私は返さない、その記号を。

音央とお

第1話




――初めてその男に会った時、一瞬で“怖い”と思った。



深海より暗く深い瞳、


完成されつくした顔の造形、


些細なポーズすら芸術品になってしまう手足、


防衛本能の警戒アラートがこれ以上ないほど響いた。




「まなみ」


部屋に入ってきた男が、私を表す記号を呼んだ。

思考の中に異物が混じってきたという不快感に、走らせていた鉛筆をとめる。


視線だけで返事をすると、床に座り込んでいた私の目線に合わせて腰を下ろした。


ただしゃがんでいるだけなのに、指を合わせているだけなのに、形になってしまう。

男は末永永人すえながえいとと名乗っているけれど、本名かどうかすら怪しい。


唯一無二の名前を与えられてもおかしくないのに、意外と普通の名前をしている。ほぼ左右非対称、僅かにズレているのが“らしい”と思える、不思議な記号なまえ


「今日は何を描いていたんだ?」


発するだけで重厚感のある声で、末永は問う。見せたくないと思っても、それは許されないので、投げやりにスケッチブックを差し出す。


「……ほう、白い薔薇か。折れてしまっているじゃないか」


部屋に飾られている白い薔薇をモチーフにした。

末永から贈られたそれは、枯れてしまっても部屋に置かれていた。不思議に思い調べたら、“生涯を誓う”という意味が込められていたのだと知り、ゾッとした。


――枯れてしまう前に、折れてしまえば良かったのに。


「他に描いたものは?」


首を横に振る。

引き出しに隠してあるスケッチブックの存在は末永も把握していない。あれは私だけのものだから。

絶対にこの男の手には渡さない。


「欲しいものはあるか?」


末永は私に与えるのを好むようだった。それは彼からの手によるもの、その条件付きではあったけれど。


どういう仕組みかは私には不明だけど、外部との連絡は遮断されたスマホを差し出す。

その画面には、高級一等地の小さな画廊の詳細が表示されている。


「これに行きたいのか。……いいだろう、今すぐに行こう」


迷いが一切ない。

隙のないスーツから、仕事の合間に顔を出したと予測できるのに、私が望めばそれを優先させてしまう。


「何を驚いた顔をしている。まなみが望んだことだろう」


急かされるがまま準備をすることになった。

きちんと見えて楽なものがいいということ以外、なんら興味のない私に末永は服を与えたがった。全身見繕われた服を纏い、男は腕を差し出してくる。

それに腕を絡めなければ不機嫌になるし、抱き上げてでも歩こうするのは学習済みなので、大人しく従っておく。


どこか満足そうな顔をされるので、胸がざわついた。




*   *   *




名の知られた画家ではないけれど、感情を揺さぶってくる作品ばかりが並んでいた。

時間も忘れて眺めていると、末永の形の良い唇が私の瞼に落とされた。不意打ちに飛び跳ねてしまった。


「そろそろ帰るか。描きたくなったんだろう?」


見透かされている。

じわじわと湧いてくる衝動を、早く形に落としてしまいたい。悔しいけれど、末永は私が描く絵の信者だった。

彼の家には入手経路も不明な、私が残してきたほぼ全ての作品が集められていた。


独占欲の塊だった。

あの家に閉じ込めてまで、満たされようとする。

私の絵は、もう誰にも届けることはできない。




*   *   *




「相変わらず、辛気臭い顔をした女だな。兄さんの趣味を疑うよ」


雑音が現れた。

嫌味を言うためだけに、末永の弟を名乗る男はやってくる。髪も瞳の色も末永よりも柔らかいけど、冷たい表情は酷似していた。


「あなた、暇なの?」


キャンバスに向かう集中力が途切れた。その原因に苛立ってしまう。

末永と違って、啓人ひろとの感情は見えやすい。ムッとした様子を隠しもせず、長々と嫌味を並べられる。

本当に面倒くさい。


「兄さんも何がいいんだか。こんなもの、パトロンになるほどの価値がないじゃないか」


床に散らばったラフ画を忌々しそうに見る。

踏み散らかさないのは、啓人の僅かな良心か、末永への配慮かは分からないけれど、どちらにしろ苛々する。


「屋敷の一室を与え、一生飼うつもりなのか?……ははっ、いい趣味だね。お前はいつ捨てられるか分からない恐怖を抱えて生きるだけなんだから」

「恐怖? 早く捨てて欲しいくらいだわ」


末永が私に禁じているのは外部の人間との接触。

それ以外なら、なんだって与えようとしてくる。


大学で勉強はしたとはいえ、天才たちの中では凡人でしか無かった私に、だ。

これが名だたる画家に向けられたものならまだ納得もいくというのに。啓人の反応も無理はない。


末永の態度は、まるで私に価値があるのだと言っているようだった。




*   *   *




啓人が帰った後、深夜に末永はやって来た。

襟元を緩めたスーツなので仕事帰りなのだろう。


「気が立ってるな。描けたか?」


睨みつけると、末永の口角がより上がった。

……こういうところが腹が立つ。


あれ・・もたまには役に立つものだ。……うん、素晴らしい。怒りが爆発している」


ねっとりとしたキャラメルみたいな甘さを含んだ声で、先ほどまで挑んでいたキャンバスを眺めている。

見なくてもすべて分かっていますって顔をする。



――末永と初めて会った日を思い出す。

恩師の伝手ツテで、展示即売会の一角に私の絵が飾られていた。

買いたいと言ってくれる人、称賛をくれる人、ほんの少しの高評価。喜びはあるけれど、この頃の私には不安もあった。


最近、筆が乗らない。

どうやら私は感情で描けるタイプのようで、満たされれば満たされるほど普通・・になってしまう。

そろそろ限界が見え始めて焦っていた時、末永は目の前に現れた。


冷たい瞳に、一瞬で“怖い”と思った。

防衛本能の警戒アラートが最大値で鳴り響く。


これに近づいては駄目だ。

私が私で無くなってしまう。


この暴力的なまで美しい男を描きたい。

その衝動に、


芸術品のような男に、白薔薇の茎が手折られる。


そんなイメージが浮かんだ。


その花言葉は、純潔を失って、死を望む。

まるで末永に出会った私みたい。


執拗に何度も、何度も、表現の限界を感じながら描いた。

それを引き出しに隠して、冬が訪れるたびに暖炉へと投げた。まだ見つけられていない。

私の作品全てを手に入れようとするこの男には、絶対に手放してやらない。


「まなみ」と愛しそうに男は今日も記号を口にする。

それをただ見つめるしかできない私。


そうやって一生飼い殺してみてよ。私の衝動の火は灯り続ける。消えないように、消えないように、火を焚べろ。


だって、私が望むものなら何でも差し出すんでしょう?


これは支配じゃない。私から手を伸ばす。

私が私でなくなるために。


ふと目線を上げると、部屋の隅に枯れた白い薔薇が見えた。


――もう、あの頃の純潔は失ってしまった。

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