終点は、まだ先
江渡由太郎
終点は、まだ先
バスの揺れは、子守歌のようだった。
仕事帰り終電を逃してしまい、仕方なく乗った深夜バス。蛍光灯は半分だけが点き、窓の外は雨に滲んだ街灯が流れていく。乗客はまばらで、皆、俯いたまま動かない。
——少しだけ、目を閉じよう。
その判断が、どこで狂ったのかは分からない。
淳が目を覚ました瞬間、まず違和感があった。
不自然なほどの静寂――音がない。
エンジン音も雨音も、タイヤの摩擦音すら存在しない。揺れだけが続いているのに、世界は無音だった。
「……?」
淳は慌てて窓の外を見る。
そこにはあるはずの景色――街がなかった。
そこにあったのは、無限に続く灰色の平原だった。空は低く、雲とも霧ともつかない濁りが垂れ下がり、地平線は溶けるように歪んでいる。
背筋に、冷たいものが這い上がる。
「運転手さん……?」
声はやけに遠く聞こえた。
運転席には、誰もいない。
ハンドルは勝手に回り、アクセルもブレーキも、意思を持つように動いている。
淳は状況をのみこめず後部座席を見る。
乗客たちは、まだ座っていた。
——否。
よく見ると、全員、顔がない。
のっぺりとした皮膚の下で、何かが蠢いているだけだった。
心臓が跳ね上がり、息が詰まる。
「ここ……どこですか」
震える声で問いかけると、最前列の座席に座っていた“それ”が、ゆっくりと首を回した。
顔のないはずの場所に、口だけが開いた。
「――まだ、途中です」
バスは走り続ける。
窓の外に、同じ景色が何度も現れる。
朽ちた家。倒れた電柱。焼け焦げた学校。
どれも、どこか見覚えがある。
「……あれは……」
自分が育った町だった。
事故で亡くなった友人の家。
取り壊されたはずの母校。
過去が、腐敗した標本のように並べられている。
突然、車内アナウンスが鳴った。
『次は——お迎え——お迎え——』
耳を塞ぎたくなるほど、声が歪む。
「降ろしてください! ここは違う、俺は——!」
叫んだ瞬間、バスが急停車した。
扉が、軋む音を立てて開く。
外に立っていたのは、自分自身だった。
だが、目は黒く塗り潰され、首は不自然な角度に折れている。
「戻りたい?」
それは、自分の声で囁いた。
「だったら、目を覚まさなきゃ」
次の瞬間、背中を強く押された。
落下する感覚――永遠の一秒。
闇。
そして——
病院の白い天井。
「……気が付きましたか?」
看護師の声。消毒液の匂い。現実の重み。
「あなた、バスの中で心肺停止していたんですよ。三分間」
三分。
あの灰色の世界では、永遠のように感じた時間。
安堵に震えながら、ふと、窓の外を見る。
夜道を走るバスが、一台、静かに通り過ぎていった。
行き先表示は、黒く塗り潰されている。
——終点は、まだ先だ。
そう囁く声が、耳元で確かに聞こえた。
――(完)――
終点は、まだ先 江渡由太郎 @hiroy
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