆効果だったようだ。
「いえ、とても繊細な事情なんです。これがうまくいかないと仲違いしてしまうこともあり得ますので。そうするとちょっとめんどくさいんです。意外と雄が立ち直れなかったり、メスがパニックを起こしたこともあって。だから知らない人が急に家の中を歩き回ったらびっくりしてしまうかもしれません。なので」
「雌のカマキリがなんですか」
「だから、求愛を受けている途中で。あ、受けているかどうかは見てみないとわからないんですが。あの、決して家の中に入ってほしくないわけではないんです。ただ、今はちょっと」
「何を言っているんですか」
「何か隠してます?」
警察官は畳み掛けるように尋ねてきて、刺すような疑いの視線を向けてきた。
「いえ、隠してません。ほら、プロポーズの瞬間って結構大切ですよね?」
「は?」
「だから、メスが求愛を受けるかどうかの瀬戸際なんです」
「あの、静かにしますので家を探させていただけませんか」
「いえ、えっと…探していただくのはいいんでけど」
「いいんですか」
「いいです、いいんですけど、絶対に大きな音とか声とか出さないでください」
「なぜ」
「だから、メスが求愛を」
「おい、もういい。中に入るぞ」
呆れたような様子で警察官が僕を避けるように玄関に入り込んできた。バタバタと靴を脱いで無遠慮に家の中に入っていく。
「あ、あ、待ってください。静かに」
僕は彼らの後を追って中庭への扉の前に立ち塞がった。彼らは入り口から一番遠い廊下の突き当たりの部屋に進んでいったのでその背中を見送りながら廊下の窓から中庭を覗き込んだ。カマキリたちがたくさんいる、というのはよくよく視線を凝らさないと気がつけないだろう。一見普通の中庭だ。警察官は手分けして各部屋を見て回っているのか足音が近づいてきたので僕は意を決して彼らの前に立ちふさがった。
「あの、どこをどう探していただいても大丈夫です。ただ、これだけは聞いてください」
若い警察官が僕を睨みつけるように見つめた。もう一人は台所に向かい勝手口を開けて外を見ていた。
「僕は、カマキリの愛好家です。中庭にはカマキリがたくさんいます。彼らとの生活を何よりも大切にしていて、彼らを家族として愛しているんです。この中庭、ここには一見判りずらいですがたくさんのカマキリがいるので、ここには入っていただきたくありません」
「中庭、というとここの扉から出られるのですか」
「そうです。この中庭が一番広いので調べたい、という気持ちもわかりますがカマキリが生活していますので荒らしてほしくないんです。子供たちもたくさんいます。ここは彼らの家なので人間は立ち入らないようにしているんです。信じてください、カムイのことはなんでも話しますがここには入らないで欲しいんです」
「いや、そうは言っても」
「おい、もういい」
年配の方の警察官が勝手口から戻ってきた。
「ここにカムイはいないでしょう。わかりました」
「あ、ありがとうございます」
「まぁ、男一人暮らしにしては物がなさすぎますが」
「はぁ」
「この質素な家で二人暮らしは難しいでしょう」
「そう、でしょうか」
「それに、先程教えていただいたSNSの投稿、現在地が赤坂になっていました」
「え」
「ですので今カムイは赤坂にいると思われます。まぁ、あなたが言っていたことが本当だった場合の話ですが」
「本当ですよ」
「そうですか」
僕は正直ホッとしていた。僕の楽園が荒らされることはなかったんだから。
「あなた、昔の写真と比べるとまるで別人ですね」
「え、あぁ。まあ」
「こっちの方がいいですよ」
僕は変な笑顔を浮かべたまま、帰っていく彼らを見送った。久しぶりの来客に心臓がドキドキと変に騒がしく、落ち着かないままその日を過ごすことになった。以前と比べて嘘が下手になってしまった。初対面の人と会話をするためのスイッチが消えてしまったようだ。
警察官の来訪から数日後、マロのアカウントが消えた。
ことの真相が分かったのは、それから1ヶ月もしない頃のことだった。僕の家は相変わらず賑やかで、近藤さんの家族が北海道から会いにきてくれたりロイが運命の相手と出会い祝杯をあげたりと充実した毎日を送っていたので、あの警察官たちが来たことを少し忘れかけていた。そんな時に、再度警察官たちが我が家を訪れた。
「カムイ、見つかりましたか」
僕の質問に、彼らは少し言葉を飲み込んだように思えた。言葉を選んでいるのか僕に伝えるべきか悩んでいるのかわからないがその違和感が妙に引っかかってしまった。
「知りませんか。ニュース、見ていない?」
「うち、テレビないんです」
「携帯はあるでしょう。パソコンも」
「まぁ、ありますが」
「それでもご存知ないんですね」
「えぇ、なんなんですか。あ、今調べてみたらすぐわかりますか?」
「わかると思います」
僕はスマホを開いてカムイの名前で検索した。ずらりと並んだ殺人事件のニュース。
「え」
驚いた僕の顔を見て、警察官は呆れたように言った。
「あなたのご友人、とんでもない人物だったようですね。中学生の時に父親を井戸に突き落として殺害し、複数人から金銭を騙しとる詐欺を働き、金を隠したまま亡くなられました。遺体は見つかってませんが、血液と体の一部が発見されています。かつて怒らせてはいけない人を怒らせてしまったことがあるようですので、まぁそこ絡みで消えてしまったんだと考えられていますね」
「父親を殺害?」
「そうです」
「父親、死んでたんですか」
「えぇ、それが何か」
「いえ」
僕はカムイの母親のことを思い返していた。彼女は男に従順なタイプの女性で、息子の友人である僕にさえ遠慮を示してしまうような人だった。気が弱くいつも何かに怯えているような素振りを見せていた。父親から暴力を受けていたという話を聞いたことがあったので、てっきり離婚後もずっと父親が会いに来ることを恐れているのだと思っていた。
「死んでいた。死んでいたということは、カムイのお母さんは知っていたんでしょうか」
「なぜ」
「なぜって…僕が知っているカムイのお母さんは、いつでも何かに怯えていたので」
「怯えていた」
「はい」
「それは、対象が父親であると知っていましたか」
「なんとなく。はっきりと聞いたことはありませんでしたが」
「そうですか」
ニュースに目を走らせると、どうやら神社の建て替えで井戸という名の穴を掘り起こしたことがことの発端らしい。頭部に外傷がある成人男性の白骨が発見され、持ち物や歯形からカムイの父親であることが発覚、当時父親がカムイを探し回っていたという情報から、見つかったのがカムイの地元であったこともあり警察の捜査が開始されたとのことだった。殺人であれば時効までもう少しというタイミングであったため、捜査は急を要したがあっさりと解決に向かう。東京の工場地帯、とあるビルの空きテナントのキッチンで成人男性の左腕と致死量の血液が発見されその人物がカムイと発覚したそうだ。そこから。カムイが近年おこなっていた詐欺行為が露見し、ゴシップとしてインターネットを騒がせているようだった。カムイの写真も数枚掲載されている。子供のような無邪気な笑顔、ホストのようにヘアメした綺麗な写真、バーベキューの時に撮られた無防備な写真。全てが懐かしいはずなのに、まるで知らない人のような感覚がどこか抜けない。
「先にあなたにお会いしておいてよかったです。あなたの源氏名で投資家を集めて詐欺行為を働いていたので、あなたを共犯者として追いかけるところでした。その情報を先にあなた自身から伺っていたので無駄な捜査を省くことができましたよ」
「はぁ、とはいえ少しくらい調べたんでしょう」
「え、あぁ。まぁ少しは。でも、カムイのスマートフォンに残った履歴を確認しても、金の流れを見てもあなたにつながるものは一切ありませんでしたので安心してください。自分の詐欺を自ら警察官にバラして、カマキリを一生懸命守る男なんていないと思ってますから」
「家族ですから」
「そうですか」
「捜査は一旦終了となります。ただ、一点お願いがありまして」
「はぁ」
若い警察官は相変わらず僕の背後を覗き込むように家の中を凝視している。だから何がいるというんだ。
「今後、カムイの詐欺被害に遭われた方があなたを探し出して何かしらの報復を企てる可能性があります。もしくは、以前関わっていた反社会的勢力と言われる方々が尋ねてくるかもしれない。そうなった時には真っ先に私に連絡をください。百十番、最寄りの交番でも構いませんが、少しでも早く解決したいのであれば私に直接お願いします。名刺を置いていきますので」
そう言い残して警察官たちは帰っていった。
その日は、夜中までインターネットニュースを読んで過ごしてしまった。家族ができて初めて数時間も彼らから離れて過ごした。カムイが死んだ。友人が死んでしまった。そのことを上手く受け止めきれず、どこか現実味のない作り話のように感じてしまっていた。マロの皮をかぶって破滅へと歩いていった結果、誤った水辺にたどり着いて死んでしまったのか。マロという傀儡もろとも死んでしまった。死んだ、致死量の血液と腕一本残して、いなくなってしまった。もう会えない。もう二度とあいつの声を聞くことができない。
翌日、僕は久しぶりに髭を剃ることにした。風呂に入り、髭を剃って髪の毛を整えた。家族の様子を伺い、掃除や食事の用意を終えてから白いシャツを着てコットンのパンツを身につけてコートを羽織る。頭の中で古い記憶を辿りながら、故郷へと続く道を思い返していた。
カムイの母は相変わらず小柄で、風が吹いたら倒れてしまいそうな女性だった。それもそのはずだ。息子が死に、夫を殺していたという事実まで発覚したのだから。連日訪れるマスコミや、マスコミ気取りの素人たちからの視線に耐えられず窓を閉め切って引きこもっているらしい。置き配で食料や日用品を購入している以外に外界との交流は持たなかったが、僕の来訪には快く応じてくれた。久しぶりに笑ったのか、表情が硬くてぎこちない笑顔でお茶を勧めてくれた。
「ニュース、見ました。遅くなってすみません」
僕の言葉に、ハラハラと涙をこぼして黙って頷いていた。
「来てくれてありがとう。私の周りにはあの子のこと覚えている人が少なくて」
「地元を離れて長いですから」
「今のあの子のことは何も知らないんです。実家を出てどこに暮らしていたのかも、実は知らされていなくて」
「あ、それは僕も知りません」
「え」
「いつもカムイがうちに来てくれていたんです」
僕らの間に妙な沈黙が流れてしまった。そうか、普通の友人なら相手がどこに住んでいるのかくらい知っているものなのか。気まずくなり、視線を逸らした。家の中は綺麗に片付いていて母親の趣味のいいインテリアで飾られている。こういう人のためにデザインやアートが存在するんだろうな、と関心してしまう。カムイの美的センス、ファッションセンスは間違いなく母親譲りだ。
「僕にできること、ありますか」
この質問には、しばらく返答はなく気まずい沈黙がしばらく続くことになった。沈黙は苦手ではないが、違和感のある沈黙のように感じて何か居心地が悪い。
「できること、は、大丈夫よ。ありがとう」
「なんでも言ってください」
「えぇ、でも」
「小さなことでもいいです。電球変えて欲しいとか、窓の上の埃を拭いて欲しいとか。高校生の時はよくお手伝いしましたけど」
カムイの母親が顔をあげて、少し口元を綻ばせた。
「え、あぁそうだったわね。アランくんは優しい子だったからつい甘えちゃって」
「いや、タダで居座っているのが申し訳なくて僕が勝手にやってただけなんで」
「よく気がついてやってくれていたわね。本当にありがとう」
彼女は微笑んでいたが、涙は止まることを知らないのか頬へと流れ落ちていく。
「僕は、この家が本当に好きだったんです。居心地が良くて、楽しくて」
「そう?」
「お母さんが僕に優しくしてくれたからだと思います」
「そんな、カムイと仲良くしてくれていたから」
「カムイによく言われました。お前がいると勧誘とか押し売りが帰っていくから便利だって。体がデカくて外人顔だから、いい番犬がわりだなって」
「そんなこと言っていたの」
「言ってました。僕がフランス語とかでふざけて返事すると大抵の日本人は困ってどっか行っちゃうから」
「そう、そうだったの」
僕は目の前のお茶のグラスを見た。センスの良い綺麗なガラスのコップだ。高価な物ではないのだろうと思うが、テーブルやコースター、コップに統一感があってとてもおしゃれに見える。そうだ、この家は常にセンスがよく、かといって嫌味ではないもので溢れていた。かつてのカムイもそうだった。この家に住んでいた頃のカムイは小綺麗でみんなから好かれる人気者なのに、嫌味がなくて居心地が良かった。そうだった、なんとなく思い出した。じわりと込み上げる熱が、頭の奥から頬を伝ってゆっくりと流れ落ちていった。
その日は昔のことを少し話しただけで帰ることにした。あまり長居するのもおかしいと思ったのと、確認したいことがあったからだ。
外を歩いていると、数人が僕にスマホを向けているような気がして少し気になった。家からつけてきたのだろうか、僕が詐欺に加担したマロであるということに気がついたのかもしれない。不自然に歩調を合わせてスマホを向けてくる人、自転車で追い抜きざまにカメラを向けてくる人、会話をしながら歩いている二人組の間からビデオカメラがこちらを向いていたこともあった。気にしすぎかもしれないが、警察官の言葉が頭をよぎる。今日は少し遠回りをして家に帰ったほうがいいかもしれないと思い、少し離れたところにある民宿に一泊することにした。ロイに連絡をして家族の様子を見てくれるように頼み、踵を返して目的地を目指した。
目的地の民宿に到着してからカメラを向けてくる人はグッと少なくなったように感じた。部屋に引きこもって、古い畳に体を横たえてじっとして過ごした。食事はお願いすれば出してもらえるとのことだったので、時間になったら部屋に運んでもらうようお願いしてある。それまで、じっと微動だにせずただ目を瞑って過ごすことにした。頭の中では学生時代の様々な思い出が頭の中を巡っていく。いいことも悪いことも、恥ずかしいことも悔しかったこともたくさん、たくさん思い返していた。
考えて、ご飯を食べて、風呂に入って、布団に入ってまた考えた。考えれば考えるほど、先ほどカムイの母の前で感じた違和感がどんどん大きくなり、輪郭が見えてくるように感じ始めた。
カムイが、本当に追い詰められていたとして母親に何も残さずに消えたりするだろうか。それに、カムイの家には老人ホームのパンフレットや書類、爺さん婆さんが映った老人ホームらしき場所での写真が飾ってあった。老人ホームの場所はすぐ近くで、この地域では一番いいところだ。同居していなかったので、頻繁に祖父母の家に母親が通って世話をしていたはずだ。
カムイが詐欺で集めた金はまだ見つかっておらず、捜査の焦点はその被害金の行方に絞られているとニュースに書いてあった。警察は当然のように母親のことも調べただろう。母親の銀行口座、家屋の中、祖父母の財産に関してカムイが詐欺で稼いだ金がどこに使われたのか確認したはずだ。しかしどこにもなかったから彼女は今一人で過ごすことができているんだろう。しかし、やはり気になる。彼女の涙は、一人息子を亡くして悲嘆に暮れている母親のものというより、もっと後悔や罪悪感を背負った人の涙に近いような気がして仕方がない。息子の罪を恥じて、受け入れ難い中でなんとかやり過ごしているような。僕が彼女にできることなんて、今更ない。今更遅い、もう全て終わっている。全て終わって取り返しがつかないことを彼女は知っていて、その結末を飲み込んで納得し受け入れたところで、不意に昔の亡霊が現れたことで動揺しているような、そんな気がした。取り返しがつかない、というのが息子の死だった場合、僕の存在は過去を思い出す良いきっかけになるはずだ。死を悼む同志としてもっと僕らが地元を離れてからの話を聞き出そうとしたり、どうやって生きていたのか、どうしてこんなことになったのか気になるはずではないだろうか。でも彼女はそうしなかった。息子の死を彼女からは感じなかった。彼女の涙は、もっとやるせない、やりきれないという悲観に満ちている気がする。穏やかだった以前の生活を思い出してもう戻らないことに後悔しているような。
言語化するのは苦手だ。ただ、なんとなくそう思っただけ。深入りするのはやめて眠ってしまおう。臭くて重い布団にくるまり、はみ出た足先をまるめて無理矢理瞼を閉じた。
翌日、すぐに自宅に戻った。始発の電車に乗って帰ったので誰も後をついてきていなかったと思う。ロイがしっかりと面倒を見てくれていたようで、家族は皆穏やかに過ごしていた。
しかし、日常に戻ったと思ったのも束の間、その翌日に懐かしい人から急に連絡が来た。繭だ。長いこと連絡を取っていなかった繭からメッセージが届いていた。
「お久しぶりです。ニュース見ました。お元気ですか」
僕は少し驚いたけれど、これだけネットニュースになっていれば嫌でも目につくかと重い、「元気だよ」と返信を送った。
「もしよかったら、少し電話でお話しできませんか」
次に送られてきたのはそんな内容だったので、あまり深く考えずに通話ボタンを押した。すぐに繋がって、懐かしい繭の声が聞こえてくる。
「もしもし」
「もしもし、アランです。ひさしぶり」
「あ、久しぶりです。すみません突然、繭です」
「うん、久しぶり。連絡もらえて嬉しいよ」
「あ、ありがとうございます。お元気そうでよかったです」
「なんかあれだね、大人みたいな話し方するね」
「え?あはは、大人ですから」
「そう?まだ学生じゃないの?」
「えぇ、いやいや、働いてます」
「あ、そうなんだ」
「はい。あの、突然なんんですけど、その…ニュース見ました。すごい事件でしたね。あの、アランさんが関わっているっていうのは嘘だと思っているんですけど」
「ああ、うん。僕は無関係だよ」
「ですよね、カマキリちゃん達が大切なのに、そんな危ないことするわけないなって」
「うん。よくわかってるね」
「それで、その…」
繭は言い辛そうに数秒黙った。
「何?」
「私、一昨日カムイさんを見たかもしれません」
彼女はゆっくりとそう言った。その言葉を聞いて、僕は特に驚かず「あぁやっぱりか」と妙に納得してしまった。
「そうなの」
「驚かないんですか」
「おどろ…いてるかな。驚くべきなんだろうけど、あいつがあっさり死んでしまうなんてなんか腑に落ちなくて。母親に会った時も少し変な感じだったし。もしかしたらお母さんは知ってるのかなぁなんて」
「え」
「ごめん、死んだと言われてもそうなんだ、と納得できるし、本当は生きていたと言われてもそうなんだ、って感じなんだ」
「そう、ですか」
この感覚はなんなんだろうか。カムイがマロになりすましていると知った時から、カムイの存在が彼の中で死んでしまったと感じていたからなのかもしれない。死んでもなお、マロという外側を纏って動き続ける気持ち悪い何かに変わってしまったような気がしていた。死んでも動き続けていたものが死んでしまった。そして、彼の母親の不自然な反応。僕らはあの日あの家でカムイの死を悼んで涙を流したのではなく、もう戻れない楽しかった昔の光景を偲んでいただけなんだ。
「もっと驚かれるかと思ってました」
繭の声が動揺している。彼女はニュースを見て酷く驚いたのだろうと思う。知り合う前に人を殺していたような男に風俗で働かされそうになっていたんだから。あの時の不快感や恐怖が襲ってきたかもしれない。でも、死んだと報道されたその相手が、目の前に現れたらさらに大きな恐怖を感じたのだろうというのは想像に硬い。
「俺はね、喧嘩別れしてたとはいえ付き合いが長いから。あいつが関わっちゃいけないやつに関わっていたのは本当のことだけど、そういうのに殺されるようなヘマをするようなやつでもないかなって」
「そうなんですね。そっか。じゃあ、あの」
繭は言葉を探しているようだ。
「何?いいよなんでも言って」
「あの、カムイさん見かけたの仙台なんです。出張で行った先でなんとなく似てるなって思って見てみたらカムイさんで。で、その時のカムイさん自転車に乗りながら歌を歌っていたんですよ。あの、片腕がないはずなのにハンドルを握っていたので、義手?かなって」
「そうなんだ」
「はい。見間違えかなって思ったんですけど、声まで似ている気がしてどうしても気になっちゃって」
「そっか。うん」
「カムイさん、警察に追われているんですよね」
僕は自転車に乗るカムイを想像してみた。二十歳になった時に一緒に自動車学校で免許をとったが、自転車には乗れなかったはずだ。練習したんだろうか。それとも他人の空似なのだろうか。
「教えてくれてありがとう」
「あの、ごめんなさい。勘違いとかだったら私…」
「ううん、謝らないで。ありがとう、本当に。今度また少し話ができる?できれば会って話がしたいな。もちろん、誰か信頼できる人がいればその人と一緒でもいいよ。ほら僕、世間では詐欺の嫌疑をかけられたのに逃げ切った極悪ホストってことになっているからさ」
「え、いやいやアランさんのことは怖くないです。ぜひ会いたいです。それに、ご飯を奢らせてもらう約束も果たせてませんし」
「そっか。そうだったね。じゃまた連絡するね」
僕は本当に繭ともう一度会って話したいと思っていた。あの子との会話をしているとなぜか落ち着く。何年も話をしていなかったのに、数年ぶりに聴く繭の声は気分が良くなっていくのに頭は冷静になり、少し前向きになっているような、そんな気分になっていく。カムイの家や、あいつの隣とは違った不思議な居心地の良さだ。これが友達の距離感なのだろうか。彼女は僕を否定もしないし、過剰に持ち上げたり懐に入ろうともしないからなのだろうか、僕らの間に恋愛感情や金銭を介したやりとりがないからなのだろうか。いや、厳密には彼女のために大金を払おうと思ったこともあったけれど。
僕は仙台という場所に想いを馳せながら目を閉じた。カムイは死んだ。喧嘩別れしてから会うつもりはなかったし、すでにもう僕の人生にカムイはいない。
その後カムイの母親から連絡が来たのは暖かくなり始めた季節のことだった。その頃
僕の家にはロイの友人であるベンジャミンが居候していた。ベンジャミンは昆虫学者で日本の大学で研究をしながら僕の家族と一緒に生活していた。ロイとはアフリカで知り合ったらしいが、あまり細かいことは聞いていない。部屋が一つ空いていたので、僕の生活に理解を示してくれるなら、ということで同居を開始していた。僕は以前よりも外界とのつながりを絶って生活していたので、スマートフォンを放りっぱなしにしてしまっていた。だからカムイの母親からの電話を知らせる画面に気がついたのはベンジャミンだった。
「アランくん、お久しぶりです」
僕は久しぶりに聞くその声に少し戸惑いながら、「はぁ」と返事を返した。
「お願いがあって、その、今時間いいかしら」
「大丈夫です」
「警察の人から、その、あのね」
「はい」
なかなか話はじめることができない様子だったが、左手に這いのぼる赤ちゃんたちをあやし、文字通り片手間に話を聞き続けたところ、要するにカムイの納骨に立ち会って欲しいとのことだった。警察での調査が長引いたこと、なかなか腕だけの状態で納骨まで踏み切れなかったことが原因でこんなに時間が経ってしまったらしい。
「アランくんには迷惑をかけてしまったから、嫌だったら断ってほしいの」
そう言いながら母親は泣いているようだった。施設にいる祖父母は外出させることが難しいので当日は母親一人になってしまうらしい。少し悩んだが、地元に立ち寄るだけだしベンジャミンもいてくれるので快諾した。ホッとしたように何度も感謝を伝えながらなかなか電話を切らせてくれなかったが、半ば無理やり通話をおえた。ベンジャミンが不思議そうに僕の顔を覗き込んでこう言った。
「アラン、どうした」
「ん?」
「いや、顔」
僕の顔にカエルでもついているかのような顔でこちらを見てくる。咄嗟に指先で頬を触ると、ふくらと丸みに触れた。
「なんでそんなに笑っているんだ。いいことあったのか」
僕は返事に躊躇ってしまった。嬉しいのだろうか。嬉しい?友人の納骨が?
「いいことではないよ。ただ、なんだろう」
指の関節の間を這い回る赤ちゃんたちそっと中庭に戻して、自分の足元を見つめた。自分の感情がよくわからなかった。なぜ笑っていたんだろう。
「友達、死んだんだけど。死んだんだけど、やっとキリがつきそうなんだ。だからかな」
僕の曖昧な返答に対し、難しい日本語の言い回しだと勘違いしたのか、ベンジャミンはわかったふりをして「フゥン」と気のない返事を返してきた。
当日、カムイの母親は吹っ切れたように淡々と作業を進めていた。電話の時とは別人のように明るく話をしてくれたので、僕も落ち着いて対応することができたと思う。変に笑ってしまったり、柄にもなく泣いてしまうこともなく、軽すぎる骨壷を墓の中に収めて手を合わせることができていたはずだ。納骨自体はあっさりと終わってしまい、僕らは墓地の前で別れた。離れていく母親の背中を見ながら、僕はふと以前立ち寄った民宿に行ってみようかと考えた。
海沿いの民宿、古い木造の3階建に到着するとおかみさんが笑顔で迎え入れてくれた。僕が泊まるのはいつも決まって掃除部屋の奥にある小さな和室だ。そこは客室ではなく、短期アルバイトの学生が泊まるための従業員控室のような扱いの部屋だ。僕はかつて高校生の頃にここで住み込みのアルバイトをしていた。カムイと二人で。だから、僕が来るとおかみさんはこの部屋が空いている限りここに通してくれる。十年以上前の夏休み、ずっと二人きりで過ごし働いた和室。
引き戸を開けて荷物を置こうとした瞬間、入り口に置かれたスニーカーに目が止まった。
「あぁ、久しぶり」
狭い和室のど真ん中、そこに座っていたのはカムイだった。
小石だらけの海岸線。岸壁というには低いが、浜というほどではない、誰も寄り付かないような場所を僕らは一緒に歩いた。カムイは安そうな服を着て、携帯もパソコンも持たず、ただ現金を少しだけ持っているだけだそうだ。かつての姿からは想像もつかないが、高校生の頃の面影が戻ってきたように感じる。貧しくて、何も持っていなくて、何にも縛られていない身軽なあの頃のようだ。
「お前、今何してんの」
カムイが僕に尋ねてきた。それを聞きたいのは僕の方だったが、とりあえず返答することにした。
「何って、家にいるよ。家族と過ごしてる」
「家族って…カマキリだろどうせ」
「うん」
「仕事は?」
「仕事はしてない。貯金の運用…投資信託と株の配当が少し入るから生活費はそこから」
「は、そうかよ」
「お前はなにしてんの」
カムイの表情が固まった。瞳孔さえ動かなくなってしまったのではないかと思うほどの静寂だ。あんなに鳴り続けいていたカムイのスマホは今はもう手元にないし、自分たちを責め立てる人もいない。波が岩にぶつかってはじける轟音と、鳥の鳴き声だけだ。僕は虫を食べてしまう鳥が嫌いだから種類はわからないけれど、頭上をぐるぐると飛び回ってしきりに何か話し合っているかのように騒がしい。騒がしいけれど、静かだ。
「何がしたかったの」
言葉を変えて言い直したが、それでも返答はなかった。カムイはただ黙って足元を見つめている。厚い雲に覆われた空からどんよりとした風が吹きおろしてくる。海からの風は不愉快な湿気を帯びていて伸びきった前髪を躍らせている。長めの前髪が触角のようだと気に入っているが、今は少し不愉快だ。顔をくすぐる毛先をつかんで耳にひっかけてから、フードをかぶった。首元の紐をきつく絞って風の侵入を防ぐ。が、あっけなく風に引っ張られて後ろにずれてしまった。フードはあきらめて、前髪だけを耳の裏にぐっと貼り付けようとしたその時、
「なんで虫になりたいの」
カムイが訊ねてきた。少し驚いてカムイを見たが、あいつの顔は相変わらず固い。
「なりたいから」
「わかんねぇよ」
「ライオンになりたい女の子、女の子になりたい男の子、って曲あっただろ。あれだよ。あれを大人になるまで引きずってるんだ。まぁ、今は家族が安心して生きていける環境を作ることが自分の一番の役割だと思っているから人間で良かったのかもしれないと思ってるけど」
「はぁ?」
「お前は?」
「え?」
一羽の鳥が目の前を垂直に降下していった。獲物を見つけたのだろうか。視線だけでその姿を追い、ふわりと浮き上がってくるまで数秒間僕らの視線の動きはシンクロしていたと思う。
「俺?」
「そう。お前は何になりたかったの」
またカムイが固まってしまった。こいつの脳みそはもう本当に乗っ取られてしまったんじゃないかという不安すら覚える。数秒後やっと口を開いた。
「何がしたかったのか、何になりたかったのか、とか」
「うん」
「めんどくせぇよ」
水飛沫がカムイにかかった。半歩退いたようだがジーンズに水の染みが広がっていく。
「お前、仙台にいたってほんと?」
カムイが驚いたようにこちらを見た。
「え、なんで」
「繭が見たって。自転車乗ってるとこ」
「あぁ」
カムイが少し微笑んだように見えた。
「うん、仙台にいたよ。自転車も練習した。なかなか難しくてさ、でも乗れると気持ちいいんだ」
「自転車、両手使ってたって」
「ああ、うん。あれはそういうフリをして生活をする練習。腕に棒突っ込んでるだけだけど、なかなかバレないんだ」
「器用だな」
「必死だったんだよ」
カムイが袖を少しめくって棒を見せてくれた。発泡スチロールだろうか、軽そうで柔らかそうな素材だ。
「繭とはまだ連絡取ってるんだ」
「え、あぁ。いや、連絡くれた時が久しぶりだったよ。その後2回ご飯食べに行ったけど」
「ヤッた?」
「そういうんじゃないから。繭には彼氏いるし、2回とも彼氏同伴だった。いい奴だったよ」
電話の後、僕は2回繭に会っていた。繭の彼氏は元ラグビー部というガタイのいい優しそうな男だった。カブトムシみたいな、繭のような優しくて強い子を守ってくれそうな強い男だ。僕の話を聞いてあっさりと受け入れてくれたところも、僕のことを見た目で判断しないところも繭とお似合いだと思った。
「あ、そ。結局繭って、お前にとってなんなの?」
「友達」
「友達って…俺と同じ?」
「お前とは違うけど、お前も友達だった」
「何それ」
「何それって言われてもな」
「俺と繭、お前に取ってはどっちも一緒ってこと?カマキリじゃないから」
「は?いやいや、違う。全然違う。友達とか言葉では一くくりだとしても、解釈で別れるだろ。それはその、例えば家族だってそうだ。僕は実の親を生殖した個体くらいにしか考えていないけど、カマキリたちを家族として本当に愛することができている。友人に関して言えば、すごく仲がいいけれど昆虫に対する情熱以外の情報を全く知らない友人だっている。繭はそいつらとも違って、趣味は違うけど気の許せる人間。お前は学生時代からの友人」
「あぁ、そう」
何が不満なのか、カムイはしかめっ面をして顔を背けた。
「お前、金集めてたっていうけど、その金でじいちゃんたち施設に入れたのか?」
僕の唐突な問いかけにカムイはニヤリと笑った。
「いや、まぁ、そうかな。厳密には違うけど」
意味深長な表情で僕を見上げる。
「献金したんだ。匿名で。事件が公になる前に。じいちゃんに昔お世話になったことがあるからよくしてくれって一文添えて」
「それでよく成功したな。あのホーム倍率高いんだろ」
「悪い奴ってのは上の方にいるもんだからさ。孫である俺が詐欺で稼いだ金かもしれないと思っても、受け取った奴が警察に言うような人間じゃないってわかっているからやったんだよ」
そう話すカムイの顔は、キャッチをやって稼いでいて頃の輝きを少しだけ感じさせた。金をうまく転がすことができたときに見せる輝きだ。
「そのためだけに詐欺働いたってこと?」
「違う」
変わらず、嬉しそうに笑っていた。
「俺が騙してきた相手はさ、かつての顧客なんだよ。女の子斡旋したり、アブノーマルなプレイをするクラブを紹介したりしていた金持ちばかりなんだ。あいつら、女を性欲のはけぐちか金稼ぐための道具としか思ってない。自分たちは性欲を醜く吐き出すことに命かけてる変態のくせに。なのに、俺のこと手下か子分くらいにしか考えてないんだ。バカだよな、弱みを晒して、世話してもらってるくせにさ」
左腕の袖を戻し、肘があったはずの場所をさすりながらカムイは楽しそうだ。きっとこの話を誰かにしたくてたまらなかったんだろう。腹の底から楽しそうな声を出し、嬉々と
して語っていた。
「マロのことは自分達みたいな”人を使う側の人間、女から搾取する側の人間”と同類だと思っているみたいだから、マロのフリして近付いたら尻尾振って金出してきたよ。自分達が優遇される、理解のある店を作って欲しいって。地上の楽園、なんて形容する人もいてさ。ほんと最低だよな」
「はぁ」
先ほど別れたばかりのカムイの母の姿が目に浮かんだ。小さな痩せた背中。父親の暴力から子供を守り、育て上げた強くて優しい母親の姿。
「お前がさ、柄にもなく女の子守るようなことしたから。だから俺もやってみようと思って。そう、いわばさ、贖罪だよ。ちょっとやりすぎちゃったかなって思ったから、今度は逆に男をカモにすることにしたんだ。まぁ、味方によっては善行だろ?変態や女性をひどく扱う男たちから金を巻き上げたんだから。義憤に駆られたんだ。ハハハ」
何がおかしいのか、カムイはひとりでしばらく笑っていた。僕はちっともおかしくなくて、この話を聞いてしまったことをひどく後悔した。
「僕の真似って?」
「真似っていうか、うーん。あはは」
「父親みたいな、なんていうか、自分勝手な男への復讐ってこと?」
「え?ハハハ、ちげぇよ。何言ってんの」
相変わらずケラケラ、ハハハと笑い続けるカムイは夕日の赤い光を浴びていて表情が良く見えない。僕は眩しい夕日に目を細めながらその様子をじっと見ていた。
「あーもー、なんて言えばわかるかな。馬鹿から金を吸い取るなら、より強いやつから吸い取った方がいいかなって。そう思っただけだよ。俺のこと馬鹿にしてた奴からむしり取ってやったんだ。女も、男も。みんな俺には何もくれないくせに俺のこと頼ってくるから悪いんだよ。誰も俺のことを見ない。俺が頑張って作り上げたナンバーワンホストだって、お前の心変わりであっという間に崩れ去った。お前も、女も、男も、みんな俺に何をしてくれた?金だけだろ。金だけ。だからもう目一杯搾り取ることにしたんだよ。悪いか?なぁ、カマキリになりたい変態よぉ。なんでホスト辞めたんだよ。天職だったじゃないか。女から絞れるだけ絞って、稼いで使って派手に生活していたのに、その生活捨てて何やってんだよ!女はイケメンにチヤホヤされるためだけに自分を商品にする、お前は自分を商品にして金を稼ぐ、男たちは金を払って女を手に入れる!俺がそれをお膳立てする!それでうまく回ってたのに、なんでお前勝手に抜けてんだよ!カマキリとか言ってんじゃねぇよ!バーカ!」
僕は、この言葉を聞いてカムイに背をむけその場から立ち去った。別に怒りも軽蔑も落胆もしていない。ただ強い奴から力を奪うことに夢中になったカムイが、僕からマロという役を奪ったことが僕らの関係の終りだったんだと理解したからだ。
多分、この民宿で出会ってしまったのはただの偶然で、お互いに感傷的になって過去に縋った結果の不運な出来事だったんだろう。僕は僕の家族のもとへただ帰ることにした。
帰路、僕はカムイの母の姿を何度も思い返した。ずっと男に頼るしかない弱い女性だと思っていた。でも最後に見た彼女の背中は、小柄ながら凛々しく強かった。男に虐げられながらも必死で働き育てた息子の骨を墓に収めた後、前を向いて歩く彼女は決して弱者ではない。あの姿こそきっと、幼い頃からカムイが見てきた本当の母親の姿なんだろう。苦難を耐え忍び、どんな目に遭っても前に進むことで戦っていたんだ。カムイはカムイで、母親という一番身近な女性のそんな強さをなんとか越えよう、抗おうとしていたのかもしれない。父親を倒し、母親を守ったがそのことを口に出すことができず、一番大きな愛の証である”安心”を返すことが出来なかった。その結果歪んでしまったんじゃないだろうか。僕が黄金の彼女に向けたような愛に近い感情、もしくは友愛のような大きな感情を向けるべき相手を得ることができず、向けてもらうこともできず唯一の肉親である母には父親から守ったという手柄を褒めてもらうこともできず、怯え暮らす日々を送らせてしまった。それなのに、父の死を知らない母は家を居心地のいい綺麗な状態に整え、美味しいご飯を作ってくれて、生活のために身を粉にして働きつづけた。怯えながら、恐怖を乗り越えて日々の生活の中の安心や安定をカムイに与え続けてくれた。母親の強すぎる愛を前に、あいつは何を思ったんだろうか。
僕は歪んでいくカムイをそばで見ていたはずなのに、何も知らないまま全く支えてあげることができなかった。ただそのことを後悔するべきなんだろうが僕自身どうしようもない男なので責任を感じていても贖罪の方法がわからない。だって僕だって弱いんだ、僕だって女性の守り方なんて知らなかった。友人の葛藤に気が付けなかった。僕は弱くて利用されるだけのオスだから。せいぜい繭のために知り合いを頼るくらいのことしかできない。あれだって僕の功績ではなく、リイチさんの力だ。僕は所詮、女の人たちの虚構にしかなれない男だから、実際の僕は人間には無価値なんだ。だから僕はその場から逃げた。逃げて、目を背けて弱いながらに向き合わずに生きていくことを選んだ。卑怯者だ。
カムイが海に身を投げたのは、その数日後のことだった。少し離れた海岸で遺体が発見され、少しニュースになったらしい。ただ、世間は飽きていたのかあまり話題にも出さず、葬儀は粛々と行われた。手を合わせる母親は、もう泣いていなかった。僕も同じだ。きっと僕らの中で、カムイは緩やかに死んでいたからだ。悪いものに乗っ取られたかのように、破滅に向かって歩んでいき自ら水辺へと誘われ身を投げたんだ。長い長い自死だったんだ。だから、母親は泣かないし僕も悲しくない。
あいつが煙になって空に消えていくのを見て、僕はあの日の彼女との別れを思い出していた。あの日は体が萎れてしまうんじゃないかというほど泣いたのに今日は一粒も流れない。友人が変わってしまった原因、僕が見逃したサイン、そして目を背けて放置した結果の死、それらが頭の中をぐるぐると巡り巡って後悔や諦めといった感情が渦巻いていく。どうにかできただろうか、いや、できるわけない。だって僕は知らなかったし気が付けなかったし、そんな力はなかったんだから。彼女の死を悲しむことができたのは、きっと僕の役割を全うしたという自覚があったからだろう。彼女の生に対して意味がある関わりを持てたと思えたから悲しかったんだ。彼女を愛し、守り、出産を見守って天寿を全うする際にそばにいることができた。文字通り全てを投げ打って彼女のそばにいた。僕の自己満足だったかもしれないけれど後悔はない。後悔がないからただただ悲しかったんだ。
カムイにとって僕は。
僕は、後悔しているのだろうか。後悔することすらできないほど何もできなかった情けない自分を蔑んでいるのかもしれない。後悔し、自己嫌悪におちいり、それでもやっぱり自分には何もできなかったはずだとヒーローになれたと妄想する自分を恥じた。
骨を拾い集め、骨壷に収めた。二個目の骨壷はずっしりと重いような気がした。小柄なあいつにしては随分と重い。重くて冷たい。あいつは軽くて温かかったのに。カムイの母は優しい笑顔でその骨壷を撫でながら「ありがとう」と僕に言ってから一通の手紙を渡してくれた。
帰宅してから、その手紙をしばらく置いておくことにした。遺書と書かれたその手紙を開く気になれず、ベンジャミンが違和感を覚えるほど何事もなかったように日常を送っていた。あいつが死んだからといって、日常が止まるわけでもなく、子供達はどんどん大きく育っていく。そのうちに前田さんから論文を書いてみてほしいと言う話をもらって、そちらの執筆に集中する日々が始まった。そうなるともう、旧友への後悔とか自責の念が薄れてしまう。
そんな日が続いて季節が数回移り変わった頃、繭から結婚すると言う報告を受けた。ふわふわと浮かれた可愛らしい声を聞いていると僕も嬉しい気分になり、久しぶりに家を出るために洋服を選んでいる途中であいつがよくマロに着せていたシャツを見つけた。ふと、手にとって眺めてみた。
「お前んち、いいよな。なんもなくて」
僕の以前のマンションに来た時のカムイのセリフだ。このシャツを着て動画を撮っていた時のことだった。
「そうか?お前買い物好きじゃん」
「俺は寂しいからモノで家を埋めてんだよ」
「へぇ」
「でもこの家、本当になんもないじゃん。人間の家じゃねぇよ」
「まぁ、そうかな。生きていくのに不便はしない程度にはモノがあると思うけど」
「それがさ、いいんだよ。余計なものがないって素晴らしいよな」
「なら家を片付けろよ」
「それができないんだよな。俺、古ければ古いほど、執着しちゃって捨てらんないんだ」
こんな、なんでもない会話。どうして自分はこのシャツをとっておいたんだろうと考えてみたが、他の洋服を捨てたり売ったりしたときに「これだけはとっておくか」と自然にそう考えていたんだった。なぜ、そんなふうに思ったのか。思い当たるのはこのシャツがカムイのお気に入りだからだ。半分カムイのもののように感じていたから取っておいたんだ。
思い出した瞬間、シャツを握りしめて涙を流していた。そうだ、そうだった。あいつ、新しい物好きなくせに、古いものに執着する変な癖があった。僕は、このシャツを、またあいつが気にいると思ってとっておいたんだ。これを着てあいつと何かをすることがあるんじゃないかと。なのにすっかり忘れていた。変わってしまったカムイを見捨てて、このシャツの存在もすっかり忘れてしまうほど。
僕のことを悩ませていたのは、僕を受け入れてくれたカムイに対する未練だ。僕はあいつを受け入れなかった。あいつが僕という存在、考え方や生き方を受け入れたくれたのに、僕はあいつの本質を知らず、真実を語られないまま決別して友情をあっさりと諦めた。そんな自分に落胆し、軽蔑を覚え、責め続けているんだ。あぁ、そうだ。こんなに感情が動くのは何年ぶりだろうか。僕は、寂しかったんだ。寂しい思いを受け止めきれなくてみないふりしてた。
僕は遺書を開いた。
開いて、読んでからベンジャミンに家族を託して花束を買いに出かけた。あいつが気に入っていたシャツを着て花束を二つ花屋で注文した。一つは繭に当ててお祝いを、もう一つはカムイのために。お祝いの方は配達してもらうことにし、もう一つを片手に電車に乗って民宿に近い海まで向かった。多分、あいつが身を投げた場所まで。
海に花束を放り投げてからあの日の口論を思い返した。あっさり全てを捨てた僕を、あいつは許せなかったんだな。勿体無い、大事にしていたのにって。ごめん、全然わかってなかった。謝ってももう遅いけど、お前とここで再開した時には、手遅れだったんだな。かける言葉もなく、海を眺めながらただ一つだけ。あいつに取り憑いた悪いものが二度と地上へ上がってこないよう、それだけを神に祈った。
遺書
母さんへ
母さん、先に父さんのところへ行きます。今度こそ正面から文句を言ってやろうと思っています。父さんより一センチほど身長が高いので多分、負けません。
話し合いは長引くと思う。でもあいつが謝るまで絶対に負けないから母さんはゆっくりと過ごしてください。父さんとの喧嘩が終わるのはだいたい四十年後になる予定です。きっと地獄にいるので、高いところから父さんと自分の謝罪を聞いてやって。
一人にしてごめん。バカな息子でごめん。父さんが見つかったら自殺しようって思ってた。後悔してないけど、母さんが必死で守ってくれていたのに、最悪の解決方法をとったことが恥ずかしくて、どんな顔して会えば良いかわからないから。じいちゃんばあちゃんによろしく。もし施設で問題があったら、同封する貸金庫の中の書類を警察に持っていってください。
アランへ
ごめん。ほんとごめん。
本当はお前みたいになりたかった。今更だけど。
繭にも謝っておいて。羨ましかったんだ。俺も繭みたいに父親から守ってもらいたかった。あと、カマキリいいと思う。かっこいいよな。お前みたいだよ。
最後に、お前の質問に答えるよ。何してたんだよってやつ。腕切ってまで死んだことにして、警察から逃げてたのはコメント返信が終わってなかったからなんだ。もう捕まりそうだったんだけど、なんとかしなきゃって思って腕切ったんだ。バカだよな。通知が止まなくて。コメントには全部返信しなきゃっていう変な習慣が抜けなくて、つい生きちゃったよ。
俺、俺でいることが嫌になった。なれるもんなら、アランみたいにデカくてマッチョでフランス語喋れる男になりたかった。マロになりたかった。ネットの中だけでもマロでいられたのが楽しかった。ていうか、お前と作ったキャラだから、ずっとプレイしていたかったんだ。
地獄で父親のことぶっ飛ばしてくるから、お前は身長が縮んで、イケメンがシワシワになって言葉もあやふやになるくらいジジイになってから天国に行って、俺のこと見にきて。 じゃあなまた。
カマキリにあこがれた男 ジョージ @Mt_George
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